ヨーロッパ旅行記 Ⅲ(March, 2018)

3月12日(月) ブリュッセル、ゲント

 同じドミトリーに眠るひとたちとことばを交わすどころか、顔を合わせることのないままホテルをチェックアウトして、旧市街へと徒歩で向かう。わたしははじめて歩くブリュッセルにたいして、非常に奇妙な感覚を抱いていた。とにかくひとが少ないのだ。カフェのテラスはがらがらだし、路上で見かけるひとたちも少ない。一国の首都にしてはとても活気があるとは言えない。パリやアムステルダムに挟まれているので、人口の谷になっているのかもしれない。ハイ・シーズンを迎えるころには、もうすこし賑やかになるのだろうか。

 さらにいえば、旧市街はましにしても、全体的に景観に品が欠けている、という印象をもった。たとえば安っぽい字体で書かれた看板などがいたるところに掲げられていて、そういう雑多さが景観のリズムを崩している(過度な雑然さが、独特のリズムを形成している日本の都市の景観とは、ここでも対照的だ)。否応なしに歴史の鈍重さを感じてしまうパリと比べれば、この軽妙さにはどこか違和感を憶えてしまう。それに加えてわたしが気になったのは、ブリュッセルの若者たちはいったいどこで遊んでいるのか、まったく見えてこないということだった。生活が見えないということはこれほど逗留者を退屈させるのか。わたしの友人たちが口を揃えてブリュッセルはおもしろくないと言っていた理由がわかった気がする。ブリュッセルでいちばん大きなサン=ミシェル大聖堂にも駆けつけたのだが、これまで訪れたカテドラルのなかでは、ひょっとするといちばん下品なカテドラルかもしれない。14世紀に建立されたようなのだが、そのゴチック建築を何世紀にもわたって増築し、継ぎ接ぎだらけの悪趣味な建築になっている。19世紀にゴチックを模してつくられたステンドグラスの品のなさには、心底うんざりした。

 Jから薦められた「Tonton Garby」という旧市街のサンドイッチ屋にいく。「トントン(おじさん)」という親しみやすい名称にふさわしく、すこぶる陽気な中年男性がひとりで店を切り盛りしている。フランス語、英語、オランダ語でつぎつぎと客を捌き、笑わせている様子はエンターテイメントだった。"When you smile, I smile""Si vous êtes content, je suis content"と念仏のように唱えつづけていて、そこには非常に明快な哲学が存しているようだった。山羊のチーズの入ったサンドイッチが一押しの商品のようで、わたしもそのサンドイッチをオーダーした。ひと口目はたしかにうまい。かつてフランスの山奥の山羊チーズ農家で二週間ほど働いたことがある。そのときにも思ったが、山羊チーズというのはクセが強いので、食べつづけるとどうしても飽きてしまうのだ。結局、ひとつのサンドイッチを食べきるのにだいぶ努力を要した。それでも笑顔をつくって店をあとにした。

 月曜日だったので、ベルギー王立美術館が閉まっている。わたしは代わりに、隣接するマルグリット美術館にいった。わたしは、東京で開催されたルネ・マルグリット展やシュルレアリスム展には足を運んでいるし、ほかにも各地で作品を見ているのだが、シュルレアリスムというのはどうも趣味に合わない。言いたいことはさまざまにあるけれど、ひとことでいえば、言語によって規定された理論がマテリアルなものに先行しすぎてしまっているために――シュルレアリストたちの狙いに反して――多義的な作品解釈を阻んでしまっている、というところだろうか。とはいえ、ブリュッセルの一等地の建物が、ルネ・マルグリットという二十世紀の画家に捧げられているということの重みは大きい。雲が切れ切れに浮かぶ澄んだ青空を切り取った《呪い》(1936)という小品の不気味さには、胸がすくむ思いがした。マルグリットでいちばん好きな作品だと思う。

 ブリュッセルを発ち、ゲントへと向かう。Tの恋人であるIがゲントに留学していて、Tも駆けつけるというので、わたしも合流することになったのだ。ゲントの駅舎から出ると、強く雨が降っている。わたしはずぶ濡れになりながら、小走りで彼女のアパートへと向かった。無事に目的地に到着したあと、TとIとともにバーへと繰り出した。ゲントはオランダ語圏に属するので、町を歩いていてもフランス語が聞こえてくることはほとんどない。バーの広い店内には、学生とおぼしき若い世代でごった返している。日本にはこのようなHUBのような広さのあるバーがほとんどない。東京ではバーといえば、雑居ビルの一室にある狭い空間ばかりだ。そこにも公共性のちがいが現れているように感ずる。途中からIの友人たちも合流し、ベルギービールをしこたま飲んだ。わたしはお酒には強いほうだと自認しているのだが、何瓶か空けただけで(とはいえ、この夜は10瓶ぐらい飲んだかもしれない)、完全に酔いが回っていた。雨上がりのゲントの夜、TとIと冗談をいって大笑いしながらアパートへと戻っていった記憶が朧げに残っている。なんの話をしていたかはまったく憶えていない。

 

3月13日(火) ブリュッセルアムステルダム

 ゲントから電車に乗り、ふたたびブリュッセルへと向かう。 車窓からの景色に見入ってしまう。長閑な田園風景が広がっていて、そのあいだに小さな町が点在している。動いているものは、ときおり走っている車を除けば、ほとんどない。ブリュッセルに着いて、すぐにベルギー王立美術館へといく。ベルギー王立美術館は、ピーテル・ブリューゲル(父)の作品をいくつかもっていて、有名な《叛逆天使の墜落》もここにある。ベルリンの絵画館ではかれの《ネーデルラントの諺》というすばらしくバラエティに富んだ作品を見たばかりだったが、ブリューゲル(父)については、あらためて丁寧に作品を追っていかなければならない。それは混沌とした16世紀オランダへと向かうような、非常にバラエティに富んだ旅となることだろう。同じ展示室にブリューゲル(息子)の作品も並べられていて、とくに《ベツレヘムの人口調査》にいたっては、父の作品と息子が模したものが置かれている。二作品を比べると、息子の作品も味があるといえば味があるのだが、残酷なほどに才能の差が歴然と出ていた。父を超えることができない息子。息子の前に立ちはだかり続ける父。

 

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Melchior de la Mars, Maria Magdalen in ecstasy, 1622-25

  わたしが気に入った作品。メルキオール・ドゥ・ラ・マルスと読めばいいのだろうか。Wikipediaによると、17世紀オランダで活動していたカラヴァジェスキのひとりらしいのだが、画家の生涯はほとんどわかっておらず、作品も二点しか特定されていないらしい。こういう作品に出会うと、カラヴァッジョという存在の偉大さをあらためて思い知らされる。上記の作品は、カラヴァッジョの影響が透けてみえるものの、そこだけにはとどまらないロマンチズムを湛えている。ラファエロ前派の作品と見間違えるほどの筆致だ。気づいたら閉館まで30分を切っていることに気づく。隣接されている世紀末美術館(Musée Fin de siècle)のことをすっかり忘れていて、そのまま慌てて向かう。結局、すぐに時間切れになってしまったのだが、展示室をいくらか歩いただけでいっても、そのコレクションの質の高さに眩暈がするようだった。わたしは、やはり十九世紀を愛しているのだ、と強く思った瞬間であった。ルーベンスのような画家の作品群と対峙していた時間が惜しい(わたしはルーベンスのよさがさっぱりわからない)。世紀末美術館をゆっくり観ることができなかったのだが、ブリュッセルにはそのためだけでも再訪の価値があるように思った。

 Thalysに乗って、ブリュッセルからふたたびアムステルダムへ。イーストウッド監督の『15時17分、パリ行き』を観たばかりだったので、Thalysに乗るのはいくらかへんな気持ちだった。とはいえ、まったくテロ行為などの気配はなく、平穏無事にアムステルダムに到着する。アムステルダムにあるTのアパートにたどり着く。Tはまだゲントに残っていたのだが、TのフラットメイトであるBが、ちょうど料理をしているところだった。いくつかことばを交わし、Bの用意していた野菜を油で焼いて、ハーブで味つけをした料理を食べた。Bはアムステルダムで物理学を専攻している学生で、ときどき役者業もやっているという。わたしはベルリンでケンドリック・ラマーのライブを観てきたんだという話をすると、かれは同じツアーのアムステルダムでの公演を観にいったばかりだという。わたしたちはケンドリックについて、ひいてはヒップホップについてのあれこれを話し込む。Netflixで、かれが勧めた『Anomalisa』というクレイアニメの映画を観る。そのあと、わたしの勧めたNetflixオリジナルドラマ『マスター・オブ・ゼロ』のシーズン1を何話か観た。わたしはもう何度もこのドラマを観ているが、何度観ても最高のドラマだ。Bもたいへん気に入っているようだった。

 

3月14日(水) アムステルダムデン・ハーグ

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 朝目醒めてすぐ、わたしのベッドのもとで丸まっていた猫のモンティと遊びつくす。彼女はアパートに出現した鼠をすべて食べつくしてしまったらしい。たしかに悪そうな顔をしている。しかし、猫という存在は、どうしてこれほどおもしろいのか。わたしは幼少期に近所の猫に顔を引っ掻かれた経験がトラウマ化していて、長らく犬の派閥に属していたのだが、そろそろ猫に再転向してしまいそうだ。近所のカフェでエスプレッソを飲む。隣に座っていたアムステルダム在住の夫妻とたまたま話した。男性は航空会社に勤務していて、休みのたびに家族で世界中を旅行しているという。日本にも数度訪れたことがあるといい、日本の印象をいろいろと語ってくれた。わたしもアムステルダムは気に入っているというと、かれは豪快に笑っていた。アムステルダムのおいしい日本料理屋を無理矢理に薦めてくる。メモまでさせられたのだが、おそらく一生いくことはないだろう。

