映画鑑賞記録|2023

 2023年は301本の映画を観ました。そのうち映画館で観たのは211本、そのほかのメディアで90本。新作は130本、旧作は170本。住む土地が変わって、鑑賞のペースにも多少変化があるかなと思っていたところ、だいたい東京に住んでいたころと同じくらいの水準に落ち着きました。劇場で掛かっている新作を形振り構わず追いかけてゆくという気概を失って久しいので、見逃してしまった作品は星の数ほどあれど、これくらいの数がおそらくちょうどいいのでしょう。

 鑑賞作品のうち、取り立てて気にいった作品。いわゆるベストというほどのものでなく、何となく気分で新・旧10作品ずつ列挙してみます。なんというか、まったく統一感のない並びだなと自分でも呆れてしまいます。今年はもう少しちゃんとまじめに、ほどほどに映画を観ようと気合を入れ直しました。

 

新作

宮崎駿君たちはどう生きるか』(Japan, 2023)
沖田修一『おーい!どんちゃん』(Japan, 2022)
二ノ宮隆太郎『逃げきれた夢』(Japan, 2022)
ビクトル・エリセ瞳をとじて』(Spain, 2023)
ヌリ・ビルゲ・ジェイラン『About Dry Grasses』(Turkey, 2023)
セドリック・カーン『ゴールドマン裁判』(France, 2023)
Jean-Baptiste Durand 『Chien de la casse』(France, 2023)
Gústav Geir Bollason『Mannvirki』(Iceland, 2023)
Dane Dodds『!AITSA』(South Africa, 2023)

Gústav Geir Bollason, Mannvirki, 2023

旧作(初鑑賞作品のみ、年順)

チャールズ・チャプリンチャップリンの寄席見物』(USA, 1915)
バスター・キートンキートンのカメラマン』(USA, 1923)
ヤーコフ・プロタザノフ『アエリータ』(USSR, 1924)
ルイス・ブニュエル『忘れられた人々』(Mexico, 1950)
ドン・シーゲル『ボディ・スナッチャー/恐怖の街』(USA, 1956)
ヴィンセント・ミネリ『お茶と同情』(USA, 1956)
センベーヌ・ウスマン『Xala』(Senegal, 1975)
アラン・コルノー『セリ・ノワール』(France, 1979)
小松左京さよならジュピター』(Japan, 1984
ジャン=ピエール・ゴラン『My Crasy Life』(USA, 1991)

Luis Buñuel, Los olvidados, 1950

美術鑑賞記録|2023

 思いだせる限りの2023年の美術鑑賞記録。パリに居を移した2022年12月に訪れたものも含んでいますが、パリでの常設展やギャラリーは憶えていないので除外。年間を通じてもっとも印象に深かった展覧会は、アレックス・カッツグッゲンハイム美術館)、トーマス・デマンド(ジュ・ド・ポム)、ロスコ(フォンダシオン・ルイ・ヴィトン)、アピチャッポン(マタデロ)、パレスチナ美術展(アラブ世界研究所)の5つ。

 常設展示のたぐいでは、2022年の大みそかに訪れたニューヨーク郊外の Dia Beacon は隅から隅まで心地がよくて、贅沢な時間を過ごしました。宗教芸術の傑作とされる《イーゼンハイムの祭壇画》を所蔵するコルマールのウンターリンデン美術館もすばらしかった。美術館に限らずとも、パトヴァのスクロヴェーニ礼拝堂に足を運んで念願のジョットの青に涙したり、ヴェネツィアドゥカーレ宮殿でティントレットの《天国》にひれ伏したり、この一年でいろいろと凄まじいものを見たなと思いかえします。

 

展覧会|パリ

SHOCKING ! LES MONDES SURRÉALISTES D’ELSA SCHIAPARELLI スキャパレッリ展(パリ装飾美術館)
Füssli, entre rêve et fantastique フュースリ展(ジャックマール=アンドレ美術館)
Tsai Ming-Liang - Une quête 蔡明亮展(ポンピドゥ・センター)
Walter Sickert - Peindre et transgresser ウォルター・シッカート展(プチ・パレ)
Un bestiaire japonais いきもの:江戸東京 動物たちとの暮らし(パリ日本文化会館
André Devambez - Vertiges de l’imagination アンドレ・ドゥヴァンベ展(プチ・パレ)
Oskar Kokoschka - Un fauve à Vienne ココシュカ展(パリ市立近代美術館)
Thomas Demand - Le bégaiement de l'histoire トーマス・デマンド展(ジュ・ド・ポーム
Ossip Zadkin - Une vie d’ateliers オシップ・ザッキン展(ザッキン美術館)
Salvador Dali, Alberto Giacometti - Jardins de rêves ジャコメッティ/ダリ展(アンスティチュ・ジャコメッティ
Hyperréalisme - Ceci n'est pas un corps ハイパーリアリズム展(マイヨール美術館)
Julia Pirotte, photographe et résistante ジュリア・ピロット展(Mémorial de la Shoah)
Ken Domon – Le maître du réalisme japonais 土門拳展(パリ日本文化会館
FELA ANIKULAPO-KUTI - Rébellion afrobeat フェラ・クティ展 (Cité de la musique)
Pastels - De Millet à Redon パステル展(オルセー美術館
Zanele Muholi ザネール・ムオーリ展 (Maison Européenne de la Photographie)
Ouvrir l’album du monde. Photographies (1842-1911)  黎明期写真展 (ケ・ブランリ美術館)
SONGLINES - Chant des pistes du désert australien ソングラインズ展(ケ・ブランリ美術館)
Manet / Degas マネ / ドガ展(オルセー美術館
Rothko ロスコ展(フォンダシオン・ルイ・ヴィトン
Senghor et les arts サンゴールとアート展(ケ・ブランリ美術館)
Fancy !(ケ・ブランリ美術館)
L’art des charpentiers japonais 工匠たちの技と心 日本の伝統木造建築を探る(パリ日本文化会館
Alice Rohrwacher, Rêver entre les mondes アリーチェ・ロルヴァケル展(ポンピドゥ・センター)
Ce que la Palestine apporte au monde パレスチナ美術展(アラブ世界研究所)
Issy Wood - Study For No イッシー・ウッド展(Lafayette Anticipations)
Louis Janmot - Le Poème de l’âme ルイ・ジャンモ展 (オルセー美術館
Amedeo Modigliani. Un peintre et son marchand モジリアーニ展(オランジュリー美術館)
Van Gogh à Auvers-sur-Oise - Les derniers mois ゴッホ展(オルセー美術館

