松岡茉優さん、あるいは単一か複数かの問い ―― 大九明子『勝手にふるえてろ』

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  快哉を叫びたくなるほどの傑作だ。いったいどれだけ生気に満ち満ちているだろう。この映画に流れる時間は、松岡茉優という女優のもつはちきれんばかりのエネルギーによって満たされている。オカリナ(片桐はいり)が玄関先でヨシカをひと目見てつぶやいた言葉は正しい。彼女には「後光が差している」。然り、そうとしか言いようがない。わたしは120分ものあいだ、ひとときも彼女から目を離すことができなかった。神々しい、神々しいのである。

 彼女は〈こじらせ女子〉という手垢のつきすぎた表象にあえて乗っかりながらも、つねにそこからはみ出し、逸脱していく。その逸脱こそが〈こじらせ〉の原初的な在りかたではなかったか。彼女の横溢していくエネルギーを目の前にして、わたしたちは畏怖の念のもと〈こじらせ女子〉と命名する。そのようなラベルを貼っておかなければ、彼女はあまりにも危険で、あまりに魅力的すぎるのだ。

 ああ、この映画の松岡茉優はどれほど褒めても褒めすぎることはない。筆が止まらない。わたしは銀幕の女優としての彼女の存在をどれほど知っていただろうか。本作をもって初主演ということらしいのだが、わたしにとっては彼女にまつわる映画の記憶は『桐島、部活やめるってよ』にとどまっていた。あのときの演技もけして悪かったわけではないが、かくも紙面を割きたいと思わせるほどの屹立した輝きは湛えていなかったように思う。この数年間の隔たりの彼女の化身はなんなのか(そもそも顔が変わってない?)。わたしはさほどテレビを観ない人間なので、テレビでは引っ張りだこらしいこともあまり知らなかった。たしかに彼女の姿を街中のポスターで頻繁に見かけるようになった。もっと映画の世界に進出してきてほしい、とわたしは切に願っている。ヨシカという強烈なキャラクターに引きずられることなく(「ヨシカ」的なるものはふたたび見たいものの)、これからも松岡茉優のどこまでも自由で多様な姿を見せてほしい。
 
 
 以下、松岡茉優さんの魅力に比べればどこまでも蛇足にすぎない主題をめぐる走り書き。
 
 いちたすいちをイチとするか、いちたすいちをニとするか。どこか鼻につくしゃべり方の留守電のオペレータが「このメッセージを消去する場合は1を、保存する場合は2を」という。このような二者択一の問いは、次のようにもパラフレーズされうる。世界は単一であるのか、複数であるのか、と。
 オカリナ(片桐はいり)はまたしても正しいことをいっていた。「名前に支配された人生なんです」*1。名前がこの映画的世界を支配する ―― つまり、「イチ」を取るか、「ニ」を取るかというヨシカに与えられた選択肢は、閉じられた単一的な世界を取るか、複数性に開かれた世界を取るかという問いの変奏である。どういうことか。
 

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 〈イチ〉とのセカイ。それは中学時代に人知れずヨシカが描きつけていた『天然王子』の漫画のなかの閉じられた世界である。「猫じゃらし」みたいなイチは、クラスメイトから弄られつづけているが、わたしだけが彼を解放してあげることができる、とヨシカはひそかに思っている。生き物としての気配を消すことによって培われた、イチを見つめつづけた「視野見」の技術。

 二人は「遅刻しません」の羅列のなかにひとつだけ紛れている「遅刻します」という頼りない文面によって繋がっている。あるいは「こっち見て、俺を見て」というイチのひとことによってヨシカの想いは支えられている。10年経ったいまでもヨシカの片想いはとどまることを知らない。バスで隣に座るおばさんや、駅員や、釣り人や、特徴的なコンビニ店員に、こじらせ妄想話をくっちゃべる。あらゆるシチュエーションで「イチが好き!」と叫んでしまう。ヨシカはニとのデート中でさえも、星の連関にイチの顔をおもむろに見出すのである。そう、ヨシカには世界が見えていない。いや、ヨシカにとってのセカイがイチに埋め尽くされている、というべきだろうか。
 
 留学したクラスメイトを騙って開催した同窓会を経て、めぐりめぐってヨシカの目論見は成功を収め、都内のタワーマンションのテラスでイチとことばを交わすひとときを得る。二人は、絶滅した動物の話で盛り上がる。イチは出し抜けにヨシカにこういう。「君と話すの不思議。自分と話してるみたい」。この違和感の否めない唐突な科白は、俺と君が等号によって結ばれてしまった、ヨシカとイチの二人だけの閉じられたひとつのセカイの在りかたを証している。君だけが俺を見てくれなかったから、君には俺を見ていてほしかった。俺と君、私とイチだけの閉じられた世界。いわゆる〈セカイ系〉である。
 
 つまり、イチを想い続けた10年間は、どこにも行き着くことのない閉じられた円環にすぎなかったのだ。イチはヨシカの名前を知らない。なぜなら、君は俺であり、俺は君であるのだから、名前などそもそも必要とされていないのだ。ヨシカだって、バスで隣に座るおばさんや、駅員や、釣り人や、特徴的なコンビニ店員の名前を知らない。いつも親しげに話しているかれらとのひとときは、すべて彼女の妄想にすぎなかった。必要なときに彼女の妄想の聞き手になってくれるような、都合のいい代替可能な存在でしかない。ヨシカとセカイのあいだにはあらかじめ限界線が引かれていて、彼女はその線を踏み越えることができない。イチとのセカイは、結局のところ、アンモナイト的なぐるぐるのうちに閉じられた俺と君の単一的なセカイにすぎなかったのである。
 
 