 トラムに乗って、アムステルダム国立美術館(Riksmuseum)にいく。17.5€という法外な入場料には若干の憤りを憶えつつも、いくつかの展示室を回って、すぐさまその価格設定にも納得がいった。それぐらいにまったくもって素晴らしい美術館だった。作品の配し方に気づかいが感じられ、動線や照明の設計も素晴らしく、ひとつひとつの作品にもれなくオランダ語と英語でキャプションがついている(すべての作品に英語併記のキャプションがついているというのは、世界的に見ても稀なことではないか)。とりわけ初期フランドル派の興味ぶかい作例が山のようにある。初期ネーデルランド、ハールレムで活動していたトット・シント・ヤンスに帰属するとされる《エッサイの木》(15世紀ごろ)を見てほしい。西欧人の余白恐怖症とルネサンス的な合理性の相克がひりひりと感じられる。

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 よく記憶に残っているのは、突如として展示室に現れたカラフルな帽子たちだ。キャプションを読むと、近年17世紀オランダで捕鯨に携わっていた男たちの墓を調査したところ、多くの遺体が帽子をかぶったまま葬られているということが発見されたそうだ。厳しい寒さ対策でだれもが着込んでいたために、表情や服装ではほとんど見分けがつかず、代わりにおのおのが被っている帽子の色彩やモチーフで人物を同定していたという。当時は「赤帽のヤンさん」みたいな通り名で溢れかえっていたのだろう。じっくりと中近代のセクションを時間をかけて回っていたら、いつのまにか閉館時間が近づいていて、十九世紀のコレクションを十分に見ることができなかった。ベルギー王立美術館とまったく同じことをやってしまっている。足早に展示室を回っていたわたしの足をふと止めたのは、アルマ=タデマの《The Death of the Pharaohs Firstborn Son》(1872)だった。わたしはこの画家がラファエル前派の画家のなかでいちばん好きだ。かれの作品のコレクションは、どこにいけば見れるのだろう。日本では知名度があまりないせいか、おそらくかれの回顧展が組まれることはないかもしれない。わたしの知人は海外まで企画展を見にいっていた。

 17時にアムステルダムの街に放り出され、カナルの沿道をいくらか散歩する。日は傾きはじめているが、依然として街に活気がある。アムステルダムは、本当にすばらしい。平坦な街のいたるところに血脈のように水路が張り巡らされ、その水はあちこちで樹々を芽生えさせている。芝の生えた広い公園があちこちにあって、子どもたちの声がこだまする。煉瓦造りの街並みのふもとを自転車で駆け抜けていく。わたしが訪れたのは三月のなかばで、まだ肌寒い季節ではあったが、天候にはめぐまれ、つねに燦々とした陽光が差していた。空の青と、樹々の緑と、陽光を受けた煉瓦の赤という色彩に満たされっぱなしだったのだが、天気が悪いと、ひょっとすると陰鬱な気分に陥っていたかもしれない。とはいえ、暮らしやすいのは間違いないだろう。ベビーカーを押している親の姿を頻繁に見た。子育てには絶好の地だと思う。

 アムステルダムへの再訪を心に誓いながら、ふたたび電車に乗って、デン・ハーグへと向かう。デン・ハーグにはTの実家がある。前日の朝までゲントで一緒にいたわけだが、TとIはすでに車でデン・ハーグに到着し、ひと休みしているところだという。車を数時間走らせれば、国境を悠々と越えることができるヨーロッパの感覚は、やはりまだ体得できていないな、と思う。デン・ハーグのTの実家で、Tの母の手料理をいただく。彼女は去年息子とともに日本の北陸地方を旅行したらしい。「ガソリンスタンドで車をバックさせているときに店員が一様に唱える呪文はなんなのか」と真剣なまなざしで問われた。わたしは苦笑しながら "All right" のことですよと答えると、彼女は豪快に笑う。そのあとギリシア人の父とも話していたのだが、かれらはいずれも英語が達者で驚いた。オランダ人は、ドイツ人に比べても圧倒的に英語がうまい。日本ではおよそ考えられないことだ。Tとともに夜のデン・ハーグに繰り出す。街の案内をしてもらいながら、The Fiddlerというアイリッシュ・パブにたどり着く。ひょっとすると同級生がいるかもしれないと店内を進んでいると、案の定Tの同級生の三人がいた。高校時代の俺たちはばかやってたな、あれがもう10年も前の話か。いまの高校はまるっきり変わってしまったらしいぜ、と談笑している。いくらかのノスタルジアにつまされながら過去を回想する様子は、万国共通である。とはいえ、かれらはわたしに気を遣って、みなオランダ語から英語に切り替えて話していたのだが。わたしだったらすぐに諦めていただろう。驚異的なことだ。

 
3月15日(木) デン・ハーグ

 Tの実家の屋根裏部屋で目醒める。おいしいエスプレッソをいただき、トラムに乗って中心街へ。9時をすでに回っていたが、まだ街が眠りから完全に目覚めていないような雰囲気だった。時間の進みかたがまだのっぺりとしている。目醒めてからなにも口にしていなかったので、とりあえず何か食べよう、うまいものを食べよう、とわたしは提案する。Tはいう。オランダには〈うまいもの〉は3つしかない。チーズ、クロケット(Kroket)、ハーリング(Haring)だけだ、と。開店したばかりのクロケットを売っている店で、クロケットを買う。伝聞に違わず、たしかにおいしい。日本のコロッケの元祖とされていて、具は牛肉をつぶしたものだ。国民的なファストフードになっていて、Wikipediaを読むと、2008年には3億5000万個のクロケットが消費されたという。人口の70%が年に平均29個いただくらしい。いまいち多いのか、そうでもないのか掴めない。

 マウリッツハイス美術館へと向かう。マウリッツハイス美術館の一角の窓から見える円筒形の建物は、ハーグの市長のオフィスだという。微妙にオフィスのなかは見えない角度になっているが、行政と市民の距離が近しいことが感じられていい。美術館にはルイスダールの作品がいくつもあり、高揚した気持ちで作品と対峙する。ユベール・ダミッシュ『雲の理論 - 絵画史への試論』という本を以前紹介してもらったことがある。わたしは読んでいないので正確な情報かはわからないのだが、西洋絵画史において、ルイスダールがはじめてキャンバスのなかに遠近法的に正しく「雲」を位置づけることができたとされているらしい。たしかに雲というのは不思議な存在だ。空に浮かんでいるのを見ても、あれが遠景の町や山脈よりも近くにあるのか、遠くにあるのかすらわからないことがある。遠近法的な視覚の秩序を無視するような存在であるということだろう。

 《真珠の耳飾りの少女》のある展示室にいると、どこからともなく黒いスーツに身を包んだ、日本人の妙齢のサラリーマンの団体が展示室にわらわらと現れた。かれらはフェルメールレンブラントといった画家の著名な作品を見て回るツアーの最中のようだった。ひとりの40代くらいの男性がガイドの通訳を担当していて、残りは還暦前後のおじさんたちだった。わたしは少し離れたところでかれらの様子を眺めていたのだが、かれらの口から出てくるのは「ほお」「すごい」といったことのみで、ひとしきりそう言い合い、スマホに収めては、足早に去っていくのであった。そのあと団体が美術館から帰るところにもちょうど遭遇したのだが、黒塗りのメルセデスベンツを3台もチャーターしていて、かれらだけバブルの時代を生きているかのようだった。これだけステレオタイプの日本のサラリーマンって生き残っていたんだな。バブル期には、ああいう光景が西欧の美術館では日常茶飯事だったのかもしれないと考えると寒気がする。日本人に反感をもつのは当たり前だろう。かれらの他にも、日本人の来訪者が心なしかたくさんいた。わざわざデン・ハーグにまで足を伸ばす旅行客はあまりいないのかもしれない。そう考えると、やはり日本人のフェルメール愛は異常である。とはいえ、わたしもフェルメールは好きだ。とりわけ《デルフト眺望》は改めて傑作だと思った。

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 マウリッツハイス美術館を出て、あたりを散策した。オランダ三大美味のもうひとつであるハーリングのサンドイッチを購って、ベンチに座って食べた。ハーリングとは、ニシンの生魚の塩漬けのことだ。多量のたまねぎとともにサンドイッチに挟んでいただく。おいしい。いくらオランダの食に期待できないとは言っても、クロケットハーリングがあれば、やっていける気がする。安価なソウルフードだ。ベンチに腰掛け、Tとともにぼんやりとこれから先に待ち受ける人生のことなどを話す。かれは今年の夏から渡英し、オクスフォードの大学院で哲学の勉強をつづけるそうだ。わたしは、どうだろう。いくつかの可能性と不可能性についての話をした。ようやく会話のエンジンがかかってきたというころ、わたしの電車の時間が近づいていることを知る。わたしはTとともに駅まで歩き、感謝を告げて改札をくぐった。東京に帰らなければならない。

