モランディの作品の実物をまともに見たのははじめてだったが、すっかり恋に落ちてしまい、春にはイタリアを旅行した際、たまらずボローニャの Museo Morandi に足を運ぶまでだった。ただ、まだ東京のモランディ展は会期中であり、ほとんどの作品は貸付されていて本場の美術館はたいへん淋しくなっていた。そんなことは、すこし考えればわかることである。所蔵作品がほとんどなくなっているモランディ美術館に行くぐらいなら、画家が生涯の大半離れることはなかったというフォンダッツァ通りの生家を覗いてみるべきだった。自分の頭の悪さに苛立つ。
モランディ美術館然り、海外の美術館にはいくつか足を運ぶことができた。ボローニャでは、モランディ美術館はMAMbo(Museo d'Arte Moderna di Bologna)と呼ばれる現代アートの美術館と併設されており、そちらのほうもちらりと覗いた。時間がなかったので観るのは叶わなかったのだが、ちょうどパゾリーニの企画展が組まれていて、それもおもしろそうだった。そのほかのイタリアでいえば、フィレンツェのウフィツィ美術館(Galleria degli Uffizi)、ヴェネツィアのアカデミア美術館(Gallerie dell'Accademia)に足を運んだ。ヴェネツィアのアカデミア美術館は、ヴェネツィア訪問3度めにしてようやくの訪問となった。ウフィツィの天井画がいちいち素晴らしく、わたしはしきりにカメラを天に向けて撮っていた。もちろん、ウフィツィやアカデミアなど、一度足を運べばいいものではない。イタリアに行くたびに、訪問を検討することになるはずである。
ギュスターヴ・モロー美術館は、パリ9区、サントトリニテ教会(Église de la Trinité)からサンラザール通りを東に歩き、小さな路地に入ったすぐの場所にある。これがまったく愛すべき素晴らしい美術館で、もともとは画家の邸宅だったのだが、死後に本人が所蔵していた作品とともに国へと寄贈されたようだ。モローの作品は、これまでいくつかの作品を別の場所で見たことがあったが、これほど豊潤なコレクションを惜しげもなく、所狭しとひとつひとつの部屋に並び立てている展示の様子には大変な感銘を受けた。モローの作品は、ホワイトキューブにうやうやしく飾り立てられるよりも、いくらか猥雑な場所での展示によってこそ真価を発揮するのではないか。そのように思わされたのである。
わたしはこの文章を読んださい、ただちに先に述べたギュスターヴ・モローの手による《ジュピターとセレーヌ(Jupiter et Sémélé)》と対面したときの経験を思い起こした。森有正の経験の内実はわからない。だが、それはわたしの経験のそれと近しいものであったのではないだろうか。「古代の人はこういう事態に美、イデア、フォルムなどの名を命じたに相違ない」と彼は書き留めている。美の経験とは、ひとつの崇高性の経験にほかならない ―― 美とは欲望の対象であり、同時に近づきがたさなのだ。そうした美の立ち姿が、〈聖なるもの〉に転移してゆくのは当然のことである。わたしはモローの絵画にそう教えられた気がした。
映画にとって見つめ合う瞳を撮ることは原理的に不可能である、と述べたのは蓮實重彦だった。かかるテーゼを意に介さぬかのように、このフィルムは執拗にキャロルとテレーズというふたりの女性の視線の交錯を描き出していく。彼女たちの視線がぶつかることによってはじめて、この愛の物語は走り出してゆくのだ。だが、愛の萌芽を視線の交錯に求められたとしても、それだけでは愛を描き切ったとはいえまい。パーティを抜け出したテレーズがキャロルを見つけたあと、愛する者のほうへと確かな足取りで歩み寄ってゆくシーンで、このフィルムが幕引きとなったことを憶えているだろうか。かくして彼女たちの困難な愛はひとつの達成を見るのである。わたしは、"What a strange girl your are... Flung out of space."とキャロルがテレーズへと語りかけて微笑むシーンの艶やかさにいまだに囚われている。
正直にいって、狼狽えるほど驚いた。これほどフランス語の発声がうまい日本人は他に知らない。もちろん、幼少期にフランスに住んでいたためにネイティブレベルでフランス語を操ることのできる日本人は数え切れないほどいるだろう。しかし、彼にいたっては、19歳ではじめてフランス語を学びはじめた(parler des premiers mots en français)というのだ。この動画を見たわたしは、全編フランス語で執筆され、日本人として唯一アカデミー・フランセーズにより文学賞を授与されたという"Une langue venue d'ailleurs"をインターネットで注文してすぐに読みはじめ、そしてものの数日で読み終えてしまった。
"le français est ma langue paternelle.(フランス語はわたしの〈父語〉である)"と氏はいう。これは "langue maternelle"、すなわち母語を意味することばに対置された造語である。日本で生まれ育ってきた水林章にとっての母語は、まぎれもなく日本語である。これに対して、フランス語は「父語(父性語)」であるという。本作のなかでたびたび語られる父の影響によって、水林氏は知らず知らずのうちにフランス語へと導かれてきた。そこには幼少期の音楽体験が大きな役割を占めているのだが、ここでは詳述は避けておこう。ともあれ、そのような父の存在を多少なりとも意識しつつ、水林氏はかかる造語を置いたのである。
"Ce n'est pas parce que je suis né dans ce pays, de parents japonais, que je dois demeurer japonais pour toujours. Il est vrai que j'ai le sentiment d'être soutenu au plus profond de mon être par ma langue d'origine ; mais il n'en reste pas moins que je me détache avec un plaisir certain de mon territoire primitif. Je m'arrache volontiers à ce formatage initial et prédéterminé qu'est ma nature japonaise." (p.260)
