「単色のリズム 韓国の抽象」―― 空間そのものの穏やかな美しさについて

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 会期終了間際に東京オペラシティ「単色のリズム 韓国の抽象」に滑りこんだ。オペラシティのアートギャラリーはいつも落ちついた雰囲気があって、のびのびとできるので偏愛している(とはいえ、「梅佳代展」とか、「篠山紀信展 写真力」はだいぶ混んでいたな)。企画展も毎回絶妙な加減で懐についてくるものばかりだ。とくに今年の片山正通の展示は行こう行こうと思いつづけて結果的に逃していたので、年の瀬にふたたび後悔が襲ってきている。

 「単色のリズム 韓国の抽象」も、ポスターを見たときにこれはいくしかないな、と直感的に思った。わたしは抽象画はあまり好きではないので、なぜそのように思ったのかはよくわからない。いまひとつ言えるのは、自分の直感は正しかった、ということである。 ああ、ほんとうに素晴らしかった。今年ベストの展示のひとつに挙げたい。

 

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権寧禹/KWON Young-Woo 《無題》

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権寧禹/ KWON Young-Woo 《無題》 1982

  本展は1970年代から90年代にかけて韓国内外で活躍した、韓国の19人のアーティストを紹介している。それぞれの作家の作品が数点ずつ展示されているのだが、「単色のリズム」という標題からもわかるとおり、シンプルな色彩からなる、きわめて静謐な抽象画が並ぶ。そのうちの多くには、たとえば上に挙げた権寧禹の作品がよく示しているように、マチエルそのものへの興味が見てとれる。本展の挨拶文には、動乱の時代のなかにあった作家たちの自国のアイデンティティの希求の衝動が作品に洗練した形で結実しているとあったが、それはかれらが韓紙(日本でいう和紙のようなものらしいのだが、和紙とのちがいはなんなのだろうか)を積極的に用いているという事実からもわかるだろう。

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朴栖甫/PARK Seo-Bo 《描法》

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鄭相和/CHUNG Sang-Hwa 《無題 91-3-9》, 1991. 《無題 90-1-12》, 1990.

  しかし、わたしはそれ以上に個別の作品について踏み込んで論ずるすべを持ちあわせていない。そもそも、かの作品群自体がことばを求めていないように思えるのだ。すべてが言語化されるのを拒絶するような、屹立とした美しさを湛えており、そこには非常におもしろい非言語的なリズムが生まれている。

 そのような印象は、会場設計によっても助長されている。というのも、作家名や作品名を紹介する小さなパネルはあれど、作品を解説するようなキャプションは展示会場からは排されているのである。来場者は、受付で配布されるハンドブック(小さな愛すべき意匠のハンドブック!)に記された解説を思い思いに読みながら、ひとつひとつの作品に対峙する。その空間の心地好さといったら筆舌に尽くしがたく、一方では「怖い絵展」のようなキャプション – 情報過多の在りかたとは対照的であった(もちろんわたしは「怖い絵展」を批判するつもりはさらさらなく、あのような展示は意義深いものであるとは思っている)。

 

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崔恩景/CHOI Eun-Kyoung 《Beyond the Colours #14》, 1992

  わたしの受けた感動は、こういってよければ、作品そのものに起因するというよりは、作品が主体的にリズムを形成しているような空間における居心地の好さであったというほうが近い気もする。わたしはつぎの部屋に移動するたびに、そのような空間の美しさにうっとりした。およそ一切の言葉を排した、ミニマルな空間性。もちろん、空間に付随して、時計の針がゆるやかに刻んでいるような、あの時間性も然りである。もしハイデガーがこの展示を訪れたら、このような時-空(Zeit-Raum)にこそ、存在のひらけの場(Lichtung)が生ずるのだ、とでもいうのではないか(という牽強付会)。

 

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丁昌燮/ CHUNG Chang-Sup 《黙考》

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丁昌燮/ CHUNG Chang-Sup 《楮(Tak) No.87015》, 1987.

 おそらく、猥雑な空間に脈絡もなく作品が置かれた場所で、同一の作品を見たとしても、わたしはさほど感銘を受けなかっただろう。美術作品の鑑賞には、当然のことではあるが、その作品のおかれている環世界の在りかたが重要な位置を占めている(作品とその空間の相関性を論じたすぐれたテクストをご存知の方がいたら、ぜひ教えていただきたい)。 おだやかで静謐な空間を演出することに成功していた本展は、そのような相関性の格好の例証であるといえよう。まったく素晴らしい企画展であったと思う。

 

 ―――

 一度文章を書き上げて、公開ボタンを押したら、システムのエラーですべて文章が消えてしまった。そのためふたたび書き直した次第である。展示について思い起こしながらおだやかな気持ちになっていたところにこの仕打ちを受け、湧き上がる忿怒を抑えつけながら書き直す羽目に陥った。寝よう。

 

ピーター・チャン『最愛の子』―― 群像劇といううっとうしさの克服

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 気が向いたので書く。

 ピーター・チャン監督の『最愛の子』(2014)を観た。2016年の年始にこの映画も劇場公開されていたようなのだが、わたしのアンテナでは中国映画が引っかかることはあまりなく、表題には見覚えがあるようなないような、というおぼろげな記憶しか残っていない。このあいだ中国映画に造詣の深い知り合いのおじさんにおすすめしてもらって、さっそくNetflix で観た(おじさんの存在価値とは、博識であるということにしかないのではないか? とはべつに思っていません)。