 スキポール空港へと向かう車内で、久し振りに『アンナ・カレーニナ』をひらいた。けっきょく1巻すら読み終わらなかった。残りの3巻は、依然としてヨーロッパ周遊中のわたしの小さなスーツケースに詰められている。スキポール空港のカウンターで、スーツケースを日本の住所に送ってもらう手はずを整えた。対応してくれたのはまたも褐色の女性だった。あまりに長い煌びやかなネイルを携えたほっそりとした指で、キーボードを叩いている。そのさまにわたしは釘付けだった。搭乗口に向かっているさなか、突然母子と思しき二人に「どうやってガーナに行けばいいんでしょうか」と訊かれる。わたしは驚いて「ガーナって、国のガーナですか」と咄嗟に問いなおすと、彼らは頷いた。ええっと…。わたしは彼らに搭乗券を見せてもらい、無事にガーナ行きの飛行機が発つ搭乗口まで送り届けた。ブルキナファソに住んでいたことがあって、と話すとうれしそうにしていた。
 

3月16日(金) 北京、東京

 機内で『LEGO ムービー』と『ズートピア』を観た。どちらも秀作だ。ひとりで涙しているのがなんとなく気恥ずかしくて、隣のひとに悟られないように静かに泣いた。明方、トランジットの北京に到着する。乗り換え時間が90分しかなく、しかも往路と同様、ターミナルを変更しなければならない。わたしは往路と同じように出入国のゲートを通らずに移動させてもらえないかと頼むが、英語がうまく伝わっていないのか、あなたはいったいなにを言っているんだという顔つきで、一度出国手続きを取ってからターミナルを移動してください、と突き返される。わたしは空港を駆け抜け、ときに断って割り込みをしながら、ターミナル間移動の無料シャトルバスに乗る。朝のラッシュ時間なのか、バスは遅々として進まない。ようやくもうひとつのターミナルに着き、慌てて窓口に駆け込むも、チェックイン時間は終わりました、と告げられる。東京に帰りたいなら、新しいチケットを買ってください。でも、きょうの便はすべて満席です。いくらごねても無駄だった。

 さて、わたしはきょう東京に帰るのを諦め、北京に滞在しなければならないのか。ターミナルから出て、朝日を浴びる。気温は氷点下に達しているのだが、まったく苦にならない澄んだ空気で、悪くないかもしれない、と煙草に火をつける。北京に滞在するとしたら、なにをしようかと頭の隅で考えながら残りのお金を計算すると同時に、東京で帰国してまもなく予定されているいくつかの用事の重大性を思った。とりあえず、アムステルダムから東京への便を運行していたKLMに相談にいく。そもそも、その便が20分ほど遅延しており、そのせいで乗り継ぎに失敗したのだった。カウンターで対応を待っていると、日本の赤いパスポートをもった男性が駆け込んでくる。ひょっとして、と尋ねるとかれも同様のケースで、東京への便の乗り継ぎに間に合わなかったようだった。"Are you together?"と問われたので、"No we are not, but we have the same issue" と答え、しばし待っていると、搭乗券のようなものを渡される。きょうの羽田行きの便を予約したので、こちらでお帰り下さい、と。さすがKLMだ。わたしはそのことに喜びつつ、反面北京に残れないことに淋しさも感じていた。もし北京に残っていたとしたら、どんな風景がわたしを待ち受けていたんだろう。

 帰れるようになってよかったですね、などと日本人の男性と当たり障りもないことを話す。かれはMさんと言って、ヨーロッパを1週間ほど周遊していたようだ。少し話していてわかったのだが、Mさんはかなりのシネフィルで、東京とヨーロッパの映画事情についてあれこれと話す。わたしが幾度か足を運んでいるゴールデン街の呑み屋の常連ということも判明し、どこかの映画館や呑み屋で確実にすれ違っているだろう、と。旅行の最後の最後に、こういう出会いもあるのだな、とわたしは不思議な感慨に包まれていた。なにがわたしをヨーロッパに、ひいては旅行に連れていったのか、結局明快な答えは出ないままに帰路についてしまったわけだが、こういう思いがけない邂逅を求めていたのだ、と言えるかもしれない。

 東京に着いた。電車に乗り込んで、そのまま東京の懐かしき顔たちが集う居酒屋に駆けつけた。

 

ヨーロッパ旅行記(March, 2018) ― 全三回

「至上の印象派展 ビュールレ・コレクション」/セザンヌ《赤いチョッキの少年》

 国立新美術館「至上の印象派展 ビュールレ・コレクション」に足を運んだ。世界大戦に乗じて武器商人として財を成したスイスの実業家のコレクションで、2008年の盗難事件をきっかけに閉館となり、2020年までに所蔵作品はすべて改装中のチューリヒ美術館に寄贈される予定だという。最後の移転前の企画展示として世界を巡回中ということだそうだ。しかし、武器を売った金で、美術作品を蒐集するというのは、なかなかに奇妙な話だ。

 展示作品は64点と、新美にしては比較的小ぶりな企画展だ。ドガは《ピアノの前のカミュ夫人》以外はあまりぱっとせず、クールべ、ピサロシスレーの作品もいくつか展示されていたが、さほどいい作品ではなかったと思う。ボナールも微妙だったものの、その隣に展示されていたヴュイヤールはよかった。ヴュイヤールの特徴的な黒。マネ、モネ、ゴッホゴーギャンピカソ、ブラックとあって、そう考えると小ぶりのわりには粒揃いの展示だったかもしれない。たしかにあまり退屈はしなかった。

 まず驚いたのは、17世紀のアントワープ出身の画家フランス・ハルスが、印象派の先駆けの肖像画家として位置づけられていたことだ。あの粗野な油彩の筆づかいは、クールべやルノワールドガ肖像画と呼応する(意外にもアングルの私的な肖像画も)。19世紀から20世紀まで、フランス絵画を中心にすぐれた作品をもっている。

 

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  目玉となっているルノワールのイレーヌ嬢もとくと見納めた。「西洋絵画史上最高の美女」といういささか大きく出ているキャッチコピーにも、さほど異論がない。たしかに、あの佇まいはひとを惹きつけるものがある。周囲の景色や服装と比して、顔の描きかたが息を呑むほど精緻である。鑑賞者の視線は、透き通るような彼女の肌の上を滑っていき、そして彼女の眼に集まるように設計されている。失われることが定められたー――すでに失われてしまった――少女の美であり、そこにはいくらかの憂いの感情がある。また、わたしはコローの《読書する少女》を見て、コローへの愛を再確認した。今回はこの一点だけだったが、かれは肖像画においても、風景画においても、まったく素晴らしい水準の絵を制作している。コローの企画展など、やってくれないだろうか。この絵についても、鮮やかな赤(上着と首飾り)が画面をよく引き締めている。

 

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  とくに、セザンヌの作品については非常に充実していて、はじめに驚いたのは、《聖アントニウスの誘惑》だ。わたしはこの主題が好きで、いろいろな画家の同主題の作品に触れてきたが、セザンヌも描いているとはまったく知らなかった。そして、いままで見てきたことがないような描きかただった。「聖アントニウスの誘惑」は、西洋絵画としては有名な宗教主題で、財産のすべてを投げ打ってエジプト砂漠で隠者として修行している道中、さまざまな誘惑に苛まれるというものだ。この絵では、聖アントニウスは左上に追いやられていて、豊満な肉体で誘惑を仕掛ける女たちが画面の大半を占めている。グロテスクで奇怪な雰囲気を湛えつつ、しばしば雑多になりがちな画面を深い黒で引き締め、ミステリアスな様相を呈している。

 

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  しかし、《聖アントニウスの誘惑》よりも驚いたのは、《赤いチョッキの少年》である。わたしはこの機会にはじめて《赤いチョッキの少年》(1888-90)の実物に見えることができた。これまでいろいろなセザンヌの作品を見てきたつもりだったが、これは本当にすごい作品だ。いまさらだが、セザンヌの画業のなかでいちばん好きだと思う。傑作中の傑作だ。

 やはり目を引くのは、不自然なまでに長い右腕である。この右腕は明らかに作為的な長さをもっていて、その違和感が全体の画面のリズムを形成している。キャプションにも説明があったが、あの右腕は、画面を横切る斜めの線と交わっているのと同時に、壁の水平線とも関係している。鑑賞者は、右腕以外の部分に注視しても、存在感のある右腕が視界に闖入してくる。すなわち、鑑賞者は部分を見ているにもかかわらず、否応なしに意識は画面全体へと差し向けられてしまう。かくして視覚の運動が生ずるのだ。

 そして、形だけでなく、中心に位置するチョッキの赤とパンタロンの青の鮮やかな色彩が全体の統一感を演出している。かたちと色彩という、絵画における二つのもっとも重要な要素が、ひとつの作品のなかに最高の形で結実しているのである。あれほど高いレベルで部分と全体がたがいに奉仕しあっている画面ははじめて見たといっていいかもしれない。やはりセザンヌは19世紀においてもっとも重要な画家であるのではないか。わたしがあらためてそのことを断言する前に、いささか留保が要されるだろう。他所で薦められているのを見た吉田秀和著『セザンヌは何を描いたか』(白水社アートコレクション)の古本を購った。この本でも、《赤いチョッキの少年》の検討がなされているようである。

ヨーロッパ旅行記 Ⅱ(March, 2018)

