2016年、美術鑑賞の記録

 テレビで日曜美術館の「ゆく美くる美」の特集を録画しておいたものを観た。せっかくなのでわたしも、2016年に足を運んだ展覧会のことを振り返っておこうと思う。美術に触れるという意味では、さほど充実していたとは言えなかった一年だったが、新たな一年への決意をするためにもきちんと書き記して消化しておく。

 

 その前にしばし立ち止まって、このあいだ美術史を専攻していたという知人と話をしていたときに、印象に残ったことを記しておきたい。彼女は、美術史の研究者から「一年につき東京で開催されている50ほどの企画展に足を運ぶことを10年続ければ、美術史にとって重要な作家や作品の大半を見たことになる」といわれ、社会人となってからもかならず50の展覧会に行くことをノルマとして自身に課しているという。もうすぐ十年が経とうとしているが、その教えは正しかった。確かに自分のなかに美術史の総体への見取り図ができあがりつつあることを身をもって実感しているからだ。彼女はわたしにそのように語った。

 他の芸術と比しても、たとえば映画という分野であったら、そういうことはまず起こらないのではないかと思う。一年のうちに新たに公開される映画作品の数は、すべてをコンプリートするのが物理的な不可能なほどであるし(それでも全盛期に比べればひどく減少しているのだ)、映画史はわずか120年あまりの齢といえども、あまりにも作品の数が多すぎるうえ、一作品につき一時間を超える絶対的な時間を要するので、教養としては嘘をつきにくい。作品や作家についての評価が定まっていない場合も多く、いわゆる普遍的な見取り図ができるとは思いにくいのだ。わたしとしても、そのような試みを完遂することに、ほとんど諦念を抱いている(なかにはそれを達成しようと目論む若き猛者もいることにはいるのだろう)。

 少なくとも確かなのは、映画史についていえば、さきに述べた美術史と同じようなノルマは存在しないであろうということだ。もちろんわたしは、美術史が映画史に比べて狭小な世界のうちにあるだとか、そういうことを言いたいわけではない。むしろ逆で、映画史と美術史を対置させるとき、その長さについてはさながら三歳の幼児と八十歳の老人を並べるようなものであろうし、現代美術については、映画と同様、いままさに評価の定まらない新たな作家たちが世界各地でひっきりなしに登場していることだろう。それでも、わたしの個人的な印象からいえば、かほどまでに多様に肥大し、その多くがエンターテイメントとして世俗化してしまった映画芸術を〈歴史〉として拾い集めるという行為は、美術のそれと比して非常に収まりが悪いのではないか、と感じている。

  ともあれ、わたしにとってはそのような態度が当たり前だったので、さきの50の企画展の話を聞いたときには大きな驚きがあった。美術史についてはまったく知識をもたず、ただ漠然たる興味だけがあった数年前まで美術という世界の広大さに尻込みしていたわたしにとって、それは意外に思えたのだ。そして、そのような芸当が東京でできてしまうということにも驚かされた。つまり、東京の美術シーンの一翼は、優秀な学芸員たちの尽力によって支えられているということだろう。

 

 さて、2016年の話に戻る。一年に50の企画展という話を聞いて、わたしもそのノルマをクリアしようと決意をしたものの、その数は遥か及ばずたったの11にとどまった(釈明するならば、その話を聞いたのは、2016年も終わりに差し掛かっていた頃だったのである)。以下に足を運んだ美術展をリストアップする。

 なかでも印象的だったのは、ジョルジョ・モランディ展とトーマス・ルフ展の二つである。どちらもたまらず図録を購入した。モランディ展は、東京ステーションギャラリーの歴代来場者数の一位を記録したらしい。とはいえ、わたしは会期の比較的すぐ、平日の午前中に足を運んだので、ノイズとならないくらいのほどよい来場者数で大変気持ちがよかった。

 モランディの作品の実物をまともに見たのははじめてだったが、すっかり恋に落ちてしまい、春にはイタリアを旅行した際、たまらずボローニャの Museo Morandi に足を運ぶまでだった。ただ、まだ東京のモランディ展は会期中であり、ほとんどの作品は貸付されていて本場の美術館はたいへん淋しくなっていた。そんなことは、すこし考えればわかることである。所蔵作品がほとんどなくなっているモランディ美術館に行くぐらいなら、画家が生涯の大半離れることはなかったというフォンダッツァ通りの生家を覗いてみるべきだった。自分の頭の悪さに苛立つ。

 

 モランディ美術館然り、海外の美術館にはいくつか足を運ぶことができた。ボローニャでは、モランディ美術館はMAMbo(Museo d'Arte Moderna di Bologna)と呼ばれる現代アートの美術館と併設されており、そちらのほうもちらりと覗いた。時間がなかったので観るのは叶わなかったのだが、ちょうどパゾリーニの企画展が組まれていて、それもおもしろそうだった。そのほかのイタリアでいえば、フィレンツェウフィツィ美術館(Galleria degli Uffizi)、ヴェネツィアのアカデミア美術館(Gallerie dell'Accademia)に足を運んだ。ヴェネツィアのアカデミア美術館は、ヴェネツィア訪問3度めにしてようやくの訪問となった。ウフィツィの天井画がいちいち素晴らしく、わたしはしきりにカメラを天に向けて撮っていた。もちろん、ウフィツィやアカデミアなど、一度足を運べばいいものではない。イタリアに行くたびに、訪問を検討することになるはずである。

 パリにいたときは、もはや恒例行事となっているが、ルーヴル、オルセー、オランジュリー、ポンピドゥ・センターにも一ヶ月の滞在中にいくどか駆けつけた。何度いっても飽きることはない。オルセーでは、アンリ・ルソーの企画展がすばらしいキュレーションと演出で組まれており、フランスの美術界の強さをまざまざと見せつけられたような感想をもった。

 ほかにも、ギュスターヴ・モロー美術館(Musée Gustave Moreau)、マルモッタン・モネ美術館(Musée Marmottan Monet)、ケ・ブランリー(Quai Branly)などをはじめとして、ほかにもいくつか足を運んだ気がするものの、すぐに思い出せない。イタリアもフランスも、美術があちこちに存在しているので、身支度をして心構えをもって美術館にいくという感覚にはなかなかならない。生活と美術を線引きするのが難しいのだ。そのことこそが、たとえば遠藤周作『留学』で描かれたような、ヨーロッパの歴史ある街の息苦しさにも繋がってくるのだが。

 

 今年はヨーロッパに足を運ぶことがあるだろうか? 余裕があれば、ふらりと遊びにいくかもしれない。ともあれ、わざわざヨーロッパまで絵画に会いにいかなかったとしても、10年待てば、大抵の有名な作品は東京までやってきてくれるかもしれない。その一年めということで、今年は50くらいの企画展を回ることができればいいなと思う。いちばんの敵は怠惰である。

 2016年は怠惰に負けて、気づけば「鈴木基一展」も「黒田清輝展」も「メアリー・カサット展」もいけなかった。東京都美術館若冲展については、さすがに炎天下のなか2時間も3時間も並ぶ気にはならなかった。そのような苦行を強いられることも意に介さず若冲に執心している者たちが、あれだけいるという事実には大変驚かされた。

 今年は、国内で美術館をめがけていくつか旅行をするのもいいかもしれない。それこそ若冲であれば、国内ではいろいろなところで見れるのだろう。このようにぐるぐると考えている時間はなによりも楽しい。

 

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ミケランジェロ広場よりヴェネツィアの街並み, 2016年4月撮影)

『天空からの招待状(看見台湾)』で寝落ちをするよい暮らし(という妄想)

