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ルシール・アザリロヴィック『エヴォリューション』―― 時代遅れの旧き想像力

映画

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 ひどかったとしか言いようがない。確かに美しいシーンはあった。とりわけはじめの海中のシーンは息を呑むような美しさを湛えていた。神秘的な碧の海に、鮮やかな赤いパンツを履いた白い肌の少年が潜ってくる。そのような色彩の感覚はいい。美点をあげようと思えばいくつか挙げられる気もするのだが、総じてひとつの作品としては救いようのないくらいの酷さだった。

 UPLINKで見たのだが、わたしはほかの観客の顔すら見たくなかったので、エンドロールの途中で退出した ―― 同じ場を共有しているほかの観客たちの顔が見たくなるかどうか? というのは、わたしは映画にかぎらず、ひとつの作品を評価するときに大事にしている指標である。つまり、その指標軸ではゼロ点。

 しかし、UPLINKはどうしてこの作品をかくも推しているのだろうか。ある意味、劇場としての個性を獲得しているといっていいのだが、この作品を5回も1日に上映するくらいなら、もっとほかに上映するべき優れた作品はあるように思うのだけれども。べつにフランスでヒットを記録したわけでもないので、おそらく作品を引っ張ってくるひとたちのお眼鏡にかなったのだろうけれど、なんだかなという気持ちが晴れない。

 カイエ・ドゥ・シネマの評にはあまり共感しないことも多いけれど、この作品についての短評はよく言えているな、と思ったので以下に引用。

Un cinéma incroyablement daté, tout droit tiré de cet imaginaire d’Europe de l’Est des années 80 qui n’a cessé depuis lors d’empoisonner le petit monde du court-métrage fantastique français.

 簡単に訳せば、1980年代の東ヨーロッパ的な想像力は、フランスの幻想的な短編映画の小さな世界をずっと毒し続けている、その象徴的な作品であるというところか。まさしくその通りだと思う。そういう想像力は、もはや時代遅れであるという感覚はわたしもどこかで共有している。日本では、やたらとヤン・シュヴァンクマイエルやイジー・バルタといったチェコ・アニメのあたりの奇怪な想像力が、あまりにも称揚されすぎているきらいがある(なぜあれほどまでに頻繁に特集上映がかかるのか)。もちろん、そのことにはおそらくれっきとした理由があり、わたし自身も惹きつけられる気持ちもわかる(というか、そもそもチェコアニメもぜんぜん嫌いではない)のだが、いまの時代において新たな作品をつくるとき、そのような想像力がもうすでに古くなってしまっているということは、世界的には共有されている感覚にちがいない。

 その感覚については、依然としてうまく言語化できないのだが、この『エヴォリューション』という映画を観て、わたしはその確信をさらに深めることとなった。やれやれ、という気分だ。ランタイムが90分以内だったからまだ耐えられた。ルシール・アザリロヴィックというフランスの女性監督は、ほかに『エコール』('04)という、それなりに日本でも知名度のある作品を撮っているようである。いまのままだとおそらく観ることはない。

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 たぶん監督としてはいろいろと作品のうちにメタファーを込めたのだろう。そういうメタファーをひとつひとつ解き明かしていく遊びも愉しいことには同調するし、わたしとしても、メタファーにすべて気づいたうえで批判しているわけではぜんぜんない。強いていえば、この映画は女性による男性への復讐、そして復讐の対象としてさらなる弱者としての少年が選出されていることへの皮肉を描いていたのだろう、とは思ったけれど、そのこともまったく的を外しているかもしれない。後者の視点は、いまの時代において求められていることなのかもしれないが、なにぶんそのナラティブにはうんざりだったのだ。

 

   なぜうんざりだったのにこれほどくどくどと書いているのかというと、 このことが言いたかったからに過ぎない。ロクサーヌ・デュランさん、ラ・トゥールの絵に出てくる怖い女性にあまりにも似ていて、上映中も集中ができなかった。わたしはラ・トゥールの怖い女のひとがからっきしダメなのだ。《いかさま師》の女性にも似ているよね。森村泰昌のように、ロクサーヌ・デュランさんをキャスティングして《いかさま師》を再現してほしい。

 

 それくらいです。