3月8日(木) パリ

 日本のおむすびチェーンが海外進出をしていて、新たにパリに店舗をオープンしたそうだ。わたしは、仏留学時代の中国人の友人Oを誘って、オペラの近くにある日本人街の一等地にある店舗を訪れた。10ユーロ(約1,350円)でおにぎりふたつと唐揚げと味噌汁のランチセット。フランスの物価としては適切な価格設定なので、日本の物価と比べてはならないのだが、やはり高いといえば高い。とはいえ、おにぎりは当たるのではないかという気がする。J は、ヨーロッパでのおむすびチェーン展開のプロジェクトを担当していて、おむすびのもつ可能性について語ってくれた。おむすびは、どんな具でも選べるゆえに、ハラルフード、ベジタリアンにも対応できる上、グルテンフリーでもある。日本料理への関心は寿司一辺倒時代を抜け出て、パリでもつぎのレベルへと移行しつつある。とはいえ、かれは必ずしも「日本料理」の一カテゴリとして売り出すのではなく、"Omusubi"という固有名詞として売り出していこうとしていた。かれはおむすびが飲食業界を変容させる将来を見ていた。わたしも、どの程度まで広まるかはさておき、おむすびはそのポテンシャルを有しているのではないかと思う。

 Oと別れを告げたあと、Jとともに UGC Les Hallesで『ブラック・パンサー』を観る。ほかの映画館に比べてもいくらか料金が高いものの、わたしはこのシネコンが大好きだ。どのスクリーンも座席がとにかく居心地よい。映画館の隣にあるプールから漂ってくる塩素のにおいを嗅いだ途端に、パリ時代にここに通いつめた記憶がさまざまに蘇ってくる。『ブラック・パンサー』は、残念ながらわたしの過度の期待を上回るほどではなかったが、マイケル・B・ジョーダンの冴え渡る演技とエンディング・テーマの「All the Stars」(またしてもケンドリック・ラマーだ)に昂奮する。しかしフランス人の笑いどころというのは、何度体験してもよくわからないものだ。まったくおかしくもない箇所で笑い声を立てているひとたちがたくさんいる。異国で映画を観るというのは異文化体験としてぜひ推したい。わたしがパリにいたときは建設中だったLes Hallesのショッピングモールはすでに完成していて、ものすごいひとでごった返していた。これだけひとが集まっている場所は、パリにはほかにはないのではないか。

 そのあと、縁があって席を用意してくれたCamille Bertaultのコンサートへ。12区の Café de la Danse という場所で、わたしははじめて足を運んだのだが、なかなか小洒落た場所だった。彼女は、数年前に友人に宛ててFBにアップロードした、コルトレーンの「Giant Steps」のスキャット動画がバズり、めぐりめぐってめでたくSONYからデビューしたばかりの新進のジャズシンガーだ。生命力のあり溢れた、いいアクトだったと思う。パートナーが日本に留学していたらしく、日本でも活動をしていきたいようだ。可能性はあるような気もするのだが、果たして。近くのFranprixで鶏肉2本とフライドポテトがはいった弁当を3.9€で買う。俗に「Franprix弁当」と呼ばれているらしい。ビールを買い込んでからUberに乗って、19区の友人Cのアパートへ。かれはいまパリの映画学校に通っていて、4月に撮影予定の短編映画の脚本の最終段階を詰めているところだった。日本のラッパーのUZIが、600gの大麻所持で逮捕という驚きのニュースが最近あったのだが、Cは600gぐらいなら一年あればひとりで消費できるでしょうと言っていた。


3月9日(金) パリ

 サン=ミシェルにある「Chez Hamadi」というクスクス料理屋でランチをいただく。ブロシェットがおいしい。日本に暮らしていると、クスクスを食べる機会が少ないのが悔やまれる。クスクスというすばらしい料理は、もっと日本の人口に膾炙してもいいと思うのだが、どうなのだろう。スムールはパスタよりも俄然便利で、お湯で10分弱蒸らすだけで、腹持ちのいい主食がつくれる。胃袋のなかでさらに膨れていくのだ。まずは、日本でスムールを安い価格で手に入れられるようにしてほしい。わたしは以前、東京で1キロのスムールを1000円少々出して購入したことがあるのだが、フランスの価格の10倍近くだものな。クスクスは、Sさんにご馳走になった。Sさんは、パリでコンサルタントとしてばりばり働いている日本人だ。パリという場所における日本人コミュニティはは、どれだけ政府系の仕事を受注できるかという水面下の争いが激しく起こっているらしい。パリの日本人コミュニティの裏事情をいろいろと聞く。 

 「パリで決まって行くところ」といえば、サン=ミシェルの「Gibert Joseph」である。おそらくパリ市内でいちばん大きな古本屋である。数冊の研究書を手に入れた。ここに来るたびに驚くのは、店員の造詣の深さである。今回も哲学書の在庫をラスタヘアーの若い男性店員に聞いたのだが、「あの本は確か5年前に絶版になって…」という知識がすらすらと出てくる。フランス語の小説を久しぶりに読もうと思い、ローラン・ビネの新作『Le septième fonction du langage(第七の言語機能)』を購う。『HHhH』を読んだときに、かれが次回作を書くとしたらいったいどんな内容になるのかと夢想したものだった。

 モロッコの友人Mと二年ぶりの再会を果たし、マレ地区でビールを飲む。2年前にパリに一ヶ月ほど滞在していたときは、なぜかかれと毎日のように飲んでいた記憶がある。2年前に執筆中だったミケランジェロ=アントニオーニについての論文の進捗を聞くと、あれは反故にした、とあっけらかんと言っていた。いまは、ある著名な脚本家と一緒に、モロッコとパリで夏に撮影予定の作品の脚本を執筆しているらしい。夜が更けてきたところで、11区のBataclanのすぐ近くにある友人Lのアパートへ向かう。Lは昨日引っ越したばかりで、ちょうどホームパーティをやっているところらしい。彼女たちはちょうど80年代から90年代のフランスのヒップホップの話に興じているところだった。登場する固有名詞がほとんどわからず、話についていけない。そういえば、はじめての留学中でフランス人に囲まれているときは、いつもこういう感じだったなとひさびさの感覚に苦笑いしながら、ビールを胃のなかに流し込む。あらためてフランス語のコミュニケーションというのは、言語以外のものに大きく頼っているものだな、と彼女たちの口から次々と飛び出す言葉に思った。そのうちのひとりが、コロンビアのボゴタに一年ほど住んでいた経験を話してくれた。わたしは近いうちにラテン・アメリカに足を踏み入れないといけないな、と思う。

 深夜。12区のほうへとバスで向かう。わたしの大学のゼミの後輩Nがパリに留学中で、そちらもホームパーティをやっているところだという。ホームパーティをはしごすることになり、いくらかくたびれながらたどり着く。留学生ばかりが集っていて、英語が飛び交っている。フランス語の調子が出はじめていたところだったので、いくらか物足りなさを覚えて英語に切り替えた。わたしのなかでは、英語とフランス語は、相互補完関係にあって、一方の言語が伸びれば伸びるほど、他方の言語も伸びていく。イギリス人の留学生とショービニズムについて話し込む。彼女はトルコ人の丸めがねの男性と非常に親密な様子だったので、いつから交際しているのかと聞くと、かれらはさきほど会ったばかりだという。「一目見た瞬間、なんだか心を許してしまえて」と口をそろえる。てっきり数か月は付き合っているのかと思った。わたしはNの家に泊まらせてもらう予定だったのだが、Nはいつまで経っても帰ろうとしない。6時ちかくになってようやくアパートへ向かった。モンパルナスの地下鉄の駅前にある好立地なのだが、室内は半壊状態で苦笑した。あれだけ床が抜けるのではないかという恐怖とともに歩いたのははじめてだ。Nは、バーであったという18歳のフランス人の女の子との恋路について、嬉々として話していた。


3月10日(月) パリ

 モンパルナス。わたしのお気に入りの日本料理屋の「Tombo」にいって、かつ丼定食をいただく。店頭に「On fait ni de sushi, ni de sashimi(われわれは寿司も刺身も提供していません)」と但し書きがある。店内はそれなりに込み合っていて、ひとりで食べている客も何人かいたし、テイクアウトのお姉さんもいたので驚いた。日本料理と寿司が等号で結ばれていた時代から、徐々に抜け出しつつあるということだろう。

 この日は、目覚めてからずっと疲弊しきっていて、どこにも行く気にならない。とはいえ休む場所もないので(友人宅を転々とする暮らしはこれがたいへんだ)、身体を引きずるようにしてモンパルナス墓地へと向かい、ジャック・ドゥミの墓へとたどり着いた。かれの墓の隣にはベンチがあって、それはアニエス・ヴァルダが墓参りのために特別な許可をもらって設えたものだそうだ(かつて墓地めぐりをしていたときに仲良くなったおじいさんが教えてくれた)。腰掛けた瞬間、強烈な眠気が襲ってきて、わたしは図らずも2時間ほど眠りこんでしまった。ドゥミ/ヴァルダ夫妻、昼寝のための寝床を提供してくれてありがとう。あなたたちの映画をまた改めて心して拝見させていただきます。

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 Gaumont Parnasse で、ブノワ・ジャコ監督『Eva』を観る。近くに座っていた女の子が途中からスマホを弄りはじめたのだが、わたしもまた注意する気力すら湧かないくらい映画に退屈しきっていた。イザベル・ユペールをまったくうまく使えていないし、ギャスパー・ウリエルの力の入った演技もいささか空回りしていてサムくなっている印象だった。映画のラストで「そんな下品なことはしないでくれよ」と強く願っていたのだが、儚くも願いが裏切られてしまった。