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 〈ニ〉との世界。かれらは同窓会の日に、ニの鮮やかな謀略によってすぐにLINEでつながってしまう。「江藤さんの行きたいところに行きませんか」というニの誘いに対して、ヨシカが連れていったのは、彼女がいつもヘッドホンで聴いているテクノがかかるクラブである。ヨシカは弁明する。ひとりでいく勇気はなかったから、ニとの行く先に設定した、と。ここではイチとの世界で引かれていたはずの境界線を、ニの助けを借りることで、一歩踏み越していると指摘できるだろう。
 その夜、ヨシカは混沌を極めているラブホ街で告白される。彼女はとまどいながらも、告白された歓びに胸を躍らせる。カオスで醜かったはずの現実が、ぱっと美しく輝きはじめる瞬間。ニの無理やりなヨシカのセカイへの介入によって、世界が別様に見えてくる瞬間。その瞬間にヨシカは高揚を抑えることができない。
 
 ヨシカとニはじつにいろいろなところにいく。会社内外、クラブをはじめとして、なぜかクリスマスの真冬のなか奥多摩で釣りをし、タワーマンションの下でもばったりと遭遇する。居酒屋でおっさんたちに囲まれたり、休日の公園でピクニックをしたり。そのロケーションの多様性は ―― すぐに中学時代の回想へと向かってしまうイチとの関係性とは対照的に ―― ニとともにある、世界へのひらかれた在りかたについての傍証となるだろう。
 
 しかし、決定的なのはラスト・シーンである。「俺との子ども、作ろうぜ!」とドアの外に叫ぶニ。おどろくヨシカに、ニは、「地球上の人々に聞いて欲しくて」と照れ臭そうに言う。なんと魅力的なシーンだろう! まずひとつには、子どもという存在は、俺と君との閉じられた関係性のうちから生ずる第三者にほかならない。そして、その決意は地球上の人々に周知される ―― つまり、かれらは世界にたいしてひらかれている存在なのだ。アンモナイト的円環のうちに閉じこもって絶滅してしまうのではない。かれらの関係性は、そこから世界にたいして開かれ、世界のなかで刷新されつづけていきうるのである。
 あのときヨシカは、はじめてニを霧島くん、と名前で呼ぶ。二者関係のうちでは名前は必要とされない(君、で十分なのだ)。他者とともにある複数性のうちで、はじめて私たちは名前を要する。ヨシカが名前で呼んだのは、そのような複数性のうちに生きんとするヨシカの決意の顕れでもある。
 
 ヨシカはわかんないことだらけで、だから好きだ、とニはいう。この言明はヨシカのイチに対する感情とは対照的である。イチのことは、わたしこそが一番わかっていると考えていた。だからこそ、わたしはイチのことを好きでいる権利があるのだ、と。しかし、ニが突きつけるテーゼは真逆である。わからないことと好きであるということがつながることこそが、かれの標榜する世界性なのである。
 わからないことがあるということは、その関係のうちには、まだまだ発掘すべきものごとがたくさんある、相手をめがける理由が残されている、ということである。 たしかに世界はわからないことだらけだが、その未知の部分があるからこそ、あなたは世界を愛しうる。
 
 いや、まだ愛するのは早いかもしれないし、愛するという語感は芽生えたばかりの関係性にとってはいささか強すぎるかもしれない。だが、少なくともあなたは世界のことを「かなりちゃんと、好き」でいることができるのだ。そのことを教えてくれたのは、ほかならぬニという他者にほかならない。
 〈こじらせ女子〉は、その外部からのレッテル貼りでもありながら、同時に彼女たちの自己を守るための呪文でもある。彼女たちの〈こじらせ〉という呪いによって閉じられたセカイは、ニのように不器用にこじ開けんとする他者によって解放される可能性をつねに秘めているのである。
 
 『文學界』の1月号を読んでいたら、たまたま綿矢りさ*2松岡茉優の対談が載っていた。松岡茉優はつぎのように語っている。「撮影を通してヨシカと一緒に生きた身として思うのは、ヨシカって、いろんな女の子たちの、報われなかった魂の集合体なんじゃないかと」。
 他者とは、わたしたちの心のドアをノックして、ひらいてくれるような最後の存在である。ニは、いろんな女の子たちの報われなかった魂を救済することができただろうか。世界にたいしてひらかれていること、複数的であること。俗っぽいラブコメのよそおいのもとにあるように見うけられるこの映画から、わたしはなによりも世界にたいするひらかれた態度の在りかたをあらためて教えてもらった気分になった。わたしの心をひらいてくれるような、わたしたちに残された最後の超越は他者にほかならない。そのことは同時に、わたしはだれかの心をひらきうる、他者にとっての他者たりうる存在なのだ。わたしたちはただ盲目的に〈ニ〉の到来を待つだけでは仕方ないのだ。わたしやあなたこそが、だれかにとっての〈ニ〉たりうるのである。その美しい範例が、この傑作のうちに示されていたのである。
 

*1:オカリナのこの下りは最高。ヨシカの暮らす生活圏域において唯一、オカリナだけが名前を伴った存在である。この事実はこの物語のさらなる読解に役立つだろうという予感があるが、さておき

*2:映画を観てからすぐさま原作も読んだ。すでにモチーフは原作のうちにあったのだが、圧倒的に映画のほうがよかった、と思う。その理由のひとつは松岡茉優の魅力ということが挙げられるが、それだけではなく、脚本と演出の大胆な翻案に依るところも非常に大きい、と思う。

*3:TIFFで上映後の劇場前をたまたま通りがかったら、『勝手にふるえてろ』を観たばかりの高校生や大学生の集団が、ヨシカのごとく早口でその昂奮を分かち合っているところに遭遇した。「わかる、わかるぞ、その気持ち」と内心呟いた。あれはエモだ。