 

 ――― いやはや、傑作だ。こんな傑作が引っかからなかったわたしのアンテナの偏狭さを積極的に呪いたい。いつぶりにこれほど濃密な群像劇を観ただろうか? わたしはこの映画を観ながら、ときには息子の行方を血眼になってさがす父であったし、再会した息子との距離感をつかめない母であったし、あるいは仲間の奇蹟を素直に喜ぶことのできない酔っ払いでもあれば、何もかもを失いかけてしまっているもうひとりの母でもあった。めいめいの視点と同じ高さで世界を捉え、めいめいの心の機微が手に取るようにわかる。そのような濃密な群像劇。

 群像劇というものには、ある種のうっとうしさがある。代わる代わる去来する人物たちのなかには、わたしたちが感情移入することのできる者もあれば、そうでない者もいる。後者の視点で紡がれる物語にはかならずしも共感することができない。視点の複数性には、思惑の複数性ーーひいては対立を招く――という情況がつきものだからだ。ときにかれらの存在は、わたしたちのお気に入りの登場人物の幸福を阻むように働いたりもする。そういう存在にただただ他人というレッテルを張って自らの外部に置くという作業が一筋縄でいかない群像劇は、どこかうっとうしいのだ。

 

 この映画にも、まさしく思惑や価値観の対立がある。子どもの誘拐というシリアスな主題のもと、(誘拐者本人は他界しているという設定とはいえ)子どもを誘拐する側、誘拐される側の両者の視点を行き来しながら、物語が進行する。しかし、司法においては被害者と加害者という単純な二項対立図式は取り出せても、かれらの関係性はかぎりなく微妙になっていく。その中心には、ひとつの共通項として、同一の子どもへと注がれる愛がある。自らの愛は、絶対的なもので、自分こそが子どもをもっとも愛しているにちがいない。その確信が揺らいでいく。いや、愛の優劣はひとえに判断できない、とわたしたちが徐々に学んでいく物語なのである。

 捜しつづけていた息子ポンポンとの再会は、すでに新たな母との日々によって塗り替えられてしまっていた。そのことに絶望して階段の踊り場で父が泣き崩れる瞬間。ふたたび「母さん」と呼ばれる日を夢想する産みの母が、幾年ぶりに息子ポンポンの手の感触を味わい歓喜と感涙の押し寄せる瞬間。奇跡的に息子を取り返した仲間の姿を目の当たりにして、どこかで妬みを感じてしまっている男がひとりで泣き崩れる瞬間。実父に抱かれて眠るジーガンの姿を前に、なんとか絞り出した「桃は食べさせないで」という育ての母の科白に、かつての自分の姿を重ねながら去っていく実父の後ろ姿。

 

 ああ、思い出すだけで泣きそうになってしまう。中国では社会問題となっている子どもの誘拐の話をフィクションに昇華させた本作は、 その見事な脚本にいくらか狼狽えたほどであった。それぞれのむずかしい心境を演じきった俳優たちも素晴らしい。ホアン・ボーという主人公に扮した演技派俳優も、非常に素晴らしい顔をしていたし、なによりヴィッキー・チャオの迫真の演技である。むずかしい役どころを見事にこなしていたように思う。彼女でなければ、あの役どころに説得力を持たせることはできなかったのではないか。

 行方不明児を探す会の代表を務めているハンさんの顔はどこかで見覚えがあるな、と必死に思い出そうとしていたのだが、IMDbで答え合せをしてようやくわかった。ジャ・ジャンクー『山河ノスタルジア』に出ていた、あの父親である。あの映画で、若りし頃の軟派な青年を演じていたときの記憶が引きずっていたのか、どこかに違和感があったのだが、それでも非常にいい役者であるのは間違いない、と思った。

 

 中国映画、もっと観たいかぎりであります。 

その霧の曖昧さを肯定するか ―― カズオ・イシグロ『忘れられた巨人』読書会レポート

 イギリスでは、カズオ・イシグロノーベル文学賞受賞のニュースはさして報道されなかったそうだ。かつてノーベル文学賞を獲ったイギリス人作家も同様だったようである。というのも、イギリスでは、ブッカー賞のほうが権威があるので、ノーベル文学賞にはさして大衆の関心が払われないらしい。ナショナル・アイデンティティを保持するためには、異国でさわがれているようなものに依拠する必要はなく、ただ自分たちの連綿とつづく歴史のうちに求めればいい、ということか。
 そのようなイギリスという大国の在りかたは、わが国の態度とは天と地の差である。ただ出自の国がそうであるからというだけの理由で、カズオ・イシグロのニュースをあたかも自国の国際的評価が上がったとばかりに狂ったように報道しつづけ、書店にいけば文庫版がずらりと平積みされている。わたしたちは依然として西洋の価値観を借り受けなければ自己肯定をすることができないのだ。とはいえ、なにがしの不倫騒動やお相撲さんの小競り合いをニュースで延々と聞かされるよりはよほどいいし、これを機にカズオ・イシグロがより広範な読者のもとに届くのは素晴らしいことである。
 