 そのまま L’Arlequin に移動し、ホン・サンス監督『La caméra de Claire』を観る。L’Arlequinのぎしぎしとうるさく軋む椅子に懐かしさを覚える。これまでわたしはホン・サンスの作品をあまり理解できていなかったのだが、この作品ではじめて理解した気がした。図らずとも2作連続でイザベル・ユペールが出演している。カンヌ映画祭の折にカンヌへとやってくる映画関係者の一コマを捉えた小品だが、これがじつにおもしろい。長回しの固定されたカメラは、ときおりなんとも言いがたい絶妙な空気感を捉えてしまっている。その形容しがたい軽妙さには、確かに作家の印が刻まれていたのだった。フランス人の受けがいいのもよくわかる。

 もともと泊まらせてもらう予定だった友人と連絡がつかない。呑気に映画を見ていたら、すでに22時を回っている。わたしは空腹と疲労とに辟易としながら、バーガーキングへと流れついた。バーガーキングのワッパーの旨さにおどろく。マクドナルドのビッグマックセットよりも価格が安い上に、満足度が高い。しかも、思いのほか客層が落ち着いている(パリのマクドナルドは、22時ごろの柄の悪さが尋常ではない)。Jに連絡を取って、ふたたび泊めてもらうこととなった。


3月11日(日) パリ、ブリュッセル

 おそろしくいい天気だ。Jと「Les fleurs de Mai」という13区の中華料理屋へ向かう。ほかの客たちの食べている皿から立つ湯気がたまらず、つぎつぎと運ばれてくる料理がどれも絶品だった。世界の料理談義に花を咲かす。日本食というのは、他の国の料理と比べても、驚くほどの多様性がある。わたしの知るかぎり、多様性という意味では、日本食は世界でいちばん秀でているのではないか。つまり、ひとつひとつの料理が個性の立った料理として、他の料理と被ることなく存立している。そうした料理は、海外から輸入されたものであることが多いのだが、日本人は独自のアレンジを施して「日本食」に変貌させてしまうのだ。中華料理や韓国料理も品数は多いが、その峻別のしやすさという意味ではやや劣るように思われる。とはいえ、これは仮説にすぎない上に、わたしが日本人であるということもあるので、もっと検証を必要とする仮説ではある。世界の料理にまつわるあれこれを考えたり、話したりするのは愉しい。

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 あまりにも天気がよかったので、13区をそのまま散歩する。13区は、いまではパリ最大のアジア人街を擁していることで有名な地区だ。この地区に入った途端に、中華系香辛料の匂いがたちこめている。日曜日ということもあり、子どもがあたりを駆け回っていて、非常に活気のある地区だ。わたしはまだ入ったことはないのだが、「中国ノートルダム教会(Église Notre-Dame de la Chine)」という中華系の信者に向けたカトリック教会がある。Jによれば、このチャイナタウンは、もともとアジア系移民が集中していたのではなく、90年代の再開発でいくつもの団地を建てたところ、図らずもアジア系移民が押し寄せてきて、その結果、徐々に中華街が形成されていったという。しかし、「アジア人と団地」というのは、研究テーマとしておもしろいテーマではないだろうか。わたしの知人で、パリのアジア系移民の研究をしているひとがいる。かれ曰く、フランスではアフリカ系、中東系移民の研究はし尽くされているが、驚くほどアジア系移民についての先行研究はないそうだ。アジア系移民二世、三世は、学校成績の統計データを見ても、人種別ではもっとも優秀な成績を収めているらしい(とはいえ、人種別のデータを公に取ると法に抵触するので、間接的な形でしかデータは出ていないらしいが)。

 そのままセーヌ川を渡り、12区のBercy へと歩く。12区というのはいまの重点的な再開発地区のひとつで、一見するとパリとは思えないような町の光景が広がっている。いちばんの違和感は、隣接する建物がつながっておらず、別個の建物が並んでいるということだろう。わたしははじめて、12区の「Bercy Village」というショッピング・センターに足を踏み入れる。かつての駅舎を改築したのだろう、地面には線路跡が残っている。日曜日ということもあるのだろうが、その盛況ぶりに驚く。パリであって、パリではないかのような場所だ。かつて毎日のように通っていたシネマテーク・フランセーズに立ち寄って、近くのカフェでエスプレッソを飲んだ。ことあるごとにカフェに立ち寄れる文化をほんとうに愛している。フランスで気に食わないことは山ほどあるが、このカフェの文化だけは、日本で恋しくなるもののひとつだ。それから長距離バスのバス停に向かい、ブリュッセルへと経つ。パリではひとと会ってばかりで、いくつか行きたい美術館もあったし、郊外にも足を伸ばしたかったのだが、まったく調子を狂わされた。とはいえ、わたしの世界でいちばん会いたいひと、おそらくパリにいる可能性が高いのだけれど、今回も再会は叶わなかった。かれはブルキナファソで会ったフランス人で、わたしの知っている人間のなかで、もっともすぐれた知性を携えている者だった。かれとの思い出はたくさんある。どうやらかれもすでにブルキナファソを離れているようなのだが、三年前に教えてもらったメールアドレスにいくら連絡をとっても返信が来たことはないし、だれに消息を聞いてもわからないのだ。かれはいったいどこで何をしているのやら。
 
 ブリュッセルに着く。ベルギーは、数年前にブリュッセルの近くの Charleroi という町の空港にトランジットで降り立ったことがある。搭乗口の前で寝落ちしてしまい、飛行機を逃すという失態をしでかしたせいで、不遇の36時間を過ごす羽目になっていた。そのあいだに Charleroi もいくらか見て回ったが、陰惨な雰囲気の町だった。その36時間はわたしの記憶のうちでもとりわけ暗い影をまとっていて、ベルギーの印象自体もあまりよくないのだ。雨と強風のなか、ブリュッセルの夜を少し歩いて回る。まず驚くのはその多言語文化である。ブリュッセルはフランス語とフラマン語の緩衝地点として有名だが、実際に町を歩いていても、各々の言語を話しているひとたちと交互にすれ違う。スーパーの店員がフラマン語を話しているかと思えば、マクドナルドの店員はフランス語でオーダーを取っていたり、エレベーターの言語表記がフラマン語になっていたりと、両言語の峻別の規則がいまいち見えないのでおもしろい。店員同士が、オランダ語訛りの強いフランス語で雑談したりしていて、まるで生活感が透けて見えないのにやや面食らってしまう。予約していたホテルに着いて、寝息の聞こえるドミトリーの部屋で、物音を立てないように静かに眠った。

 

ヨーロッパ旅行記(March, 2018) ― 全三回

ヨーロッパ旅行記 Ⅰ(March, 2018)

3月4日(日) 東京、北京

  出発の日。本当は一週間ほど前にヨーロッパへと渡航する予定だったのだが、フライトが予定されていたその日にインフルエンザに罹って、あえなく自宅謹慎の日々を過ごしたのだった。わたしはこのころ友人と映画を撮っていて、ほとんど自宅はベッドの置かれる場所でしかなかったので、ひさびさの自宅はどう過ごしていいかわからなかった。ときおり症状もひどくなったりして、映画を観る気も、本を読む気にもならず、ただただ『ブラタモリ』の録画を一気に観ていた。タモリさんの姿は病める身体にもすっと沁みわたっていく。いくらか高額なお金を払ってまで渡航しなければいけない理由はなかったといえばなかったのだが、それでもわたしは航空券を再購入し、こうして渡航をすることとなった。あわてて荷造りをした小さなスーツケースをひとつ持って羽田空港へ。都心に近い上、国際線ターミナルの使い勝手がよく、空間設計もすっきりしていて心地がいいので、羽田に来るたびにもう成田は勘弁だという気持ちになる。しかし、わたしはどうしてこれから海外へと渡るのだろうか。なにがわたしを駆り立てるのだろうか。答えの出ない問いをみずからに投げかけながら、搭乗ゲートをくぐった。

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 四時間ほどのフライトを経て、トランジットの北京に到着。すでに夜更け。乗り継ぎを担当する中国人の係員に「こんなチケットの買い方をしてはいけない」と怒られた。たった二時間の乗り継ぎ時間で、ターミナルを変更しなければならなかったのだ。係員についていって、裏口からもうひとつのターミナルへ移動することとなった。わたしはたったひとりの乗客としてバスに乗る。窓越しに真っ暗になった北京の空港が眼前をよぎっていく。そういう係員の暗躍もあって、なんとかつぎの便には間に合った。アムステルダムへの10時間のフライト。もっぱら眠っているか『アンナ・カレーニナ』を読み進めていた。トルストイを読むのははじめてだ。こういう機会でもなければ、あれだけの長編に挑戦する気にならないのだ。スーツケースにも、残りの三巻を詰めてきているのだが、果たして読み終わるだろうか。

 

3月5日(月) アムステルダム、ベルリン

 中国語でうたう女性たちの声で目醒める。わたしの座席の後方に座る何人かが斉唱していたのだ。その響きはいくらか古風で、きっと民謡かなにかにちがいない。それにしても、いったいなんの曲だろう、そしてどうして彼女たちはそれをうたっているのだろう。どう考えても迷惑なのだが、そのときわたしはなぜだかとくに不快だとは思わなかった。午前五時すぎ、アムステルダムスキポール空港に到着する。荷物受取所で待っていたのだが、最後のひとりになるまでついにわたしのスーツケースは姿を見せなかった。KLMのバゲージセンターにいって褐色の女性スタッフと話す。なぜだかKLMは、他の航空会社と比しても、褐色の女性が多いイメージだ。それはオランダの人口比においてもそうなのだろうか。さておき、ロストバゲージのリポートをつくってもらって、わたしは空港を出て、とりあえず友人Tの家へと向かう。信じられないくらい走行音がしずかな電車に乗って中心街へ。アムステルダムは大きな街だな、と車窓の景色を眺めながら思う。経済がうまくまわっている街の雰囲気を湛えている(それは巨大な経済圏のうちにあるというだけの雰囲気とはぜんぜんちがう)。

