その霧の曖昧さを肯定するか ―― カズオ・イシグロ『忘れられた巨人』読書会レポート

 イギリスでは、カズオ・イシグロノーベル文学賞受賞のニュースはさして報道されなかったそうだ。かつてノーベル文学賞を獲ったイギリス人作家も同様だったようである。というのも、イギリスでは、ブッカー賞のほうが権威があるので、ノーベル文学賞にはさして大衆の関心が払われないらしい。ナショナル・アイデンティティを保持するためには、異国でさわがれているようなものに依拠する必要はなく、ただ自分たちの連綿とつづく歴史のうちに求めればいい、ということか。
 そのようなイギリスという大国の在りかたは、わが国の態度とは天と地の差である。ただ出自の国がそうであるからというだけの理由で、カズオ・イシグロのニュースをあたかも自国の国際的評価が上がったとばかりに狂ったように報道しつづけ、書店にいけば文庫版がずらりと平積みされている。わたしたちは依然として西洋の価値観を借り受けなければ自己肯定をすることができないのだ。とはいえ、なにがしの不倫騒動やお相撲さんの小競り合いをニュースで延々と聞かされるよりはよほどいいし、これを機にカズオ・イシグロがより広範な読者のもとに届くのは素晴らしいことである。
 
 最近まですっかり忘れていたのだが、二年前に友人たちで集って、カズオ・イシグロ忘れられた巨人』の読書会を開催した。ほんとうに暇なことに、わたしたちはそのあとレポートなるものをつくっていたのだが、どこにも公開していなかったので、ひっそりとここに置いておく(参加者に許可取っていない!)。こういうレポートをつくるまでの熱量と時間をもつことはできなさそうだが、ぜひにふたたび読書会はやりたいものです。
 
M
 今回から新しく参加してくれた2人の参加者のためにも、少しだけこの集まりについて説明すると、これは僕らが住んでいる高田馬場のシェアハウスで定期的に開催している読書会です。
 
 で、今日たまたまだけど、俺の中でこの会の存在意義を見つめ直すような「気づき」があったんだよね。というのも、書評サイトの「読書メーター」を今日ずっとみていたら、「これは明らかに独自解釈しすぎ」っていうような書評がツラツラと並んでいたの。たとえば、わりと議論の的になりやすいラストシーンの解釈とか、まるで見当ちがいなことが主観的につらつら書かれていたりするんだよね(笑)。
 
一同 (笑)。
 
M
 なんかもう「解釈って人それぞれだよね」っていう次元を超えた明らかな誤解で、みんな個人個人で好き勝手に書いているから、なんでもありで。だから、この会の目的として、「個人の感想以上、批評以下」くらいの位置でうまくやれないかなと思ってて。素人でも、複数人である程度議論を深めていけば、「読書メーター」には勝てるんじゃないかなと(笑)。そこらへんの位置の書評って、ちょっとは需要があるんじゃないかと思っている。
 
G
 なるほど。確かに書評って、プロの長文か素人の1ツイートかみたいに、二極化している感じはするよね。
 
M
 まあ、そんなわけで素人なりに頑張っていきたいということを思っているわけです。(読書会設立の意図についてくわしくは、ミシェル・ウェルベック服従』の回で)。
 
W
 ところで今回はなんでカズオ・イシグロの『忘れられた巨人』にしたんだっけ?
 
I
 えーと今回、僕が提案したんだけど……まあ単純に僕が読みたかったからってだけかな(笑)。前にカズオ・イシグロの『わたしを離さないで』を読んでとてもよかったので、ほかの作品も読みたいなと思っていたところに、今年イシグロの新作長編『忘れられた巨人』が出版されて。
 今年の海外文学作品としては、前回の『服従』くらい話題になってたような印象があります。あとは「友だちを増やす」というのがこの読書会の裏テーマということを聞いたので、純粋にこれだったら参加しやすいかな、と(笑)。ちなみにみなさんはカズオ・イシグロのほかの作品もけっこう読んでる?
 
