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欲望の交差点、ひとを喰ったような映画 / ニコラス・W・レフン『ネオン・デーモン』

映画

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 鑑賞する前に、どこかで「ひとを喰ったような映画だ」という評を目にした。カンヌの舞台では、歓声と怒号が同時に飛び交ったという。わたしはそれなりに身構えて鑑賞に臨んだ。そして劇場を出るとき、なるほど、まさに〈ひとを喰ったような映画〉にほかならないな、と苦笑しながら深く頷かされてしまった。

 

 このフィルムを観て、まっさきに思い浮かんだのは、エリザベート・バートリという十六世紀のハンガリーの貴族のことである。かつて「血の伯爵夫人」という異名を轟かせた彼女は、あるとき偶然女中の血が身体に振りかかったのを機に、処女の血が若返りによいと信じ込み、国中から若い処女たちをひそかに集めて殺し、その血を呑み、血で湯浴みまでしていたという。彼女が殺めた処女の数は、数百は下らないとされている。「鉄の処女」という拷問器具とともに、彼女の〈吸血鬼〉としての物語は、これまで数多くの者たちを惹きつけ、さまざまなヴァリアントがつくられてきた。

 本作は、そのひとつのヴァリアントとして捉えても相違ないだろう。舞台は、現代のロサンゼルス。16歳になったばかりの身寄りのいないジェジー(エル・ファニング)は、地元をひとり飛び出て、モデルとして身を立てるためにロサンゼルスにやってきたばかりだ。ジェシーは、虚勢を張ってみせるものの、いまだに処女であり、まだあどけなさの残る美しさを讃えている。

 ファースト・カットは、ネットで知り合ったという若いカメラマン(カール・グルスマン)のために、Jesse が長椅子に横たわり、首から血を流してポージングするというものだった。事務所へと応募すべく受けた面接では、「一日に 30、40 の女の子と面接しているけれど、あなたはちがう」とまで面接官に言わしめ、事務所に所属することとなった。彼女は、ただちに一流のカメラマンの撮影のモデルをする機会に恵まれ、コスチュームデザイナーの目に止まり、ファッションショーにも抜擢される。あらゆるところで、「彼女はビッグになるにちがいない」と囁かれている。

 トントン拍子でスターへの道を駆け上がっていく若い少女を取り巻く周囲の女性たちは、ジェシーにたいしてあからさまな嫉妬を差し向ける。女たちの欲望が渦巻くショービジネスの世界(いうまでもないが、このショービジネスを根底から支えているのは、映画では描かれることのなかった、無自覚的に欲望に行使する男たちなのである ―― 彼らが描かれないということが、この映画が奇怪である最たるゆえんだろう)で、ジェシーはその頂点まで昇りつめんとする。

 

 さて、このような設定の物語に、血の伯爵夫人の寓意が込められる。伯爵夫人にあたるのは、ジェシーを取り巻く三人の女性たちだ。"The Bionic Woman" であるジジとサラという落ち目にありつつあるトップモデル、そしてメイクアップ・アーティストのルビー。三人の伯爵夫人は、ジェシーを穢れなき血を求めて、彼女を欲するのである。

 "I don't want to be like them, they want to be like me." というジェシーのナルシシズムに満ちた科白を憶えているだろうか。物語を最後まで追うと判明するのだが、じつは女たちは、"want to be like Jesse" という欲望の奥底に、"want Jesse" という直接的な欲望を抱えていたのである。レズビアンの指向があるルビーは、ジェシーの身体を欲するが、激しい拒絶に遭ってしまう。このことが契機となって、のちの犯行へと発展する。

 このフィルムにおいて着目すべきは、血の流れる場面である。血を流す人物は、二人しか登場しない(しいていえば三人なのかもしれないが、わたしは犯行後のルビーが裸体で横たわる象徴的なシーンについての判断をつきかねている)。ひとりは、いうまでもなく、ジェシーである。ファースト・カットは頸からまがい物の血を流す衣装を施した彼女を捉えているし、ファッションショーの選考会において落選することとなった女性との一幕 ―― 彼女までもがジェシーの血を欲する ――、モーテルのシーツは血に塗れ、そして最期には水のないプールの底で血を流して息を絶やす。