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 わたしはこの数週間、台湾に執心している。インターネットの大海で「台湾」の文字が浮遊していないかとつねに目を光らせているし、友人たちと食事をするとなったら積極的に台湾料理店を選ぶようにしているし、侯孝賢や楊德昌といった台湾の監督たちのフィルムモグラフィーをひとつひとつ攻略しようと画策している(『牯嶺街少年殺人事件』の25年振りの復活上映も心待ちにしている)。熱が昂じて、ついには台湾へのはじめての渡航を今月に企てていたのだが、残念ながら見送ることになってしまいそうだ。とはいえ、できれば年内にかの土地を踏んでおきたいとも考えている。

 わたしのお気に入りの書き手である四方田犬彦が台湾について書いていたよなあと、すぐに『台湾の歓び』(岩波書店, 2015)をもとめて読破した。媽祖についての考察、さまざまな作家たちの足跡をめぐる旅、大学生たちによる立法院占拠のルポルタージュなど、いわゆる紀行文とはまったく毛色の違った氏の文章を、いつものように大変おもしろく読んだ。

 

 さて、この台湾をめぐるエッセイのなかで、とあるフィルムが紹介されていた。『天空からの招待状(看見台湾)』というドキュメンタリーである。四方田が台湾に滞在していた2014年ごろに本国で封切られたフィルムだが、映画にとりたてて興味をもっているわけではないような数多くの台湾人たちから勧められたとある。「この映画を観るまで、自分の住んでいる国がこんなに美しい国であると知らなかった。台湾を小さな国だと馬鹿にしている外国人には、ぜひこの雄大な景色を知ってもらいたいと思う」、と。

 早速DVDを探して観ることができた。『看見台湾』は、ある特殊なドキュメンタリーである。キャメラの被写体は、台湾各地の景勝地の雄大な自然であり、めざましい成長を遂げている最中の都市であり、そうした各地に暮らす人々である。その点に特筆すべき点はない。注目すべきは、そうした一切が、すべて空撮で撮られているということだ。キャメラが地上に降りることはなく、淡々としたナレーションのもとに、鳥瞰映像が展開されていく。

 監督は、航空写真を長きにわたって撮りつづけてきたチー・ポーリンという人物だ。この企画を立ち上げてから予算繰りに苦労していたところ、侯孝賢の目に止まり、彼の全面的なサポートによって完成したそうだ(侯孝賢はエクゼクティブ・プロデューサーとしてクレジットされている)。脚本とナレーションには呉念眞(ウー・ニェンチェン)、協力者には雲門舞集というコンテンポラリー・ダンス・カンパニーを主宰する林懐民(リン・フアイミン)。わたしは、この二人のことはよく知らなかったが――もっとも林懐民については、『台湾の喜び』のなかで考察が展開されている――、四方田の言に従えば、いまの台湾で考えられうるもっとも知名度の高いメンバーであるという。

 数多くの台湾人に高く評価されている点を踏まえ、四方田はこのフィルムのなかに、台湾におけるイデオロギーの集約を認めており、バルトを引きながら考察を展開しているのだが、わたしはそのことについてはよくわからない。というのも理由は簡単である。いままで合計で三度も挑戦したのだが、最後まで見終わることなく、眠りに落ちてしまったからだ。

 

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  いったいどうして寝落ちしたために鑑賞に能わなかった映画のことをお前は書いているのかと訝しむ向きもあるかもしれない。それについてはごめんなさいとしか言いようがないのだが(笑)、それでもなお、わたしはこのフィルムはまったく素晴らしかったと言いたい。飛び抜けてすぐれた催眠映像に仕上がっているからだ。

 

 絶景を紹介するようなテレビ番組はこの世に数多とあるが、このドキュメンタリーは、そうした量産されている番組とはその規模において明らかにちがう。すべてが鳥瞰図であるゆえか、枠内にはノイズとなるようなものが一切登場せず、純粋に映像に没入できるのである。そこには非常に高い撮影技術が認められる。

 また、中国語のナレーションが入っているというのもいい。まったくわたしが解さない異国の言語が、美しい映像のうえに乗っていくということの快楽。DVDには西島秀俊による日本語のナレーション版もあったので、そちらでも挑戦したのだが、わたしの感じていた心地良さの多くが失われてしまっていたため、すぐさま中国語版に切り替えた。そして、案の定、寝落ちした。

 

 異国の情景、異国の言語。わたしは、なんならこのようなドキュメンタリーを世界各国につくってほしいと願う。床に着く前にどの国のドキュメンタリーを観るか決め、部屋を暗くし布団をかぶり、就寝の準備をすべて整えたうえで、再生する。瞼が重くなっても、しばらくは異国の言語が耳に届くだろう。そうして、いつのまにか眠りに落ちているのだ。夜中に目が醒めたら、トップメニューに戻って、メインテーマが奏でられたまま、画面は煌々と照っている。寝ぼけ眼のまま電源を落とし、再び眠りに就く。

 翌朝、結局最後まで観られなかったな、と軽いため息をついて、DVDを棚に戻す。日中の大半にはきれいさっぱり忘れているかもしれないが、ふとした折に、夢現で昨夜に見た美しい自然の情景が視界を散らつくのだ。

 

 ああ、なんという至福。わたしにとってのよい暮らしの理想形のひとつである。というわけで、以上です。

ギュスターヴ・モロー美術館 ――十九世紀という〈崇高〉の経験

 今年の春、とある理由で一ヶ月ほどパリに滞在することになったのだが、そのときに訪れたギュスターヴ・モロー美術館(Musée Gustave Moreau)での体験を記しておきたい。わたしはこのとき、崇高の意味を知ったのだった。

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 ギュスターヴ・モロー美術館は、パリ9区、サントトリニテ教会(Église de la Trinité)からサンラザール通りを東に歩き、小さな路地に入ったすぐの場所にある。これがまったく愛すべき素晴らしい美術館で、もともとは画家の邸宅だったのだが、死後に本人が所蔵していた作品とともに国へと寄贈されたようだ。モローの作品は、これまでいくつかの作品を別の場所で見たことがあったが、これほど豊潤なコレクションを惜しげもなく、所狭しとひとつひとつの部屋に並び立てている展示の様子には大変な感銘を受けた。モローの作品は、ホワイトキューブにうやうやしく飾り立てられるよりも、いくらか猥雑な場所での展示によってこそ真価を発揮するのではないか。そのように思わされたのである。

 

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 写真にあるような、美しい螺旋階段を昇る(訪問者にとって、これが唯一の昇降口なのである――まったくもって素晴らしいとしか言いようがない)。ひとつひとつの段差を昇っていくにつれ、周囲にかけられた絵画たちの見せる表情は変わっていく。ほとんどの美術館においては、このような鑑賞の方法は許されていない。絵画を見る視線の遠近については自由が与えられていたとしても、視線の高低を自由に変更できるというのは、わたしの記憶のうちにはほとんど近しい例が見当たらない。

 

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 そのようにして四階に着いたとき、わたしの眼にはひとつの絵画が飛び込んでくる。わたしはそのキャンバスが現前する世界にたちまち取り込まれ、その場から暫く動けなくなってしまう。玉座に鎮座する異教の女神のまなざしに、豪華絢爛を尽くした世界の魑魅魍魎たちに、わたしは釘付けになってしまったのだ ―― そのような瞬間が到来したとき、わたしたちは、身体が携えているすべての感覚を、怖じけずに絵画のなかの世界に預けてみるべきだ。魂が震えるような感動のなかに、全身全霊を浸してみるべきだ。わたしは動けなかった。激しく脈打つ心臓を止めることができなかった ―― それは、紛れもなく〈崇高〉の経験そのものだったのだ。

 

 先日、森有正のエッセイを読んでいて、次のような文章に行き当たった。あるとき、イタリアの土地で女体の彫像の美に囚われた瞬間を回想した文章である。

"その瞬間に僕は、自分なりに、美というものの一つの定義に到達したことを理解した。それは、僕にとって、人間の根源的な姿の一つであった。それはそれで一つの理解ではあろうが、僕にとって一番大切だったのは、そういう数限りのない作品が、一つ一つの美の定義そのものを構成しているのだ、という驚くべき事態であった。換言すれば、一つ一つの作品が、「美」という人間が古来伝承してきた「ことば」に対する究極の定義を構成しているという事実だった。作品はもうこれ以上説明する余地のないぎりぎりの姿でそこに立っているだけだ。"
(『遥かなるノートルダム』より「霧の朝」)