トーマス・デマンド展展示風景

マフムード・ダルウィッシュ(パレスチナ美術展にて)

ロスコ展展示風景(ジャコメッティの彫像と)

 

展覧会|その他

Alex Katz: Gathering アレックス・カッツ展(グッゲンハイム美術館/NY)
Meret Oppenheim - My Exhibition メレット・オッペンハイム展(MoMA/NY)
Il futuro del cinema, il cinema del futuro 映画の未来・未来の映画展(イタリア国立映画博物館/トリノ
Matisse années 1930. À travers Cahiers d’Art 1930年代のマティス展(マティス美術館/ニース)
Jean Paul Riopelle - Parfums d'ateliers ジャン=ポール・リオペル展(マーグ財団美術館/Saint-Paul-de-Vence)
Viajar para pintar. Sorolla en San Sebastián ソローリャ展(サン・テルモ美術館/San Sebastián)
Periferia de la noche - Una exposición de Apichatpong Weerasethakul アピチャッポン・ウィーラセタクン展(Matadero Madrid)

アレックス・カッツ展、グッゲンハイム美術館、フランク・ロイド建築

アピチャッポン展展示風景

常設展|その他

Dia Beacon, New York, USA
メトロポリタン美術館, New York, USA
MoMA, New York, USA
ナント美術館, Nantes, France
ウンターリンデン美術館, Colmar, France
ソローリャ美術館, Madrid, Spain
カーサ・フェルナンド・ペソア, Lisboa, Portugal

マイケル・ハイザーの掘った穴、Dia Beaconにて

ウンタ―リンデン美術館外観

日誌 | 20231010 - 1016

10日 火曜日

 幸田露伴五重塔』を読み進める。その文体に手こずってなかなか読めない、現代語訳が必要かもしれないと同僚に愚痴を垂れると、彼はたった百三十年前の文章が読めないとは日本人はなんて可哀そうなのだ、同時代のフランス文学だったらいまとは接続法の用法が多少異なるくらいで難なく読めるのにと言った。


11日 水曜日

 パリ郊外に位置するメトロ五番線の終着駅に近づいて、列車は地下から地上に再び浮上する。まだ19時だというのにほとんど日は傾いていて、日が本当に短くなったと思う。Bobigny 駅に降りたのははじめてのことだが、駅前にはまるで共産圏のような画一的な建物が立ち並んでいて、ただちにわたしはここは陰鬱な地区だという印象をもった。この地区にある「MC93」という文化施設は国主導の再開発プロジェクトによって2015年に開館し、以来パリの文化界隈でも大きな注目を集めていると聞く。この日はフランソワ・シェニョーの公演初日で、しかも今日が彼の誕生日だというので、プレゼントに蓮の花のお香を鞄に忍ばせて、はるばる駆けつけたのだった。けれども開演時間に数分間に遅れてしまい、受付で粘ったのだが入場を断られてしまった。わたしはしょぼくれながら町を散歩する。駅前の南アジア系の露天商から1ユーロで買った焼きトウモロコシを頬張り、往来の人びとの顔を眺めているうちに、何となく映画が観たくなって、シャトレに移動してアキ・カウリスマキの『枯れ葉』を観た。すでに都市の孤独は厭というほど味わいつくした夜だったのに、そんなわたしに畳みかけるようにヘルシンキの労働者たちの孤独の感が襲ってくる。業務用スーパーのルーティンワーク。毎日毎日何も変わらない通勤の風景。ラジオはウクライナ戦争の戦況を事細かに報じている。まっすぐなラブストーリー的結末に救われる間もないまま、陰鬱な気持に伝染して、寒空のもと一時間ばかり歩いて家に帰った。

 

12日 木曜日

 二十時を回ったころに職場を出て、自宅に一度帰って荷物を置く。昼につくった炒飯を掻き込んで、自転車を飛ばして手ぶらでオルセー美術館に滑り込んだ。何となくシスレーが見たいと思って五階に上がったのだが、新たに収蔵されたカイユボットの向日葵に心を奪われ、しばらく椅子に座って眺めているうちに、いつの間にか閉館時間を迎えていた。カイユボットの作品にしてはあまり奥行きがないのだが、逆にその平面性が、わたしの記憶の奥底に堆積していた〈夏〉のイメージと共鳴してハウリングを起こしていく。思えばこの夏は本当にいい夏だった。七月、ザグレブの安宿で30歳の誕生日をひとりで迎えたときには、まさかこんなにいい夏を過ごすことになるとは想像だにつかなかった。来年も再来年も向日葵が咲く季節は巡ってくる。そのことに大きく救われる気持がした。

Gustave Caillebotte, Les Soleils, jardin du Petit Gennevilliers, 1885年頃.

13日 金曜日

 朝早くに赴いたカフェに設えられたテレビで、昨日のレピュブリック広場での親パレスチナの集会デモをめぐる報道を眺める。案の定、イスラエルによる報復攻撃がはじまってしまった。フランスはあれだけの規模の親イスラエルのデモを開催したにもかかわらず、パレスチナのデモには公式な認可を出さない。あからさまな不平等である。パリに新たに駐在となった共同通信の記者が、まさかこれほどまでにフランスをはじめ欧州諸国が親イスラエルの姿勢を露骨に出すだとは思ってもみなかったと言っていた。最初の報道でハマスのことを「テロリスト」と表現しなかったのは、BBCと日本のメディアぐらいしかないんじゃないですかねえ。

 

14日 土曜日

 レピュブリック広場には、親パレスチナのデモの開始数時間前に多数の警察官が出動していた。わたしはその場にいた白人の警官に問うてみると、本来は禁止されているデモなのに、と含みのある言い方をしていた。参加者が三々五々に集まってきている。