 Muiderpoortという駅の近く、はじめてアムステルダムを歩く。六時を回っていたが、まだ町は目醒めきっておらず、いまだに暗がりのうちにある。そう、ヨーロッパの冬の朝は遅いのだ。かつてフランスに留学中の冬、八時からの授業に出席するためにまだ朝日すら出ていない暗闇のうちを歩いて、大学に着くころにだんだんと明るくなっていた日々のことを思い出す。煉瓦造りの建物たちのあいだをGoogle Mapsを頼りに歩く。わたしの周囲では頻繁に通勤するひとたちの自転車が行き交い、それぞれのアパートの前には建物の住人分だと思われる自転車が所狭しと停められている。伝聞に違わず、ここは本当に自転車の国のようだ。異国の空気を思いっきり吸い、白い息を吐く。澄んでいて気持ちがいい。気温は低いが、さほど寒さを感じない。

 Tのアパートに着き、Tと再会を果たす。Tは、わたしの大学時代の哲学ゼミに出席していたオランダとギリシャのハーフの友人だ。昨夜のパーティの残骸が転がっていて、その隙間をモンティと呼ばれる老猫が慎重に歩いている。彼女はアパートに出現した鼠たちをすべて食べてしまったそうだ。いろいろと話していると、TのガールフレンドのIが部屋から起きてくる。一時間ほど話をして、わたしは慌ててアパートを出た。夕方までにベルリンに向かわなければならないのだった。

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 アムステルダム中央駅の朝の景色は、いたく感動的だった。対岸と往復をするフェリーから、大勢のひとびとが自転車とともに出ていって、颯爽といろいろな方向へと去っていく。駅前には数千台はあるのではないかと思しき二段積みの駐輪所がある。これほどまで生活の中心を自転車が占めている、というか自転車が町の景色の欠かせないピースを構成しているとは思っていなかった。あとから聞いたことによると、アムステルダムの政治は中心街への私用の車輌侵入を禁止しようとしているという。そういう町のつくりかたもあるんだな、と思った。東京はあまりに高低差が激しいので、自転車中心の街づくりには不向きだろうが。

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 ベルリンへの六時間の列車の旅。オランダにいるあいだは平坦な土地が地平線までつづいていたのに、ドイツとの国境を超えて少し経つと、窓の外に突然小高い山のようなものが出現して驚く。植生もいささか変わっている。すえた緑色の牧草地ではなく、黄色い野原が広がるようになった。ヨーロッパは、ひとつひとつの町の規模が小さい。それは列車に乗っているとよくわかる。ひとつの都市を過ぎてから列車で少し進めば、車窓の景色は途端に田園風景へと変わっていく。朝十時を回ったころの陽光の差しかたが、まるで夕刻のようなやわらかな光で、その光のうちのなかでなんども微睡んだ。列車の旅行はたのしい。

 ベルリン中央駅に着いた。ベルリンどころか、ドイツに降り立つのははじめてだ。中央駅構内の様子は、わたしに強い既視感を与えてきたのだが、その光景をどこで見たのか思い出せない。四十分ほどバスに揺られてNeuköllnという地区に着く。「新たなケルン」という名前が示しているとおり、ベルリンはケルンよりもあとに形成された町なのだろう。事実、わたしが抱いたベルリンの第一印象は、ヨーロッパにしては歴史の浅い街であるということだ。Neuköllnは、移民たちが多く暮らす町のようで、非常にたくさんのトルコ系やアラビア系を見かけた。逆にアジア系やアフリカ系をあまり見ない。あとから聞いた話だが、ベルリンにはチャイナ・タウンと呼称できるような大きな地区が存在しないらしい。てっきりチャイナ・タウンは世界中の都市にあるものだと思っていた。

 アパートの呼鈴を鳴らす。Pが扉を開ける。Pはフランス人の写真家で、かれが日本にいるときに出会った(いささかへんな出会いかたをした)。いまはグルノーブルの実家に戻っていて、わたしが声をかけて、ベルリンまで呼びつけたのだった。部屋のなかからギターの音色が聞こえてくると思ったら、ベルリンの近郊に暮らしているというPの友人のRだった。かれも東京に住んでいたらしく、しばらく東京の暮らしについての話で盛りあがる。ヒップスター的な外国人たち、みんな高円寺が好きだな。

 シュプレー川の近くまで三人で歩いて、活気のあるバーで一杯引っ掛けてから、わたしはPとともにメルセデス・ベンツアリーナのケンドリック・ラマーのコンサートへ向かう。このベルリン公演は「THE DAMN. EUROPEAN TOUR」の最終日だったのだが、ケンドリックが来日することはそうそうないだろうと踏んでベルリンのチケットを購入していたのだった(このあと今年のFUJI ROCKのヘッドライナーに選出されていることを知る)。席に着いてあたりを見回すと、17,000人収容のハコの様子は壮観だった。こんなに大きいハコで観るライブはいつ振りだろう。開演前にベルリン生まれベルリン育ちの青年といくらか言葉を交わす。わたしはわざわざ東京からケンドリックの公演をめがけてやってきたのだというと、かれは大物アーティストのだれしもがベルリンにやってくるから、自分はわざわざ海外にいく必要がないのだと自慢げに語った。ベルリンは住みやすく、文化的な催しにも欠かすことがない、ほかの国や町に移住する未来はこれぽちも考えられないね、と。自分の生まれ故郷にこれだけの愛着を持てるというのはすごいことだ。パリや東京に暮らすひとたちのあいだでも、かれほど自信満々に自分の住まう土地に愛着を表明している人物には会ったことがない気がする。

 ケンドリックのショーの前に、前座としてジェイムズ・ブレイクの演奏があった。ビールを片手にリラックスしながら聴き入る。そして、お待ちかねのケンドリック。「D.N.A.」の"I got, I got, I got"が流れはじめた瞬間、一気にスイッチが入り、わたしを含めた17,000人の観衆は座席から飛び上がって口々に叫んだ。あの昂奮は本当に忘れがたい。バックバンドはステージの下方で構えているので、ケンドリックが広いステージをひとりで駆け回るのだが、かれのステージングは圧倒的で、あのだだ広い空間を完全に支配していた。わたしたちはただ身を任せればよかった。ときおりかれは観客にマイクを向け、代わりにうたわせる(驚くべきことに、「HUMBLE.」なんて、観客のおよそ半分は歌詞をすべて諳んじれるのだった)。絶妙なタイミングで自分の口にマイクを戻し、観客のボルテージはさらに上昇していく。かれの身の処しかたは、完全にスーパースターのそれだった。血液が逆流していくような昂奮のうちに酩酊する。

 昂奮冷めやらぬまま、アリーナを出て、ベルリンの壁の隣を歩いていく。途中で見つけたケバブ屋に入った。3.5ユーロで頼んだケバブは食べきれないほどの大盛り。またしてもベルリンの物価の安さに眩暈がする面持ちだ。わたしはこの昂奮のまま静かに眠りにつきたかったのだが、同行するPがクラブに行こうと言い出す。わたしはまったく気乗りせず帰宅を唱えたが、Pのクラブへの渇望が打ち勝ったので仕方なく同行。3Gがうまく機能せず、Wi-Fiを探して、結局Tresorというクラブへと向かった。外で列に並ばなければならず、わたしは寒さのあまりに口を利けない状態になっていた。身体は芯まで冷え切ってしまい、中に入ったあとも瀕死状態。やたらとハイテンションなフランス人カップルに捕まってしまい、わたしは疲れと眠気で椅子に座って居眠りをしていると、そのたびに見つけ出されて「なに寝てるんだ、踊るよ、踊るよ」と連れ出される。どんなに隅のほうで隠れて休んでいても、必ずすぐに見つけ出されて、しまいには若干怒りさえも芽生えた。わたしも加齢の足音からは逃れられないから、と言い訳したいところだったが、かれらはわたしよりも年長だった。結局、アパートに戻ったのは午前6時近くだった気がする。アパートへと戻る深夜バスが待てど暮らせど来なくて、現地人と一緒に憤慨していた。

 

3月6日(火) ベルリン

 Rとともに、Neuköllnを徘徊し、アラビア系の客で溢れ返っているアラビア料理屋に逢着する。お肉の入ったフムスを4.5ユーロという破格の安さで頼んだ(フランスでは考えられない安さだ)。フムスは中東に広く普及していて、すりつぶしたヒヨコ豆をオリーブオイルやにんにくで味付けたペースト状の料理だ。もちろんピタは食べ放題で、大満足で店をあとにする。東京でもおいしいレバノン料理屋などを探したいな。

 そのあとわたしは友人と別れ、ベルリン美術館の絵画館(Gemäldegalerie)へ向かった。その手前にベルリン・フィルハーモニーがあったので、建物の中に入る。ヴィム・ヴェンダースが『もしも建物が話せたら』で主人公として描いていたのが記憶に新しい。残念ながら公演中でコンサートホール内には入れなかった。そのまま歩いて、絵画館に到着する。わたしは観光客で溢れ返る美術館を想像していたので、思いのほか閑散としていて驚いた。この美術館は、13世紀から18世紀までのヨーロッパ有数のコレクションがあり、たとえばフェルメールも、『真珠の首飾りの女』と『紳士とワインを飲む女』の二点を持っている。

