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MY FAVOURITE FILMS IN 2016

映画

 わたしたちが映画について語るときにしばしば発せらるる「今年は豊作であった」という謂に、何ら意味を見出せなくなってしまった。考えてみれば当たり前でもある。いまの時代において〈すべての映画〉という概念の質的な掌握は背理でしかなく、およそ恣意的な抽出と選出を幾たびも通過した末に、わたしたちはひとつひとつのフィルムとスクリーンの上で出会うのだから。とりわけ新たに発表された映画との邂逅は、その大方は恣意性に拠っていることは疑うべくもない。しかし、同時代に産出されたフィルムたちがひとつの時代の趨勢を証していることは間違いないし、すぐれたフィルムは、ひとつの時代や文化に留まらず、普遍性をめがけてどこまでも旅をするものである。そこで鑑賞者であるわたしたちが従事するべきなのは、ひとつひとつの断片を拾いあげて、〈すべての映画〉という総体への想像力を働かせ、おそるおそる言葉を乗せて形作っていくことだろう。いかなる文化も、そのような営為の連続によって育まれてきた。わたしたちは、偶々引きあわされたフィルムを手掛かりに、そのフィルムたちが総体として編み出す〈世界〉を垣間見るのである。

 

 ――いかにも大仰な文章を書いてしまったが、ともあれ。今年は、論文の執筆や日常的な些事、あるいは興味の喪失や純然たる怠慢などさまざまな理由によって映画をほとんど観なかった時期もあれば、性懲りもなく映画館に足繁く通い続けた時期もあった。正確に数えていないが、新作映画でいえば、鑑賞したのは100本程度だろう。話題作で見逃しているものも数多くある。

 わたしが2016年に鑑賞した映画のうちで、とりわけ気に入った作品を選出した。以下、そのうちとくに印象に残った10作品をコメントとともにリストアップする。作品のうちには、海外で鑑賞したもの、映画祭で公開されたものなど、すなわち日本で劇場公開されていない作品も含まれている。また、いうまでもなく、順位は流動的である。時間をおいて再度選定に臨めば、まったく違う結果になることもあるかもしれない。それでも、好きな作品をあれこれと思い出して選ぶ作業は非常に愉しかった。わたしは数年前までこの試みについて懐疑的な立場をとっていたのだが、すでに個人的な恒例行事になりつつある。10位から発表する。

 

2016年ベスト新作映画

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10. Safari(ウルリヒ・ザイドル監督, オーストリア, 2016)

 動物愛護団体に所属している紳士淑女たちがこのフィルムを眼の当たりにすれば、憤慨のあまり劇場を飛び出して、声高に糾弾をはじめるかもしれない。そうでなくても、徹底して挑発的に撮られたこのドキュメンタリーをひとたび目撃して、なにも心が動かされないということは不可能であるとすら断言できる。ナミビアのとあるサファリでレジャー・ハンティングに興じる白人たちにいつものシニカルな視線を向けたかと思えば、次の瞬間には黒人への旧来のクリシェを増強するかのような露悪的な編集を施してみせる(そもそも黒人たちには言葉を与えられていない)。美的に計算され尽くしたフレーミングといい、ワイズマン的手法とは対極の意図のもと撮られている。銃弾を身に受け、一匹の麒麟が崩れ落ちて息絶えるシーンの衝撃は、二度と忘れられない。

 

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9. ラサへの歩き方 ~ 祈りの2400km|岡仁波斉チャン・ヤン監督, 中国, 2015)

 このフィルムにおいて、宗教が直接的に語られる場面は一切存在しない。権威のあるものが教義を語り、信仰をさし向けるという行為は、ニーチェの語ったように、畜群のルサンチマンを利用する俗悪な牧師者に属するものなのであろう。彼はこのフィルムについてなんと言うだろうか? 仏教における五体投地という礼拝について、わたしは知識としては有していたが、それが具体的にどのような営為であるかという観念を抱いたことはなかった。 このフィルムが捉えるのは、いくつかのトラブルに見舞われながらも、ただ約束の地をめざして五体投地で歩きつづける仏教徒たちの姿である。他者に信仰を強要したり、干渉したりする場面はひとつたりてないし、その道程に過剰なドラマは発生しない。信仰とは、静謐な内的達成にほかならないのである。そして何より、彼らの宗教的観想は、途方もなく美しい。このような発見こそが、映画という芸術のもたらしうる達成ではないか?

