水林章, "Une langue venue d'ailleurs" ―― 異邦のことばを話すということ

 嫉妬した ――と表現するのがいちばん近いかもしれない。フランス語を学び、フランスでいくらかのかけがえのない時間を過ごし、そしてフランスという存在そのものへの執着を多少なりとももっているわたしにとって、そのような道の遥か先をゆく水林先生の存在は、この本との出会いを通じて、すぐさま尊敬と憧憬と嫉妬の対象となったのである。

 水林章による "Une langue venue d'ailleurs" (Gallimard, 2011) を読んだ。彼の存在を知ったのはごく最近のことで、とある仏語関係のイベントで知り合ったフランス語の達者な学生たちと卓を囲んで話しているときに、彼のことが話題に昇ったのがきっかけだった。なんでも、そのうちのひとりが上智大学にて仏語の指導を受けていて、「これまで7年くらいフランス語を勉強してきたなかで、はじめて発音を矯正してもらった」というのである。卓を囲むだれもが、水林先生のフランス語は素晴らしいと口を揃えて賞賛するので、水林先生のフランス語を話している様子が収められた動画をYouTubeで見せてもらった。

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 正直にいって、狼狽えるほど驚いた。これほどフランス語の発声がうまい日本人は他に知らない。もちろん、幼少期にフランスに住んでいたためにネイティブレベルでフランス語を操ることのできる日本人は数え切れないほどいるだろう。しかし、彼にいたっては、19歳ではじめてフランス語を学びはじめた(parler des premiers mots en français)というのだ。この動画を見たわたしは、全編フランス語で執筆され、日本人として唯一アカデミー・フランセーズにより文学賞を授与されたという"Une langue venue d'ailleurs"をインターネットで注文してすぐに読みはじめ、そしてものの数日で読み終えてしまった。

 

 彼は本作のなかで、みずからの人生を赤裸々に語っている。両親について、幼少期について、フランス語とのはじめの出会い、留学先であるモンペリエに発ちはじめてフランスの土地を踏んだこと、生涯の伴侶となるミシェル夫人との出会い、修論や博論の執筆について、フランスの大学で出会った数々の教授たち、娘の多言語教育について…。もちろん、わたしのようにフランスやフランス語について興味を抱いているひとが読むべき本のひとつであるように思うのだが、一方で、たとえば外国語を習得するということに関心がある者にとっても、非常に示唆に富んだ本であるように思う。邦訳が出ていないのが惜しい。わたしは、以下でいくつかの感想を記しておこうと思う。

 

 

 "le français est ma langue paternelle.(フランス語はわたしの〈父語〉である)"と氏はいう。これは "langue maternelle"、すなわち母語を意味することばに対置された造語である。日本で生まれ育ってきた水林章にとっての母語は、まぎれもなく日本語である。これに対して、フランス語は「父語(父性語)」であるという。本作のなかでたびたび語られる父の影響によって、水林氏は知らず知らずのうちにフランス語へと導かれてきた。そこには幼少期の音楽体験が大きな役割を占めているのだが、ここでは詳述は避けておこう。ともあれ、そのような父の存在を多少なりとも意識しつつ、水林氏はかかる造語を置いたのである。

 だが、わたしはそのような彼の父とのあいだの属人的な体験を抜きにしても、後天的に獲得した言語のことを〈父語〉と表現することに、いくらかのシンパシーを感じたことを告白しなければならない。世界に多々ある言語のなかから、なんらかの理由によって、みずからの意志でひとつを選択し、その言語を能動的に習得せんとする ―― そのような言語は、幼少期に受動的に習得する言語とは、明らかにその出自を違えている。そこには、圧倒的な能動性/主体性が求められるといえよう。そのような能動性は、父と子との関係性にしばしば認められるのではないだろうか? わたしはそのような私感をもったのである。

 氏も次のように述べている。

"Ce n'est pas parce que je suis né dans ce pays, de parents japonais, que je dois demeurer japonais pour toujours. Il est vrai que j'ai le sentiment d'être soutenu au plus profond de mon être par ma langue d'origine ; mais il n'en reste pas moins que je me détache avec un plaisir certain de mon territoire primitif. Je m'arrache volontiers à ce formatage initial et prédéterminé qu'est ma nature japonaise." (p.260)

 「わたしが日本に、日本人の両親のもとに生まれたということは、わたしが生涯にわたって日本語を基軸とすべきこととはなんら関係がない」。もちろん、母国語によってわたしたちのもっとも深い部分が――いわばアイデンティティが――形成されていることは否定のしようがないだろう。だがそのことは、ある能動性のもと、あえて母国語からの離脱を試み、べつの言語を自らのものとしようとすることを妨げるわけではない。水林章のように、フランス語という世界に主体的に近づき、それまでの自らの〈世界〉を積極的に編み変えてゆくことは可能なのだ。

 

