『天空からの招待状(看見台湾)』で寝落ちをするよい暮らし(という妄想)

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 わたしはこの数週間、台湾に執心している。インターネットの大海で「台湾」の文字が浮遊していないかとつねに目を光らせているし、友人たちと食事をするとなったら積極的に台湾料理店を選ぶようにしているし、侯孝賢や楊德昌といった台湾の監督たちのフィルムモグラフィーをひとつひとつ攻略しようと画策している(『牯嶺街少年殺人事件』の25年振りの復活上映も心待ちにしている)。熱が昂じて、ついには台湾へのはじめての渡航を今月に企てていたのだが、残念ながら見送ることになってしまいそうだ。とはいえ、できれば年内にかの土地を踏んでおきたいとも考えている。

 わたしのお気に入りの書き手である四方田犬彦が台湾について書いていたよなあと、すぐに『台湾の歓び』(岩波書店, 2015)をもとめて読破した。媽祖についての考察、さまざまな作家たちの足跡をめぐる旅、大学生たちによる立法院占拠のルポルタージュなど、いわゆる紀行文とはまったく毛色の違った氏の文章を、いつものように大変おもしろく読んだ。

 

 さて、この台湾をめぐるエッセイのなかで、とあるフィルムが紹介されていた。『天空からの招待状(看見台湾)』というドキュメンタリーである。四方田が台湾に滞在していた2014年ごろに本国で封切られたフィルムだが、映画にとりたてて興味をもっているわけではないような数多くの台湾人たちから勧められたとある。「この映画を観るまで、自分の住んでいる国がこんなに美しい国であると知らなかった。台湾を小さな国だと馬鹿にしている外国人には、ぜひこの雄大な景色を知ってもらいたいと思う」、と。

 早速DVDを探して観ることができた。『看見台湾』は、ある特殊なドキュメンタリーである。キャメラの被写体は、台湾各地の景勝地の雄大な自然であり、めざましい成長を遂げている最中の都市であり、そうした各地に暮らす人々である。その点に特筆すべき点はない。注目すべきは、そうした一切が、すべて空撮で撮られているということだ。キャメラが地上に降りることはなく、淡々としたナレーションのもとに、鳥瞰映像が展開されていく。

 監督は、航空写真を長きにわたって撮りつづけてきたチー・ポーリンという人物だ。この企画を立ち上げてから予算繰りに苦労していたところ、侯孝賢の目に止まり、彼の全面的なサポートによって完成したそうだ(侯孝賢はエクゼクティブ・プロデューサーとしてクレジットされている)。脚本とナレーションには呉念眞(ウー・ニェンチェン)、協力者には雲門舞集というコンテンポラリー・ダンス・カンパニーを主宰する林懐民(リン・フアイミン)。わたしは、この二人のことはよく知らなかったが――もっとも林懐民については、『台湾の喜び』のなかで考察が展開されている――、四方田の言に従えば、いまの台湾で考えられうるもっとも知名度の高いメンバーであるという。

 数多くの台湾人に高く評価されている点を踏まえ、四方田はこのフィルムのなかに、台湾におけるイデオロギーの集約を認めており、バルトを引きながら考察を展開しているのだが、わたしはそのことについてはよくわからない。というのも理由は簡単である。いままで合計で三度も挑戦したのだが、最後まで見終わることなく、眠りに落ちてしまったからだ。

 

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  いったいどうして寝落ちしたために鑑賞に能わなかった映画のことをお前は書いているのかと訝しむ向きもあるかもしれない。それについてはごめんなさいとしか言いようがないのだが(笑)、それでもなお、わたしはこのフィルムはまったく素晴らしかったと言いたい。飛び抜けてすぐれた催眠映像に仕上がっているからだ。

 

 絶景を紹介するようなテレビ番組はこの世に数多とあるが、このドキュメンタリーは、そうした量産されている番組とはその規模において明らかにちがう。すべてが鳥瞰図であるゆえか、枠内にはノイズとなるようなものが一切登場せず、純粋に映像に没入できるのである。そこには非常に高い撮影技術が認められる。

 また、中国語のナレーションが入っているというのもいい。まったくわたしが解さない異国の言語が、美しい映像のうえに乗っていくということの快楽。DVDには西島秀俊による日本語のナレーション版もあったので、そちらでも挑戦したのだが、わたしの感じていた心地良さの多くが失われてしまっていたため、すぐさま中国語版に切り替えた。そして、案の定、寝落ちした。

 

 異国の情景、異国の言語。わたしは、なんならこのようなドキュメンタリーを世界各国につくってほしいと願う。床に着く前にどの国のドキュメンタリーを観るか決め、部屋を暗くし布団をかぶり、就寝の準備をすべて整えたうえで、再生する。瞼が重くなっても、しばらくは異国の言語が耳に届くだろう。そうして、いつのまにか眠りに落ちているのだ。夜中に目が醒めたら、トップメニューに戻って、メインテーマが奏でられたまま、画面は煌々と照っている。寝ぼけ眼のまま電源を落とし、再び眠りに就く。

 翌朝、結局最後まで観られなかったな、と軽いため息をついて、DVDを棚に戻す。日中の大半にはきれいさっぱり忘れているかもしれないが、ふとした折に、夢現で昨夜に見た美しい自然の情景が視界を散らつくのだ。

 

 ああ、なんという至福。わたしにとってのよい暮らしの理想形のひとつである。というわけで、以上です。