 わたしはこの文章を読んださい、ただちに先に述べたギュスターヴ・モローの手による《ジュピターとセレーヌ(Jupiter et Sémélé)》と対面したときの経験を思い起こした。森有正の経験の内実はわからない。だが、それはわたしの経験のそれと近しいものであったのではないだろうか。「古代の人はこういう事態に美、イデア、フォルムなどの名を命じたに相違ない」と彼は書き留めている。美の経験とは、ひとつの崇高性の経験にほかならない ―― 美とは欲望の対象であり、同時に近づきがたさなのだ。そうした美の立ち姿が、〈聖なるもの〉に転移してゆくのは当然のことである。わたしはモローの絵画にそう教えられた気がした。

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 わたしが十九世紀の象徴主義美術に惹かれるのも、そうした崇高性が至るところに潜んでいるからであるように思う。一方では、ルドンの〈黒〉のように陰鬱で孤独な世界があり、他方ではモローの聖性の世界を前に戦慄する。その暗さは、ラファエル前派のロマンスと表裏一体のものであるだろう。そして、そうしたもののすべてに、ある種の特殊な〈崇高〉があるような気がしている。その正体はなんだろうか? まだ答えは出ていない。ひとつの直観がわたしに語るのは、十九世紀から二十世紀へと移行するにあたって、その〈崇高〉はいくらか失われてしまったのではないか、という仮説である。

 だが、同様にその仮説を辿っていくためには、まだまだわたしには経験が足りていない。ギュスターヴ・モロー美術館を再訪することはもちろんのこと、十九世紀を探索する旅が要される。その旅は果たして終わりを見ることはあるだろうか。いまのわたしには、皆目わからない。

 

(掲載写真はすべて 2016年4月, パリにて撮影)

阪神タイガースの2016年、来季への無邪気な期待とともに

 2016年のシーズンが終わってから数ヶ月が経ち、年の瀬を迎えるにあたって、すでにプロ野球観戦の禁断症状が出かかっている。症状のひとつは、とくにおもしろい記事は見当たらないはずなのに、やたらとインターネットでスポーツニュースを覗きにいっているということだ。わたしの購読している新聞のスポーツ欄には、プロ野球はといえば契約更改のことが細かく書かれている程度なので、代わりにオンラインのニュースをひたすらに読み漁っている。オフ・シーズンはいろいろと妄想が膨らみ、ただただ希望に満ちている。「こうなって、こうなって…」と優勝へのシナリオを描くような希望的観測ばかりが心を横切っていく。とはいえ、いくら妄想を重ねたところで仕方がないので、本来ならばオフのあいだはきれいさっぱりと野球のことは忘れて、ほかの物事に熱中するべきなのかもしれない。わたしの可処分時間は限られていて、そのことにつねに焦りを感じているぐらいなのだから。まあ、それができれば苦労しないのだが。
 

 せっかくなので、阪神タイガースの2016年を振り返っておく。わたしは小学生のころから阪神ファンを自認しており、星野監督と岡田監督時代の阪神タイガースをよく観ていたのだが(2003年と2005年の優勝!)、それから2014年に至るまでプロ野球への関心をすっかり失ってしまっていた。海外に滞在しているとき、わたしのなかのノスタルジアが悪さをしたのか、野球熱がぶり返し、2015年のシーズンから阪神ファンに復帰することとなる。2015年同様、2016年もよく試合を観た。スタジアムで観戦したのは今年は神宮球場の一試合に限るが(生ビール半額ナイトの恩恵には十分に預かった)、テレビの前で懲りもせず呻いたり叫んだりする日々が続いた。趣味をスポーツを観戦とすることは、精神の健全に直結するので、非常によいものだ(と辛うじて自己肯定を試みている)。
 

 新たに金本監督の指揮のもとスタートした阪神タイガース。はじめは「超変革」というスローガンのネームセンスの無さに失望しきりだったが、いつのまにかわたしもそれを語彙として獲得してしまい、阪神の話題が上るときに「超変革」を多用してしまうほどだった。結果から見れば、セ・リーグの4位、Bクラスとなってしまったのだが、わたしは「超変革」はひとつの成功を収めたといっていいのではないかと考えている。

 それは鳥谷のスタメン落ちであり、北條の台頭であり、原口の支配下登録からの飛躍であろう。すなわち、積極的な野手の若手起用である。ドラ1の高山についてはいうまでもなく(すでにこのブログに高山俊についての文章(「高山俊は明らかに頭がいい」)は書いている)、中谷や板山といった、将来が楽しみな選手の姿も一軍の試合で頻繁に見れたことは大きい。ヤフコメの虎党たちを見ていても、外国人選手やFAでその場しのぎの戦力を補強に走るより、すぐに優勝はできずにBクラスに甘んじたとしても、ゆくゆくは長期にわたって優勝争いができるような戦力をじっくりと育成してほしいと願う者が多いようである。同じ戦力であれば若手を起用すると金本自身が明言しているが、チームにとって20歳と35歳のポテンシャルのどちらを大切にするべきかという問いの答えは明白であり、金本の方針は正しい。

 

 ただし、今年のカープの圧倒的な強さを鑑みてもわかるように、若手だけの力では優勝までは辿り着かないことも然りである。よくいうように、若手とベテランの力が相乗効果で組み合わなければいけないのであり、要するにその両者のバランスをどう配分するかということを問われているのである。バランスで考えれば、和田監督の時代は、江越や梅野といった幾人かの若手選手は積極的に起用されていたものの、やはりベテランに偏重ぎみだったといえよう。彼の時代、北條や陽川や中谷はずっと二軍で活躍しているという話を聞いていたのに、一軍にはほとんど上がってこなかったし、上がってきたところで出場機会が与えられるのはごく稀だった。

 どのような配分が正解なのか? これは非常にむずかしい。数字には測りきれないチームの雰囲気や各選手の人柄というものがあり、どのような組み合わせがハマるかということは素人目には何とも言いがたい。それを見極めることこそが、選手たちを間近で見守り、彼らと指導者という立場でコミュニケーションできる監督に定められたもっとも重要な責務であるだろう。今季は4位という結果に終わったが、この観点における金本監督の働きは、概ね満足している。あえてメッセンジャーを2016年の開幕投手に任命するところなど、うまく場の雰囲気をつくっていくことには長けているように見える。

 

 ベテランのいぶし銀より、若手の躍進に心が踊らされる。たとえば、原口という選手の物語には、夢と浪漫がつまっている。育成選手から支配下登録、1軍の出場に託つけた際には、自身の背番号の記されたユニホームの調達が間に合わず、「YAMADA」と書かれたコーチのユニホームを代用したまま出場し、二打席目にしてヒットを放ってしまう。そこからの躍進劇。長いあいだ怪我に泣かされて燻ってきた苦労人が、瀬戸際から一気に月間MVPを獲得するまでの破竹の活躍譚は、多くの者の心を掴んで離さない。もちろん、わたしもその一人である。

 原口は不思議な選手だ。あの打撃フォームで一振りすれば、なぜか打球はスタンドに届いてしまう。シーズン終盤にかけては調子が落ちてきていたが、ここぞという場面で必ず打つ時期もあった。何も根拠がないのに、打つに違いないという予感を見事なまでに回収することのできる選手である。