 最近まですっかり忘れていたのだが、二年前に友人たちで集って、カズオ・イシグロ忘れられた巨人』の読書会を開催した。ほんとうに暇なことに、わたしたちはそのあとレポートなるものをつくっていたのだが、どこにも公開していなかったので、ひっそりとここに置いておく(参加者に許可取っていない!)。こういうレポートをつくるまでの熱量と時間をもつことはできなさそうだが、ぜひにふたたび読書会はやりたいものです。
 

松岡茉優さん、あるいは単一か複数かの問い ―― 大九明子『勝手にふるえてろ』

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  快哉を叫びたくなるほどの傑作だ。いったいどれだけ生気に満ち満ちているだろう。この映画に流れる時間は、松岡茉優という女優のもつはちきれんばかりのエネルギーによって満たされている。オカリナ(片桐はいり)が玄関先でヨシカをひと目見てつぶやいた言葉は正しい。彼女には「後光が差している」。然り、そうとしか言いようがない。わたしは120分ものあいだ、ひとときも彼女から目を離すことができなかった。神々しい、神々しいのである。

 彼女は〈こじらせ女子〉という手垢のつきすぎた表象にあえて乗っかりながらも、つねにそこからはみ出し、逸脱していく。その逸脱こそが〈こじらせ〉の原初的な在りかたではなかったか。彼女の横溢していくエネルギーを目の前にして、わたしたちは畏怖の念のもと〈こじらせ女子〉と命名する。そのようなラベルを貼っておかなければ、彼女はあまりにも危険で、あまりに魅力的すぎるのだ。

 ああ、この映画の松岡茉優はどれほど褒めても褒めすぎることはない。筆が止まらない。わたしは銀幕の女優としての彼女の存在をどれほど知っていただろうか。本作をもって初主演ということらしいのだが、わたしにとっては彼女にまつわる映画の記憶は『桐島、部活やめるってよ』にとどまっていた。あのときの演技もけして悪かったわけではないが、かくも紙面を割きたいと思わせるほどの屹立した輝きは湛えていなかったように思う。この数年間の隔たりの彼女の化身はなんなのか(そもそも顔が変わってない?)。わたしはさほどテレビを観ない人間なので、テレビでは引っ張りだこらしいこともあまり知らなかった。たしかに彼女の姿を街中のポスターで頻繁に見かけるようになった。もっと映画の世界に進出してきてほしい、とわたしは切に願っている。ヨシカという強烈なキャラクターに引きずられることなく(「ヨシカ」的なるものはふたたび見たいものの)、これからも松岡茉優のどこまでも自由で多様な姿を見せてほしい。
 
 
 以下、松岡茉優さんの魅力に比べればどこまでも蛇足にすぎない主題をめぐる走り書き。
 
 いちたすいちをイチとするか、いちたすいちをニとするか。どこか鼻につくしゃべり方の留守電のオペレータが「このメッセージを消去する場合は1を、保存する場合は2を」という。このような二者択一の問いは、次のようにもパラフレーズされうる。世界は単一であるのか、複数であるのか、と。
 オカリナ(片桐はいり)はまたしても正しいことをいっていた。「名前に支配された人生なんです」*1。名前がこの映画的世界を支配する ―― つまり、「イチ」を取るか、「ニ」を取るかというヨシカに与えられた選択肢は、閉じられた単一的な世界を取るか、複数性に開かれた世界を取るかという問いの変奏である。どういうことか。
 

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 〈イチ〉とのセカイ。それは中学時代に人知れずヨシカが描きつけていた『天然王子』の漫画のなかの閉じられた世界である。「猫じゃらし」みたいなイチは、クラスメイトから弄られつづけているが、わたしだけが彼を解放してあげることができる、とヨシカはひそかに思っている。生き物としての気配を消すことによって培われた、イチを見つめつづけた「視野見」の技術。

 二人は「遅刻しません」の羅列のなかにひとつだけ紛れている「遅刻します」という頼りない文面によって繋がっている。あるいは「こっち見て、俺を見て」というイチのひとことによってヨシカの想いは支えられている。10年経ったいまでもヨシカの片想いはとどまることを知らない。バスで隣に座るおばさんや、駅員や、釣り人や、特徴的なコンビニ店員に、こじらせ妄想話をくっちゃべる。あらゆるシチュエーションで「イチが好き!」と叫んでしまう。ヨシカはニとのデート中でさえも、星の連関にイチの顔をおもむろに見出すのである。そう、ヨシカには世界が見えていない。いや、ヨシカにとってのセカイがイチに埋め尽くされている、というべきだろうか。
 
 留学したクラスメイトを騙って開催した同窓会を経て、めぐりめぐってヨシカの目論見は成功を収め、都内のタワーマンションのテラスでイチとことばを交わすひとときを得る。二人は、絶滅した動物の話で盛り上がる。イチは出し抜けにヨシカにこういう。「君と話すの不思議。自分と話してるみたい」。この違和感の否めない唐突な科白は、俺と君が等号によって結ばれてしまった、ヨシカとイチの二人だけの閉じられたひとつのセカイの在りかたを証している。君だけが俺を見てくれなかったから、君には俺を見ていてほしかった。俺と君、私とイチだけの閉じられた世界。いわゆる〈セカイ系〉である。
 
