雑記( June, 2017 )

 以前、ある時期に書いていた月記にあたるものをまた書きはじめようと思う。なるたけ続けることが肝要である。わたしの日常には、とりたてて読者の耳目を惹くような出来ごとはとくにないということをあらかじめお断りしたうえで、六月のこと。

 極度の寒がりのわたしでも、このところは日中は半袖で過ごすことが多くなった。いよいよ今年も夏がやってくる。六月のいつから梅雨がはじまったのか記憶が定かではないが、今年の続くはいつまで続くのだろうか。とはいえ、さほど雨が降っているという印象はない。じめじめとした曇天の日に、つめたい風が身体にあたるというような日々が多い。このような天候はそれなりに気にいっているのだが、いくらわたしが愛でようとしたところで、あっという間に辟易するような暑さに襲われることだろう。せめて藤の咲く様子をもういくらか楽しめたらいいですね。

 

 この春から、懲りずにわたしは学生の身分をつづけることになった。そろそろ新たな環境でも慣れてきたところだ、と言いたいところだが、いまだにうまく研究を進めていくためのルーティンを組めているわけではないのが実情である。

 このところは、ポール・リクールの『時間と物語』や『他のような自己自身』という著作を集中的に読んでいる。かれの精緻な議論に着いていくのはなかなか困難をきわめるが、この度の読解をつうじていくらか明白になったことがある。たとえば、『時間と物語』において、リクールは主観的・現象学的時間と客観的・宇宙論的時間の対決から生じるアポリアに対して、思弁的解決ではなく、物語的次元を導入することによってそこに詩的解決をもたらすと述べている。そもそもリクール自身は、〈時間〉にたいしてどのような立場を取っているのか、ということが非常に見えづらいテクストになっているのだが、ここで述べられていることはじつは簡明である。つまり、思弁的解決というのは、時間ということの認識論的考察ということであり、詩的解決とは、時間の意味論的考察を意味しているのだ。フッサール現象学では、超越論的主観にとって時間がどのように構成されるかということを明らかにしたが、その議論ではわたしたちにとって〈時間〉がどのような意味をもっているかということについて問うことができない。だからこそ、物語という次元を導入することによって、その意味や価値の分節ということを問おうとしているのである。

 ああ、このブログは――「雑記」だからこそ許されうるとはいえ――こんな哲学論議をする場所ではない。粛々と研究を進められるように努力します。そういえば、このところリクールの名をフランスのメディアで頻繁に目にするようになった。というのも、若くして大統領となったエマニュエル・マクロンが、青年時代にリクールから哲学の薫陶を受けていたというのである。まさかかれの名前がこんなにも主要紙のニュースが頻繁に取り上げられるなんて、と不思議な面持ちでリクールの名前を眺める日々が続いたのであった(それはもう五月の話か)。

 

 研究の都合上、これまでさんざん逃げ続けていたドイツ語の勉強を春からはじめている。その習得の正当性についてはさておき、研究のためということもあって、ドイツ語で会話したり、ドイツ語を書くためというより、ドイツ語のテクストを読めるようになるのがもっぱらの目標である。語学の学習は、ちまちまと毎日単語や文法を覚えていくのではなく、どっぷりとその言語の世界に浸かりこみ、一気に洗礼を浴びるほうがよいという持論があるのだが、そのわりにはドイツ語学習にさほど時間が割けないのが実情で、酸っぱい思いをしている。

 それでも、辞書の力を借りながらも、ようやくドイツ語がそれなりに読めるようになってきた(いままさに授業でベンヤミンの原語読解に取り組んでいるのだが、そちらのほうはあまりにもむつかしくて涙している)。ずっと暗号解読をしているような気分だったが、辞書の助けを借りずにいくつかのセンテンスの意味が取れたりすると、至上の喜びがある。しかし、それでもドイツ語はむずかしい。格変化であったり、分離動詞であったり、どうしても未だにその特徴的な文法につまづいている。所有の3格なんて、なぜそうなるのかさっぱり意味がわからない。"Ich wasche meinen Hände"はダメで、"Ich wasche mir die Hände"と言わなければならないのはなぜなのか。