 わたしとしては、本人も明言しているように、来季は捕手一本でやっていってほしい。もとよりあまり梅野には期待がもてず、坂本も好きな選手ではあるが、まだ時期尚早という気がする。なにより、原口にはバッターとして輝く捕手となってほしいし、そのポテンシャルは十二分に秘めているように思う。今年一軍の試合出場を重ねたことで、本人の守備の課題はより明白になっただろうし、充実したオフを過ごしているのではないだろうか。WBC の選手を見てもわかるとおり、日本球界はいま深刻な捕手不足に陥っている。原口が日本を代表するような捕手になるためには、来季は正念場となるだろう。

 

 他の若手野手でいえば、北條と中谷のセンスにも大きな期待を寄せている。北條に至っては、今季は一軍の経験を積んだことで、着実に成長をしているように見える。ポスト・鳥谷として、今後の不動の遊撃手としての活躍に期待。中谷も、スケールの大きいバッターであるということは、今季の姿で十分に伝わった。外野手として守備に磨きをかけ(一塁手としての起用もありうる)、ゆくゆくは4番あるいは5番を打てるような、福留のような攻守揃った選手になってほしい。

 福留には本当に助けられた。来季はキャプテンを務めるオジさんには、まだまだ働いてもらわねばならない。ゴメスの不調や鳥谷の失墜に大きく振り回された一年だっただけに、ドメさんの意地には脱帽ものである。とはいえ、やはりひとりでは打線は躍動しない。打線が〈線〉として機能したのは、もしかすると今季数試合に限られるのではないか。打者一巡もさほどなかったし、残塁の数の多さといったら目も当てられない。とにかく得点力に欠けるチームである。 糸井の入団によって(ようこそ!)、打線の厚みが出るのではないか。

 

 一方、投手はどうだろうか。先発の柱が、阪神ほど盤石なチームはいないという開幕前の識者の評はなんだったのか。そういえば、タイガースを今季のリーグ優勝の筆頭候補に挙げていた者も幾人かいた。先発のメッセンジャー、藤浪、能見、岩田という4本柱の安定感はリーグ随一のもので、ここに岩崎や岩貞が入ってくれば…という話だったと記憶している。蓋を開けてみると、藤浪は不調、能見もいまいちうだつが上がらない、岩田は散々な一年で二軍暮らし。岩崎はあと一歩なにかが足りない。結局のところ、4本柱のうちで、活躍を収めたのはメッセンジャーだけだった。メッセンジャーという選手はかわいい。198cmの巨体だが、かわいさでいうとタイガース随一である(当社調べ)。

 一番のニュースは、岩貞の覚醒である。まったくもって素晴らしい投手だ。これほどのポテンシャルを秘めていたのかと驚きの連続だった。夏場に少し調子を落としたが、9月は5連勝で文句なしのMVP獲得。最後に2桁勝利に乗せてくれたことがうれしい。左腕の名先発は近年少なくなっているので、すでに球界にとっても貴重な存在になりつつある。来季、先発の柱として10勝は計算されるようになると思うので、重圧に負けずに、沢村賞獲得まで狙ってほしい。

 沢村賞に関連していえば、藤浪である。2015年の沢村賞に絡む水準での活躍もどこへやら、今季は非常に苦しんでいた。マウンド上で首をひねる様子をいったい何度見たか。藤浪は頭のいい選手である。それは間違いのないことだ。だが、今季はその頭のよさに足元を救われた気がしている。本人も、今季はいろいろなことをやりすぎてしまって、シンプルな野球ができなかった、と語っていた。確かにシンプルでいいのだ。ゆくゆくは頭脳派投手になっても、いまは若さと才能で打者へと向かっていくだけの能力は十分にあるのだから。しばしば大谷と比較されるが、わたし個人としては、それは仕方のないことであると思うし、比較対象であることを糧にしなければいけないとすら思う。かつて甲子園を舞台に戦った両エースが、日本球界を代表するエースに成長するというシナリオにもっと胸をときめかせてほしい。

 

 リリース陣。藤川球児に往年の勢いはもうない。藤川全盛期、それもJFKの時代からずっと見ているので、そのことには一抹の寂しさを感じる。不安藤はあまり顔を見せず、福原は引退してしまった。あのころの選手は、気づけばほとんど残っていないのだ。

 明るいニュースといえば、マテオとドリスだろう。マテオの三イニング跨ぎ登板という事件も起きたが、シーズンを通じて、怪我で抹消されたことを除けば、安定した成績を残した二人である。数字でいえば、期待以上の成績を残したといえるのではないか。ドリスの去就がまだ決まっていないようだが、ぜひとも残ってほしい。わたしは、ドリスが大好きなのだ。というのも、彼の性格のよさを買ってである。来日してまだ日が浅いころ、ドリスがはじめてヒーローインタビューに立ったのだが、なんと日本語で三言くらい言い放って、観客たちがいまいち状況を飲み込めずにざわついたことがあった。ああ、わたしがあの場にいたら大声を張って応えていたのにな。日本語を学ぼうとしている姿勢、日本文化に溶け込もうとしている姿勢が見れるのは、こちらとしても気持ちい。来季には、新たにやってきたメンデスと並んで、JFKならぬDMMの黒人トリオとして黄金時代を築いてほしいと密かに願っている(外国人選手の登録人数がネックになるのだが、2018年度のシーズンではメッセが日本人扱いになるのでいけるかもしれない)。

 先発としてはスタミナ不足が祟っていまいちポテンシャルを発揮しきれていなかった岩崎が、シーズン終盤にリリーフに配置されて、キレのいいストレートを投じたことがあった。わたしはこの配置転換はいけるのではないかと思っている。キレのいいストレートといえば、石崎にも期待している。怪我さえなければ、今年もっといい成績を残していたのは間違いないだろう。青柳もはじめは懐疑的だったが、だんだんコントロールをつけられるようになっていたので、来季は先発ローテを守ってくれることを信じたい。

 

 

 というわけで、以下、来季の開幕スタメンを予想してみる。

(中)糸井
(遊)北條
(左)高山
(右)福留
(捕)原口
(一)キャンベル
(二)鳥谷
(三)大山
(投)メッセンジャー

 大山は、高山のあとに続いて新人王獲得できるくらいの活躍に期待している。オープン戦次第ではあるが、あえて開幕スタメンに名を連ねた。佐々木を逃してのドラフト一位指名なのだから頑張ってもらわないと。鳥谷が下位打線にいるということで、相手に怖さを与えられるくらいの活躍が見たい。

 先発ローテでいえば、メッセンジャー、藤浪、岩貞、青柳は当確として、ここに能見と秋山あたりが絡んでくるだろうか。ノウミサンにもまだ働いてもらわないとならない。もう少し先発の計算できる枚数がいればな。今年のドラフトはどうなるだろうか。

 

 •••••• しかしこれ、優勝しかないのでは?

 

 

 ああ、5,000字も書いてしまった。そもそもこんな話は、呑み屋で済ませておけばよくて、わざわざエントリにするほどでもないのだ。こんなことにわたしの可処分時間が奪われてどうする。したがって、阪神タイガース、あるいはプロ野球を愛好し、わたしとの野球の話にお酒を片手に付き合ってくれる友人を探しています。来季は一緒に野球観戦に行きましょう。神宮のナイターは最高です。

 

