『ストレンジャー・シングス 未知との遭遇』―― 見事な 80 年代へのゲートウェイ・ドラマ

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 わたしはあらかじめ告白しておく。この作品について、いまの段階では願うとおりの文章が書けるとは到底思えない。80年代のアメリカでつくられたさまざまな作品群にオマージュが捧げられているのはわかるのだが、肝腎の引用先のカルチャーに精通しているというのとはほど遠い位置に、わたし自身が存しているからだ。

 ジョン・カーペンターにはまったく思い入れがないし、ロバート・ゼメキスも『バック・トゥー・ザ・フューチャー』と『フォレスト・ガンプ』を中学生のころに観ただけだし、スティーヴン・キングに至っては、一冊も小説を読んだことがないかもしれない(あらためてこの事実に思い当たり吃驚した)。好きな作品はいくつかあるけれど、スピルバーグに育てられたという記憶もそれほどない。しかし、だからこそよかったのではないか、と事実を好意的に解釈してもいる。すなわち、『ストレンジャー・シングス』が、わたしにとっての80年代のアメリカという世界への入り口となったのではないか? と。

 現在の世界(〈表側〉)と The Upside Down(〈裏側〉)が通ずるためのゲート(Gate)を設けるには、非常に莫大なエネルギーをもちいて穴を開けることが必要とされるという説明が作中にあった。そのことをあえて転用するならば、次のように言えるかもしれない。『ストレンジャー・シングス』というドラマは、90年代に生まれたわたしに、80年代へのゲートを開けてくれるような、はち切れんばかりのエネルギーに満ちた秀作だったのである、と。それが単なる懐古趣味に陥っているとは思わない。なぜなら、引用先の80年代にさほど造詣のないわたし自身が、十分に物語を愉しむことができたのだから。わたしや若き観客たちの多くにとっては、『ストレンジャー・シングス』こそが、華やかな 80 年代へのゲートウェイ・ドラマ足りうるのである。

 

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 しかし、年末というのはおそろしい。夜に Netflix をひらいて、エピソード1を観はじめてから、そのまま中断することなくエピソード8まで観続けてしまった。総計して7時間余りものあいだスクリーンに齧り付いていたということである。シーズン1を一気に完走して、窓から差している眩いばかりの朝日を尻目に眠りに就いた。一気見させてしまうほどのエネルギーは、作品そのもののおもしろさによって供給された(もっとも、『ハウス・オブ・カード』や『ウォーキング・デッド』のときは、シーズン数も多い分、さらにひどい有様を呈していたのだが)。 

 ここでしばしくだらない話をする。わたしは2016年8月にこのドラマがリリースされたとき、『ストレンジャー・シングス』という邦題を見て、"Stranger Sings"とはいったいなんと素晴らしい表題なのか、この題を冠した物語がSFものであるならば、一刻も早く観なければならないな、と考えていた。だが、あるときに"Stranger Sings"ではなく、正しくは"Stranger Things"というように綴ると知った。そのときの落胆は思い知れない。心中にひそかに練り上がっていた甘美な予感が、見事に崩れ落ちて行ってしまったのだ。たったそれだけの理由で、リリース以来長いあいだ気になってはいたものの、観るのが今ごろになってしまったのである。

 とはいえ、やはり "Stranger Things" という題は、あまりいただけない。もちろん、意味としては納得できるのだが、あまりにもウィットが注入されていなさすぎやしないか。ここまで書いて気になったので、検索窓に説明を求めた。reddit で似たような質問がなされているを発見するも、投稿者たちのコメントを読む限りでは、そこにはとりたてて深い意味――たとえば何某の作品からの引用など――はないようである。作中にあれほどまでさまざまな作品にオマージュを捧げているのだから、もう少し表題にも捻りを加えてほしかった。もっとも、わたしや掲示板の彼らが気づいていないだけで、じつはれっきとした理由があるという可能性も否めないが。どなたかレファレンスに気づいた方や、独自の解釈をお持ちの方がいれば教えてほしい。

 

