奇矯な想像力に耽溺する悦び ―― エイモス・チェツオーラ『やし酒飲み』

 エイモス・チェツオーラ『やし酒飲み』(土屋晢訳, 岩波文庫)を読んだ。ナイジェリア出身のチェツオーラが1952年に著した小説である。「アフリカ文学」にカテゴライズされる小説のなかで、おそらく唯一、岩波文庫に入っている作品ではなかろうか*1。ひょっとすると、アフリカ文学では世界でいちばん読まれている作品かもしれない。ただ、わたしの場合は、何年か前に文庫を買ったまま、頁をひらくこともなく、本棚で埃をかぶっていたのだった。たまたま新刊である『ぼくらが漁師だったころ』を買ったので、その前に読んでおこうと思った。
 
 主人公であるわたしは、やし酒飲みである。大金持ちの息子であるわたしは、父のおかげでとくに働きもせず、好物のやし酒を呑んだくれているだけの毎日を送っている。しかし、ある日、父が死に、そのあとを追うようにしてすぐにやし酒造りが死んだ。かれのほかには、だれひとりとしてかれのように旨いやし酒はつくれなかったので、「死者の国」からやし酒造りを連れ戻すための旅に出る。道中で出会った妻を娶り、種々の奇妙な生きものに囲まれ、数々の危険な目に遭いながら、幾年にもわたって旅を続けていく。
 
 この物語はすごい。ときおりクスクスと笑いながら、どんどんと頁を繰り、あっという間に読み終わってしまった。芸術作品が、それぞれの方途でセンス・オブ・ワンダーを標榜するものだとすれば、この小説には、およそすべての頁にきわめて独特なかたちのセンス・オブ・ワンダーが潜んでいる。そして、この小説に収められているその奇矯な想像力は、ほかの何にも似ていないようでいて、どこか見憶えがあるのだ。いったいその正体はなんなのか。
 
 あくまで語り口はやさしい。カフカ的なモチーフといっていいような、非論理的で、奇怪な連関のうちにさまざまな出来事が生起していくのだが、そこにはカフカの紡ぐ世界のような、たえず読者の不安を喚起する底知れぬ暗鬱さは存在しない。グロテスクな怪物を前に恐怖に怯える主人公たちがいる。登場するひとびとはつぎつぎに死んでいく。それでも、どこか飄々とした、軽快な文体によって、ざくざくと物語は綴られていく。わたしたちが「普通の小説」で見知っているような物語的な時間の流れかたはどこ吹く風だ。一日の出来事をつらつらと書き連ねているところがあれば、一頁もめくれば数年経っていることもある。強いていうなら、そのナラティヴはどこか童話の語りに似ている。童話的な空気を湛えているということが、わたしに先述の既視感を与えた要因のひとつであるかもしれない。
 
 とはいえ、子どもに読み聞かせるにしてはあきらかに奇妙すぎる。その奇妙さはどこから起因するのか。それはたんにリアリズムと袂を分かち、神話的な現象がつぎつぎと起こっているというだけではないだろう。作家が筆に力を込める箇所が、どうも大半の小説の感覚からずれているのだ。しかし、そのずれがだんだんと癖になってくる。いくつか本文から引いてみよう。
"灰が盛り上ってその中から半体の赤ん坊が生れるとたちまち、その赤ん坊は低い声で話しはじめたのだが、わたしたちは素知らぬ顔をして、出発した。すると赤ん坊は妻に、「待ってくれろ。わしもいっしょに連れていってくれろ」と、話しかけてきたが、それには構わず、わたしたちはドンドン歩いていった。それを見て彼が、あいつら、めくらにしてやれ、と命じると、わたしたちは、たちまちめくらになってしまった。が、それでも彼を連れに戻らずドンドン歩きつづけた。それを見た彼は、またもや今度は、あいつらの息の根をとめてやれと命じると、全くのところわたしたちは、息ができなくなってしまったのだった。呼吸ができなくてはどうしようもないし、わたしたちは引き返して、彼を連れていくことにした"(p.42-43)

 妻の左手の小指がふくれあがって産まれてきた赤んぼうは、ありとあらゆるものを食い尽くす、さながら怪物のような赤んぼうであった。主人公と妻は赤んぼうごと家を燃やし、その場を去ろうとするのだが、積み重なった灰のなかからふたたび赤んぼうが産まれてきた。わたしたちは素知らぬ顔をして出発しようとしたが、赤んぼうが息の根を止めてしまったので、息ができなくてはどうしようもないと、わたしたちは引き返して赤んぼうを連れていく。