M
 僕ははじめて。
 
T
 私もはじめて。さっき読み終わったばかりでぜんぜん消化しきれてないや。
 
W
 『わたしを離さないで』は映画を観て、本も読んだ。
 
G
 俺はこれで3作目かなー。『日の名残り』と『わたしを離さないで』と『忘れられた巨人』。
 
K
 私は長編だと『浮世の画家』以外は全部読みました。『わたしを離さないで』は一番好きな作品で、原文でも読んだくらい。
 
M
 全部で何作あるの?
 
W
 いま調べたら、長編は『忘れられた巨人』で7作目……かな。1982年に処女作が出て、そのあとぼこぼこと出版されて、10年もの間新作をだしていなくて、今作に至るという感じ。
 
M
 なるほどね。前作の『わたしを離さないで』がみんな好きっぽいみたいだけれど、どんな話なの?
 
K
 臓器提供のために作られたクローンの子供たちのお話だね。彼らは、臓器提供のためだけに作られた人間だから、健康を害さないようにすごい厳格に管理されて生きてるという設定なの。
 
I
 小説では前半、子供たちは自分たちがクローンであることもそのあとの運命も知らないままに物語が進んでいくんだよね。そしてそのことは読者にも明かされないまま、徐々に真実がひとつひとつわかってゆくような手法が取られてる。
 
W
 映画と全然違うんだよね。
 
I
 そうなんだよ。
 
G
 普通「死」っていうのは老人とつなげがちだけど、それを10代の子供たちと突き合わせて描いて、生と死のコントラストがすごく印象的な作品だったね。
 
W
 あれはジャンルで言うならばSF?
 
K
 まあそうかな。それが『忘れられた巨人』では、突然ファンタジー調になっていて、すごく驚いた。
 
I
 カズオ・イシグロは毎作品発表するごとに小説のジャンルを変えるということで有名だよね。まあ、これをジャンルで括るのがいいのかはわからないけど、すくなくともだれもこのような冒険もの(?)のファンタジー小説を発表するとは予想してなかった。
 
G
 ジャンルだけに留まらず、時代背景とかも全部変えてくるしね。『わたしを離さないで』は近未来の話だし、『日の名残り』は世界大戦中のイギリスの話だし、毎回描かれている世界が全然違う。今回の作品は、八世紀あたりのイギリスの話だね。
 
 
 
「忘却」という「記憶」のひとつの存在のありかた
 
M
 『忘れられた巨人』とタイトルにあるように、「忘れる」ということはこの小説の最大のテーマだよね。「記憶」について、と言ってもいいかもしれないけどさ。
 
K
 テーマについては、イシグロ本人はいろんなインタビューで言っているんだけれど、全部の作品を通じてイシグロにとって「記憶」はひとつのテーマになっているのは確かだと言っていいと思う。
 
 『忘れられた巨人』の「忘却」というのも記憶のひとつの存在の仕方だし、たとえば『遠い山なみの光』でもそうだけど、カズオ・イシグロ作品って、記憶自体が中心的なテーマに置かれていなくても、つねに「記憶」を通じて語られる形式が取られているんだよね。だからそれがすごく小説という媒体としてかなり生きてる。
 
W
 俺、『わたしを離さないで』は映画でしか観ていないんだけど、正直、ぜんぜん面白くなかったんだよね。レビューとかを読んでいても、原作のほうが面白いと書いていた。いまの話とも繋がるなあと思ったんだけど。
 
K
 そうだね。やっぱり映画って画面に映るもののすべてを明らかにしないといけないから、端っこのぼやけた部分も含めて構成されているような、人間の「記憶」とは相性が悪いと思うんだよね。それにひきかえ小説という媒体は、記憶を書くのにすごい向いているんじゃないかなと私は思ってます。小説であればより自由に時系列で遊ぶことも可能だし。
 
I
 たしかに、『忘れられた巨人』では、過去の「記憶」の語られ方はすごくうまいなあと思った。章によっては過去の回想についてのところがあるけど、それも直接フラッシュバックして過去に飛ぶのではなく、まずはじめに現在軸で語りながら、現在と過去をつなぐ「何か」を媒介として過去の記憶を手繰り寄せていっている。
 
 
ラスト・シーンの意味からみる「思い出す」こと
 
M
 なるほどね。ところで、ここで最後のシーンについてつっこんでおきたいんだけれど、ひとまず「ベアトリスは死んだ」という理解でいいんだよね?
 