 

 閑話休題

 

 80年代に造詣のないわたしだが、それでも『E.T.』('83)や『未知との遭遇』('77)、あるいは『スタンド・バイ・ミー』('87)といった作品にオマージュが捧げられていることはすぐにわかった。だが、80年代に留まらず、近年の作品からの引用もしばしば見受けられる。たとえば、エルが感覚遮断フィルターによって没入する世界の様相は、『アンダー・ザ・スキン』('13)において女(スカーレット・ヨハンソン)が誘惑した獲物を誘い込む場所にそっくりであるし、第8章において、ウィルの救出に〈裏側〉へと向かった大人たちが、〈表側〉の青年たちと意思疎通してしまうというシーンに、『インターステラー』('14)で宇宙の涯から通信し合う親子を想起するのは自然であるだろう。

 わたしが冒頭において懐古主義に陥っていないと述べたのは、ひとつはそうした引用を無邪気なまでに明け透けに成し遂げてしまっているということだ。過去につくられた多数の作品群へのリファレンスの方法には、けしてスノッブな衒いは見受けられない。また同様に、次のようにも言える。たとえば、熱狂的なシネフィルであるタランティーノの作品は、古今東西のさまざまなフィルムから引かれてつくられている。なかには、それまでまったく光が当たっていなかったようなフィルムからの引用もある。そのような試みは、忘却のうちにある過去の作品に新たな息を吹き込むという点において評価されるべきではあるが、『ストレンジャー・シングス』は、そのような過去作との付き合い方とも異にしているように見受けられる。オマージュが捧げられているのは、映画史に残るようなSF作品の傑作や、80年代から90年代のアメリカにおいて、繰り返しテレビ放映がされているような人気作ばかりなのだ。すなわち、それはある限られたシネフィルの高見台の手淫というより、大衆的な過去の体験を再び顕現させる試みであるといえるかもしれない。

 

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 このドラマをつくりあげたダファー兄弟は、弱冠三十二歳の双子であるという。彼らはかつて、80年代の映画たちに情熱を見出し、その情熱をよすがにして育ってきた少年たちだったのだろう。きっとテレビに齧り付き、VHSを擦り切れるほど再生してきたちがいない。そのような少年の無条件な愛と情熱が、こうしてひとつの作品のなかに結実しているという事実に、わたしは感銘を受けずにはいられない。わたし自身が、彼らと同じ道を辿って来なかったとしても。

 この物語の中心にいる四人のオタク少年たちは、『スタンド・バイ・ミー』の少年たちでありながら、また同時に、きっと彼ら自身の姿、ひいては、なりたかった姿そのものなのではないか。少年少女たちは、ときとして学校の退屈な授業よりも大切な退っ引きならぬ事態に直面することがあるのだ。このドラマは、そうした子どもたちに、学校を抜け出してしまうことの尊さを説いているようにも見える。大人は判ってくれないかもしれない。だが、その経験はなににも代えがたいものとして後の人生に活きてくるはずだ。だからこそ、みずからの好奇心に忠実であれ、と。

 『ストレンジャー・シングス』の少年たちは、仲間のひとりの失踪をきっかけに、世界の秘密を探り当ててしまった。〈裏側〉の秘密へとたどり着いたのはけして偶然ではない。ナード予備軍の彼らは、学校というひとつの社会では一向に顧みられない存在であったとしても、彼ららしく輝くことのできる別のフィールドを有している。大人たちがあちこちを奔走して事件の解明に尽力しているのに、たった10歳の少年たちが答えにもっとも近づいているという痛快さは、ドラマの醍醐味のひとつである。このドラマの世界的なヒットを鑑みるに、〝ナードが世界を救う〟という、すでに古くなってしまった〈セカイ系〉の物語類型にも、まだまだ訴求力はあったのである。

 

