クラーナハ展―500年後の誘惑/蠱惑的な女のまなざしに取り憑かれ

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 国立西洋美術館で開催されていた、会期終了目前のクラーナハ展に駆け込んだ。この企画展に足を運んでいなければ、もしかするとクラーナハについて思考をめぐらせる機会は今後訪れなかったかもしれない。画家に焦点をあてた企画展は、ヨーロッパにおいては幾度か開催されてきたようだが、ヨーロッパ外でこのような大規模な展示が組まれたことははじめてだそうだ。もちろん、日本でもクラーナハの回顧展ははじめての開催となる。

 わたしは、ルーヴル美術館やウィーン美術史美術館といった場所で、クラーナハの作品を何点か目にしているはずなのだが、とりたてて大きな印象をもったことはなかった。ドイツ・ルネサンスのこともほとんど知らなかったし、そのなかでもかろうじて耳目を引くのは、アルブレヒト・デューラーであり、グリューネヴァルトにとどまっていた。クラーナハについてはとくに関心もなく、この企画展も危うく見逃しそうなところだっただけに、意を決して足を運んでよかったと深く思っている。いけるときにいかなくてはならない。あらためて自分自身に言い聞かせる。

 会期終了の前日の土曜日だったからか、会場はかなりの混雑を見せていた。それだけでもわたしの意気は大幅に削がれてしまうのだが、こんなところでへこたれてはいけない。どこかで読んだのだが、ある年の世界中の展覧会のうちで、会期中の一日の平均来場者数のトップ 3 はすべて東京の展覧会だったらしい。非常に示唆に富んだ事実である。ともあれ、東京で美術と付き合う限り、このような混雑はなかば宿命づけられているともいえる。

 

 ルカス・クラーナハ(Lucas Cranach der Ältere, 1472-1531)は、ドイツのクローナはに生を受けたルネサンス期の画家である。ヴィッテンベルクで工房をひらき、ザクセン選帝侯であるフリードリヒ三世の宮廷絵師となった。息子も同名の画家であり、工房の跡継ぎとなったので、しばしばクラーナハ(父)と記される。81歳で没したということだが、当時の平均寿命から鑑みれば、かなりの長生きといえるだろう。工房はかなりの弟子を抱え、たくさんの仕事を受注していたというし、選帝侯に仕えていたというだけに、画家の暮らしぶりはかなり恵まれていたのだと容易に想像ができる。

 ヴィッテンベルクといえば、マルティン・ルター宗教改革の興った街として有名だが、同時代に生きたクラーナハも彼と直接の親交があった。実際にいくつかのルターの肖像画を残していて、急速に広がっていった宗教改革について、民衆が指揮者の〈顔〉を見知ったのも、クラーナハ肖像画に依るところが大きかったとキャプションに説明がされていた。

 《子どもたちを祝福するキリスト》(1540年頃)というように、プロテスタンティズムのアイデアを援用するような主題の絵画も残しているし、なによりルターの翻訳した聖書の印刷なども引き受けていたようだ。だが、わたしが興味ぶかく思ったのは、そのような緊張感の張り詰めていた時代を生きていたクラーナハが、カトリックのシンボルをふんだんに散りばめた絵画も残しているという事実だ。宗教改革が発生したあとも、イタリアやフランスのカトリック教徒から、内密に仕事を受注していたらしい。では、本人が内心ではカトリックの教義に傾倒していたか? それはわからない。仮にカトリックの精神に共鳴していたとしても、彼の置かれていた状況を考えても、対外的にそのことを告白することはできなかっただろう。あるいは、まったくキリスト教の教義などどうでもよかったのかもしれない。工房で大量に受注して、大量に制作するというスタイルをとっていた彼にとっては、時のイデオロギーに拘泥することは、ほとんど意味をなさなかったとしても不思議ではない。わたしにはその評の妥当性を判断する手立てはないのだが、同時代の画家に比して、クラーナハがしばしば新たな主題を選ぶことに長けていたと評されるのは、画家のそのような性格に由来しているのかもしれない。

 