 新婚旅行でパリを訪れている学部時代の先輩夫婦とともに、パリ郊外のパンタン墓地に眠るエマニュエル・レヴィナスの墓参りに向かった。かつて先輩はレヴィナスを中心に〈怠惰〉をめぐる修士論文を書き上げていて、今回のパリ滞在でも、レヴィナスの墓参りだけはしたいと新婦に伝えていたそうだ。わたしたちは墓地の向かいにある花屋で薔薇の花を買って、境内に足を踏み入れる。受付の男性はレヴィナスの名を知らず、探し当てた墓石はユダヤ人区画にあるきわめて質素なものだった。近くにはアルジェリア戦争で命を落としたユダヤ人の共同墓石があった。自身の出自に徹底的にこだわったレヴィナスシオニストとしての立場を取り、往年のイスラエルによるパレスチナ侵攻にたいしても支持を表明していた。この時勢であらためてレヴィナスの問うた倫理を考えることはどういうことだろうかと、若干のためらいを憶えながらもわたしは彼の墓地の前で手を合わせたのだった。

パンタン墓地には第一次世界大戦の名もなき戦没者の墓がずらりと並ぶ

 

15日 日曜日

 昨夜の Nyege Nyege 主催のパーティは、朝方になればなるほど盛りあがっていったようだ。ウガンダのエレクトロを束ねているコレクティヴ。もう少し残ればよかったと、布団にくるまってインスタグラムを眺めながら思う。わたしはもそもそと布団を脱け出して、列車に乗って  Seine Musicale のチャプリンの子ども向けシネ・コンサートへ。『チャップリンの悔悟』と『チャップリンの寄席見物』の二本立て。親に付き添われた年少の子どもたちがごった返すなか、ひとりで観に来ていたのはわたしひとりだけだったのではないかと思う。『寄席見物』での劇中のチャプリンをはじめとする登場人物たちが劇場で繰り広げるすったもんだ。数百人の子どもたちの笑い声がげらげらと響きわたる様子を聴くうちに、胸中に幸福感が迫り上がってきて、ひとり悟られないように声を殺して泣いた。まるで発作を起こしたかのように泣きながら、ときどき笑って、ああなんかこのまま死んでもいいなあと、なんともベタなことを思ったのだった。

Seine Musicale の会場にて

 夕方。今宵の宴に備えて買い出しに出かける道すがら、イヤホンをつけて森島慎之助の新譜を聴くと、たちまち東京の景色に引き戻された。あの独特な言語感覚で紡がれた歌詞の端ばしからにじみ出るユーモアに口角を緩めていると、不意打ちでわたしになじみのある曲が流れてきて、いてもたっても居られず、その場で泣き崩れてしまった。往来の人たちに涙していると悟られないように、わたしは俯きながら路地裏に入って、おいおいと泣いた。泣いてばかりいる一日だ。パリの夕日はことさらに朱かった。

 

16日 月曜日

 わたしは昨夜のキムチ鍋の残り。画面の向こうの二人は里芋や海老の揚物やお刺身。パリは昼、東京は夜で、ビデオ通話を繋いで同時にいただきますといって、ぺちゃくちゃとおしゃべりをしながらお互いに近況を報告しあった。

 夜。仕事でいただいたシャブリ・グラン・クリュのボトルを一本開けてみる。ワインについては素人同然で、アペラシオンの類も話半分で済ませてきたが、わたしがこれまで飲んできたあらゆるワインが一瞬にして霞むくらいの衝撃的な美味。これは白ワインにはまってしまいそうだ。気づけばいつの間にかボトルが空いていて、心地のよい酩酊に身を任せて眠りに就いた。

日誌 | 20231004 - 1009

4日 水曜日

 長袖のシャツの上にジャケットを重ねて出勤する。寒い。つい昨日までバスクの晩夏を謳歌していたというのに、パリに帰った途端に冬のとば口に立たされてしまった。喫煙所にいると akakilike を主宰する倉田翠さんがやってきて、あのちゃきちゃきとした人柄にただちに魅了される。そのまま夜に『家族写真』観劇。おもしろい。同時多発的な舞台はまるで昂奮物質を分泌するドラッグのようで、ほとんど息をつく暇もないまま、あっという間に終演を迎えた。チャプリンのいうところの「クロースアップの悲劇」と「ロングショットの喜劇」が同居している。そのコミカルとシリアスの重なりは、まさに家族という不可思議な共同体に不可分な性質ではないかと思う。ただ公演中、わたしの目の前に座っていた客がたびたび席を立っては甲高い音の放屁を繰り返していたせいでかなり集中力を乱されてしまった。あまりにもリズミカルに放屁が繰り出されるのではじめは出演者のひとりだと思ってしまったほどだ。『家族写真』ならあり得ない話でもない。

 演劇終わりで、日本で新作の撮影を終えたばかりの太田信吾さんと竹中香子さんと合流。彼らはわたしが幼少期に通っていた沼影市民プールをめぐるドキュメンタリーをつくっていて、これから二か月間はパリにこもって編集をつづけるという。作品づくりの方法論や現場での立ち回りについて根ほり葉ほり聞いていく。わたしたちのいたテラスの周りではずっと高齢の黒人男性がうろうろしていた。ほかの客から浮浪者として煙たがられていた彼は、ずっとポータブルのラジカセを大事そうに握りしめている。彼はあのラジカセで普段何を聞いているのだろう。当然そんな疑問を口に出したりはしない。

 

5日 木曜日

 今宵の宴に備えてユーゴ・デノワイエという肉屋に買い出しに行く。300グラムの Bavette というハラミ肉をお願いすると、はいよとざっくり包丁を入れて、秤に肉塊を乗せると297グラム。その手際の良さに惚れ惚れとする。どのバターで焼くべきかと問えば、おれはブルトン人だから、そりゃ決まって塩入りのバターだよと朗らかに答えた。