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ゴーゴリ『外套』の命名にまつわる箇所について

彼の名はアカーキイ・アカーキエウィッチといった。あるいは、読者はこの名前をいささか奇妙なわざとらしいものに思われるかもしれない。しかし、この名前はけっしてことさら選り好んだわけではなく、どうしてもこうよりほかなに名前のつけようがなかった事情が、自然とそこに生じたからだと断言することができる。つまり、それはこういうわけである。アカーキイ・アカーキエウィッチは私の記憶にして間違いさえなければ、三月二十三日の深更に生まれた。今は亡き、そのお袋というのは官吏の細君で、ひどく気だての優しい女であったが、然るべく赤ん坊に洗礼を施こそうと考えた。(…)産婦に向かって、 モーキイとするか、ソッシイとするか、それとも殉教者ホザザートの名に因んで命名するか、とにかくこの三つのうちどれか好きな名前を選ぶように申し出た。「まあいやだ。」と今は亡きその女は考えた。「変な名前ばっかりだわ。」で、人々は彼女の気に入るようにと、暦の別の個所をめくった。するとまたもや三つの名前が出た。トリフィーリイに、ドゥーラに、ワラハーシイというのである。「まあ、これこそ天罰だわ!」と、あの婆さんは言ったものだ。「どれもこれも、みんななんという名前でしょう! わたしゃほんとうにそんな名前って、ついぞ聞いたこともありませんよ、ワラダートとか、ワルーフとでもいうのならまだしも、トリフィーリイだのワラハーシイだなんて!」そこでまた暦の頁をめくると、今度はパフシカーヒイにワフチーシイというのが出た。「ああ、もうわかりました!」と婆さんは言った。「これが、この子の運命なんでしょうよ。そんなくらいなら、いっそのこと、この子の父親の名前を取ってつけたほうがましですわ。父親はアカーキイでしたから、息子もやはりアカーキイにしておきましょう。」こんなふうにしてアカーキイ・アカーキエウィッチという名前はできあがったのである。

  ゴーゴリの『外套』(平井肇訳, 岩波文庫)を読み始めた。冒頭の命名にまつわる箇所の記述のわからなさがすごい。ワラダートやワルーフなら構わないのに、トリフィーリイやワラハーシイは許せないという感覚の遠さ。ロシア人の読者なら、だれもが「それはそうだな」と納得しながら読み進めるのだろうか。命名の妙というのは、異なる文化圏の眼から見れば、まったく未知の領域である。それにしても、作中に登場するロシア人の名前についての躓きは幾度もロシア文学を読む過程で経験していることではあるので、わたしもこんな意味のない箇所を引用するくらいなら、さっさと小説を読み進めればいいのに。年末には馬鹿なことをしたくなるものだ。

MY FAVOURITE FILMS IN 2016

 わたしたちが映画について語るときにしばしば発せらるる「今年は豊作であった」という謂に、何ら意味を見出せなくなってしまった。考えてみれば当たり前でもある。いまの時代において〈すべての映画〉という概念の質的な掌握は背理でしかなく、およそ恣意的な抽出と選出を幾たびも通過した末に、わたしたちはひとつひとつのフィルムとスクリーンの上で出会うのだから。とりわけ新たに発表された映画との邂逅は、その大方は恣意性に拠っていることは疑うべくもない。しかし、同時代に産出されたフィルムたちがひとつの時代の趨勢を証していることは間違いないし、すぐれたフィルムは、ひとつの時代や文化に留まらず、普遍性をめがけてどこまでも旅をするものである。そこで鑑賞者であるわたしたちが従事するべきなのは、ひとつひとつの断片を拾いあげて、〈すべての映画〉という総体への想像力を働かせ、おそるおそる言葉を乗せて形作っていくことだろう。いかなる文化も、そのような営為の連続によって育まれてきた。わたしたちは、偶々引きあわされたフィルムを手掛かりに、そのフィルムたちが総体として編み出す〈世界〉を垣間見るのである。

 

 ――いかにも大仰な文章を書いてしまったが、ともあれ。今年は、論文の執筆や日常的な些事、あるいは興味の喪失や純然たる怠慢などさまざまな理由によって映画をほとんど観なかった時期もあれば、性懲りもなく映画館に足繁く通い続けた時期もあった。正確に数えていないが、新作映画でいえば、鑑賞したのは100本程度だろう。話題作で見逃しているものも数多くある。

 わたしが2016年に鑑賞した映画のうちで、とりわけ気に入った作品を選出した。以下、そのうちとくに印象に残った10作品をコメントとともにリストアップする。作品のうちには、海外で鑑賞したもの、映画祭で公開されたものなど、すなわち日本で劇場公開されていない作品も含まれている。また、いうまでもなく、順位は流動的である。時間をおいて再度選定に臨めば、まったく違う結果になることもあるかもしれない。それでも、好きな作品をあれこれと思い出して選ぶ作業は非常に愉しかった。わたしは数年前までこの試みについて懐疑的な立場をとっていたのだが、すでに個人的な恒例行事になりつつある。10位から発表する。

 

2016年ベスト新作映画

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10. Safari(ウルリヒ・ザイドル監督, オーストリア, 2016)

 動物愛護団体に所属している紳士淑女たちがこのフィルムを眼の当たりにすれば、憤慨のあまり劇場を飛び出して、声高に糾弾をはじめるかもしれない。そうでなくても、徹底して挑発的に撮られたこのドキュメンタリーをひとたび目撃して、なにも心が動かされないということは不可能であるとすら断言できる。ナミビアのとあるサファリでレジャー・ハンティングに興じる白人たちにいつものシニカルな視線を向けたかと思えば、次の瞬間には黒人への旧来のクリシェを増強するかのような露悪的な編集を施してみせる(そもそも黒人たちには言葉を与えられていない)。美的に計算され尽くしたフレーミングといい、ワイズマン的手法とは対極の意図のもと撮られている。銃弾を身に受け、一匹の麒麟が崩れ落ちて息絶えるシーンの衝撃は、二度と忘れられない。

 

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9. ラサへの歩き方 ~ 祈りの2400km|岡仁波斉チャン・ヤン監督, 中国, 2015)

 このフィルムにおいて、宗教が直接的に語られる場面は一切存在しない。権威のあるものが教義を語り、信仰をさし向けるという行為は、ニーチェの語ったように、畜群のルサンチマンを利用する俗悪な牧師者に属するものなのであろう。彼はこのフィルムについてなんと言うだろうか? 仏教における五体投地という礼拝について、わたしは知識としては有していたが、それが具体的にどのような営為であるかという観念を抱いたことはなかった。 このフィルムが捉えるのは、いくつかのトラブルに見舞われながらも、ただ約束の地をめざして五体投地で歩きつづける仏教徒たちの姿である。他者に信仰を強要したり、干渉したりする場面はひとつたりてないし、その道程に過剰なドラマは発生しない。信仰とは、静謐な内的達成にほかならないのである。そして何より、彼らの宗教的観想は、途方もなく美しい。このような発見こそが、映画という芸術のもたらしうる達成ではないか?

 

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8. キャロル | Carol(トッド・ヘインズ監督, アメリカ=イギリス=オーストラリア, 2015)

 映画にとって見つめ合う瞳を撮ることは原理的に不可能である、と述べたのは蓮實重彦だった。かかるテーゼを意に介さぬかのように、このフィルムは執拗にキャロルとテレーズというふたりの女性の視線の交錯を描き出していく。彼女たちの視線がぶつかることによってはじめて、この愛の物語は走り出してゆくのだ。だが、愛の萌芽を視線の交錯に求められたとしても、それだけでは愛を描き切ったとはいえまい。パーティを抜け出したテレーズがキャロルを見つけたあと、愛する者のほうへと確かな足取りで歩み寄ってゆくシーンで、このフィルムが幕引きとなったことを憶えているだろうか。かくして彼女たちの困難な愛はひとつの達成を見るのである。わたしは、"What a strange girl your are... Flung out of space."とキャロルがテレーズへと語りかけて微笑むシーンの艶やかさにいまだに囚われている。

 

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7. 裸足の季節Mustang(デニズ・ガムゼ・エルギュヴェン監督, トルコ=フランス=ドイツ, 2015)