G
 うん。僕もそのことに異論はないかな。まず背景知識として共有するのだけど、アーサー王伝説のなかで、アーサー王が最期に行き着く場所にアバロンという孤島があって。島までは船頭が渡してくれるのだけど、そこがアーサー王が最期の眠りにつく場所なんだよね。たぶんそれをモチーフにしてるんだと思う。だから死ぬっていう理解で間違いはないと思う。
 
M
 へえー。
 
G
 ちなみにアバロンの伝説は、こういうふうに描かれてる。寝ているのがアーサー王で、周りが島にいる女たち。アーサー王が最期の眠る場所。
 
 

f:id:immoue:20171226173721j:plainアーサー王のアヴァロンでの最後の眠り』(エドワード・バーン=ジョーンズ、1881年 - 1898年)

 
I
 へえ、知らなかった。僕はこの島については作中でもいくつか描写があったけど、そういうのを読みながら、19世紀のスイスの画家、ベックリンの《死の島》という作品の情景がすごく頭に浮かんでた。けっこう有名な絵で、みんなおそらく見たことあると思うので僕もちょっといまネットで探します。
 

f:id:immoue:20171226173758j:plain

 

 

M
 あ、これみたことあるわ!
 
I
 島にたくさん生えているのは杉の木で、そもそも杉は「死」の象徴らしい。この絵は、その「死の島」に小さな舟が乗り付けるところが描かれてるんだけど、舟の上で白装束をまとって立っているひとは顔が見えないので、このひとは男なのか女なのか、生者なのか死者なのか、あるいはそもそも人間なのかすら僕たちにはわからない。そして、前には棺があって、もうひとりが舟を漕いでいる。つまり彼らは舟で「墓場」に向かっている、ということなんだよね。なのでこれは『忘れられた巨人』の最後のシーンともすごく繋がってくるな、と思った。
 
M
 ベアトリスは船頭の漕ぐ舟に乗って墓場に向かう、と。
 
I
 そう。それから、「墓場」ということだと、この『忘れられた巨人』の浜辺でのラストシーンは、『わたしを離さないで』のラストとも繋がるな、と思っていて。
 
 『わたしを離さないで』ではいちばん最後に、主人公が「ノーフォーク」というイギリスの東端の地域の浜辺を訪れて終わる。詳しい説明はここでは省くけど、『わたしを離さないで』における「浜辺」は、「いままでひとびとが失ってきたものすべてとふたたび出逢うことができる場所」なんだよね。だから主人公は、最後にその浜辺で、先に死なれてしまった友人に出会えるんじゃないんか、と期待する。いっぽう、『忘れられた巨人』では、「浜辺」は「墓場」であり、死者が辿りつくところだ、と。ひとの「死」がその人にとっての「すべての忘却」であるとすれば、この二作の「浜辺」の表象は、つまりはまったく真逆に描かれているわけで、これはわりとおもしろい対比なのではないかという気がする。
 
M
 なるほどー。
 
T
 『忘れられた巨人』の最後のシーンは、やっぱりすごく不思議だよね。あれだけ仲のいい夫婦であるアクセルとベアトリスが、いままでずっとひと時も離れないままはるばる旅をしてきて、最後になって結局ベアトリスだけ舟で渡っていってしまう。アクセルも途中で船頭と交渉することをあっさり諦めて、ひとりで去っていく。
 
 『忘れられた巨人』の最後にベアトリスとアクセルが二人で乗ろうとする舟も、実際に全然ふたりとも乗れる感じだもん。ベアトリスが舟に乗ったときは――わざわざ描写がついているんだけど――「水の上にさざ波すら立っていなかった」って書いてある。でも、アクセルがそのあと乗り込んだとき、舟がちょっとぐらっときただけで、すかさず船頭は「これは乗れません、諦めてください」と。いや絶対乗れるでしょ、って思った。
 
