美術鑑賞の新しい愉しみかた――〈ソーシャル・ビュー・ゲーム〉について

 わたしは、このところお茶碗鑑賞に執心していて、その事の次第については改めてまた記したいと考えているのだが、ここでは先日の経験について一筆取ろうと思う。というのは、大阪の藤田美術館に足を運んだときのことである。藤田美術館では「ザ・コレクション」と題された選りすぐりの所蔵作品が出品されている展覧会があって――わたしのお目当はいうまでもなく曜変天目だったのだが――旧知の友人をさそって足を運んだのだった。

 

 お茶碗を見終えたところで、わたしも彼も、とりたてて日本美術に造詣があるわけではないので、ああだこうだと適当なことを言いながらほかの所蔵作品を見て回っていたのだが、おもむろに彼があるゲームの提案をしてきた。それは次のようなものである。

 ある作品の前で、一方が目を閉じ、その作品を見ないようにする。もう一方がその作品を見ながら、それはどういうものかと言葉で相手に説明する。ある程度説明し終えたら、一方は目を開けて、どのような作品か見てみる。そして、他方の言葉によって脳内で構築されていた作品のイメージと、実際に見て捉えられた実物の作品との差異について話し合う、というゲームだ。

 わたしは彼の提案に前のめりになって応じた。いくつかの作品を前に、わたしたちはその試みを実践してみた。目を閉じるひとと、説明をするひとを交互に務めていく。――――いやはや、おもしろい! しかめっ面で黙って作品と対峙するのも結構だが、これもまたとても新鮮な美術鑑賞のあり方だった。オシャーなゲームなので(笑)、みなさんにもぜひとも試してみてほしいと思う。

 

 お互いに共通していたのは、目を閉じる側に回ったときの驚きである。相手の説明を受け、いくつか疑問点を質問しながら、頭のなかでひとつひとつ作品の様子を構築していく。そして、ある程度説明が出尽くしたところでようやく目を開け、はじめて作品を目視する。たちまちに叫び出す。「ぜんぜん違うじゃん!」。

 

 とくに、はじめてこのゲームを試みたときはひどかった。たとえば対象が絵画だったとしたら、はじめに説明者が語り出しがちなのは、その作品に何が描かれているかという主題についてである。しかし、それをいくら語ったところで、聞いているだけの者は、一向に作品についてのイメージを固めていくことができない。必要不可欠な情報とはむしろ、その作品の色味であり、大きさであり、フォーマットであり、素材といったものである。その絵画が1メートル四方なのか、あるいは10センチ四方なのかということで――あるいはその主題以上に――所与される印象はまったく異なるのだ。

 そのような情報は、わたしたちが普段作品に接するときは、とりたてて言語化されることはないし、主題として前景化して考えることは稀ではある。しかし、それは、じつはそもそもの鑑賞態度を規定するような一次情報であるのだ。そのことが改めてよくわかった。さらには、ともすればそれが絵画であるのか、彫刻であるのか、陶芸であるのかというような情報 ―― わたしたちが真っ先に作品を目視したときの了解内容 ―― すら、伝達するのを忘れてしまいがちである。視覚が、一瞬の目視によって、どれだけの多くの情報をキャッチしているのかということをまざまざと思い知ったのであった。

 

 そのような反省から、わたしたちは細かく一次情報を伝えようと試みた。大きさはどうか、色はどうか、素材はどうか。しかし、その伝達はある種の困難を極める。確かにそうした一次情報は、わたしたちの作品の先行了解を形づくるような要素である。だが、そこにはただ無機質な情報ばかりでなく、必ず鑑賞者によって見出された意味が付随している。つまり、印象である。その作品は、わたしたちに対してまずはじめに、どのような印象を与えたか? これをうまく言語化するのはすこぶる難しい。

 ある作品の前で、彼はいった。「おばあちゃんの家にいったときに供される、和菓子がたくさん入っている缶みたいなやつ」。ああ、なるほど。わたしはそれを聞いて合点し、頭のなかに鮮烈なイメージをつくりだした。缶といえばアルミで、アルミといえば銀色だ。そのイメージに従って、わたしは頭の中に銀色の缶の像をつくりだしていたのだが、彼はある段階で「箱の外側は黒っぽい色」と付け加えた。すぐに像を作り変えようとする。だが、うまくいかない。「おばあちゃん家の和菓子の缶」という当初のイメージを振り払うことがなかなかできなかったのだ。

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「おばあちゃん家の和菓子の缶」の正体は、国宝の《仏功徳蒔絵経箱》 

 

 この例が証しているように、いちどつくりあげられてしまった脳内の像に変更を加えるのはむずかしい。とくに根幹にかかわる要素だと尚更である。あるいは、この想像変容の作用については、得意不得意があるのかもしれない。少なくとも、わたしはものすごく苦心した。どれだけわたしの視点は先行する脳内のイメージというものに縛られているかということを思い知ったのであった。

 

 そして、この試みを通して痛切に感じたのは、そのような固定的な視点に抗うためには、所与の経験を入念に観察し、それについてひとつひとつことばを重ねていくという作業は非常に有効であるということだ。わたしたちは、視覚が優秀であるがあまり、ことばにするということを怠りがちである。しかし、目に見えない人に眼前の光景を説明するように、ひとつひとつをことばにしていくことで、わたしたちは往往にして、新たなことに気づくことができる。

 たとえば、ある作品になんなのかよく分からないものが描かれている。あなたはそれがなんなのかと思案することもあるだろう。だが、ある段階で、思案することも諦め、つぎのものに目を移していくかもしれない。まだ思案したのであればいいほうだろう。目を留めてすぐにそれが何かと了解されない場合、とくにその何ものかが思考にのぼることなく、つぎの瞬間にはきれいさっぱりと忘れられていることもあるだろう。視覚は、膨大な量の情報を不断に獲得するがあまり、つねに取捨選択することを求められている。新たな情報に対して、文字通り目移りしてしまうのである。そこを立ち止まって、丁寧に言語化してみる作業は、その視覚の軟派な性格を戒めることができるがゆえに、ひとつの作品に対峙する在り方として、より誠実なものと言えるのではないか。

 さらには、そのように言語化してみることで、対象についてよく記憶に残すこともできる。じっさい、藤田美術館を訪れてからすでに2週間が経過したのだが、この試みの対象となった作品のことは、未だにありありとその姿を思い出すことができる。まったくもって素晴らしい試みだったと思う。ぜひにまたやりたい。何よりも最高にたのしい遊びだったのだ。

 

 じつは、彼のこの提案には元ネタがあった。伊藤亜紗『目の見えない人は世界をどう見ているか』(光文社新書, 2015)という書籍に記されている「ソーシャル・ビュー」と題された視覚障害者主導の美術鑑賞会のことである。わたしがこの記事のなかで言及した「情報」と「印象」という述語も、この本のなかでたびたび言及された対立構造である。

 彼から勧められて、さっそく読んでみたのだが、非常におもしろい本だった。もともとこの本を紹介するつもりで記事を執筆しようと思ったのだが、だらだらと〈ソーシャル・ビュー・ゲーム〉のことを書いていたら紙幅を取り過ぎてしまったので、またの機会にしようと思います。またこのゲームがやりたくてうずうずしてきた。