 なんらかの退っ引きならぬ問題に直面している人物を描く物語の結末に待ち受けるものとして、以下の三つに大別できるように思われる。ひとつは、問題を根本より直截的に解決してみせること。もうひとつは、問題をめぐる状況にたいしての新たな視線を獲得すること。最後に、眼前の問題から愚直な逃避を試みること。私感にすぎないが、近年の小さなフィルムのうちでは、ふたつ目の類型の結末を取る場合が多いような気がしている。乱暴に言えば、それは現代的な感性であり、その地点から出発せざるをえないという時代の要請なのだろう。だが、この物語については、三つ目の顛末を見る。少女は、伝統的な風習に息苦しさから抜け出し、イスタンブールに向かう――かかる価値観の対立を、ぎりぎりの強度を保ちながら描くということ。そして、93分にわたる少女の物語の冒頭と結末において意図的に仕組まれた、ある人物との抱擁。その救済には、紛れも無くひとつの映画的愉悦が横たわっている。

 

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6. Midnight Specialジェフ・ニコルズ監督, アメリカ, 2016)

 ある先行する作品に捧げられたものが、過去を超え出るということは大いにありうる。おそらく映画史はそのようにして成り立ってきたし、かくして過去は現在に接合され、未来へと放射されうるのである。このフィルムは、わたしの目には明らかに『未知との遭遇』へのオマージュとして写り、したがってプロットのうちに革新を見出すことはできなかった。だが、それでもなお過去を超え出そうとする物語の強度が備わっていたと認めなければならない。オープニング・タイトルが提示されるまでの当初の五分間にわたって張り詰められた緊張とスリルに、わたしは震えるほどの悦びを感じた。そして、フィルムの後半部分においてあえて〈未知〉を見せるという作家の選択に、わたしは確固たる意志を感じ取らないわけにはいかなかった。

 

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5. 淵に立つ | Harmonium(深田晃司監督, 日本=フランス, 2016)

 このフィルムには、いたるところに記号が散りばめられている。キャメラが捉えたすべては、けして偶然に映りこんでしまったのではなく、緻密な計算のもとに配置された諸々である。このような記号性の過剰に、わたしたちは感動を憶えることができるだろうか? わたしは否と答えたい。パズルのように記号を拾いあつめる作業そのものには、情動は付随してこない。情動を喚起するためには、ただ形式的に記号を置いていくだけでは不十分なのだ。だが、このフィルムは、その地点に留まらない。ナラティヴが記号を真に有機的に物語へと奉仕させる。記号性の過剰を超越するナラティヴの強度がある。そこに説得力が生じるからこそ、わたしたちは色彩に慄き、構造に息を呑むことができるのである。かくして冒頭のメトロノームは、末尾の拍動と重なり合ってゆく。

 

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4. サウルの息子Saul fiaネメシュ・ラースロー監督, ハンガリー, 2015)

 ホロコーストの当事者ではないわたしたちは、けしてその目撃者にはなれない。だからといって、わたしたちはなにも語ることができないわけでもない。このフィルムは、そのような命題を掲げているように思われる。キャメラは、わたしたちの視ることへの欲望にたいしてつねに無頓着であり続ける。その欲望を意図的に無視しているかのようでもある。サウルはいったいなにを視たのか? わたしたちにできるのは、与えられた断片をもとに、ただ想像力を働かせることだけだ。そして、そのような想像に徹していたわたしを嘲笑うかのように、このフィルムは最後に突き放して幕引きとなる ―― 最期の瞬間に捉えられたサウルの微笑に、わたしの背筋はたちまち凍ってしまった。彼はもう黒々とした深淵の向こう側にいた。わたしは『日陽はしづかに発酵し…』のラスト・シーンを想起した。すでに彼らは、わたしのことなど一瞥もせずに、彼岸に渡っていたのだった。

 

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3. 山河ノスタルジア山河故人 ジャ・ジャンクー監督, 中国, 2015)

 国破山河在。杜甫漢詩は、ジャ・ジャンクーの手によって、二十一世紀における一大叙事詩として見事に更新された。国が破れるということを、グローバリズムの波に呑まれる現代の中国という仕方で描き出すという近視眼的な解釈も取ることも可能だろう。だが、わたしたちが注視すべきは、原題が明らかにしているように、時代の変遷とともに山河もまた離散してゆく ―― その諸行無常の疑えなさである。その事実は、このフィルムにおいて三つの異なる時代を生きる者たちにとっても当たり前のように突きつけられる。わたしが改めて教えられたのは、時間の流れは、世界の一切に等しくもたらされるということだ。連綿と続く時間のなかで、なにひとつとして変容を免れるものはない。そのことの儚さと尊さを、ただのノスタルジアに陥ることなく描き切った物語に、わたしは涙を堪えることができなかった。

 

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2. ハドソン川の奇跡Sullyクリント・イーストウッド監督, アメリカ, 2016)

 いったいどうしてかほどまでに完璧な映画が撮れるのか。わたしは狼狽した。このフィルムには、文句の付けいる余地がないどころか、そもそも批評すらも必要としないほどに厳然と屹立しているように思えたからだ。批評を必要としないという物言いには語弊があるかもしれない。だが、このフィルムが喚起する情動は、二次的な言葉の立ち上がってくる地点のはるか手前に、すでに豊潤に与えられているという感想を持ったのである。その完全さは、ある意味では退屈さとも表裏一体かもしれない。事実、わたしが意見を交換したいくらかの友人は、このフィルムを退屈と罵っていた。彼らの意見も十分に理解できる。極端にいえば、このフィルムは〈すべての映画〉にとってのひとつの教科書なのだ。教科書の汎用性の広さは、他方では退屈となりうる。しかし、現代において、いったいどれだけの作家が、みずから教科書たりえるだろうか? わたしたちは、イーストウッドがいまだに映画を撮っていることにもっと感謝するべきなのではないか。

 

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1. ダゲレオタイプの女 | Le Secret de la chambre noire黒沢清監督, 日本=フランス, 2016)

 わたしがフィルムを視ている。このような主体と客体の関係は、不可疑の明瞭性を伴って先験的に与えられているはずだ。だが、どうしてだろう。わたしは、このフィルムによって視られているような感覚に苛まれたのである。このような経験ははじめてではない(たとえば『美しき諍い女』という傑作がそうであったように)。ある種に属する傑作を目撃したとき、わたしたちの現実は融解し、もはや同一の世界を開示することをはたと止めてしまう。より正確にいえば、わたしの諒解していた世界性が、ひっそりとひとりでに編み変えられてしまう。そのとき心臓は激しく脈打ち、情動は横溢していく。このフィルムは、まったくもって正統なフランス映画でありながら、だれも観たことのないフランス映画である。そこにはすべてがあった。教会という愛と死と信仰の交差点で、ひとつの衝撃が主人公を襲ったことを想起してほしい。疑いようのない今年の最高傑作だ。

 

 

 

 さて、書きはじめると思いのほか熱がこもってしまった。好きな作品について書き連ねるのは愉しい。ただ、だらだらと書き連ねるわけにもいかないので、抽象的な物言いに終始してしまったことは許してほしい(本当はすべての映画についての個別エントリを書くべきなのだろう)。次点でいえば、『ふたりの友人』『ブラック・スキャンダル』あたりだろうか。

 もちろん、今年大ヒットとなった邦画の『シン・ゴジラ』も『君の名は。』も『この世界の片隅に』も観たが、今年の10本の作品のうちからは除外せざるをえなかった。それぞれ、美点と同じくらい不満を挙げることができる(『シン・ゴジラ』についての不満は、いくらか歯切れが悪くなってしまうかもしれない)。ひとつ言うとしたら、『君の名は。』を観たとき、わたしは〈セカイ系〉の終焉を感じ取らざるをえなかった、ということである。その終焉には個人的に大きな満足を抱いているのだが、そのことはべつの機会に譲ろう。

 