M
 たしかに、船頭が最後までなにかを隠し通している感じはするよね。
 
T
 船頭もそうだし、二人がそれぞれどう考えてるのかもよくわからないな。彼らが浜辺で別れる時、ベアトリスのほうは「じゃ、さようなら、アクセル」って呼んでるのに、アクセルのほうは単の「最愛のお姫様」って言ってる。またすぐに舟で渡って会いに行こうと思っているなら「じゃあまたあとでね」とかでいいのに、「最愛のお姫様」って言っているのを読んで、ああ、もうアクセルは会いに行く気がないんだなあ、って。
 
M
 ベアトリスのほうも、またすぐに会えるはずなのに「さようなら」と言っているのはけっこうおかしいよねえ。彼女自身がどこかでもうアクセルとは会えないこと、自分がこれから死んでゆくことを悟っている感じはする。
 
I
 そもそも僕は、「本当に愛情で強く結ばれた夫婦だけ、一緒に舟に乗って島まで渡れる」、という船頭の話がよくわからなくて。それってすなわちどういうこと?
 
W
 一緒に死ぬということじゃないの?
 
M
 俺も安直にそう思った。ごく稀に、一緒に死ねますという意味かと。
 
I
 うーん。そのことになんらかの意味があるんじゃないかな、と思ったんだけど。
 
M
 さらにいうと、後半部分のベアトリスはもはや痴呆症みたいになっていたじゃないですか。「こいつ死ぬなあ」と俺はずっと思ってたし、実際あの幕切れのあとも、ベアトリスだけが死んだと理解している。一方、アクセルはまだ死なない。
 
I
 それじゃあここで考えるべきは、なぜアクセルは、ベアトリスとともに心中せずに、生きゆくことになったのか? という問題じゃないかな。たとえば最後の船頭とアクセルの会話のなかで、「アクセルの目に火が宿った」という記述があったじゃないですか。直接的にはこの火は、船頭がベアトリスと島へと連れていってくれない、約束を守ってくれないことに対しての怒りの火だったわけだけど、読者の僕としては、「生」のエネルギーの火が宿ったという印象を受けた。つまり、アクセルはまだ生きたかった、生きねばならない理由があったんじゃないか、と思うんですよ。
 
 しかも、いちばん最後に、アクセルはまた何かを思い出したのじゃないかな。小説の最後は船頭の一人称視点でアクセルの様子が綴られるわけだけど。ちょっと引用します。
“おや、こっちがせっかく振り向いたのに、向こうは見てないぞ。陸地と、入り江に低くかかる太陽なんか見ている。ま、おれもとくに目を合わせたいわけじゃない。爺さんはおれの横を通り過ぎ、なのに振り返らない。じゃ、陸で待っていてくれたまえ、友よ。おれはぽつりと言う。だが、爺さんは聞いておらず、先へ進んで行く。"
 このタイミングで、アクセルにまた新しく過去の記憶が蘇ってきたんじゃないかな、と思う。それまでアクセルはベアトリスに対して、「私は(船頭と)仲直りに行こう」なんてことを言っているのに、その直後にはこの様子で、船頭と目すらあわせないで、別の方向を見て、けっきょく別のところに歩き出してしまう。さっきの話と繋げると、アクセルは、クエリグの竜が討伐され、忘却の霧が徐々に晴れてゆくなかで、最後の浜辺で、自分が生きなければならない理由、使命みたいなものを明確に思い出したのではないか、と思ったんだよね。
 
K
 そうだね、私もそう思う。最初から最後まで、アクセルが生気を失ったことって特になかったし、アクセルの生命力ってベアトリスとの対比で特に際立っていたと思う。
 
W
 この夫婦ってすごい変だなあとたびたび思ったんだけど、そもそもアクセルって、ベアトリスのことを名前で呼んでないよね。
 
T
 そう、一回も呼んでないんだよね。ベアトリスのほうも、アクセルと話すときは、いつも「アクセル」って最後に呼んでるのに、ひとつだけ「あなた」って呼んでるシーンがあって。アクセルはそれに対して「やっと妻がいつもの口調に戻った、いつものかわいらしい妻に戻った」というふうに感じている。
 
