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ゴーゴリ『外套』の命名にまつわる箇所について

彼の名はアカーキイ・アカーキエウィッチといった。あるいは、読者はこの名前をいささか奇妙なわざとらしいものに思われるかもしれない。しかし、この名前はけっしてことさら選り好んだわけではなく、どうしてもこうよりほかなに名前のつけようがなかった事情が、自然とそこに生じたからだと断言することができる。つまり、それはこういうわけである。アカーキイ・アカーキエウィッチは私の記憶にして間違いさえなければ、三月二十三日の深更に生まれた。今は亡き、そのお袋というのは官吏の細君で、ひどく気だての優しい女であったが、然るべく赤ん坊に洗礼を施こそうと考えた。(…)産婦に向かって、 モーキイとするか、ソッシイとするか、それとも殉教者ホザザートの名に因んで命名するか、とにかくこの三つのうちどれか好きな名前を選ぶように申し出た。「まあいやだ。」と今は亡きその女は考えた。「変な名前ばっかりだわ。」で、人々は彼女の気に入るようにと、暦の別の個所をめくった。するとまたもや三つの名前が出た。トリフィーリイに、ドゥーラに、ワラハーシイというのである。「まあ、これこそ天罰だわ!」と、あの婆さんは言ったものだ。「どれもこれも、みんななんという名前でしょう! わたしゃほんとうにそんな名前って、ついぞ聞いたこともありませんよ、ワラダートとか、ワルーフとでもいうのならまだしも、トリフィーリイだのワラハーシイだなんて!」そこでまた暦の頁をめくると、今度はパフシカーヒイにワフチーシイというのが出た。「ああ、もうわかりました!」と婆さんは言った。「これが、この子の運命なんでしょうよ。そんなくらいなら、いっそのこと、この子の父親の名前を取ってつけたほうがましですわ。父親はアカーキイでしたから、息子もやはりアカーキイにしておきましょう。」こんなふうにしてアカーキイ・アカーキエウィッチという名前はできあがったのである。

  ゴーゴリの『外套』(平井肇訳, 岩波文庫)を読み始めた。冒頭の命名にまつわる箇所の記述のわからなさがすごい。ワラダートやワルーフなら構わないのに、トリフィーリイやワラハーシイは許せないという感覚の遠さ。ロシア人の読者なら、だれもが「それはそうだな」と納得しながら読み進めるのだろうか。命名の妙というのは、異なる文化圏の眼から見れば、まったく未知の領域である。それにしても、作中に登場するロシア人の名前についての躓きは幾度もロシア文学を読む過程で経験していることではあるので、わたしもこんな意味のない箇所を引用するくらいなら、さっさと小説を読み進めればいいのに。年末には馬鹿なことをしたくなるものだ。