 多和田葉子がドイツ語で書いた"Von der Muttersprache zur Sprachmutter(母語から語母へ)" というエッセイを読み、その短いエッセイが非常におもしろかったこともあって、数年前に読みかけになったまま放置されていた『エクソフォニー 母語の外へと出る旅へ』という本を読んだ。言語にかんする非常にゆたかな省察。わたしもかつてフランスに留学していたとき、母語と異国語ということについてよく考えていたこともあって、大いなる共感をもって読んだ本だった。このことについては、近いうちに改めて文章を書きたいと思っている(いつになるやら)。

 

 言語ということでいうと、じつはドイツ語と並行して、イタリア語もわずかに学びはじめている。こちらは研究にもほとんど無関係で、完全に趣味である。とはいっても、週に1度イタリア人と会って、いろいろと会話をしたり、テクストを読んだりということにすぎないので、まだその学習に本腰を入れてられていないのだが、いつぞやかイタリアには長期で滞在したいという欲求がめきめきと生長している。パレルモのマルトラーナ教会の黄金にかがやくモザイク壁画のことを知ったこともあって、キリスト教の痕跡を辿りながらシチリア島をゆっくりと巡る旅をいつか遂行するぞと心に決めた。

 しかし、ドイツ語学習と比べても、イタリア語を学ぶのはほんとうに楽しい。ありがたいことにすでにフランス語の知識があるから、文法や名詞の性を一から新たに学び直す必要がないし、語彙のほうもゼロからやる必要はないので、さくさくと成長が実感することができていい。いまは、イタリア人と一緒に、たまたま神保町で見つけたイタリア語書店に売っていた"Marcovaldo"という児童向けのイタリア語のテクストを読んでいる。結構シュールなテクストで、主人公のMarcovaldoおじさんがかわいい。

 新たな言語の学習を二つ同時に始めるにあたって、その二つが混同されてしまうのではないかと危惧していたのだけど(わたしの場合かつて英語とフランス語でそのきらいがあった)、今のところ思いのほか棲み分けができていて安心している。わたしにとってドイツ語とイタリア語のそれぞれが意味的に占めている箇所が違うからであろう。もう少しできるようになったら、そのことについてもゆっくり考えてみたい。

 

 音楽のはなし。Apple Music 無しには生きられない身体であると改めて認識した。わたしにはCDやレコードを買ったり借りたりする習慣がほとんどなく、これまでも一年に数枚のCDを買うということ以外は、もっぱら新譜はYouTubeで聞いたり、友人にCDを借りて聞くというのが普通だった。やはりApple Musicのおかげで、わたしの音楽生活にはそこそこの充足を得ているのである。MONDO GROSSO『何度でも新しく生まれる』やシャムキャッツ『Friends Again』といった日本の新譜もよかったが、たまたまめぐり合った Sports というグループが至高だ。六月は、去年リリースされたらしい『People Can't Stop』というアルバムをいちばん聴いた気がする。

 先日、NONAMEの来日公演が発表されて歓喜し、その勢いで『Telefone』もヘビーローテーション。10月だから、まだまだ先のことであるが、さっそくチケット予約開始初日に予約してしまった。無事に行けるといいけれど。このところ、あまりライブに行けていないので(そういえば京都でUFO!接近ズのライブを観たのも六月だったか)、そろそろ音楽を心ゆくまで浴びることを身体が欲している。フジロックに行こうか非常に迷っている。金曜日の同行者はおらぬか。

 