 つまり、イチを想い続けた10年間は、どこにも行き着くことのない閉じられた円環にすぎなかったのだ。イチはヨシカの名前を知らない。なぜなら、君は俺であり、俺は君であるのだから、名前などそもそも必要とされていないのだ。ヨシカだって、バスで隣に座るおばさんや、駅員や、釣り人や、特徴的なコンビニ店員の名前を知らない。いつも親しげに話しているかれらとのひとときは、すべて彼女の妄想にすぎなかった。必要なときに彼女の妄想の聞き手になってくれるような、都合のいい代替可能な存在でしかない。ヨシカとセカイのあいだにはあらかじめ限界線が引かれていて、彼女はその線を踏み越えることができない。イチとのセカイは、結局のところ、アンモナイト的なぐるぐるのうちに閉じられた俺と君の単一的なセカイにすぎなかったのである。
 
 

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 〈ニ〉との世界。かれらは同窓会の日に、ニの鮮やかな謀略によってすぐにLINEでつながってしまう。「江藤さんの行きたいところに行きませんか」というニの誘いに対して、ヨシカが連れていったのは、彼女がいつもヘッドホンで聴いているテクノがかかるクラブである。ヨシカは弁明する。ひとりでいく勇気はなかったから、ニとの行く先に設定した、と。ここではイチとの世界で引かれていたはずの境界線を、ニの助けを借りることで、一歩踏み越していると指摘できるだろう。
 その夜、ヨシカは混沌を極めているラブホ街で告白される。彼女はとまどいながらも、告白された歓びに胸を躍らせる。カオスで醜かったはずの現実が、ぱっと美しく輝きはじめる瞬間。ニの無理やりなヨシカのセカイへの介入によって、世界が別様に見えてくる瞬間。その瞬間にヨシカは高揚を抑えることができない。
 
 ヨシカとニはじつにいろいろなところにいく。会社内外、クラブをはじめとして、なぜかクリスマスの真冬のなか奥多摩で釣りをし、タワーマンションの下でもばったりと遭遇する。居酒屋でおっさんたちに囲まれたり、休日の公園でピクニックをしたり。そのロケーションの多様性は ―― すぐに中学時代の回想へと向かってしまうイチとの関係性とは対照的に ―― ニとともにある、世界へのひらかれた在りかたについての傍証となるだろう。
 
 しかし、決定的なのはラスト・シーンである。「俺との子ども、作ろうぜ!」とドアの外に叫ぶニ。おどろくヨシカに、ニは、「地球上の人々に聞いて欲しくて」と照れ臭そうに言う。なんと魅力的なシーンだろう! まずひとつには、子どもという存在は、俺と君との閉じられた関係性のうちから生ずる第三者にほかならない。そして、その決意は地球上の人々に周知される ―― つまり、かれらは世界にたいしてひらかれている存在なのだ。アンモナイト的円環のうちに閉じこもって絶滅してしまうのではない。かれらの関係性は、そこから世界にたいして開かれ、世界のなかで刷新されつづけていきうるのである。
 あのときヨシカは、はじめてニを霧島くん、と名前で呼ぶ。二者関係のうちでは名前は必要とされない(君、で十分なのだ)。他者とともにある複数性のうちで、はじめて私たちは名前を要する。ヨシカが名前で呼んだのは、そのような複数性のうちに生きんとするヨシカの決意の顕れでもある。
 
 ヨシカはわかんないことだらけで、だから好きだ、とニはいう。この言明はヨシカのイチに対する感情とは対照的である。イチのことは、わたしこそが一番わかっていると考えていた。だからこそ、わたしはイチのことを好きでいる権利があるのだ、と。しかし、ニが突きつけるテーゼは真逆である。わからないことと好きであるということがつながることこそが、かれの標榜する世界性なのである。
 わからないことがあるということは、その関係のうちには、まだまだ発掘すべきものごとがたくさんある、相手をめがける理由が残されている、ということである。 たしかに世界はわからないことだらけだが、その未知の部分があるからこそ、あなたは世界を愛しうる。
 
 いや、まだ愛するのは早いかもしれないし、愛するという語感は芽生えたばかりの関係性にとってはいささか強すぎるかもしれない。だが、少なくともあなたは世界のことを「かなりちゃんと、好き」でいることができるのだ。そのことを教えてくれたのは、ほかならぬニという他者にほかならない。
 〈こじらせ女子〉は、その外部からのレッテル貼りでもありながら、同時に彼女たちの自己を守るための呪文でもある。彼女たちの〈こじらせ〉という呪いによって閉じられたセカイは、ニのように不器用にこじ開けんとする他者によって解放される可能性をつねに秘めているのである。
 