 水林章は、日本という場所から出たい、〈他者〉になりたい、という欲望を抱えたまま(たとえば幼少期には、「演じる」ということに熱を上げていたそうだ)、フランス語と出会った。氏がかほどまでにフランス語に情熱を注ぐようになったきっかけとして、いくつかのことが挙げられている。それは、語の音楽性であり、森有正の『遙かなノートルダム』であり、他のさまざまなフランス文学である。

 しかし、水林青年をフランス語の世界に決定的に導いたのは、モーツァルトであり(とりわけ『フィガロの結婚』におけるスザンヌという名の女性であり)、またジャン=ジャック・ルソーである。モーツァルトとルソーという二人の18世紀を代表する表現者たちについての思索は、本作において至るところに披露されており、非常に興味深い論が展開されている。べつのところでも記されていたが、近代の端緒となった18世紀のフランスの根幹にあるものを明らかにしたいという欲望によって、四十年近くに及んだフランス語という言語とともにあり続けてきた彼の生は突き動かされてきたのである。

 

 さて、二者に導かれるようにして、水林青年はモンペリエに二年にわたって留学することになる。大学の一年目を終え、数ヶ月の夏休みが与えられる。留学生の多くは、母国へ帰国したり、あるいはフランスやヨーロッパの地の観光へと旅立ってゆく。だが、彼はモンペリエに残り続けることを選ぶ。その決断について、以下のように述懐する。

"Je vivais, oserais-je le dire, dans la fraîcheur virginale des noces célébrées entre moi et Montpellier. Je tenais à cultiver cette familiarité naissante avec mon environnmenet urbain immédiat, la développer, la façonner à mon gré, pour que l'espace alentour devienne enfin mon espace à moi. Je voulais m'enraciner, creuser mon existance le plus profondément possible, là où je me trouvais. "(p.137)

  モンペリエという地に、自らの存在を、なるたけ深く根づかせたい。彼を取り巻く土地との親密さをさらに育み、その地が〈みずからの場所〉となるまで仕立て上げたい、と彼はいうのである。わたし自身、フランスに留学するにあたって、似たようなことを考えていた。というより、東京という土地と不可分で育ってきたわたしは、その土地とどれくらい断絶できるか、ということを考えていたのだ。

 もちろん、いくらフランス語を流暢に運用できるようになろうと、どれほど長くフランスに滞在し、フランスの文化を知悉しようと ―― さらにはフランスの国籍を取得したとしても ―― 日本人であるわれわれは、フランス人になれるわけではない。どこまでいっても、異邦人であることは変わりがないし、日本人であること――少なくとも「日本人であったこと」――は捨て去ることができない。また、氏が本作において記しているように、「フランス語によって育てられていないこと」の影響は、後天的な学習者がいくら努力を重ねようと、どこかにかならず蹄を残してしまう。

 

 だが、わたしの目には、水林章は、そのような試みをもっとも高次において達成してしまっている人物であるように思えてならない。どうしようもなく結び付けられてしまっている「日本」から、なるべく遠くへと主体的に発つこと。そのためには、まずは日本語という言語から離れ、他の言語において、母国語と同等の思索を重ねられるようにしなければならない。本作をフランス語で著し、フランスで成功を収め、冒頭で紹介したように驚くほど美しく流暢なフランス語を話す水林章という人物は、〈他者〉になりたい、〈ここではないどこか〉に根を下ろすという欲望を、みずからの力で達成してしまった。わたしの羨望と憧憬と嫉妬の起源は、このことに求められるように思う。

"Le jour où je me suis emparé de la langue française, j'ai perdu le japonais pour toujours dans sa pureté originelle. Ma langue d'origine a perdu son statut de langue d'origine. J'ai appris à parler comme un étranger dans ma propre langue. Mon errance entre les deux langues a commencé... Je ne suis donc ni japonais ni français."

 わたしの目には、当初の目論見を彼は達成したように映っているのだが、彼としてはどうやら異なるようである。彼はみずからを「フランス人にはけしてなれない」としつつも、「日本人ですらない」という。母語である日本語は、フランス語に心を奪われたときから、その母語としての純粋な地位を失い、彼は異邦人のように日本語を話すことを学んだ。他者になりたい、日本ではない場所に根を下ろしたいと願っていた彼は、最後にはどの土地においても異邦人であるということ 〈異邦性 étrangéité〉 ―― を自覚し、獲得したというのである。彼はつねに〈外側 hors de place〉にいるように感じるようになった、と。

 しかしながら、その〈外側 hors de place〉あるいは〈非-場所 non-lieu〉こそが、彼が日本語とフランス語という二つのことばにアクセスしうる地点である。その〈異邦性 étrangéité〉こそが彼にとっての新たなアイデンティティである。外側 ailleurs からもたらされたフランス語は、原初的に備わっている日本語とともに共存するようになり、いまでも彼は自在にそのあいだを行き来している。第二言語との付き合いかたの理想形がここにあるのである。

 

 

 さて、この調子でいくらでも書けそうなのだが、書き終わる気配がないので、いくつかわたしの気に入った箇所を引用して、すでに長くなりすぎてしまったこの文章を閉じようと思う。