 展示のなかで、当時のヴィッテンベルク大学で教鞭をとっていたという人文主義者のショイルルによる、画家への評が紹介されていた。

誰もがそなたを、その驚くべき素速さのために称賛する。そなたは迅速に制作し、その素速さにかけては〔…〕あらゆる画家を凌駕している。

 ここでは画家の「素速さ」が賞されている。この評に接して、果たしてクラーナハは喜んだのだろうか。確かに古代ローマのアペレルに比されている点では、賛辞としては最大のものなのかもしれないが、わたしだったら、こんな微妙な点を褒めてくれるな、と毒づいていたかもしれない。ほかにとりたてて褒めるところがなかったから、辛うじて「素速さ」を取り上げたとしか思えない。ともあれ、生涯にわたって画家がどれくらいの作品を残したのかはわからないが、工房のシステムをうまく機能させることによって、同じ主題の作品を何枚も量産し、社会に流通させることができたことは、後世から見れば着目すべき点ではあるのだろう。それだけ画家の工房が広く認知されていた、ということの証左でもある。

 社会に流通ということであれば、当時に技術的に大きく発達していた、版画の存在を抜きにしては語ることができないだろう。なんでもクラーナハは、ドイツで多色刷り木版(キアロスクーロ)をはじめて試みた人物であるそうだ(とはいえ、そのことを顕示するために、画家は制作年を偽ったこともあるようなので、実際のところはわからない)。

 

 わたしが展示されていた版画を見て、その主題というよりも、背景に描かれている風景をみて、もとよりもっていたある印象を強めることになった。そして同時に、疑念が生じてきたのである。

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Lucas Cranach, Venus & Cupid, 1506.

 たとえばこの版画にあるように、背景に書き込まれている遠景には、小高い丘があって、そこに城塞のような建築物が立っている。このような丘と城は、ほとんど同じような構図をもちいて、室外を舞台につくられた作品の大半に描かれている。

 わたしはこの構図に既視感を覚えているのだが、いったいどのような伝統に基いているのかわからない。たとえば、イタリアのルネサンス絵画にも似たような風景は登場していたように思うが、中世の絵画の印象が強いような気もする。この風景に、なんらかの伝統を求めることは可能なのか? そもそも、このような風景がドイツをはじめとするヨーロッパにはいたるところにあったのだろうか? 瑣末なことにすぎないかもしれないが、小高い丘と小さな城の風景が、ひとつの足がかりになるような気がしてならない。その直感があるのは、もしかするとフランス南部に点在している中世の小さな町に魅せられたときの記憶が脳裏に残っているからかもしれない。

 

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 遠景でいえば、展示されていたデューラーの《アダムとイヴ(堕罪)》(1504)についても、気になって仕方がなかった。右上の断崖絶壁に一匹でぽつりといる羊! この羊を発見して驚いて、笑いをこらえながら目を細めていくらか考えていたのだが、さっぱりわからない。いったいあやつは、そんなところでなにをしているのだ? 『創世記』のアダムとイヴの堕罪についての箇所には、いまにも崖から落ちそうになっている羊のことなど言及されていなかったはずだ。これはただの画家の遊び心だろうか。それとも、何がしかの寓意があるのだろうか。この版画には、ほかにもさまざまな動物が登場しているが、いくらなんでも羊の扱いが可哀想すぎる。

 イタリアのルネサンスに心酔し、自身の作品にもその影響が多分に出ていたデューラーの絵と比べれば、クラーナハの特徴は明らかである。「アダムとイヴ」を主題にした作品は、クラーナハもいくつも残しているが、アダムとイヴの身体描写に歴然とした違いがある。筋骨隆々のアダムとイヴからもわかるように、古代ギリシア的な肉体美が追求されているデューラーの作品とちがい、クラーナハの描く裸体は、大抵は線が細く、明らかに身体のバランスがおかしい。19世紀にアングルの裸婦画のように、それは作為的なもののように見受けられる。