 『文學界』の1月号を読んでいたら、たまたま綿矢りさ*2松岡茉優の対談が載っていた。松岡茉優はつぎのように語っている。「撮影を通してヨシカと一緒に生きた身として思うのは、ヨシカって、いろんな女の子たちの、報われなかった魂の集合体なんじゃないかと」。
 他者とは、わたしたちの心のドアをノックして、ひらいてくれるような最後の存在である。ニは、いろんな女の子たちの報われなかった魂を救済することができただろうか。世界にたいしてひらかれていること、複数的であること。俗っぽいラブコメのよそおいのもとにあるように見うけられるこの映画から、わたしはなによりも世界にたいするひらかれた態度の在りかたをあらためて教えてもらった気分になった。わたしの心をひらいてくれるような、わたしたちに残された最後の超越は他者にほかならない。そのことは同時に、わたしはだれかの心をひらきうる、他者にとっての他者たりうる存在なのだ。わたしたちはただ盲目的に〈ニ〉の到来を待つだけでは仕方ないのだ。わたしやあなたこそが、だれかにとっての〈ニ〉たりうるのである。その美しい範例が、この傑作のうちに示されていたのである。
 

*1:オカリナのこの下りは最高。ヨシカの暮らす生活圏域において唯一、オカリナだけが名前を伴った存在である。この事実はこの物語のさらなる読解に役立つだろうという予感があるが、さておき

*2:映画を観てからすぐさま原作も読んだ。すでにモチーフは原作のうちにあったのだが、圧倒的に映画のほうがよかった、と思う。その理由のひとつは松岡茉優の魅力ということが挙げられるが、それだけではなく、脚本と演出の大胆な翻案に依るところも非常に大きい、と思う。

*3:TIFFで上映後の劇場前をたまたま通りがかったら、『勝手にふるえてろ』を観たばかりの高校生や大学生の集団が、ヨシカのごとく早口でその昂奮を分かち合っているところに遭遇した。「わかる、わかるぞ、その気持ち」と内心呟いた。あれはエモだ。

奇矯な想像力に耽溺する悦び ―― エイモス・チェツオーラ『やし酒飲み』

 エイモス・チェツオーラ『やし酒飲み』(土屋晢訳, 岩波文庫)を読んだ。ナイジェリア出身のチェツオーラが1952年に著した小説である。「アフリカ文学」にカテゴライズされる小説のなかで、おそらく唯一、岩波文庫に入っている作品ではなかろうか*1。ひょっとすると、アフリカ文学では世界でいちばん読まれている作品かもしれない。ただ、わたしの場合は、何年か前に文庫を買ったまま、頁をひらくこともなく、本棚で埃をかぶっていたのだった。たまたま新刊である『ぼくらが漁師だったころ』を買ったので、その前に読んでおこうと思った。
 
 主人公であるわたしは、やし酒飲みである。大金持ちの息子であるわたしは、父のおかげでとくに働きもせず、好物のやし酒を呑んだくれているだけの毎日を送っている。しかし、ある日、父が死に、そのあとを追うようにしてすぐにやし酒造りが死んだ。かれのほかには、だれひとりとしてかれのように旨いやし酒はつくれなかったので、「死者の国」からやし酒造りを連れ戻すための旅に出る。道中で出会った妻を娶り、種々の奇妙な生きものに囲まれ、数々の危険な目に遭いながら、幾年にもわたって旅を続けていく。
 
 この物語はすごい。ときおりクスクスと笑いながら、どんどんと頁を繰り、あっという間に読み終わってしまった。芸術作品が、それぞれの方途でセンス・オブ・ワンダーを標榜するものだとすれば、この小説には、およそすべての頁にきわめて独特なかたちのセンス・オブ・ワンダーが潜んでいる。そして、この小説に収められているその奇矯な想像力は、ほかの何にも似ていないようでいて、どこか見憶えがあるのだ。いったいその正体はなんなのか。
 
 あくまで語り口はやさしい。カフカ的なモチーフといっていいような、非論理的で、奇怪な連関のうちにさまざまな出来事が生起していくのだが、そこにはカフカの紡ぐ世界のような、たえず読者の不安を喚起する底知れぬ暗鬱さは存在しない。グロテスクな怪物を前に恐怖に怯える主人公たちがいる。登場するひとびとはつぎつぎに死んでいく。それでも、どこか飄々とした、軽快な文体によって、ざくざくと物語は綴られていく。わたしたちが「普通の小説」で見知っているような物語的な時間の流れかたはどこ吹く風だ。一日の出来事をつらつらと書き連ねているところがあれば、一頁もめくれば数年経っていることもある。強いていうなら、そのナラティヴはどこか童話の語りに似ている。童話的な空気を湛えているということが、わたしに先述の既視感を与えた要因のひとつであるかもしれない。
 
 とはいえ、子どもに読み聞かせるにしてはあきらかに奇妙すぎる。その奇妙さはどこから起因するのか。それはたんにリアリズムと袂を分かち、神話的な現象がつぎつぎと起こっているというだけではないだろう。作家が筆に力を込める箇所が、どうも大半の小説の感覚からずれているのだ。しかし、そのずれがだんだんと癖になってくる。いくつか本文から引いてみよう。
"灰が盛り上ってその中から半体の赤ん坊が生れるとたちまち、その赤ん坊は低い声で話しはじめたのだが、わたしたちは素知らぬ顔をして、出発した。すると赤ん坊は妻に、「待ってくれろ。わしもいっしょに連れていってくれろ」と、話しかけてきたが、それには構わず、わたしたちはドンドン歩いていった。それを見て彼が、あいつら、めくらにしてやれ、と命じると、わたしたちは、たちまちめくらになってしまった。が、それでも彼を連れに戻らずドンドン歩きつづけた。それを見た彼は、またもや今度は、あいつらの息の根をとめてやれと命じると、全くのところわたしたちは、息ができなくなってしまったのだった。呼吸ができなくてはどうしようもないし、わたしたちは引き返して、彼を連れていくことにした"(p.42-43)