 

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8. キャロル | Carol(トッド・ヘインズ監督, アメリカ=イギリス=オーストラリア, 2015)

 映画にとって見つめ合う瞳を撮ることは原理的に不可能である、と述べたのは蓮實重彦だった。かかるテーゼを意に介さぬかのように、このフィルムは執拗にキャロルとテレーズというふたりの女性の視線の交錯を描き出していく。彼女たちの視線がぶつかることによってはじめて、この愛の物語は走り出してゆくのだ。だが、愛の萌芽を視線の交錯に求められたとしても、それだけでは愛を描き切ったとはいえまい。パーティを抜け出したテレーズがキャロルを見つけたあと、愛する者のほうへと確かな足取りで歩み寄ってゆくシーンで、このフィルムが幕引きとなったことを憶えているだろうか。かくして彼女たちの困難な愛はひとつの達成を見るのである。わたしは、"What a strange girl your are... Flung out of space."とキャロルがテレーズへと語りかけて微笑むシーンの艶やかさにいまだに囚われている。

 

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7. 裸足の季節Mustang(デニズ・ガムゼ・エルギュヴェン監督, トルコ=フランス=ドイツ, 2015)

 なんらかの退っ引きならぬ問題に直面している人物を描く物語の結末に待ち受けるものとして、以下の三つに大別できるように思われる。ひとつは、問題を根本より直截的に解決してみせること。もうひとつは、問題をめぐる状況にたいしての新たな視線を獲得すること。最後に、眼前の問題から愚直な逃避を試みること。私感にすぎないが、近年の小さなフィルムのうちでは、ふたつ目の類型の結末を取る場合が多いような気がしている。乱暴に言えば、それは現代的な感性であり、その地点から出発せざるをえないという時代の要請なのだろう。だが、この物語については、三つ目の顛末を見る。少女は、伝統的な風習に息苦しさから抜け出し、イスタンブールに向かう――かかる価値観の対立を、ぎりぎりの強度を保ちながら描くということ。そして、93分にわたる少女の物語の冒頭と結末において意図的に仕組まれた、ある人物との抱擁。その救済には、紛れも無くひとつの映画的愉悦が横たわっている。

 

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6. Midnight Specialジェフ・ニコルズ監督, アメリカ, 2016)

 ある先行する作品に捧げられたものが、過去を超え出るということは大いにありうる。おそらく映画史はそのようにして成り立ってきたし、かくして過去は現在に接合され、未来へと放射されうるのである。このフィルムは、わたしの目には明らかに『未知との遭遇』へのオマージュとして写り、したがってプロットのうちに革新を見出すことはできなかった。だが、それでもなお過去を超え出そうとする物語の強度が備わっていたと認めなければならない。オープニング・タイトルが提示されるまでの当初の五分間にわたって張り詰められた緊張とスリルに、わたしは震えるほどの悦びを感じた。そして、フィルムの後半部分においてあえて〈未知〉を見せるという作家の選択に、わたしは確固たる意志を感じ取らないわけにはいかなかった。

 

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5. 淵に立つ | Harmonium(深田晃司監督, 日本=フランス, 2016)

 このフィルムには、いたるところに記号が散りばめられている。キャメラが捉えたすべては、けして偶然に映りこんでしまったのではなく、緻密な計算のもとに配置された諸々である。このような記号性の過剰に、わたしたちは感動を憶えることができるだろうか? わたしは否と答えたい。パズルのように記号を拾いあつめる作業そのものには、情動は付随してこない。情動を喚起するためには、ただ形式的に記号を置いていくだけでは不十分なのだ。だが、このフィルムは、その地点に留まらない。ナラティヴが記号を真に有機的に物語へと奉仕させる。記号性の過剰を超越するナラティヴの強度がある。そこに説得力が生じるからこそ、わたしたちは色彩に慄き、構造に息を呑むことができるのである。かくして冒頭のメトロノームは、末尾の拍動と重なり合ってゆく。

 

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4. サウルの息子Saul fiaネメシュ・ラースロー監督, ハンガリー, 2015)

 ホロコーストの当事者ではないわたしたちは、けしてその目撃者にはなれない。だからといって、わたしたちはなにも語ることができないわけでもない。このフィルムは、そのような命題を掲げているように思われる。キャメラは、わたしたちの視ることへの欲望にたいしてつねに無頓着であり続ける。その欲望を意図的に無視しているかのようでもある。サウルはいったいなにを視たのか? わたしたちにできるのは、与えられた断片をもとに、ただ想像力を働かせることだけだ。そして、そのような想像に徹していたわたしを嘲笑うかのように、このフィルムは最後に突き放して幕引きとなる ―― 最期の瞬間に捉えられたサウルの微笑に、わたしの背筋はたちまち凍ってしまった。彼はもう黒々とした深淵の向こう側にいた。わたしは『日陽はしづかに発酵し…』のラスト・シーンを想起した。すでに彼らは、わたしのことなど一瞥もせずに、彼岸に渡っていたのだった。

 

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3. 山河ノスタルジア山河故人 ジャ・ジャンクー監督, 中国, 2015)