 本展覧会には〈五〇〇年後の誘惑〉という副題がつけられていたように、その裸体は、いまだに見る者を誘惑する。デューラーの追求した裸体の理想ではなく、クラーナハの描く裸体の曲線の妖美に、わたしたちは大きく心を動かされる。黒く塗りつぶされた背景に、裸婦がいくつかの装飾品を身につけ、透明な布をもって立っている《ヴィーナス》や《ルクレティア》のエロティシズムは、確かにいまでも有効であることは間違いない。ピカソデュシャンといった20世紀の画家たちが、彼の魅力に取り憑かれたのも納得だ。デュシャン《選ばれた細部》(1967)というクラーナハの作品を模したデッサンは、たった一本の黒い線だけですでに美しさを湛えていて、クラーナハの曲線の妖艶さをよく捉えていると感心しきりだった。

 妖艶さということでいえば、その表情もまた然りである。たとえば彼女たちの目は非常に細く、こちらも解剖学的に正確に顔を描写しているとは言い難い。だが、パンフレットの記述を引用するならば、彼女たちは、きまって「艶っぽくも醒めた、蠱惑的でありながら軽妙な」顔つきをしているのである。そのような女たちにかかれば、男たちは一瞬で謀略に落ちてしまうだろう。《不釣り合いなカップル》や《ヘラクレスとオンファレ》で描かれている〈女のたくらみ〉という寓意が、かくも説得力をもってわたしたちに迫ってくるのは、その蠱惑的な視線に説明が求められるのである。

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 《ヘラクレスとオンファレ》(1537)を見てほしい。ギリシャ神話のヘラクレスが、リュディアを支配していた女王であるオンファレに拾われ、奴隷として奉仕する、その頃の様子を描いた作品だが、中心にいるヘラクレスは、周囲の女たちにあやされ、完全に腑抜け状態になっている。その女たちを見ていると、どこか見下しているような醒めた目つきでヘラクレスに視線を送っているのがわかる。だが、そのまま鑑賞者が視線を右に移していくと、こちらのほうを見ている女がいることに気づく。彼女は、他の女たちと同じ目つきをしている。わたしはその視線にぶつかり、思わずどぎまぎとする。すでにその瞬間、クラーナハの策略の手中にわたしは落ちていたのだ。そのまなざしには、もう抗えない。

 

 この展覧会でいちばん衝撃を受けたのは、レイラ・パズーキ《ルカス・クラーナハ(父)《正義の寓意》1537年による絵画コンペティション》(2011)の展示だった。なにも知らずにわたしは平静な心を保ったまま部屋を移動していたのだが、この作品群が展示されている部屋に入った瞬間、背筋が凍りつくような思いがした。隣にはクラーナハ《正義の寓意》の原作が展示されているのだが、レイラ・パズーキの試みは、そのクラーナハの作品を、中国人の複製画家たち百人に一斉に模写させるというものだった。彼らが六時間で仕上げたというその百枚が、壁一面に敷き詰められているのだ。

 ひとりひとりの表情は違うし、スタイルもばらばらだ。けれども、誰しもが《正義の寓意》の女の視線には、なんらかの得体の知れない魔力を感じ取ったかのように思われる。それくらいに、どの作品もまなざしの強さがすごい。それが 100 枚もあるのである。到底平常心では見ていられないほどだった。わたしの近くでは、どの絵が巧いかなどと言い合っているカップルが数組いたのだが、それだけ呑気にいられることがにわかに信じ難かった。わたしは、そのようなシミュラークルの増殖に、恐怖すら感じていたのだった。ひとつの同じアイコンが大量に現出したとき、わたしたちは相応の恐怖を抱くものだが、この恐怖は比べものにならないものだった。感覚でいえば、京都の三十三間堂の千体の千手観音像に類似するものもあるが、クラーナハのほうは、なによりもまず恐怖が襲ってきたのだった。

 レイラ・パズーキは、このような試みをするにあたって、長きにわたった西洋美術史のなかで、なぜクラーナハの絵画を取り上げたのだろうか? クラーナハが多数の弟子とともに工房を営んでいて、資本主義の浸透を支えたとされるプロテスタンティズムの誕生に密接に関わっていたという事実は、ひとつの説明たりうるだろう。だが、それ以前に、彼女もクラーナハの描く女のまなざしに取り憑かれたにちがいない。その女のまなざしには、五百年のときを超えて、東京の展覧会を訪れた数多くの者が魅了されたことは、想像に難くない。わたしも幸いにしてそのひとりになることができたのであった。

 

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(2017年1月, 東京にて撮影)