 妻の左手の小指がふくれあがって産まれてきた赤んぼうは、ありとあらゆるものを食い尽くす、さながら怪物のような赤んぼうであった。主人公と妻は赤んぼうごと家を燃やし、その場を去ろうとするのだが、積み重なった灰のなかからふたたび赤んぼうが産まれてきた。わたしたちは素知らぬ顔をして出発しようとしたが、赤んぼうが息の根を止めてしまったので、息ができなくてはどうしようもないと、わたしたちは引き返して赤んぼうを連れていく。

 どこから突っ込めばいいのかわからない。あまりにもずれが多発しているので、じつはそれはずれとは呼ばないのかもしれない、と自分の確信すらも怪しくなってくる。そのみずからの支えが崩されてしまうという感覚が、チェツオーラの小説の読書体験の妙味であろう。

 

 どこかのタイミングで突然明かされるのだが、主人公は八百万の神々の父であるそうだ(ドッ)。さらにバツが悪いことには、かれは自分が神であることを頻繁に忘れてしまう。

"しかしそれまでに懐中には、一文もなくなっていた。そこでわたしは、どうしたら、食べものなどを買う金が手に入るか、思案をめぐらした。しばらくしてわたしは、自分が、 この世のことはなんでもできる神々の〈父〉であるということを、思い出した。"(p.48)

 自分が神であるので、どんなに窮地に陥っても、難なく脱することができてしまう。このナラティヴを根底から崩壊させてしまうことのできる設定が、しれっと差し込まれている。 とはいえ、かれはそのことを忘れていることがままあるので、いろいろな困難に巻き込まれるのだ。奇妙な話だ。

 たとえば、森林に潜む有害な白い生物を追い払うために、まじないをつかってみずからを火の姿に変えたのだが、すると続々と生物たちが火の回りに「さむい、さむい」といいながら集まってきて暖をとっている。わたしたちに対して、彼らは危害を与えることはないものの、まったく動こうとしないので、困り果ててしまう。いつまで火の姿に扮しているのか困り果てる主人公の珍道中。森には危険がいっぱいである*2。 

"しかし、その「手が生え、口を利く木」の内部に入るさいに、戸口の男に「七十ポンド十八シリング六ペニーで、「わたしたちの死を売り」渡し、同様に、一ヶ月三ポンド十シリングの金利で「わたしたちの恐怖を貸与」してしまっていたので、わたしたちはもう、死について心を煩わすこともなく、恐怖心を抱くこともなかったのだった"(p.85)

  主人公が神であるということに加えて、途中で「死」を売り払ってしまったので、どんなことがあっても死ぬことはなくなってしまった。さらにチェツオーラは設定を崩しにかかっている。もはやなんでもござれ。それでもひとつのまとまりとしてギリギリのところで物語が成立している、それこそが作者の力量であり、この小説が世界的に評価されているゆえんだろう。真似をしようとしても、これは容易にかけるものではないのだ。

 

 その強度を担保するような小説世界における不可侵の設定として、森には他の縄張りを侵犯することはできないという絶対の掟が敷かれている。それゆえに、どんな怪物に追いかけられようとも――「死」は売り渡しているので死ぬことはないのだが、面倒には巻き込まれる――縄張りを抜けてしまえば、主人公たちは助かるのである。つまり、主人公とその妻は、この物語において唯一、縄張りの境界をつぎつぎと横断していくことが許されている存在である。それが〈神〉であることの証左であろう。

 非制約的な〈神〉は、結局のところ、やし酒造りを死者の国から連れ戻すことはできなかった。 しかし、かれら自身は、生者と死者の境界を軽々とわたってしまっている。そのことには、わたしは大きな寓意が込められているという直感があるのだが、野暮なことを口走ってしまう前に、筆を措こう。この問題についてはもう少し考えてみようと思う。

 

 ところで、わたしは原文にあたっていないからなんともいえないのだが、土屋訳は素晴らしかったと思う。解説で多和田葉子も言及していたが、ですます調とだである調が混淆している感覚には、わたしは新しい言語の可能性を感じとった。あの絶妙な文体こそが、この物語世界を根底にある支えとして機能していることは間違いない。

 

*1:ピエール・ロチ『アフリカ騎兵』といった、アフリカ大陸での紀行文はあるようだが、アチェベの『崩れゆく絆』も岩波文庫には入っていないし、「アフリカ文学」では唯一であろう。

*2:死者の町へとつづく道はないから、数々の危険がひそんでいる森林の道なき道を進んできたのに、帰るときは「その時彼は、別の近道を教えてくれた。そしてその道は、今までのような森林ではなく、れっきとした道路でした」。道路、あったのかよ。

『猿の惑星: 聖戦記』―― 猿という種による人間的想像力の拡張について

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 「猿の惑星」新三部作の最終章にあたるマット・リーヴス監督『猿の惑星: 聖戦記』を観た。ひさびさにスクリーンでシーザーに会えた歓びはひとしおだ。わたしは前二作を高く評価していて、とりわけ『新世紀』('14)についてはシリーズ最高傑作だと思っているのだけど、その二作と比すると、正直にいっていちばん微妙な出来だったのではないか*1

 

 わたしには、本作は二つの主題について語っていたように思える。個と種の倫理が対立するという主題(1)。言葉を失いつつある人間と、言葉を覚えはじめている猿という言語をめぐる主題(2)。この二つの主題は、それぞれシリーズにとって非常におもしろい設定ではあるが、どちらも十分に展開しきれていない印象だった。正直、もっとやれたのではないか?