 ジェシーがプールの奥底に突き落とされたあと、親切にも深紅に染まった湯船で血浴みするルビーや、シャワーを浴びながら血を洗い流すジジとサラが描かれる。そして、時を経て、新たな仕事に向かうジジとサラだが、灼熱の太陽と海を背にポージングをしているさなか、突如としてジジは体調を崩す。室内へと逃げ込み、激しく咳き込んで血まみれになった眼球を吐き出すのだ。それは、紛れもなくジェシーの眼球であろう。彼女は腹部を抑え、"I should get her out of here"と叫んで、みずからナイフを刺し、血を流して死んでしまう。その姿を冷ややかな目で見届けたサラは、まったく落ち着きを払った様子で、その場を後にする。エンドロール。

 

 まさに〈人を喰った〉展開の物語だが、わたしが寓意として読み取ったのは、血が通う者は、欲望の渦巻くゲームで勝ち残ることができない、ということだ。伯爵夫人は、しばしば吸血鬼と見做され、恐れられてきた。吸血鬼は、他者の血を取り込んでしまうが、みずからの血を見せることはない。そもそも、吸血鬼に血が流れているかすらわからない。吸血鬼の物語は、さまざまな変奏をもっているが、吸血鬼みずからは血を流さないというのは、ひとつの暗黙の決まりごとになっているのではないか、という気すらする。

 ジジは、ジェシーを殺めたことに後ろめたさを感じている。そのとき、彼女は吸血鬼たる冷徹さを失ってしまった。彼女が情に絆されてしまった瞬間、ショービジネスの世界で生き残るための狡猾さを失い、彼女には名実ともに死が訪れるのである。その姿を見届けたサラは、そのあとも、血の通わない冷徹さをもって、競合を蹴散らし、加齢に争って、欲望の交差する中心点に止まり続けようするに違いない。

 

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 と、なんとか感想を書き留めようと思ったのだが、まったく歯切れの悪い文章になってしまい、書きながら頭を抱えそうになった。それは、わたしの力量不足ということも多分にあるのだが、また同時にフィルムそのものの歯切れの悪さゆえではないか、と思う。これほど駄文を書いてきてしまったが、わたしはこの映画について、否定的な感想をもったのだ。

 すべてが中途半端である。ときどき美しい映像はあるのだが、明らかに演出されている場面において、シンメトリーが完徹されていなかったり、画面のつくりこみが甘い。モンタージュにも大きな問題がある。ストーリーテリングに奉仕する映像と耽美的な世界を表現する映像がちぐはぐに組み込まれているせいで、映像としての根本的なリズムが悪い(音楽にはかなり助けられている)。そもそも、物語を語ろうとする意志に引っ張られすぎている気がする。観客を信頼していない証拠でないか。

 作家はさまざまなシンボルを配置したのであろうが、たとえば、頻繁に作中に登場する鏡 ―― ジェシーが鏡に映った自分にキスするシーンで、彼女は "dangerous" になったのである ―― にしても、ナルキッソスの鏡を意図していることは明らかなのだが、取ってつけたように置かれたという印象が拭えない。結局のところ、ロサンジェルスの街並みを撮りたかったのかどうかも判然としないし、幼少期に月を見上げていた挿話も効果を発揮していない。モーテルに出没した山猫が、邸宅では剥製になって置かれていたのも、なんだかあからさまで品がなかった(剥製は、まずは血が抜かれているということだから、このフィルムの寓意にたいして働きかける要素のひとつであるはずなのだが、それにしても)。

 

 なにより、いちばんわたしが懐疑を挟みたいのは、エル・ファニングのキャスティングである。べつに彼女の演技に大きな問題が見受けられたというわけではない。だが、エル・ファニングは、だれもが嫉妬の念を、あまつさえ欲望を直接的に差しむけるような女性足り得ていただろうか? あどけなさの残る〈ロリータ〉としての美を押し出すにしては垢抜けすぎているし、他の美しいモデルたち(そもそも彼女たちの多くは、実際に活躍しているモデルにちがいない)から妬まれるほど飛び抜けているはずの美しさは、そこにはどうしても見受けられないのだ。この物語におけるすべての生起は、ジェシーの美に端を発しているだけに、エル・ファニングではいささか説得力に欠けてしまうというのが正直な感想である。では、だれを持ってくるべきだったのか? わたしは回答をもたない。けれど、往年の映画監督たちのように ―― たとえば、ハワード・ホークスが、無名女優をたった一本のフィルムで〈夢の女 Dream Girl〉に仕立て上げてしまったように ―― どこかから原石を発掘してきてほしかった、という気がする。

 

 まあ、エル・ファニングも可愛いんだけどね。あと、エンドロールの映像も綺麗でした。