 一か月ばかりに及んだわこちゃんと綾介さんとの共同生活も今宵が最後となる。分厚い肉を平らげて、満腹のあまり動けなくなったわたしたちだったが、それでも二人はベッドを抜け出し荷づくりをはじめた。その姿を前にわたしは急にさみしさを感じて、もう何か月も聴けずにいた rei harakami の「終わりの季節」を再生した。朝焼けが燃えているので/窓から招き入れると/笑いながら入り込んできて/暗い顔を紅く染める/それで救われる気持――五十年以上も前に細野晴臣が書いた詞を、夜遅くに三人で一緒に歌う。この曲にこびり付いていた痛苦な記憶が、サーッと憑き物が落ちるように浄化されていった。代わりに二人にとっていちばん大切な曲は何かと聞いたら、少し照れくさそうに、ジョン・バティスタが歌った「What a wonderful world」だと教えてくれた。

 

6日 金曜日

 いつもと同じように昼休みに家に帰ると、すでに部屋はがらんどうになっていた。この一か月は職場から昼休みに自転車を漕いで家に戻るたびに、二人がいつも昼食をつくって家で待ってくれていたのだった。わたしはさみしさを堪えながらひとり分のパスタを茹で静かに食べる。あの輝かしきバスク旅行からの反動もあって、そのさみしさは一入だった。同じようにマドリッドでの生活を再開した R と電話。作品づくりに協力したイタリア人アーティストの展覧会初日に参加してきた帰り、ふらっと入った教会から電話をかけてきたのだった。ねえ、ここはほんとに綺麗なんだよ。

 わたしは電話を切って、パリ郊外での友だちの DJ イベントへ向かった。アフリカ系の男の子がお前さんやるじゃねえか、こんなに踊るアジア人ははじめて見たぞと声を掛けてくる。ひと通り踊ってからの帰りのメトロでは、立派なあご髭を蓄えた友だちのパートナーが弱冠22歳だとわかって笑い転げていた。いやあ、どう見ても30代だよね。年上かと思ってたよ。人は見かけによらない。

 

7日 土曜日

 修士でお世話になった哲学科の先生がサバティカルで一年間パリに滞在することになり、物件探しの一環で、奥さんと一緒にわが家を訪れた。彼女はまっさきに机の上に置いてあったマリア像に反応を示し、これはルルドの聖水ではないかとわたしに尋ねた。キリスト教系の学校に通っていたとき、ルルドの聖女伝説のことはさんざん叩き込まれたのだという。兄弟や友だち同士でも、ドブ水を指さしては「ベルナデットの水だよ、飲んだら奇跡が起きるかも」とそそのかす遊びが流行っていたらしい。ベルナデット少女の伝説も、きっとそんなふうな悪戯心でもはじまったのかもしれないと思う。

 森田芳光監督特集の今年最後の上映を終え、ついにL'Entrepôt でビクトル・エリセ瞳をとじて』を観る。完璧な、あまりにも完璧な、フィルムで撮られた冒頭のシークエンスから、わたしはいま世紀の傑作を観ているのだという昂奮が抑えられなかった。『ミツバチのささやき』から五十年の時を超えて紡がれる、映画という記憶装置への愛の讃歌。エンドロールで、三時間に及んだ幸福な映画体験を終えたばかりのわたしもまた、セラール・オス・ロホスしていた。劇場から出ると、若い女の子の二人組が映画館の片隅のポスターの前で歌をうたっている。わたしはその歌声にあまりにも感動を憶えて、声をかけてビデオを撮らせてもらった。感謝を告げてその場を後にしたら、彼女たちが走って追いかけてきて、そのビデオのデータを送ってもらえないかと頼んでくる。わたしは自転車にまたがって、満たされた気持で帰路を急いだ。

 寝台でスマートフォンをスクロールしていると、タイムラインにハマスによるイスラエルへの急襲攻撃の映像が流れてくる。そのコメント欄にはアラブ人への憎悪に満ちた感情が並んでいた。これはまずいことになった、と思う。すぐさまイスラエルからの報復攻撃があるにちがいない。エリセの傑作を観たあとに一挙に現実に引き戻され、暗澹たる気分に陥っていたのだが、そうこうしているうちにいつの間にか眠りに落ちていた。

 

8日 日曜日

 プチ・パレの版画展。デューラーが二度目のイタリア滞在のあとにダ・ヴィンチに触発されて制作した曼荼羅の版画に釘づけになる。イスラムの果たした最大の功績は、こうした宇宙のように広がる幾何学模様の世界をつくりだしたことにあるのではないかとすら思う。

 フィルハーモニーに移動し、フィリップ・グラス・アンサンブルによる『Music in twelve parts』の四時間のコンサートへ。はじめはキーボードを弾くアンサンブルのリーダーがフィリップ・グラス本人なのかと勘違いしていたが、マイケル・リースマンという演奏家だった。三楽章ごとにインターミッションがあって、そのあいだに外に出てラ・ヴィレットの公園を散歩する。森の暗がりの奥から太鼓の音が聞こえてきて、そのほうに歩いていくと、大勢の黒人たちが太鼓を叩いて歌っていた。何語で歌っているのかと近くの男性に訊いてみると、彼は威勢のいい声で、グアダループのクレオール語さと応えた。フィリップ・グラスはうっちゃって、このグアダループの楽隊とともに夜を過ごすのもいいかもしれないという考えが過ぎったのだが、結局わたしはフィルハーモニーにもどった。終演後に再び森のなかに入ってみたが、彼らは跡形もなく消えていた。

 

9日 月曜日

 マクロン大統領がイスラエルへの連帯を発表した。わたしはトロカデロで親イスラエルのデモがあると聞きつけ、様子を覗きにいってみることにした。驚くべきことにエッフェル塔は青と白にライトアップされ、大きなダビデ六芒星が投影されている。その場に詰め掛けていた数千人もの人たちのほとんどが白人で、「ガザとはテロリストの別名である」などとといった看板を掲げて口々にアラブ人への差別感情をあらわにしていた。有色人種はわたしひとりだったのではないかとすら思う。正直にいって気味が悪かった。

 わたしは再び自転車に乗り込んで、待ち合わせをしていた友人と合流する。いましがた見てきたばかりのデモの話をしてみたのだが、彼はほとんど興味がなさそうに見えてすぐに別の話題に移った。へべれけになって帰宅してから、どこかで鞄を落としてしまったらしいと気づく。あの鞄には手帖が入っていたのに、とベッドで微睡みながら思う。