 

 主題(1)。種を救うために個を犠牲にするという倫理を完徹しようとする人間側の大佐。その倫理を理解しつつも内面化することができない猿のリーダーたるシーザーは、まるでコバのように、個の私的な感情に囚われてしまっている。ここには一般的観念のある種の倒錯がある。猿が個の倫理に従い、人間が種の倫理に従う。ここで主題となるのは、その二つの倫理の相克である。

 なるほど、人間と猿という二つの種が登場する本作にとって、このような主題は取り扱うに値するだろう。しかし、このような主題は、本作では十分に掘り下げられなかったように思う。というより、ストーリーにおいてあまり効果を発揮しているとは思えなかった。

 この主題が物語におけるカタルシスとして結実しうるシーンがひとつあった。家族を殺されたという私的な怨恨を捨てきれないシーザーは、大佐に復讐を果たすべく、脱走を試みた猿の大群を尻目に、ひとりで大佐のいる場所へと向かう。シーザーは、大佐*2が、みずからも言葉を失う疫病を発症しているところに遭遇する。先陣を切って言葉を失った人間たちを排斥してきた大佐は、自身の倫理を貫徹せんとして、シーザーに銃弾を放つように差し向けるのだが、シーザーは躊躇いを見せ、拳銃を下ろしてその場を去る。

 大佐の最期は描かれることはなかったが、あの爆発と雪崩で命を落としたと考えるのが普通だろう(もっともハリウッドのシリーズ作では、ああいう場面で生き残るというのがひとつのセオリーでもあるのだが)。一方のシーザーは、家族を奪われた怨みを呑み込んで、最後まで猿たちのリーダーとして新たな地へと導き、結果として種を救うことになる。

 種の倫理を訴えた大佐は死に、この映画で描かれた人間の大半も死んだ。個の倫理から自由になれないシーザーは幕切れまで生き長らえ、猿という種は新たな地で光明を得た。はたしてこの映画は、個への執着――それは肯定的な形を取ると、交換不可能な存在にたいする愛となる――が、結果として種をも救う、というテーゼを唱えたいのだろうか? そうだったとするならば、その感度を十分に作品のうちに昇華しきれていなかったであろ。これが主題(1)をめぐって思うことである。

 

 主題(2)。人間のあいだに広がるウイルスにより、ことばを発することができない疫病を発症する者たちがあとを絶たない。大佐はいう。言語とは、人間文明を築くにあたって、必要不可欠なものである。ことばを失った人間たちは、その存在価値すらも失う、と。

 しかし、そのような大佐にたいして、何よりも美しい反証を突き付けているのは、ほかならぬ猿たちである。確かにシーザーは人間の言葉を操ることができる。しかし、言葉を発せなくとも、猿たちのように、あるいは、猿の手話を習得しはじめている少女のように、手話をもちいて意思疎通をすることができる。

 はたして言語(を発声すること)は、本当に文明にとっての必要条件なのだろうか? ここにはそのような興味深い問いが顔を覗かせている。本作の提示した答えは、さしあたって否、であろう。

 さらにいえば、シーザーは人間のことばを後天的に覚えた*3。Bad Ape君も、オランウータン君も同様である。そのことは、すべての人類にも例外なくあてはまる。言語とは、先天的に身についているものではなく、後天的に/不断に習得しつづけるものである。

 そのような猿たちの実証する事実が、大佐にたいして、人類にたいして突き付けられる契機があってもよかったのではないだろうか。むしろ、あれだけこの主題を展開させておいて、そのような対決が見られなかったということにわたしは不満たらたらである。

 

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 そもそも最たる問題は、人類側の描写があまりに浅薄であるということだ。わたしは大佐のキャラクターにまったく共感できなかったし、そんな彼がかつての家族の話を開陳しはじめたところで、毛ほどに興味が湧かなかった。大佐につく補佐のような男性は、どうやら猿を虐げるということについていくらかの葛藤を憶えていたようだが、それはその表情から読み取れるのみで、とくに広がりがない。

 いや、とあなたは異を唱えるであろう。新三部作の最終章にあたる本作は、あくまで猿の世界に焦点を当てたものであり、もともと人間を描くことは眼中になかったのだ、と。その意見にも理があることは認めよう。『創世記』は人間の視点から物語が描かれた。『新世紀』は人間と猿の境界があいまいになる瞬間が捉えられた。ならば、『聖戦記』は猿だけの世界であってもかまわない。事実、そのような話の運びで幕切れとなった。