 じっくりと時間をかけて回る。最近は個人的に中世の宗教絵画に胸がときめく。遠近法の技術がルネサンス期にイタリアで確立される以前のパースペクティヴの崩壊した絵を見ると、おもわずニヤニヤとしてしまう。余談だが、紀元前1世紀ごろのポンペイの壁画のうち、驚くほど遠近法的に精確な作例がいくつもあるということを近頃知った。かの街がもし火山灰に埋もれていなかったら、ヨーロッパ中世の絵画もまったくちがうものになっていたかもしれない。ともあれ、中世の作品には、思わず目を疑ってしまうような作品が多々あるので、こういう美術館を回って無名の作家のへんな作品に出会うのが愉しい。以下は『キリストの生涯(Das Leben Christi)』と題された、ケルンの未詳作家の15世紀初頭の作だとされている。いずれのパネルに描かれているのも、キリスト教絵画における主要なシーンばかりなのだが、人物造形や構図にクセがあるものばかりだ。いやはや、おもしろい。

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 それにしてもじっくりと絵を見ていると疲れる。絵画館をあとにしたころにはもう夕方になっていて、映画でも観に行こうかと逡巡したが、結局わたしはアパートに戻って、ゆっくりとした時間を過ごした。ピザが食べたいという話になり、アパートの近くのイタリア料理屋にいったのだが、感動的なうまさだった。ベルリンに着いてからまったくドイツ料理を食べていない。とはいえ、ケバブやアラビア料理のほうが、現代におけるベルリンの食のマッピングに近しい気もする。音楽を聴いていたら、布団にたどり着く前に眠りに落ちていた。

 

3月7日(水) ベルリン、パリ

 iPhoneが床に落下し、完全に画面が映らなくなってしまった。今回、モバイル回線でインターネットに接続して旅行しようとしていたので、旅行の序盤にして手痛いトラブル発生だ。行きのフライトで紛失したスーツケースもすでに中国で発見されているらしいのだが、いまベルリンの空港に輸送中だという。もう間もなくベルリンを発ちますがと告げても、すでに移送中なので変更は認められないという始末。災難がつづくのは、わたしにとってはもはやいつものことだ。PとRに「Mr. Bad Luck」といじられる。

 ベルリンのHamburger Bahnhofという現代美術館にいく。ハンバーガーとはなんぞやと思っていたら、かつての駅舎を改装したもので、ハンブルグ行きの列車が運行していた終着駅だったそうだ。ベルリンでは、かつて行き先の町の名前が駅名になっていたらしい。毛沢東を描いたウォーホルの巨大な作品が常設展にある。彫刻の企画展に展示されていたドゥシャン・ジャモニャというマケドニアクロアチアの彫刻家の作品が非常によかった。すでに没しているようだが、ほかの作品の多くは(モニュメントも含めて)、氏にゆかりのあるバルカン半島にあるようだ。旧ユーゴスラビアも含めて、バルカン半島はわたしにとって完全なる未知なので、思いがけぬ形で少しずつ解像度を豊かにしていきたい、と思っている。

 ベルリン大聖堂にいく。シュプレー川の中州、美術館が固まっている地区のすぐ南に位置している。いくつかの美術館は大規模な補修工事をしている真最中で、その光景はなかなか壮観であった。しかし、欧州の古い建物にああいう大型のクレーンが入っているのを見るたびに、いったいはじめはどうやってかような建造物を建立したんだろうと感じ入ってしまう。もちろんのことながら、クレーンなんてものはなかった時代に建てたのだ。木造建築が主であった日本のそれとは異なり、欧州の場合は石である。まったく建築への執着というのはおもしろい。さて、ベルリン大聖堂は、ネオ・ゴチック建築で、ドイツにおいてはプロテスタント宗派最大の教会だそうで、確かに壮麗につくられてはいるのだが、いまいち心に訴えかけてくるものがない(巨大なパイプオルガンは良かった)。ルター、カルヴァン、ツヴィングリ、メランヒトンという4人の宗教改革者が柱頭として高いところに据えられている。しかし思うのだが、こうした形で功労者をキリストが祀られている祭壇よりも高い場所に置いてしまうことについては、宗教上問題を呈さないのだろうか? キリスト教建築における空間的制約、とりたてて高さについてはやや興味をもっている。結局、大聖堂のドームの外側、展望台までひとりで階段を登った。あまり整備されておらず、非常に登りにくくて愉しかった。大聖堂からの景色にはさほど感銘を受けませんでした。天候が悪い。

 Friedrichstraßeのあたりで、ベルリンの友人Jと会う。かれは、二年前にパリで再開して以来の留学時代の友人。いまも変わらず学生をつづけているらしく、相変わらず反ユダヤ思想研究をしているらしい。かつて友人たちと旅行しているあいだ、フェミニズムをめぐって大口論になってしまい、女性1 : 男性3という構図になりかけたところ、Jは女性のほうに与し、激戦を交わし、しまいには彼女を泣かせてしまうまでにいたった(わたしたちはフェミニズムに反対しているわけではなく、あくまでラディフェミの訴えかける普遍性に疑問を呈していただけだったのだが)。Jとともに、三年前のあの夜のことを回顧したり、思い出話に花を咲かせた。そして、ベルリンの暮らし、東京の暮らしについてお互い報告しあった。

 Jとともに中心街を見て回る。ドイツ人は空間設計がへただ、とわたしは思った。国会議事堂の向かいにある広場は、ただ芝生になっているだけで、だれひとりとして横切るものがいない。これがフランスであれば、市民がピクニックをする空間として開放されていてもおかしくないのだが、そもそもそういう用途での利用を受け付けないような雰囲気がある。Jによれば、ある批評家はその空間のことを「ドイツ全土でもっとも意味のない空間」と呼んだそうだが、そういう無駄な空間が町のいたるところにあった気がした。そのあと、ブランデンブルグ門を通って、ホロコースト記念碑のあたりを歩く。数メートル大の石碑が等間隔で並べられた奇妙な空間だ。石碑の上に乗って遊んでいるひとたちや、石碑に落書きがひとつもないのが逆に不気味だった。

 ベルリンから離れる。ベルリンには2泊3日いたわけだが、ケンドリック・ラマーの公演があったということもあったが、やはり満喫するには最低でも一週間くらいはいないとだめだな。慌ただしく観光して、というのはそもそもわたしのスタイルに合っていない。とまれ、ベルリン・テーゲル空港からパリ・オルリーへ。パリに入った瞬間、看板の言葉も、ひとびとの会話も頭の中に飛び込んでくるので、突然情報量が増えてやや面食らった。パリに住んでいる友人Mを訪ねるべく、Cité Universitaire へ。活況なスポーツ・バーに入って、近況をいろいろと話しこんだ。かれはソルボンヌで修士課程をしているかたわら、パリでフリーランスとして働きはじめ、ようやくいろいろなものごとが順調に回りはじめたらしい。そのまま彼の住むイタリア館に泊まった。

 

ヨーロッパ旅行記(March, 2018) ― 全三回

いま、ふたたび〈変身〉するグレゴール・ザムザをめぐる身体性 ―― ふたつの『変身』をめぐって

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 カフカの小説をときどき身体がひどく欲するので、仕方なしに餌としてカフカを与えることがある(カフカのことを考えはじめると、思考パターンまでもがカフカ的モチーフに侵食されてしまう)。今回もその生理現象が生じたので、フランツ・カフカ『変身』を読みなおした。そういえば、とパソコンに眠っているデータを探索すると、三年前に書いた文章が出てきたので、自己満足にすぎないが置いておく。それなりにがんばって書いた記憶があるのだが、いまではこのような安易な結論を取ることはないだろうな、とちょっとは微笑ましく思えた。

 今回、はじめて丘沢訳の『変身』(光文社古典新訳文庫)を読んだのだけど、ううむ、という感じだった。やはりわたしは多和田葉子の新訳のいくらか冗長なところが好きだ。「複数の夢の反乱の果てに目を醒ますと」という書き出しからたまらない。『変身』については、いつかきちんと訳文を比較検討したい。というか、原文で読めるようになりたい。カフカについてはとくにそう思う。

 

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MY FAVOURITE ALBUMS IN 2017

 はじめてベスト・アルバムなるものを選定してみたのだが、けっこうむずかしかった。とりあえずよく聞いていたということを支点に思いつくものを挙げていって、結果的に20枚のアルバムをリストアップしたものの、この数字にとくに意味はない。音楽を語るためのボキャブラリーは持ちあわせていないので、付随するコメントはきわめて私的な思い入れです。わたしはとくに耳の早いリスナーでも、コアなリスナーでもなく、聴き逃したものもたくさんあるはずなので、ほかのリスナーたちのベスト・リストを参考にして、聴き逃していた新しい音楽に出会うのがたのしみです。

 

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  1. Jamila Woods - HEAVN
     いまのわたしにとって、ほとんど完璧といっていいほどの音楽だ。わたしは こういうものを聴きたかったんだ、と。2016年には本国ではリリースされていたようだが、そのときは聴いていなかったので、ここで勘弁してください。#01の「Bubbles」からまずもって素晴しい。こういう音楽にもっと出合いたいのだが、そのためにはただシカゴのソウル・シーンだけに注視していれば十分なのかもしれない。来年、ベルリンにライブを観にいく予定です。