"Je vivais, oserais-je le dire, dans la fraîcheur virginale des noces célébrées entre moi et Montpellier. Je tenais à cultiver cette familiarité naissante avec mon environnmenet urbain immédiat, la développer, la façonner à mon gré, pour que l'espace alentour devienne enfin mon espace à moi. Je voulais m'enraciner, creuser mon existance le plus profondément possible, là où je me trouvais. "(p.137)
"Le jour où je me suis emparé de la langue française, j'ai perdu le japonais pour toujours dans sa pureté originelle. Ma langue d'origine a perdu son statut de langue d'origine. J'ai appris à parler comme un étranger dans ma propre langue. Mon errance entre les deux langues a commencé... Je ne suis donc ni japonais ni français."
わたしの目には、当初の目論見を彼は達成したように映っているのだが、彼としてはどうやら異なるようである。彼はみずからを「フランス人にはけしてなれない」としつつも、「日本人ですらない」という。母語である日本語は、フランス語に心を奪われたときから、その母語としての純粋な地位を失い、彼は異邦人のように日本語を話すことを学んだ。他者になりたい、日本ではない場所に根を下ろしたいと願っていた彼は、最後にはどの土地においても異邦人であるということ 〈異邦性 étrangéité〉 ―― を自覚し、獲得したというのである。彼はつねに〈外側 hors de place〉にいるように感じるようになった、と。
しかしながら、その〈外側 hors de place〉あるいは〈非-場所 non-lieu〉こそが、彼が日本語とフランス語という二つのことばにアクセスしうる地点である。その〈異邦性 étrangéité〉こそが彼にとっての新たなアイデンティティである。外側 ailleurs からもたらされたフランス語は、原初的に備わっている日本語とともに共存するようになり、いまでも彼は自在にそのあいだを行き来している。第二言語との付き合いかたの理想形がここにあるのである。
"Ne suis-je pas un étranger dans ce pays ? me demendai-je. Ne suis-je pas extérieur aux limites territoriales de ce pays ? Pourquoi alors me choisit-il parmi mille autres individus ?"(p.95)
"Nous passâmes ainsi quelques moments d'une délicieuse complicité autour d'une tasse de thé vert. En moi, des mots d'amour étaient sur point de naître, non pas dans ma langue mais dans sa langue à elle que je m'efforçais de faire mienne, et que j'avais le plaisir de vous s'accroître et se développer de jour en jour."(p.147)
"Dans un cas comme dans l'autre, la parole de l'étrangère apparaît comme une parole neuve, virginale et authentique. Il s'agit certes d'une parole maladroite, fautive même, mais lourde de sens et infiniment persuasive dans une situation d'énonciation liée à la mort ou à la naissance : une parole vraie, articulée à mille lieues du souci de la correction."(p.239)
"Autant de situations, autant de visages, autant de mots entendus. Feuilles verbales volantes que j'ai attrapées et qui se sont gravées dans ma conscience d'une manière indélébile."(p.241)
"Il y a, et on le conçoit, des peuples sans écriture, mais pas d'êtres humains sans parole. Cependant, en ce qui me concerne, moi en tant que locuteur en français, j'ai toujours eu le sentiment que l'écriture précédait la parole..."(p.243)