 どこから突っ込めばいいのかわからない。あまりにもずれが多発しているので、じつはそれはずれとは呼ばないのかもしれない、と自分の確信すらも怪しくなってくる。そのみずからの支えが崩されてしまうという感覚が、チェツオーラの小説の読書体験の妙味であろう。

 

 どこかのタイミングで突然明かされるのだが、主人公は八百万の神々の父であるそうだ(ドッ)。さらにバツが悪いことには、かれは自分が神であることを頻繁に忘れてしまう。

"しかしそれまでに懐中には、一文もなくなっていた。そこでわたしは、どうしたら、食べものなどを買う金が手に入るか、思案をめぐらした。しばらくしてわたしは、自分が、 この世のことはなんでもできる神々の〈父〉であるということを、思い出した。"(p.48)

 自分が神であるので、どんなに窮地に陥っても、難なく脱することができてしまう。このナラティヴを根底から崩壊させてしまうことのできる設定が、しれっと差し込まれている。 とはいえ、かれはそのことを忘れていることがままあるので、いろいろな困難に巻き込まれるのだ。奇妙な話だ。

 たとえば、森林に潜む有害な白い生物を追い払うために、まじないをつかってみずからを火の姿に変えたのだが、すると続々と生物たちが火の回りに「さむい、さむい」といいながら集まってきて暖をとっている。わたしたちに対して、彼らは危害を与えることはないものの、まったく動こうとしないので、困り果ててしまう。いつまで火の姿に扮しているのか困り果てる主人公の珍道中。森には危険がいっぱいである*2。 

"しかし、その「手が生え、口を利く木」の内部に入るさいに、戸口の男に「七十ポンド十八シリング六ペニーで、「わたしたちの死を売り」渡し、同様に、一ヶ月三ポンド十シリングの金利で「わたしたちの恐怖を貸与」してしまっていたので、わたしたちはもう、死について心を煩わすこともなく、恐怖心を抱くこともなかったのだった"(p.85)

  主人公が神であるということに加えて、途中で「死」を売り払ってしまったので、どんなことがあっても死ぬことはなくなってしまった。さらにチェツオーラは設定を崩しにかかっている。もはやなんでもござれ。それでもひとつのまとまりとしてギリギリのところで物語が成立している、それこそが作者の力量であり、この小説が世界的に評価されているゆえんだろう。真似をしようとしても、これは容易にかけるものではないのだ。

 

 その強度を担保するような小説世界における不可侵の設定として、森には他の縄張りを侵犯することはできないという絶対の掟が敷かれている。それゆえに、どんな怪物に追いかけられようとも――「死」は売り渡しているので死ぬことはないのだが、面倒には巻き込まれる――縄張りを抜けてしまえば、主人公たちは助かるのである。つまり、主人公とその妻は、この物語において唯一、縄張りの境界をつぎつぎと横断していくことが許されている存在である。それが〈神〉であることの証左であろう。

 非制約的な〈神〉は、結局のところ、やし酒造りを死者の国から連れ戻すことはできなかった。 しかし、かれら自身は、生者と死者の境界を軽々とわたってしまっている。そのことには、わたしは大きな寓意が込められているという直感があるのだが、野暮なことを口走ってしまう前に、筆を措こう。この問題についてはもう少し考えてみようと思う。

 

 ところで、わたしは原文にあたっていないからなんともいえないのだが、土屋訳は素晴らしかったと思う。解説で多和田葉子も言及していたが、ですます調とだである調が混淆している感覚には、わたしは新しい言語の可能性を感じとった。あの絶妙な文体こそが、この物語世界を根底にある支えとして機能していることは間違いない。

 

*1:ピエール・ロチ『アフリカ騎兵』といった、アフリカ大陸での紀行文はあるようだが、アチェベの『崩れゆく絆』も岩波文庫には入っていないし、「アフリカ文学」では唯一であろう。

*2:死者の町へとつづく道はないから、数々の危険がひそんでいる森林の道なき道を進んできたのに、帰るときは「その時彼は、別の近道を教えてくれた。そしてその道は、今までのような森林ではなく、れっきとした道路でした」。道路、あったのかよ。