バスク旅行記 Ⅱ| 20231001 - 1003

10/1 日 San Sebastián (Donostia) - Cauterets

 最後のランナーが走り終わるまで待つしかないね。レンタカー屋の青年は力なく首を振った。市街のハーフマラソン大会で交通規制が敷かれ、大会が終わるまで車を出庫できないのだという。致し方がないのでもう何時間かサンセバスチャンに留まることになった。今日も気持のいい快晴。サンタ・マリア・デル・コロ大聖堂から南に向かってまっすぐに伸びる通りの先に、互いが向き合うように建てられたサン・セバスチャン大聖堂が小さく見える。街中を駆け抜けるマラソンランナーたちに無邪気に応援の言葉を送りながら、わたしたちはその大聖堂まで歩いていった。ネオゴシック様式のありふれた教会ではあるが、あざやかな色彩のステンドグラスから虹色の光が差し込んでいる。美しい。

 サンセバスチャンで最後の昼食を摂って、旅の仲間のひとりと別れを告げてから、四人でレンタカーに乗り込んだ。レンタカー屋の青年は借主の「KOKUBO」という名前を見て、昨夜のバスク・ダービー久保建英選手がどれだけ活躍したか熱弁しはじめた。KOKUBO は「リトル・クボ」を意味だというと、彼は気持のいい笑顔を見せて何か冗談を言った。わたしたちを乗せた黒いアウディは、悠々とスペインとフランスの国境を跨ぎ、いくつもの町を通り越してから、さらにピレネーの山道を登っていく。三時間ほどのドライブで、目的地であるゴーブ湖登山口に到着した。標高はすでに1,500メートル超。ピレネー山脈の澄んだ空気を目いっぱい吸い込む。草木の明るい緑が目に快い。

ピレネーのリフトから

 山頂付近まで続くリフトからの眺めは、まさに絶景という言葉が似つかわしかった。数百年、数千年、数万年ものあいだ、人間の思惑とは関係なしに存在し続けた自然。わたしたち人間はただその姿を見つめることしかできないという厳しさ。リフトに肩を並べて座るわたしたちはこの感動に値する言葉をうまく見つられないまま、言葉少なげに終点についた。きみたちが今シーズン最後の客だ。そう言って退けたのは係員の男性で、わたしたちがリフトを降りるとすぐに下山のための身支度をはじめていた。さらに山道を歩いていって、ようやく湖に辿り着いた。すでに日は傾きはじめ、観光客はみないなくなったところで、羊やヤギがのんびりと草を食んでいる。わたしたちはひとしきり動物たちと戯れてから下山する。草花にくわしい女子たちは、何かを見つけるたびに立ち止まってはその名前や特徴を言いあっている。彼女たちは青く小さな可憐な花を指さして、ひょっとしてこれはサフランじゃないかと言っていた。

 ピレネー山脈の中腹にあるコトレという小さな村の宿に辿りつく。宿泊者はわたしたちだけだった。この宿の主人は十五年ほど前に廃墟だった建物を買い取って、妻と一緒に二人の子どもたちを育てながら民宿を経営しているという。あの主人の風貌からは考えられないほど品のいい調度品が並んでいて、これからはじまる厳しい冬に備えてか、軒先には暖炉にくべるための薪木がうず高く積みあがっていた。わたしたちは村まで降りて夕飯を済ませたあと、宿の部屋から夜が大地を包摂するさまを見た。満天の星空。ついさっきまで丸々としていた月が山の稜線の向こう側に沈んでいき、やがて見えなくなってしまった。こんなにも早く地球は廻っているのかと驚く。

宿に棲みつく猫と目が合う

10/2 月 Cauterets - Lourdes - Biarritz - Bilbao

 目を醒ましてすぐに窓を開けて、身を乗り出して朝の空気を胸いっぱいに吸いこむ。山間に位置する村はまだ暗がりのうちにあったが、遠くに見える山々のてっぺんには朝日が綺麗に照りつけていた。ピレネーの山々の向こうまで続くゴンドラがゆっくりと運行しているのが見える。何度だって目ざめたい宿の、何度だって目のあたりにしたい景色。

 宿で供された朝食を採ってから、コトレの村へと下っていく。夏冬のバカンスシーズンのあいだは観光客で賑わうのだろうが、季節外れのピレネーの村の朝は、いやに淋しげな雰囲気をたたえていた。村でただひとつの教会を訪ねたあと、小さなキオスクで地域の来歴を記した本をめくってみる。この一帯は温泉が湧き、二十世紀初頭にはパリから直通の鉄道が敷かれ、滋養のための場所として栄えていたらしい。往年の観光ポスターが葉書として売られている。この温泉はいまも営業を続けていると知ったのは、下山してしばらく経ってからだった。時すでに遅し。いったいどんな風呂だったのか気になって仕方がない。

朝食会場

 わたしたちの乗るアウディがエンジンオイル不足を訴えていたので、まずは代わりのオイルを探すことになった。途中の町にあったガソリンスタンドに駆け込むと、よごれたつなぎを着た男性が、裏紙にガレージまでの道順を丁寧に記してくれる。その地図を頼りに車を走らせて、無事に幹線道路沿いのガレージにたどり着いた。GPSに頼らずに進んだ道中のスリルや、ついに目的地を見つけた感動は一入だった。わたしたちが利便性とのトレードオフで喪ったものの価値よ。

ガレージ屋による手書きの地図(背景はスリランカカレー…)

 つぎの目的地は、カトリック最大の巡礼地として知られるルルドである。十九世紀半ば、ルルドに住むベルナデッタという名の無学な14歳の少女がマリアの出現を立て続けに目撃した。マリアが顕現した洞穴の湧き水はつぎつぎと病人や障害者を癒やし、その奇蹟は噂に噂を呼び、はじめは取り合おうとしなかったバチカンも、熱烈な信者の支持を得ていたベルナデッタの奇蹟を公式に認めることとなった。以来、変哲もない村のひとつに過ぎなかったルルドはマリア信仰の巡礼地と化し、巨大な教会が建てられ、世界中からその奇蹟にあやかるべく信者たちが訪れるようになる。フランスではパリに次いでホテルの客室数が多いという。