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 六月に足を運んだ美術展。東京ステーションギャラリーの「アドルフ・ヴェルフリ展」と、損保ジャパン日本興亜美術館の「ランス美術館展」、どちらも最終日に駆けこんだ。「ソール・ライター展」もそうだが、「大エルミタージュ美術館展」を逃してしまったことが何よりも悔やまれる。数年も経てば、また類似の展示は組まれるような気もするが、それよりもエルミタージュまで押しかけるほうが早いような気もする。はあ、とはいえ東京ですら出不精になっていることには反省しなければならない。研究を言い訳にするわけにはいかない。

 アドルフ・ヴェルフリという芸術家のことは、この展覧会ではじめて知ったのだが、キュレーター自身がどう説明したものかと困り果てているような感じがして、思わずニヤニヤしてしまった。画面を埋め尽くさなければならないという強迫観念。自身の世界征服を信じきっているかのような理想郷の世界観。「ランス美術館展」のほうは、さほど期待を寄せていたわけでもなく、ドニの《魅せられた人々》を観れればいいや、と軽い気持ちで駆けつけのだが、思いのほか出品作が粒ぞろいで、とりわけシスレーの《カーディフの停泊地》にはいたく感動してしまった。キャプションには、家族でのイギリス旅行の折、画家は三十年寄り添ってきた妻とはじめてこの地で式を挙げたとあった。泣ける。シスレーの作品にここまで感銘を受けたのははじめてだった。藤田嗣治の作品も、思ったより点数が多くて充実していた。

 

 それから、大阪へと遠征した折には、国立国際美術館にて「ライアン・ガンダー展」と、藤田美術館の「ザ・コレクション」に行った。そうそう、 休日に深夜バスに乗り込んで、大阪まで足を向けたのである。旅行の目的は、藤田美術館曜変天目。たった一椀のお茶碗を目にするために大阪まで行く日が来るとは思いもよらなんだ。 それくらいハマっていたのですが、それについては日を改めて。大阪に配属となったばかりの大学時代の友人と過ごしていたのですが、かれの提案で藤田美術館でやった〈ソーシャル・ビュー・ゲーム〉の愉しさがいまだに想い起こされる。

 「ライアン・ガンダー展」もよかったな。本展も心地の良い空間だったが、ライアン・ガンダーによる選定で同時期に行なわれていた国立国際美術館のコレクション展もとてもよかった。国立国際美術館に足を運んだのは二度目で、一度めは二年前のウォルフガング・ティルマンス展だったわけですが、あの美術館はかなり好きだ。このままだと東京都美術館の「バベルの塔展」は見逃してしまうわけですが、夏に国際美術館に巡回するというし、大阪で《バベルの塔》を観ようかと思案しているところです。会期終了前の土日にブリューゲルの展覧会なんて、絵を観るどころじゃないだろうからなあ。

 ところでどうでもいい話ですが、ブリューゲルの《バベルの塔》は二枚存在していて、片方が今回来日しているベルギーのボイスマンス美術館に所蔵されている作品で、他方がウィーンの美術史美術館にある。ウィーンのほうは3年ほど前にすでに観ていて(混雑もしていなかったし心ゆくまで眺めた)、てっきりその両者はほとんど同じものだと思っていたら、改めて二枚を並べてみると、絵から受ける印象がぜんぜん違うということに驚いた。今回のほうはまだ実物を観ていないのでわからないが、書き込みが細かいということはさておき、全体の印象としてもボイスマンス美術館のほうが好きかもしれない。日曜美術館大友克洋×バベルの塔の回はとてもおもしろかった。

 

 大阪への遠征だけでなく、六月には、家のことがあって福岡にも数日間滞在した。一日余裕があったので、はじめは美術展に行こうと思っていたのだが、アジ美の「タイ展」にもさほど惹かれず、代わりにKBCシネマで、これまで見逃していたエドワード・ヤンの『クーリンチェ殺人事件』を観た。残念ながら、それほど刺さらず。というか、エドワード・ヤンはなぜだかやたらと眠くなってしまう。『恐怖分子』は爆睡した記憶しかないし、『ヤンヤン 夏の想い出』は四回目のチャレンジでようやく寝落ちせずに見切った。『クーリンチェ』も、いくつか記憶が怪しいところがあって、うとうとしてしまった。万全のコンディションでまた臨みたいものだが、さて、ふたたび四時間半を捧げる覚悟はあるだろうか。