 SFという観点からいえば、このドラマを特徴づけているのは、〈表側〉と〈裏側〉の往来の激しさだろう。〈裏側〉に逢着してしまった者たちでも、思いのほか簡単に〈表側〉の世界に戻ってきてしまう。わたしの経験則からすれば、異世界との垣根を超えるという事態は、物語のなかで大きなエネルギーが注力される場面であり、しばしばクライマックスに描かれる場合が多い。伝統的なセオリーに従えば、主人公以外の者たちが〈裏側〉へと足を踏み入れたら、二度と戻ってこれないのが通常ではないだろうか。だが、『ストレンジャー・シングス』では ―― 少なくともいまのところは ―― 彼らは現実へと簡単に帰還できてしまう。この往来の自由度の高さは、さきに述べた過去作品の引用についての無邪気な態度と関わってくるのではないか……と論じようと思ったが、あまりに暴論である気がするので、ここで口を噤んでおく。

 8つのエピソードが終わっても、〈裏側〉の世界にまつわるあれこれには、あまりにも多くの謎が残されている。世界各地での人気ぶりを見ていると、長いシーズンになることは間違いなさそうだが、いまの時点ではシーズン2以降はいかようにも展開できるだろう。なにしろリファレンスは数多にあるのだ。どこに振り切っていったとしてもおもしろくなるのではないだろうか。キャラクターはすでに立っているのだから。

 

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 最後にキャストのことについて述べておきたい。まず特筆すべきは、ウィノナ・ライダーの見事な復活だろう。長らく映画界から離れることを余儀なくされた彼女にとって、80年代への愛を放出させているこの作品をもって復活することは、おそらくは偶然ではあるまい。彼女が母親を演ずる年齢に達したというのは感慨深いことかもしれないが、往年の美しさは、それほど失っていないように見える。彼女の声だけは、わたしはどうにも受け付けられないのだが、演技にかんしては、息子を失って精神に異常を来す母親をまったく素晴らしく演じていたように思う。

  デヴィッド・ハーバーは、『ブラック・スキャンダル』にも出演しており、和やかな食卓の雰囲気でジョニー・デップの殺気を察して怖気づく警官を見事に演じていて、覚えておかなければならないと思った役者だった。思いのほか早く再会することができた。シーズン2でも、中心人物として関わってくれることは間違いないので期待している。

 そして、子役たち。マイク役の Finn Wolfhard、ダスティン役の Gaten Matarazzo、ルーカス役の Caleb McLaughlin という三人の少年たちは、それぞれが個性にあふれていて、今後が楽しみな俳優である。第8章の最後で、冒頭と同じシーンをウィルを交えて四人で演ずる場面があるのだが、残酷なくらいにウィル以外の子役たちが巧くなっていて驚いた。やはり子どもの成長は、おそろしいほど早いのである。

 だが、なんといっても、エル(イレブン)を熱演したミリー・ボビー・ブラウンに最大級の賛辞が送られるべきであろう。若き日のナタリー・ポートマンを想起させる美貌の持ち主だが、ポートマンよりも才能に富んでいるように見受けられる。YouTubeでゲストとしてテレビ番組に出演している動画をいくつか見たのだが、まったく物怖じせずに向かっていく気丈な性格をしているようだ。『ストレンジャー・シングス』では、ネイティヴと遜色のないほど奇麗なアメリカン・イングリッシュを披露していたが、イギリス人ということもあって、実に美しいブリティッシュ・アクセントできびきびと話す。わたしは、ハリー・ポッター・シリーズの最大の功績のひとつはエマ・ワトソンを発掘したことだと思っているのだが(女優としての評価というより、彼女のフェミニズム活動家としての貢献は計り知れない)、彼女には第二のエマ・ワトソンとして名声を轟かせてほしい。彼女が出演している映画、無条件で観に行ってしまうだろうなあ。今後も目が離せない女優のひとりである。

 

 というわけで、たいへん散逸してしまった『ストレンジャー・シングス』の感想もここらへんで畳むことにする。シーズン2のリリースはいつアナウンスされるのだろう。おそらく、シーズン1同様、同時に全話公開となるだろう。翌日になにも予定のない日にリリースされればいいな、と密かに願っておく。