 まるでフランスの街並とは見えないような雑多な景観の土産物屋街。でかでかと英語で書かれたパネルがあちこちに掲げられ、一瞬ここは東南アジアかどこかではないかと錯覚しそうになる。ルルドの町にはどういうわけかスリランカ移民が多いそうで、土産物屋街に並ぶスリランカレストランに入った。Rはむかしスリランカに留学したことがあり、彼女からシンハラとタミルの二大民族から成り立つスリランカという国家についてあれこれと聞く。

 腹を満たしたわたしたちは、イタリア人の経営する土産物屋で購入したマリアを模ったガラスの聖水入れをもって教会へ向かう。なによりもまずその教会の巨大さに度肝を抜かれる。五十人くらいの車椅子のグループが列を成して広場を横切り、修道服に身を包んだ女たちがぞろぞろと礼拝へ急ぐ。わたしたちはしばし聖堂で司祭の説教を聞き、体育館がいくつも続くような巨大な地下聖堂をぐるりと一周し、洞窟の湧き水に触れるための列に並び、そのわきにずらりと並ぶ蛇口を捻って聖水をボトルに注いだ。その道中、周囲からはありとあらゆる言語が聞こえてくる。教会の屋根から景色を眺めていると、褐色の肌の男性から流暢な日本語で声をかけられる。彼は偶然なことにスリランカ人で、横浜で十年余り住んでいたこともあったという。バスク地方を旅行中だというと、ビアリッツには行きましたか? 絶対に行くべきですよ、あんなに美しい町はありませんよ、と鼻息が荒い。わたしたちはある種の信託だと思って、燦然と差し込む夕日を正面から浴びながら数時間車を走らせて、大西洋沿岸のビアリッツへ向かった。

 この旅のあいだじゅうずっと晴れていたのに、ようやくビアリッツに到着しようという瞬間に、どこからともなく暗雲が立ち込めはじめ、いつの間にか真っ暗になった。あのスリランカ人はサタンだったのではないかと冗談を言いながら、強風のなか埠頭に立つマリア像のもとに参詣した。こんなところに聖母マリアが立っていたなんて知らなかったし、ましてやビアリッツに来る予定もぜんぜんなかった。マリアさまによって導かれていたわけだ。

ルルドの聖水が汲まれたマリアと大西洋の荒波に向き合うマリア

10/3 火 Bilbao - Paris

 路面電車に乗って、グッゲンハイム美術館に向かう。フランク・ゲーリーの手による二十世紀を代表する建築を目当てに世界中からどっと観光客がおしかけて、人口三十万人ほどのバスクの地方都市は息を吹き返したといわれる。確かにあの曲線が複雑なリズムを織りなす巨大な銀色の構造物の異様な存在感に惹きつけられはしたが、わたしはニューヨークのフランク・ロイド建築のほうが遥かに好みだと思った。入口の近くには猿の仮面をかぶった大道芸人がいて、わたしたちは遠くからパフォーマンスを眺めてそのシュールさにひとしきり笑い転げたあと、急にみな押し黙ってしばらくその光景に見いっていた。美術館に飾られたどんな作品よりも、この大道芸人の姿がずっと記憶に残るのではないかというこのときに抱いた予感は半分当たって、あの体験の強度に伍すのはロスコが黄と赤で塗った大きな作品ぐらいだったかもしれない。企画展として組まれていたピカソ彫刻展はなかなかの見ごたえがあったが、あまり時間がなくて足早にまわった。今年、世界でピカソの没後五十年を記念して組まれた特別展は五十を超えるという。それだけの数のホワイトキューブを埋めてしまうほどのピカソの多作ぶり。ピカソはその作品の厖大さと多様において二十世紀を代表する画家となりえた、と言っていたのは誰だったか。

猿の仮面を被った大道芸人グッゲンハイム美術館

 ビルバオ空港の搭乗ゲート前で抱擁を交わして、ひと足先にマドリードに帰っていくRを見送った。わたしたちパリ組は、二時間ほどのフライトで五日ぶりにパリに帰ってくる。例によってシャルル・ド・ゴール空港からのB線の列車は待てど暮らせど来ず、ようやく家に戻ってきた夜半にはどっと疲れが吹き出した。それでも綾介さんが機転を効かせて、乾麺を茹で長葱を切りきざみ、あたたかいラーメンを用意してくれた。柚子胡椒風味のあたたかいスープが本当に沁みる。静かな夜半に送られてきたRのブログを読んで、彼女の頭のなかを覗き込んだ気がしておおきく感情を揺さぶられた。同じ文章を読んだわこちゃんは目に涙を浮かべていた。

 寝台に入る。さまざまな瞬間がせわしなくフラッシュバックして、わたしは疲れていたのになかなか寝つけなかった。確かにこの旅であたらしい流れがはじまった、と思う。泉から水源へ遡行する。そこで湧く清らかな水は奇蹟を起こす。その湧き水は山を下り、やがて大きな河となって海へと流れこんでいく。わたしたちの乗り込んだ舟は、どれだけ遠くまで行けるだろうか。

バスク旅行記 Ⅰ| 20230928 - 0930

9/28 木 Paris - San Sebastián (Donostia)

 機体は太陽を背負って大西洋沿岸を降下していく。わたしは飛行機の窓からバスクの山々が織りなす不思議なリズムをもった景観を見下ろす。この土地を覆う草木の緑はフランスのそれよりもずっと濃く、深い色合いをしているように見えた。

 ビルバオ空港でマドリード組と合流して、わたしたちは5人で長距離バスに乗り込み、スペイン語ではサン・セバスチャンバスク語ではドノスティアと呼ばれる街へと向かった。道なりに立っている標識はすべてスペイン語バスク語の二言語表記。インド=ヨーロッパ語族とは異なるバスク語の独特な綴りは、目にするたびにわたしに小さな驚きをもたらした。わたしたちが宿を取っていた地区は Intxaurrondo といって、山を切り拓いてつくられたサンセバスチャン北東部の新興住宅地である。