 

 今年に入って、あまり映画を観れていないのがくるしい。六月に映画館で観た作品はなんだっけかな。さきの『クーリンチェ』に加えて、吉田大八の『美しい星』、『LOGAN ローガン』、山下敦弘松江哲明『映画 山田孝之 3D』、ファルハディの『セールスマン』。数えて見たらそれだけだった。ずっと観たかったはずのあれやこれやを観に行けていない。エリック・ロメールの特集上映にも1日にも行けなかったし、フランス映画祭には今年も行けなかった(イザベル・ユペールが二日連続でゴールデン街の呑み屋に出没していたらしい。会いたかった)。

 もう今年も折り返しだが、いまのところ、年間ベストとか考えても仕方なさそうなくらい鑑賞数が少ない。やらねばならない勉強は山積しているがゆえに、わざわざ外出して、映画館に行くということが億劫になりつつある。そういう意味においても、うまいルーティンを組めていないのである。夏休みに巻き返しを図りたい。

 そんなわけで、旧作もとくに観れていない。Netflixで何本か漁ったくらいだった。最近は、SFやサイコスリラーのようなものによく食指が伸びているような気がする。残念ながら、濃厚な人間ドラマを二時間半も黙って観るような気力があまり湧いてこないのである。とはいえ、『セールスマン』の後味のわるい重苦しさを憶えながら劇場を出て、ああこの感覚はまったく悪くないと思いながら、横一文字に口をきっと結んで新宿の街を歩いた六月のある日のことはよく記憶に残っている。映画館での幸福な邂逅。

 Netflixといえば、待望の『ハウス・オブ・カード』のシーズン5 を観了したのであった。はあ、終わってしまった。シーズン4の最後のエピソードで、このドラマのもつ底力を見せつけられ、戦慄のあまりに鳥肌をぶわっと逆立たせたまましばし放心した日から早数か月。シーズン5は、いくらかまどろっこしい展開や、あまりに強引な展開はあったものの、それでもわたしは評価したい。アメリカのレビューを読みあさっていたのだけど、軒並み低評価でおどろいた。その気持ちもわかる。この一年のあいだで、かの国では現実が虚構を上回ってしまったからね。トランプ大統領。

 

 さて、トランプ大統領といえば、わが国の首相はということだが、ニュースを追って、暗い気持ちになる毎日だった。国会閉会後の安倍の記者会見も、全くの茶番というほかない。いったい説明責任はいつ果たされたのでしょうか。ことばということがこれほど軽視されている現状に、怒りを通り越して哀しみの感情を感じます。

 共謀罪が採決されることはほぼ見越されていたものの、加計学園の問題がこうして紛糾した結果うやむやになったのもそうだし、稲田朋美には早く政界をたちさってほしい。なぜ自民党はかほどに稲田朋美を守ろうとするのかという議題になったときに、自民党稲田朋美を首相として迎えようと準備しているのではないかという指摘があって、はなはだおそろしかった。

 

 政治の話は暗くなるので辞めて、気分転換にスポーツの話でもどうか、と思ったけれども、こちらもわたしの贔屓のチームである阪神タイガースは、8連敗を喫しているところです。交流戦の終わりまでは希望を抱いていたけれども、交流戦直後のカープ3連戦で――1試合は雨で流れたものの――白星をひとつも上げることができなかったということが分かれ目であったと思う。あの直接対決で戦力の圧倒的な差を見て、今年のリーグ優勝という高邁な望みはほとんど失われてしまったのであった。福留と糸井は、いったい何をしているのか。金本チルドレンたちにももっと期待していたのだが、北條もどん底暮らしが長すぎる。そのカープへの完敗を機にずるずると8連敗。今年はそれまで3連敗が最長連敗だったこともあって、応援しているチームが大型連敗をするというのはこれほど悲しいことだったのか、というやさぐれた気持ちを久し振りに思い出した。みるみるうちに失われていく貯金。着実に縮まっていく3位とのゲーム差。七月には仕切り直して、惨めな試合を見せないでほしいものです。