 国破山河在。杜甫漢詩は、ジャ・ジャンクーの手によって、二十一世紀における一大叙事詩として見事に更新された。国が破れるということを、グローバリズムの波に呑まれる現代の中国という仕方で描き出すという近視眼的な解釈も取ることも可能だろう。だが、わたしたちが注視すべきは、原題が明らかにしているように、時代の変遷とともに山河もまた離散してゆく ―― その諸行無常の疑えなさである。その事実は、このフィルムにおいて三つの異なる時代を生きる者たちにとっても当たり前のように突きつけられる。わたしが改めて教えられたのは、時間の流れは、世界の一切に等しくもたらされるということだ。連綿と続く時間のなかで、なにひとつとして変容を免れるものはない。そのことの儚さと尊さを、ただのノスタルジアに陥ることなく描き切った物語に、わたしは涙を堪えることができなかった。

 

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2. ハドソン川の奇跡Sullyクリント・イーストウッド監督, アメリカ, 2016)

 いったいどうしてかほどまでに完璧な映画が撮れるのか。わたしは狼狽した。このフィルムには、文句の付けいる余地がないどころか、そもそも批評すらも必要としないほどに厳然と屹立しているように思えたからだ。批評を必要としないという物言いには語弊があるかもしれない。だが、このフィルムが喚起する情動は、二次的な言葉の立ち上がってくる地点のはるか手前に、すでに豊潤に与えられているという感想を持ったのである。その完全さは、ある意味では退屈さとも表裏一体かもしれない。事実、わたしが意見を交換したいくらかの友人は、このフィルムを退屈と罵っていた。彼らの意見も十分に理解できる。極端にいえば、このフィルムは〈すべての映画〉にとってのひとつの教科書なのだ。教科書の汎用性の広さは、他方では退屈となりうる。しかし、現代において、いったいどれだけの作家が、みずから教科書たりえるだろうか? わたしたちは、イーストウッドがいまだに映画を撮っていることにもっと感謝するべきなのではないか。

 

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1. ダゲレオタイプの女 | Le Secret de la chambre noire黒沢清監督, 日本=フランス, 2016)

 わたしがフィルムを視ている。このような主体と客体の関係は、不可疑の明瞭性を伴って先験的に与えられているはずだ。だが、どうしてだろう。わたしは、このフィルムによって視られているような感覚に苛まれたのである。このような経験ははじめてではない(たとえば『美しき諍い女』という傑作がそうであったように)。ある種に属する傑作を目撃したとき、わたしたちの現実は融解し、もはや同一の世界を開示することをはたと止めてしまう。より正確にいえば、わたしの諒解していた世界性が、ひっそりとひとりでに編み変えられてしまう。そのとき心臓は激しく脈打ち、情動は横溢していく。このフィルムは、まったくもって正統なフランス映画でありながら、だれも観たことのないフランス映画である。そこにはすべてがあった。教会という愛と死と信仰の交差点で、ひとつの衝撃が主人公を襲ったことを想起してほしい。疑いようのない今年の最高傑作だ。

 

 

 

 さて、書きはじめると思いのほか熱がこもってしまった。好きな作品について書き連ねるのは愉しい。ただ、だらだらと書き連ねるわけにもいかないので、抽象的な物言いに終始してしまったことは許してほしい(本当はすべての映画についての個別エントリを書くべきなのだろう)。次点でいえば、『ふたりの友人』『ブラック・スキャンダル』あたりだろうか。

 もちろん、今年大ヒットとなった邦画の『シン・ゴジラ』も『君の名は。』も『この世界の片隅に』も観たが、今年の10本の作品のうちからは除外せざるをえなかった。それぞれ、美点と同じくらい不満を挙げることができる(『シン・ゴジラ』についての不満は、いくらか歯切れが悪くなってしまうかもしれない)。ひとつ言うとしたら、『君の名は。』を観たとき、わたしは〈セカイ系〉の終焉を感じ取らざるをえなかった、ということである。その終焉には個人的に大きな満足を抱いているのだが、そのことはべつの機会に譲ろう。

 

 今年のトップ・テンの全体から鑑みれば、ジャンルや国籍の多様性はある程度確保できた気がしている(数年前のトップ・テンは、ほとんどアメリカ映画であったこともあった)。だが、わたしはけして現況に満足しているわけではない。『Safari』や『ラサへの歩き方』や『裸足の季節』のような土地に根ざした固有の文化を存分に見させてくれる作品ともっと巡り会いたいし、『サウルの息子』のような新たな語り口に驚かされたい。『Midnight Special』や『淵に立つ』のように戦慄とさせてほしいし、『キャロル』や『山河ノスタルジア』のように愛すことのできる作品を手元に置いておきたいし、『ハドソン川の奇跡』を観たときのように、完全無欠さに閉口してただただ拍手を送りたい。そしてなにより、『ダゲレオタイプの女』のような、わたしの狭小な〈世界〉を編み変えてくれるようなフィルムを心から待望している。そうでなければ、わたしにとって映画を観る意味はほとんど失われてしまうのではないか。その危惧は杞憂であったと、来年の今ごろに思えているだろうか。