"Ne suis-je pas un étranger dans ce pays ? me demendai-je. Ne suis-je pas extérieur aux limites territoriales de ce pays ? Pourquoi alors me choisit-il parmi mille autres individus ?"(p.95)

  モンペリエに着いて間もないころ、明らかにアジア人の外見をしている水林章に、フランスの青年は時間を尋ねる。日本では、起こりそうもないことだ。なぜ幾千もの道ゆく人々のなかから、異邦人である〈わたし〉を選んで時刻を尋ねたのか。このような経験から発せられる問いは、フランス滞在中においてわたし自身も立てた問いのひとつである。いくつかほかの国々を旅行したときにも似たような経験をしたので、フランスを主語にして語るのは危険だろうが、日本との対比のなかで思索を開始すると非常に興味深い問いであろう。

 

 モンペリエにおいて「明け方のまだ星空の出ている空のもとを大学に向かって歩いていると、奇妙な気分に陥った」という記述があった。これもわたしは大きな共感をもって読んだ。一方で、フランス人にはなぜこれが奇妙になるのかわからないことだろう。フランスでは日照時間が異なる――というよりも、日の入/日の出時間が日本よりもそれぞれ遅いために、朝の授業に出席するべく通学するときもまだ辺りが暗いということがたびたびあった。日本では、この感覚を得るためには相当早くにでなければいけず、「通学」という日常的な生活のなかでは、滅多にこのような状況に出くわすことはないだろう。わたしも、暗がりのなかを校舎へと向かって歩いていたことを思い出す。時間があれば、朝から開いているカフェに立ち寄って、エスプレッソを飲んで目を醒ましながら、一服するという至福のときを過ごしていた。

"Nous passâmes ainsi quelques moments d'une délicieuse complicité autour d'une tasse de thé vert. En moi, des mots d'amour étaient sur point de naître, non pas dans ma langue mais dans sa langue à elle que je m'efforçais de faire mienne, et que j'avais le plaisir de vous s'accroître et se développer de jour en jour."(p.147) 

  モンペリエで出合い、そして後には生涯の伴侶となることになるミシェルとの緑茶を飲む瞬間。まったくもって美しい描写で綴られている。うっとりするような瞬間だ。

 "Dans un cas comme dans l'autre, la parole de l'étrangère apparaît comme une parole neuve, virginale et authentique. Il s'agit certes d'une parole maladroite, fautive même, mais lourde de sens et infiniment persuasive dans une situation d'énonciation liée à la mort ou à la naissance : une parole vraie, articulée à mille lieues du souci de la correction."(p.239) 

 ミシェル夫人とともに日本に帰郷し、しばらく経ったころ、彼の父の死に際して、夫人が文法的に正しいとは言えない日本語でことばをかけた。なんとか外国語で意を相手に伝えようとすること。そのときに生まれることばは、確かに不器用で、訂正の余地はいくらでもあるかもしれない。だが、それは何よりも強いことばであり、本当のことばであるにちがいないと感じた、と。まさしくそうであるな、と強く同調したい。

"Autant de situations, autant de visages, autant de mots entendus. Feuilles verbales volantes que j'ai attrapées et qui se sont gravées dans ma conscience d'une manière indélébile."(p.241) 

 フランス語の単語や表現をひとつとっても、そのうちにこれまで遭遇してきた数多くの状況や、ひとびとの顔やことばたちが思い起こされる。ことばを学ぶということは、すなわちそのことばを話す他者から盗みを働くということでもある。言語の習得はすべてそうであることは間違いないのだが、幼少期は過ぎ去り、後天的に習得を試みている以上、わたしたちは盗みを意識的に働いてみせる。他者が話しているのを聞くことで、自らの過ちを知り、新しいことを学び、それらをおそるおそる自らの口で発してみる。その過程のなかには、さまざまな〈顔〉との出会いがあったはずなのだ。

"Il y a, et on le conçoit, des peuples sans écriture, mais pas d'êtres humains sans parole. Cependant, en ce qui me concerne, moi en tant que locuteur en français, j'ai toujours eu le sentiment que l'écriture précédait la parole..."(p.243)

  一般的には、パロールは、エクリチュールに先行するといわれる。なぜなら、文字をもたない民族は存在するが、ことば(パロール)をもたない民族はひとつとして存在しないからである。だが、後天的に言語を学んだフランス語話者としての水林章にとっては、エクリチュールパロールに先行するような感覚がある、という。記された文字をとおして彼はもっともフランス語を受容したからであろう。この主張も大いに頷ける。彼の経験ともまた異なることではあるだろうが、わたしは、Facebookメッセンジャーにおけるメッセージを通して、もっともフランス語が上達したかもしれないなと感じている。

 

 言語への興味は尽きない。ここに記したさまざまなテーマについて、それぞれをもっと展開できるような気がする。また機を改めて書きたい。とりあえずは、水林青年を決定的にフランス語へと導いたもののひとつであると紹介されていた、森有正『遙かなノートルダム』を読み進めようと思う。この書籍についても、気が向いたら筆を執ることとしよう。