 

 テニスの錦織圭さんもぱっとしない。昨年同様、QFまで勝ち上がることのできたローラン・ギャロスだったわけだが、けして調子がいいとはいえないアンディ・マレーに、自滅する形で逆転負け。1セット目の完璧な試合展開の時点で厭な予感がしていたのだが、その予感が見事に当たってしまった。長年にわたって課題とされているメンタルのコントロールについては、もう諦めるしかないのだろうか。精神的な弱さが克服されない限りは、グランドスラムはおろか、マスター1000での優勝もありえないだろう。

 気を取り直して、芝のゲリー・ウェバー・オープン。全仏同様、ベルダスコから勝ち上がっての三回戦だったわけだが、まさかの棄権。これでゲリー・ウェバーでの棄権は三年連続となってしまった。もうすぐ始まる全英でも期待できないのだが、去年のポイントもキープできないとなってしまうと、いよいよトップ10転落が現実のものとなってしまいそうである。ツアー・ファイナルに出場できることを心の底から望んでいる•••。

 

 先日、はじめての文楽体験記/国立劇場 五月公演「菅原伝授手習鑑」と題した文章を書いて、表題のとおり、はじめて文楽に足を運んだときの経験をつらつらと書いたのだが、文楽を観たのは五月のことであった。じつは六月にも、そのままの勢いで国立劇場で歌舞伎を鑑賞してきたのである。

 文楽同様、はじめての歌舞伎鑑賞。毎年六月と七月に開催されているらしい中高生向けの「歌舞伎教室」に行った。初心者向けに歌舞伎のいろはをユーモアを交えつつ30分程語り、実際の歌舞伎の演目を披露するというものである。その日の演目は、「毛抜」と呼ばれる歌舞伎十八番のものだった。七月にもあるというので、そのままの勢いで、もう一度行こうかと迷っているところである。

 歌舞伎や文楽をさらに見たいというのと同時に、能や狂言という分野にも興味をもちはじめた。ことしは思いがけずお茶碗に心を奪われたり、日本的なものへの関心がずっと流れているような気がする。ただ、その関心は、そのつど対象とのあいだのみに取り持たれているような感覚があって、まだそれぞれの領域同士がつながって、大きな意味を訴えはじめるという段階には至っていない。このままの調子でもいいのだが、せっかくなので、その土台となるようなことをお勉強をしながら体系的に積み立てていったら、最終的にはもっと愉しくなるような気もしている。これまで断片的にしか読んでこなかった散らかっているばかりの日本文学も、もう少し時代性ということを意識しながら読み直したいかぎりである。ああ、時間が欲しいのです。

 

 気づけば、8,000字に達してしまった。研究とは別に読んだ本のあれこれについてであったり、友人たちと話したあれこれのことを書こうと思っていたが、さすがに打鍵する指が疲れたのでここいらでお開きにします。つねに時間の足りなさについて苦々しく思っているわけだが、普段考えているよりも、人間の一ヶ月にはさまざまなことが起こるものだ。わたしの普段の暮らしには、プロ野球の観戦とプロ野球ニュースならびになんJまとめを読むということしか含まれていないような気もしていたのであるが、そうでもないのかもしれない。いや、現実を隠蔽するのはよくないだろう。事実、そうなのである。不毛とはわかりつつも、「もう応援しない」と不貞腐れようとも、贔屓のチームはいつまでも追いかけてしまう。それが愛でしょう?

 

 

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