 はじめて降り立ったサンセバスチャンの街から受けた第一印象は、数か月前に訪れたアドリア海に臨むイタリアのトリエステに似て、落ち着きを払ったリゾート地というものだった。日本でいえば神戸と熱海の中間ぐらいという気がするが、たとえばニースのような露骨な拝金主義のリゾートとはまるきり様相を違えている。旧市街のさきにはきれいに弧を描いた砂浜があって、地元民も観光客もみな平等に大西洋の恵みにありつくことができる。わたしたちは夜の映画上映までのあいだ、さっそく海岸を散歩してから旧市街のピンチョス屋を何軒か廻って、ここが美食の街といわれる由縁をみずからの舌をもって確かめた。ガチョウのフォアグラ。酢漬けの鰯。ジャガイモのトルティーヤ。白身魚フリット。唐辛子の生ハム巻き。いずれもおつまみ感覚でぺろりと平らげてしまう。ちなみにピンチョスはバスク語では pintxos、スペイン語では pinchos と綴る。爪楊枝のことをバスク語でピンチョと呼ぶことから名付けられたのだという。当たり前のことだが、スペイン語化すると tx というバスクならではの綴りが消失してしまうことに、いくばくかのやり切れなさを感じる。

 わたしたちのサンセバスチャン映画祭は、二本の日本映画からはじまった。ビクトリア・エウヘニア劇場で濱口竜介の新作『悪は存在しない』、Cines Príncipeで勅使河原宏監督特集の『燃え尽きた地図』。ビクトリア・エウヘニア劇場は20世紀初頭に建てられた豪勢な劇場で、わたしたちの座席はもっとも高い五階のバルコニーにあった。数十メートル下方に設えられたスクリーンに投影される映像を「見下ろす」という映画鑑賞経験は、ひょっとすると生まれてはじめてのことだったかもしれない。映画を観終わった頃にはすでに夜が更けていた。それでもわたしたちはピンチョス屋に繰り出して、地元民に混ざって地べたに座って飲み食いをしながら『悪は存在しない』で描かれたラストシーンの解釈をめぐる議論などに花を咲かせた。濱口竜介の新境地。大いに歓迎すべき作品だと思う。

路上飲み

9/29 金 San Sebastián (Donostia)

 映画祭は会期前半のほうが面白いというのは世の常で、プログラムを眺めていても、食指の動く作品のほとんどはすでに上映を終えてしまっている。日本勢でいっても、清原唯、五十嵐耕平ダミアン・マニヴェルの新作、四方田犬彦による勅使河原宏シンポはいずれも入れ違いで足を運ぶことができなかった。とはいえ監督の名前すら知らない作品を発見するのも映画祭の醍醐味である。わたしはこの日、まずはひとりでブラジルの『PEDÁGIO』という作品を見たあと、有名なバスクチーズケーキを供する老舗で食事していた仲間たちと合流した。それにしてもサンセバスチャンに来てからというもの、何を食べても安くて旨い。これだけでも幸せだ。

 南西部の岬にエドゥアルド・チリーダの彫刻作品があるというので、わたしたちはレンタル自転車を借りて海岸線をぐるりと廻った。風が気持ちいい。九月も暮れだというのに、長く続くビーチには海水浴を愉しむ老若男女がいた。この陽気なら無理もない。わたしたちも靴を脱いでズボンを手繰り、遠浅の沿岸を駆け回る。かくしてチリーダの彫刻が見える岬まで辿り着いた。そこは波が押し寄せるたび地面にあいた穴から海水が噴き上がる間欠泉のような場所で、スペインの修学旅行中と思しき小学生の集団がきゃっきゃと戯れていた。海辺の断崖に子どもたちの声が跳ね返って響きわたる。いったいなんて幸福な時間なのだろうと全身で味わった。

 市街へと戻る道すがらで唐突に立ち止まった彼女は、誰かの家の軒先に生えていた木の実を毟って、「猿の顔が出てくるかもしれない」とその実を削りはじめた。わたしたちも彼女に倣ってみる。子どものときにこの実を見つけては、こうして削って遊んでたんだよね。そう呟いたときの横顔。

ミラ・マール(海を見よ)

 ミラマール宮殿の芝生に寝っ転がってひと休みしたあと、中心街を行進する同一賃金同一労働のデモの隊列を横目に、村瀬大智監督『霧の淵』の上映へ向かう。わたしには教科書どおりの「なら映画祭」案件というか、いかにも外国人が喜ぶくらいに適度にエキゾチックで美化された観光映画のように見えた。再び自転車を借りて、Antiguo と呼ばれる街の西側にある地区の映画館に流れついた。イスラエルジョージア、フランスの三本の短中編から構成されるプログラム。なかでもわたしはジョージアの Rati Oneli という監督の手による 『We are the Hollow Men』という短い作品の筆致に強く惹かれた。『陽のあたる町』という長編ドキュは日本でも紹介されたようだが、これから撮るかもしれない初長編のフィクションには大いに期待がかかる。

 映画を観終わってレンタル自転車を捜し求める。静まり返った深夜の道ばたに打ち捨てられたトイレの白い便器に立て続けに遭遇して、わたしたちのバスク旅行の主題は〈泉〉だねと誰かが言った。確かにいましがた観終わったばかりの『Camping du lac』も『悪は存在しない』も『霧の淵』も、水源への遡行というモチーフが重要な鍵を握る作品だった。

 宿に戻って、つい数時間前にビクトリア・エウヘニア劇場で行われていたビクトル・エリセの映画祭名誉賞授与式の模様をYouTubeで観る。わたしはエリセのために今回のサンセバスチャン行を画策したといっても過言ではなかったのだが(数週間前にパリのシネマテークで組まれた監督特集ではエリセ来訪は直前でキャンセルとなっていた)、肝腎の授賞式のチケットは即座に完売し手に入れることができず、あえなく涙を呑んでいたのだった。サンセバスチャンの街にはちょうど明日から一般公開される『瞳をとじて』のポスターが掲出されていて、自転車を漕いでいても、バスに乗っていても、至るところであの女性が瞳を瞑るビジュアルを目にした。エリセが三十年振りに送り出すことになる長編は、いったいどんな作品に仕上がっているのだろう。