 今年のトップ・テンの全体から鑑みれば、ジャンルや国籍の多様性はある程度確保できた気がしている(数年前のトップ・テンは、ほとんどアメリカ映画であったこともあった)。だが、わたしはけして現況に満足しているわけではない。『Safari』や『ラサへの歩き方』や『裸足の季節』のような土地に根ざした固有の文化を存分に見させてくれる作品ともっと巡り会いたいし、『サウルの息子』のような新たな語り口に驚かされたい。『Midnight Special』や『淵に立つ』のように戦慄とさせてほしいし、『キャロル』や『山河ノスタルジア』のように愛すことのできる作品を手元に置いておきたいし、『ハドソン川の奇跡』を観たときのように、完全無欠さに閉口してただただ拍手を送りたい。そしてなにより、『ダゲレオタイプの女』のような、わたしの狭小な〈世界〉を編み変えてくれるようなフィルムを心から待望している。そうでなければ、わたしにとって映画を観る意味はほとんど失われてしまうのではないか。その危惧は杞憂であったと、来年の今ごろに思えているだろうか。

水林章, "Une langue venue d'ailleurs" ―― 異邦のことばを話すということ

 嫉妬した ――と表現するのがいちばん近いかもしれない。フランス語を学び、フランスでいくらかのかけがえのない時間を過ごし、そしてフランスという存在そのものへの執着を多少なりとももっているわたしにとって、そのような道の遥か先をゆく水林先生の存在は、この本との出会いを通じて、すぐさま尊敬と憧憬と嫉妬の対象となったのである。

 水林章による "Une langue venue d'ailleurs" (Gallimard, 2011) を読んだ。彼の存在を知ったのはごく最近のことで、とある仏語関係のイベントで知り合ったフランス語の達者な学生たちと卓を囲んで話しているときに、彼のことが話題に昇ったのがきっかけだった。なんでも、そのうちのひとりが上智大学にて仏語の指導を受けていて、「これまで7年くらいフランス語を勉強してきたなかで、はじめて発音を矯正してもらった」というのである。卓を囲むだれもが、水林先生のフランス語は素晴らしいと口を揃えて賞賛するので、水林先生のフランス語を話している様子が収められた動画をYouTubeで見せてもらった。

www.youtube.com

 正直にいって、狼狽えるほど驚いた。これほどフランス語の発声がうまい日本人は他に知らない。もちろん、幼少期にフランスに住んでいたためにネイティブレベルでフランス語を操ることのできる日本人は数え切れないほどいるだろう。しかし、彼にいたっては、19歳ではじめてフランス語を学びはじめた(parler des premiers mots en français)というのだ。この動画を見たわたしは、全編フランス語で執筆され、日本人として唯一アカデミー・フランセーズにより文学賞を授与されたという"Une langue venue d'ailleurs"をインターネットで注文してすぐに読みはじめ、そしてものの数日で読み終えてしまった。

 

 彼は本作のなかで、みずからの人生を赤裸々に語っている。両親について、幼少期について、フランス語とのはじめの出会い、留学先であるモンペリエに発ちはじめてフランスの土地を踏んだこと、生涯の伴侶となるミシェル夫人との出会い、修論や博論の執筆について、フランスの大学で出会った数々の教授たち、娘の多言語教育について…。もちろん、わたしのようにフランスやフランス語について興味を抱いているひとが読むべき本のひとつであるように思うのだが、一方で、たとえば外国語を習得するということに関心がある者にとっても、非常に示唆に富んだ本であるように思う。邦訳が出ていないのが惜しい。わたしは、以下でいくつかの感想を記しておこうと思う。

 

 

 "le français est ma langue paternelle.(フランス語はわたしの〈父語〉である)"と氏はいう。これは "langue maternelle"、すなわち母語を意味することばに対置された造語である。日本で生まれ育ってきた水林章にとっての母語は、まぎれもなく日本語である。これに対して、フランス語は「父語(父性語)」であるという。本作のなかでたびたび語られる父の影響によって、水林氏は知らず知らずのうちにフランス語へと導かれてきた。そこには幼少期の音楽体験が大きな役割を占めているのだが、ここでは詳述は避けておこう。ともあれ、そのような父の存在を多少なりとも意識しつつ、水林氏はかかる造語を置いたのである。

 だが、わたしはそのような彼の父とのあいだの属人的な体験を抜きにしても、後天的に獲得した言語のことを〈父語〉と表現することに、いくらかのシンパシーを感じたことを告白しなければならない。世界に多々ある言語のなかから、なんらかの理由によって、みずからの意志でひとつを選択し、その言語を能動的に習得せんとする ―― そのような言語は、幼少期に受動的に習得する言語とは、明らかにその出自を違えている。そこには、圧倒的な能動性/主体性が求められるといえよう。そのような能動性は、父と子との関係性にしばしば認められるのではないだろうか? わたしはそのような私感をもったのである。

 氏も次のように述べている。

"Ce n'est pas parce que je suis né dans ce pays, de parents japonais, que je dois demeurer japonais pour toujours. Il est vrai que j'ai le sentiment d'être soutenu au plus profond de mon être par ma langue d'origine ; mais il n'en reste pas moins que je me détache avec un plaisir certain de mon territoire primitif. Je m'arrache volontiers à ce formatage initial et prédéterminé qu'est ma nature japonaise." (p.260)

 「わたしが日本に、日本人の両親のもとに生まれたということは、わたしが生涯にわたって日本語を基軸とすべきこととはなんら関係がない」。もちろん、母国語によってわたしたちのもっとも深い部分が――いわばアイデンティティが――形成されていることは否定のしようがないだろう。だがそのことは、ある能動性のもと、あえて母国語からの離脱を試み、べつの言語を自らのものとしようとすることを妨げるわけではない。水林章のように、フランス語という世界に主体的に近づき、それまでの自らの〈世界〉を積極的に編み変えてゆくことは可能なのだ。

 

 水林章は、日本という場所から出たい、〈他者〉になりたい、という欲望を抱えたまま(たとえば幼少期には、「演じる」ということに熱を上げていたそうだ)、フランス語と出会った。氏がかほどまでにフランス語に情熱を注ぐようになったきっかけとして、いくつかのことが挙げられている。それは、語の音楽性であり、森有正の『遙かなノートルダム』であり、他のさまざまなフランス文学である。

 しかし、水林青年をフランス語の世界に決定的に導いたのは、モーツァルトであり(とりわけ『フィガロの結婚』におけるスザンヌという名の女性であり)、またジャン=ジャック・ルソーである。モーツァルトとルソーという二人の18世紀を代表する表現者たちについての思索は、本作において至るところに披露されており、非常に興味深い論が展開されている。べつのところでも記されていたが、近代の端緒となった18世紀のフランスの根幹にあるものを明らかにしたいという欲望によって、四十年近くに及んだフランス語という言語とともにあり続けてきた彼の生は突き動かされてきたのである。

 

 さて、二者に導かれるようにして、水林青年はモンペリエに二年にわたって留学することになる。大学の一年目を終え、数ヶ月の夏休みが与えられる。留学生の多くは、母国へ帰国したり、あるいはフランスやヨーロッパの地の観光へと旅立ってゆく。だが、彼はモンペリエに残り続けることを選ぶ。その決断について、以下のように述懐する。

"Je vivais, oserais-je le dire, dans la fraîcheur virginale des noces célébrées entre moi et Montpellier. Je tenais à cultiver cette familiarité naissante avec mon environnmenet urbain immédiat, la développer, la façonner à mon gré, pour que l'espace alentour devienne enfin mon espace à moi. Je voulais m'enraciner, creuser mon existance le plus profondément possible, là où je me trouvais. "(p.137)

  モンペリエという地に、自らの存在を、なるたけ深く根づかせたい。彼を取り巻く土地との親密さをさらに育み、その地が〈みずからの場所〉となるまで仕立て上げたい、と彼はいうのである。わたし自身、フランスに留学するにあたって、似たようなことを考えていた。というより、東京という土地と不可分で育ってきたわたしは、その土地とどれくらい断絶できるか、ということを考えていたのだ。