 そうであるならば、なぜ中途半端に大佐という人物を登場させたのか。人類を描きたいのであれば、前作に登場していたジェイソン・クラークや、ゲイリー・オールドマンのような人物を起用していれば、とりたてて新たに人物設計をする必要がなく、過去のできごととの連関のうちに、するりと組み込むことができたであろう。今回の人間側の描きこみが甘いせいで、北の軍と大佐の軍の戦争が起こっているという事実にもわたしはいまいち乗れず、呆気にとられるしかなかった。

 

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 とはいえ、人間の描写が足りないと不満を垂らしたばかりであるが、このシーズンのいちばんの魅力は、何といってもシーザーの顔に集約される。シーザーの顔がとにかくいい。格好いい。アンディ・サーキスという役者が演じているという。わたしは彼の顔のすばらしさを語ることばを豊穣に持たないので非常に歯がゆい思いをしているのだが、とにかく彼の顔がスクリーンに広がると、わたしは途端に堪らない気持ちになってしまうのだ。

 たしか『新世紀』のオープニング・カットは、シーザーの顔のクロース・アップであった。『聖戦記』のエンディング・カットもまた、シーザーの顔のクロース・アップであった。この三部作をもってシーザーは最期を迎えたことになるのかは微妙なところであるが、少なくともメインキャラクターがシーザーとして据えられた『猿の惑星』は、本三部作をもって終わりだろう。そのことに淋しさを憶える。わたしはシーザーのご尊顔をひとめ拝むために映画館に駆けつけていたのだ、といまになって気づいた。われらがシーザー、永遠に。

 

 

 さて、本作で登場する標語は、両手の握り拳を合わせるジェスチャー――すなわち、"Apes Together, Stronger" であった。『新世紀』では、「猿は猿を殺さない」という標語が大きく説話に奉仕していたので、『聖戦記』の標語も見逃せない。わたしははじめから注視しながら物語を追っていた。

 標語をめぐるひとつのハイライトは、囚われの身になったシーザーと猿たちのもとへと、ことばを発せない少女が駆け寄ってくるシーンであろう。彼女があのジェスチャーを披露することによって、猿に限定されたいたはずの標語の主語が、一気に拡張されてしまう爽快さがあった。

 猿たちの種に限定されていたはずの手話を、人間の少女が会得することによって広がる言語世界。たとえば、人間の言語を、この作品のように、ほかの種が会得してしまったらどうなるだろう。わたしたちの身体性や欲望性によって規定されている言語は、新たな世界を得て、一気に拡張していくだろう。想像力の琴線に触れる夢想である。

 

 そのことにかんしてひとこといえば、わたしはこの映画を観るたびに、現実世界では言葉を操る高度な知的生命体が人間しかいない(らしい)という神さまの悪戯に失望を憶えてしまう。中学生のころに第一作を地上波で観たときも思っていた。わたしは知的な猿と仲良く暮らす世界線で生きたかった。

 ぜひ現代の科学者たちには、『創世記』のように、猿に遺伝子操作を加えて、高度な知能をもつ猿を誕生させてもらおう。そして、猿と武器を捨て、共生し、ゆくゆくは猿に新たな『猿の惑星』シリーズをぜひつくってもらおうではないか。

*1:と、わたしは思っているのだが、IMDbを観ていると、新三部作のすべてのユーザーレビュー平均点が7.6を記録している。これはすごい数字だ。『猿の惑星』という世界的なシリーズのリブートで、三作すべてがこれだけ高評価というのはなかなかないだろう。2作目、3作目を担ったマット・リーヴスは今後も引く手数多だろうな。

*2:ところで、大佐のもとに集う兵隊たちの描写は、ヒトラーに忠誠を誓うナチス軍に笑ってしまうぐらいなぞらえていた

*3:ニャースだ!

ジム・ジャームッシュの後ろ姿を見つめるわたし

 わたしは、偶然にもジム・ジャームッシュと直接ことばを交わす機会を得た。初期の作品たちはもちろんのことながら、『オンリー・ラヴァーズ・レフト・アライヴ』も傑作だし、なによりも『パターソン』は、とにもかくにも素晴らしかった。わたしは、そうした彼の愛すべき作品にいかに感動したかということを本人に伝えるべく、『パターソン』の劇中で引用されていた、ウィリアム・カルロス・ウィリアムズのスモモの詩("This is Just to Say")をつたない英語の発音で諳んじてみせた。

I have eaten
the plums
that were in
the icebox

 

and which
you were probably
saving
for breakfast

 

Forgive me
they were delicious
so sweet
and so cold

  あなたの映画は、まさしくこの詩のもつ豊かさそのものである、などとそのままわたしは熱っぽく語る。ジャームッシュは、わたしの目をしかと覗きこんで、表情をつくらずに聞いている。わたしは敬愛する作家を前にして、だんだんと呂律が回らなくなってくる。わたしがことばに詰まった、その絶妙なタイミングで、ジャームッシュは不敵な笑みを浮かべ、 "Thank you"とひとことだけ言って、わたしのもとからゆっくりと立ち去っていった。わたしのもとから離れていくかれの後ろ姿は、有無をいわせぬ格好よさがあって、かれは彼の映画そのものではないか、とわたしは完全に打ちのめされてしまったのである。

 

 

 『パターソン』を観た夜、わたしはそんな夢を観た。『パターソン』は傑作でした。