 

9/30 土 San Sebastián (Donostia)

 サンセバスチャン映画祭、最終日。しかし地元民はそれどころではないようだった。自転車で長い坂道を下って旧市街に着くと、すでに午前中から赤の縦縞と青の縦縞をユニフォームを着たサッカーファンたちでごった返している。聞けば今夜はライバル関係にあるビルバオとサンセバスチャンのサッカークラブの伝統の一戦が予定されているのだという。半年振りのバスク・ダービー。まだ21時の試合開始まで半日近く残されているにもかかわらず、昼間から応援歌をうたいながら酒盛りをする男たちを見て、まったく酔狂な人たちがいるものだと妙に感じ入った。

 旧市街の小高い丘のふもとにあるサン・テルモ美術館に足を運ぶ。十九世紀の石づくりの修道院に現代的なコンクリート建築が接合された美術館。ホアキン・ソローリャの没後100年を記念した小ぶりな展示を覗いたあと、バスク地方の郷土資料が集められた展示室を廻っていった。なかでも白眉は二十世紀のバスク美術を通覧するセクションだった。わたしのまったく知らない地元の画家たちの作品が年代ごとに並んでいる。カタルーニャ美術の一端に触れたときも同様だったが、いわゆる「主流」からの偏差を感じられるのがすこぶる面白い。パリの画壇からの偏差、あるいは光をもとめて南仏にわたった印象派の画家たちとの偏差。スペイン・バスクの画家たちのパレットに乗っていた絵具はとてもあざやかだったはずだ。この赤の彩りがいかに目に心地よいことか。

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 美術館を出ると、ちょうど日が暮れる頃合いになっていた。そのわきから続く坂道を登って、海沿いに小高い丘を登ってゆく。その坂道の途中には英国人墓地があって、19世紀初頭の第一次カルリスタ戦争で命を落とした英国人兵士たちが埋葬されているらしい。墓地が海の方角を向いているのだが、その向こうには祖国があるはずだった。要塞になっている高台からはちょうど市街が一望できる。ちょうど日没の頃合いで、水平線の空は美しい虹色のグラデーションになっていた。

 タチアナ・フエソ監督『El Eco』というメキシコ映画を観てから、そのままゴールデン・シェルの栄光に輝いたハイオネ・カンボルダ監督『ライ麦のツノ O Corno』というスペイン映画の上映にいって、わたしはサンセバスチャン映画祭を終えた。図らずも女性監督の撮ったスペイン語の映画を続けて観ることになった。『O Corno』は正直にいってどうしてこれが最優秀賞なのかと首を傾げてしまったのだが、『El Eco』は非常にすばらしかった。ありとあらゆる生命がひとしく存在しうることへの讃歌。まだ世界のどこかにはそんな場所が存在するのかもしれないという希望。

 ビクトリア・エウヘニア劇場を出て、わたしたちはサンセバスチャン滞在の最後の夜に繰りだす。ビールバーで閉店の時間までテラス席に居すわってから、レンタル自転車を捜して、しばらく見知らぬ地区の暗がりの坂道を登っていく。真夜中に犬を連れて歓談しながら散歩している二組の老夫婦とすれ違って、あの人たちにとってはこの光景が日常なのかと思う。この夜が終わってしまうのがあまりに惜しくて、最寄りのステーションに自転車を返却してからも、Intxaurrondo の広場に生える小さな林檎の実をつけた木の下で、わたしたちはいつまでも語らい続けた。その林檎を齧ってみるととても酸っぱくて、きっとこの酸っぱさはいつまでも憶えているのではないかという気がした。

「L’art des charpentiers japonais」展関連映画上映

羽仁進監督『法隆寺』 © 記録映画保存センター

パリ日本文化会館で開催中の展覧会「工匠たちの技と心――日本の伝統木造建築を探る」(2023/10/18 - 2024/1/24)にあわせ、日本映画を3作品上映します。「大工」「木造建築」というお題をもらって、わたしはその作品選定を行いました。パリではじめて担当したプログラミングの仕事です。

プログラム1[ 2023/11/24 金・2024/1/13 土]

羽仁進監督 『法隆寺(1958)

千年以上の歴史をもつ現存する世界最古の木造建築・法隆寺の美を捉えようと試みたドキュメンタリー。法隆寺の建築だけでなく、奉納されている仏像や宝物などにもカメラを向ける。1960年代における日本のドキュメンタリー映画黎明期に重要な役割を果たした羽仁進監督の代表作のひとつ。

五所平之助監督 『五重塔(1944)

五重塔建立の計画を聞きつけたうらぶれた宮大工の十兵衛。大工としての威信にかけて、一世一代の大仕事を任せてほしいと懇願するが……。幸田露伴の1892年の小説を原作に第二次世界大戦中に制作された作品で、オリジナルより数分短いバージョンの上映。監督の五所平之助は日本ではじめてのトーキー映画を撮ったことでも知られる。

プログラム2 [ 2023/11/25 土・2024/1/12 金]

田坂具隆監督 『ちいさこべ』(1962)

江戸の大火で両親を失い、無一文となった大工の若棟梁・茂次。焼け出された孤児たちの世話を見るおりつと共に、代々受け継がれてきた大工稼業を立て直そうと奮闘する人間味溢れるヒューマン・ドラマ。黒澤明監督『赤ひげ』の原作者でもある山本周五郎の小説を原作に、日本映画の黄金時代に数多くの監督作を残した田坂具隆監督がメガホンを取る。

 三作品のうち『五重塔』と『ちいさこべ』はフランス初公開で、国立映画アーカイブから35ミリプリントを取り寄せ、フランス語字幕付きで上映。これを機に難解なイメージがあって敬遠していた幸田露伴をはじめて読んで、まさにあらたな地平が拓けていっています。上映作品も去ることながら、とてもいい展覧会なので、パリにいらっしゃる機会のある方はぜひに。詳細はこちらのウェブページから。