 もちろん、いくらフランス語を流暢に運用できるようになろうと、どれほど長くフランスに滞在し、フランスの文化を知悉しようと ―― さらにはフランスの国籍を取得したとしても ―― 日本人であるわれわれは、フランス人になれるわけではない。どこまでいっても、異邦人であることは変わりがないし、日本人であること――少なくとも「日本人であったこと」――は捨て去ることができない。また、氏が本作において記しているように、「フランス語によって育てられていないこと」の影響は、後天的な学習者がいくら努力を重ねようと、どこかにかならず蹄を残してしまう。

 

 だが、わたしの目には、水林章は、そのような試みをもっとも高次において達成してしまっている人物であるように思えてならない。どうしようもなく結び付けられてしまっている「日本」から、なるべく遠くへと主体的に発つこと。そのためには、まずは日本語という言語から離れ、他の言語において、母国語と同等の思索を重ねられるようにしなければならない。本作をフランス語で著し、フランスで成功を収め、冒頭で紹介したように驚くほど美しく流暢なフランス語を話す水林章という人物は、〈他者〉になりたい、〈ここではないどこか〉に根を下ろすという欲望を、みずからの力で達成してしまった。わたしの羨望と憧憬と嫉妬の起源は、このことに求められるように思う。

"Le jour où je me suis emparé de la langue française, j'ai perdu le japonais pour toujours dans sa pureté originelle. Ma langue d'origine a perdu son statut de langue d'origine. J'ai appris à parler comme un étranger dans ma propre langue. Mon errance entre les deux langues a commencé... Je ne suis donc ni japonais ni français."

 わたしの目には、当初の目論見を彼は達成したように映っているのだが、彼としてはどうやら異なるようである。彼はみずからを「フランス人にはけしてなれない」としつつも、「日本人ですらない」という。母語である日本語は、フランス語に心を奪われたときから、その母語としての純粋な地位を失い、彼は異邦人のように日本語を話すことを学んだ。他者になりたい、日本ではない場所に根を下ろしたいと願っていた彼は、最後にはどの土地においても異邦人であるということ 〈異邦性 étrangéité〉 ―― を自覚し、獲得したというのである。彼はつねに〈外側 hors de place〉にいるように感じるようになった、と。

 しかしながら、その〈外側 hors de place〉あるいは〈非-場所 non-lieu〉こそが、彼が日本語とフランス語という二つのことばにアクセスしうる地点である。その〈異邦性 étrangéité〉こそが彼にとっての新たなアイデンティティである。外側 ailleurs からもたらされたフランス語は、原初的に備わっている日本語とともに共存するようになり、いまでも彼は自在にそのあいだを行き来している。第二言語との付き合いかたの理想形がここにあるのである。

 

 

 さて、この調子でいくらでも書けそうなのだが、書き終わる気配がないので、いくつかわたしの気に入った箇所を引用して、すでに長くなりすぎてしまったこの文章を閉じようと思う。

"Ne suis-je pas un étranger dans ce pays ? me demendai-je. Ne suis-je pas extérieur aux limites territoriales de ce pays ? Pourquoi alors me choisit-il parmi mille autres individus ?"(p.95)

  モンペリエに着いて間もないころ、明らかにアジア人の外見をしている水林章に、フランスの青年は時間を尋ねる。日本では、起こりそうもないことだ。なぜ幾千もの道ゆく人々のなかから、異邦人である〈わたし〉を選んで時刻を尋ねたのか。このような経験から発せられる問いは、フランス滞在中においてわたし自身も立てた問いのひとつである。いくつかほかの国々を旅行したときにも似たような経験をしたので、フランスを主語にして語るのは危険だろうが、日本との対比のなかで思索を開始すると非常に興味深い問いであろう。

 

 モンペリエにおいて「明け方のまだ星空の出ている空のもとを大学に向かって歩いていると、奇妙な気分に陥った」という記述があった。これもわたしは大きな共感をもって読んだ。一方で、フランス人にはなぜこれが奇妙になるのかわからないことだろう。フランスでは日照時間が異なる――というよりも、日の入/日の出時間が日本よりもそれぞれ遅いために、朝の授業に出席するべく通学するときもまだ辺りが暗いということがたびたびあった。日本では、この感覚を得るためには相当早くにでなければいけず、「通学」という日常的な生活のなかでは、滅多にこのような状況に出くわすことはないだろう。わたしも、暗がりのなかを校舎へと向かって歩いていたことを思い出す。時間があれば、朝から開いているカフェに立ち寄って、エスプレッソを飲んで目を醒ましながら、一服するという至福のときを過ごしていた。

"Nous passâmes ainsi quelques moments d'une délicieuse complicité autour d'une tasse de thé vert. En moi, des mots d'amour étaient sur point de naître, non pas dans ma langue mais dans sa langue à elle que je m'efforçais de faire mienne, et que j'avais le plaisir de vous s'accroître et se développer de jour en jour."(p.147) 

  モンペリエで出合い、そして後には生涯の伴侶となることになるミシェルとの緑茶を飲む瞬間。まったくもって美しい描写で綴られている。うっとりするような瞬間だ。

 "Dans un cas comme dans l'autre, la parole de l'étrangère apparaît comme une parole neuve, virginale et authentique. Il s'agit certes d'une parole maladroite, fautive même, mais lourde de sens et infiniment persuasive dans une situation d'énonciation liée à la mort ou à la naissance : une parole vraie, articulée à mille lieues du souci de la correction."(p.239) 

 ミシェル夫人とともに日本に帰郷し、しばらく経ったころ、彼の父の死に際して、夫人が文法的に正しいとは言えない日本語でことばをかけた。なんとか外国語で意を相手に伝えようとすること。そのときに生まれることばは、確かに不器用で、訂正の余地はいくらでもあるかもしれない。だが、それは何よりも強いことばであり、本当のことばであるにちがいないと感じた、と。まさしくそうであるな、と強く同調したい。

"Autant de situations, autant de visages, autant de mots entendus. Feuilles verbales volantes que j'ai attrapées et qui se sont gravées dans ma conscience d'une manière indélébile."(p.241) 

 フランス語の単語や表現をひとつとっても、そのうちにこれまで遭遇してきた数多くの状況や、ひとびとの顔やことばたちが思い起こされる。ことばを学ぶということは、すなわちそのことばを話す他者から盗みを働くということでもある。言語の習得はすべてそうであることは間違いないのだが、幼少期は過ぎ去り、後天的に習得を試みている以上、わたしたちは盗みを意識的に働いてみせる。他者が話しているのを聞くことで、自らの過ちを知り、新しいことを学び、それらをおそるおそる自らの口で発してみる。その過程のなかには、さまざまな〈顔〉との出会いがあったはずなのだ。

"Il y a, et on le conçoit, des peuples sans écriture, mais pas d'êtres humains sans parole. Cependant, en ce qui me concerne, moi en tant que locuteur en français, j'ai toujours eu le sentiment que l'écriture précédait la parole..."(p.243)

  一般的には、パロールは、エクリチュールに先行するといわれる。なぜなら、文字をもたない民族は存在するが、ことば(パロール)をもたない民族はひとつとして存在しないからである。だが、後天的に言語を学んだフランス語話者としての水林章にとっては、エクリチュールパロールに先行するような感覚がある、という。記された文字をとおして彼はもっともフランス語を受容したからであろう。この主張も大いに頷ける。彼の経験ともまた異なることではあるだろうが、わたしは、Facebookメッセンジャーにおけるメッセージを通して、もっともフランス語が上達したかもしれないなと感じている。

 

 言語への興味は尽きない。ここに記したさまざまなテーマについて、それぞれをもっと展開できるような気がする。また機を改めて書きたい。とりあえずは、水林青年を決定的にフランス語へと導いたもののひとつであると紹介されていた、森有正『遙かなノートルダム』を読み進めようと思う。この書籍についても、気が向いたら筆を執ることとしよう。