  2. スカート - 20/20
     朝も昼も夜も、日常のあらゆる情景にすっと入りこむ名盤。フジで披露していた新曲「さよなら!さよなら!」が頭から離れず、満を辞して新譜を手に入れてから、毎日のように聴いた。「私の好きな青」で「僕らが旅に出ない理由なんて/本当はただのひとつだってない」という詞に打ちのめされた。このフィーリングはまさにいまの感性だと思う。従来のスカートの楽曲よりもだいぶ前向きになっていて、これまでのディスクでいちばん好きです。

  3. Daniel Caesar - Freudian
     「Freudian(フロイト主義者)」という題がなによりも素晴らしく、ジャケットのアートワークも素晴らしく、もちろんのことながら、音楽も素晴らしい。涼しい夏の夜長にひとりで踊りたくなるような、すっと心が軽くなるどこまでも気持ちのいい音楽。フロイトはこれほど瀟洒な音楽は聴いていなかっただろうに。とくに#06の「We find love」 がいい。"We find love, we get up / And we fall down, we give up" という歌詞の主語が We であることのすばらしさ。

  4. Kendrick Lamar - DAMN.
     はじめはいくらか落胆した。これまでの三枚のアルバムと比して、サウンド的なおもしろさがない、と思った。とはいえ、いつの間にかタッチ・スクリーン上の指は『DAMN.』を目がけているし、脳内で"I got, I got, I got, I got"というかけ声が聞こえてくる。気づけばずぶずぶとハマっていた。歌詞を子細に読んでも、相変わらず文学としても一級品である。"Nobody’s praying for me"というアルバムを通して繰り返されるモチーフの切実さに実存のきらめきを感じてしまいます。

  5. Lucky Old Sun - La Belle Époque
     いわゆるトーキョーインディーのような音楽をめっきりと聴かなくなってしまい、よもや邦楽そのものすら若干離れつつあった2017年であったが、そんななかでも彼らの発見は大きかった。大阪にいる友人に教えてもらい、その友人の家でひたすらレコードを回しつづけてた。「さよならスカイライン」を聴くと、快がひたすらにハウリングしていくような突き抜けるような暑さの夏の日のことを思い出す。「横で立てる寝息が/はやらない歌をうたう彼に/これからを諭す」という詞があまりにも好き。

  6. Sampha - Process
     なんとロマンチックで壮大な音楽だろう。たまに「Blood on me」の "No need, no need to take from me" からサビにかけてのうっとりするようなメロが猛烈に聴きたくなる。透き通っていながらも、どこかで哀愁を漂わせているサンファの声の神秘さ。最後の最後の瞬間まで逡巡した挙句、フジで聴き逃したのが痛い。だって、Rhyeの新曲「Summer Days」もよかったんだもん。

  7. PUNPEE - Modern Times
     日本語の HIP-HOP シーンにあまりおもしろさを感じられなくなり、あまり聴かなくなってしまったのだが、まさに真打登場と思った。日本という地点においてヒップ・ホップ的なるものを咀嚼するためには、彼のようなアティチュードこそが相応わしいのではないか、と。自分のなかでは、ある種のインテリゲンチャの戯れという意味では、『マスター・オブ・ゼロ』とどこかでつながっている。

  8. Okada Takuro - ノスタルジア
     春の日差しのもと草木に囲まれたひらけた場所でかれの演奏を聴きながら、ああこんなに幸福でいてしまっていいんだろうか、とおもっている自分の姿が見えた。不思議と ―― 意図的にヴォーカルのヴォリュームを小さくしているのかもしれないが ―― 歌詞を意識したことはいちどもないのだが、おそらく歌われているものごともきっと肌にすっと沁み入るようなものなのだろう。
     
  9. millic - vida
     韓国のヒップホップ。日本のヒップホップ界隈とのレベルの差を見せつけられて愕然とした。まったくガラパゴス化していない。むしろ世界の最先端じゃん。そもそも、韓国語というのは、日本語よりもヒップホップというジャンルに適している。韓国語は日本語よりも圧倒的にライムが踏みやすく、モダンなビートにもスマートに乗っかってしまう。英語でうたっている曲も多いが(英語でラップが踏めるということに日韓の差を感じますね)、とくに #04の「Can't wait」が好き。(((O))) という名前の女性シンガーの透き通るような歌声にうっとりしています。
     
  10. Kamasi Washington - Harmony of Difference
     一聴して「あれだけ新譜愉しみにしていたのに、いまいちだな」と思った。「しかしカマシだし、もう一度聴いてみよう」と思って、もう一周した。「あれ」と思って、さらにもう一周した。聴いているうちにとてつもなく好きになってしまった。いまでは、#4の「Perspective」のはじめのひと吹きを聴くだけで悶絶する身体になってしまった。というか『Harmony of Difference』という標題、素敵すぎるのでは。

  11. Zack Villere - Little World
     1995年生まれのナードが送り出した至宝のポップ・ミュージック。ナードのくせにサンプリングのセンスがイケすぎてる! ナードのくせにインスタグラムの自撮りが多すぎる! ナードのくせに! ナードのくせに……愛。
     
  12. Arto Lindsay - Cuidado Madame
     
    "I love your hand writing of my name on your belly till you forget your name" という状況性はいまいち理解しかねるが、なんとも生々しい情景が所与されるような歌詞が、くすぐったくなるようなビートの上に乗っかっている。Chic, Elegant, Bizarre, そういう形容詞が矛盾なく該当するアート・リンゼイ。このアルバムをもって改めて、かれは唯一無二の存在だなと思い知った。

  13. Migos - Culture
      2017年にトラップ系の楽曲はたくさん聴いた気がするが、なんだかんだ言って、Migos がいちばんいい、というのが今年出た結論です。合いの手がたのしい。あの合いの手は絶対に中毒性があるんじゃないか。合法的な薬物である。喧嘩弱そうなのに強がっているというネットに流布している通説が好きすぎる。ほかのただの強そうなひとたちのトラップ・ラップはもう聴きません。

  14. 環ROY - なぎ
     アルバムのいたるところに意図的に用意されているように思われる余白がたまらない。それはサウンドだけでなく、日本語の使われかた/ことばの繋げかたということにも感じられる。そう思っていると #04「On & On」のような曲があったりして、そのコントラストにもおもしろい。とはいえ、「On & On」にも、どこか控えめな空気 ―― もっとエクストリームにできたはずなのに、その一歩手前で踏み止まっている様子があり、その感覚がアルバムの通底音として貫徹している、非常に完成度の高いアルバムだと思う。

  15. Thundercat - Drunk
     
    いたるところで2017年のベスト・アルバムのひとつに挙げられていて、確かに自分もこうして挙げているし、事実すばらしいアルバムだったと思うんだけど、全世界で諸手を挙げて絶賛されているのはなぜなのか。すぐれた批評をご存知のかたは教えてください。

  16. 唾奇 x Sweet William - Jasmine
     
    ヒップ・ホップ・ムーブメントの正当な嫡子のような装いでありながら、すごくヘンな――私生児的なバランスの上に成り立っているアルバムだと思う。ほとんど唾奇が新人だということが信じられないくらいに完成度が高い。

  17. 柴田聡子 - 愛の休日
     柴田聡子さんへの大いなる愛が日々着々と育っていっている気がするんですが、どうすればいいの?

  18. Sarah Elizabeth Charles - Free of Form

  19. Bonobo - Migration
     #2「Break Apart」での Rhye といい、#6「Surface」での Nicole Miglis(Hundred Waters)といい、ボーカルを迎えた曲の聴き心地がよすぎる。 モロッコ出身のアーティストを客演に迎えているという#7「Bambro Ganda」、ヤイヤイヤイしている#8「Kerala」など、あまりにダンサブルがすぎるビートの暴力に堪えることができない、フロアで聴きたい。フジロックの三日目にも残るべきであったと後悔が絶えない。

  20. Calvin Harris - Funk Wav Bounces Vol.1
     2017年、おなじみのアルバム。「アマイ!」はいろいろなところで聴いたな。個人的にもドライブにはもってこいの一枚で、よく聴いていました。こういう音楽が売れ筋に乗っている海外の音楽シーンと、日本のそれとの乖離をひしひしと感じます。 

 

 ところで、2017年の印象的なライブは、まずは渋谷WWWの NONAME のライブを挙げられる。60分に満たないアクトだったが、あれだけ幸福感の凝縮された時間はほかにない。"When the sun is falling down / and the dark is out to stay / I picture your smile / like it was yesterday" とフロアの全員で合唱したときの幸福といったら筆舌に尽くしがたい。記憶のなかでもとびきりのまぶしい輝きを放っている、一生大事にしたい記憶の断片である。

 ことしははじめて FUJI ROCK にいった。金曜日と土曜日の二日のみで、さっそく山の天気の洗礼を受けた(極寒で死にそうだった)。とはいえ、尋常じゃないくらいに愉しんでいた気がする。ベスト・アクトは、Aphex Twin か The XX かな。Aphex Twin のアクトが終わってしばらくは呆然として動けず、まともに喋ることすら能わない、頭を殴られたような衝撃だった。

 だが、とりたてて印象深いのは、Gallant のアクト(最高!『Ology』もたくさん聴いた)を観たあとに隣にいた友人の「どうして神さまはわたしたちに同じ声を授けてくれなかったんだろう」という呟きである。その神さまのいたずらによって、わたしたちは〈Harmony of Difference〉を愉しむことができているのだ。来年もたのむぜ、神さま。