M
 もしかしたら名前を忘れていたのかもしれないよね。ベアトリス、と名前が出てくるのは、あくまでこの物語の語り手が言っているだけで、作中の登場人物は誰一人としていってない。そういうことも含めて、アクセルとベアトリスの関係性はいろいろと不思議ではあったねえ。
 
G
 そもそも、霧によって記憶から忘れ去られていたふたりの不仲の原因は、ベアトリスの不倫だった、ということが最後に明らかになるよね。それまでは、二人とも忘れてしまっていたために、この老夫婦は仲睦まじく過ごしている。
 
I
 霧に記憶を奪われなかったら、私たちの愛は、この年月をかけて、これほど強くなれていただろうか。霧のおかげで傷は癒えたのかもしれない…みたいにも書かれてるよね。
 
 ただ、僕は、妻の不倫が云々みたいな話だけでは、この2人の関係性の奇妙さを説明するには、あまりにもこの弱すぎると思うんだよね。アクセルがベアトリスの後ろ姿を見て、彼女に対してふと、底知れぬ大きな怒りを感じた、という記述が途中であったと思うんだけど、不倫という事実だけでそんな「大きな怒り」を感じるのだろうか。もっとほかに何かあったんじゃないかと思う。それを最後に思い出した、ということで、ラストの浜辺のシーン、アクセルの「生きなければいけない理由」ともつながるんじゃないか、と思ったんだけど。
 
M
 どうかなー、それは読み込みすぎじゃないかなー。
 
I
 うーん。たとえばその「生きる理由」のひとつとして考えられるのが、「人を神に近づける法」かな、と。
 
G
 記憶を失う前の、若きアクセルは、アーサー王のもとに仕え、優れた戦士としてブリトン人とサクソン人のあいだの戦争を調停し、人民に平和をもたらすことに成功したってやつだよね。この彼の働きが、「人を神に近づける法」と呼ばれてる。
 
I
 そうそう。忘却の霧が晴れ、ひとびとの過去の戦争の記憶が戻ってきてしまうと、ブリトン人とサクソン人がまた戦争をし始めてしまう。その戦争を止めなくちゃいけない、という使命感を思い出したのかな、とも。
 
K
 でもさ、物語の中盤で確かガウェインが、「彼奴はアーサー王の元を離れて、妻をただ愛するという道を選んだ。ある意味ではそのほうが神に近いのかもしれない」というようなことを言ってるじゃない。
 
I
 そうなんだよね。あれもいまいちよくわからなかった。キリスト教的な「隣人への愛情こそがひとを神さまに近づけますよ」みたいな?
 
G
 そんな感じでまとめていいのかな(笑)。さっき言っていた、なんでふたりが愛していないと島に渡れないかというのは、そうやって一緒に死ぬという解釈もありなんだけれど、たぶん、忘却というのを際立たせるためのギミックかな、と思っていて、「2人の一番大切な記憶は何ですか」という質問に対して答えられない/答えられるという状況を、「忘却」をキーに、「記憶」をより際立たせるための仕掛けだったんじゃないかなという。
 
W
 ファンタジーものとしては、やっぱり特殊なテーマ設定だよね。
 
I
 そうそう。そして、ファンタジーにしては、いくつかある決闘シーンがぜんぶあまりにも淡白だなあ、と思った。戦いの過程というものがかなりあっさり描かれて、いつも「結果」だけが与えられている。勝敗、過去の戦争の名残、死者の残骸である頭蓋骨とか。
 
G
 イシグロって、ファンタジーにおける戦闘をあまり重要視していないよね。
 
M
 彼の意識としてはファンタジーを描きたいわけじゃなかったんじゃないかな。
 
I
 それで思うんだけど、「結果だけがわれわれに残されている」というのは、この本の主題について考えるうえで重要なんじゃないかな。それって、過去の記憶についても同じことが言えるじゃないですか。そのときどきの過程、まさに渦中にいたときの感情そのものをありありとしたかたちでいまから追体験することはできない。われわれにできるのはあくまで、「結果」としての過去を、いまの位置から参照することだけ。
 
 そして彼らはどうやって過去を思い出しているかというと、なにか「モノ」を媒介としている。たとえば、「記念碑」は、あるひとつの出来事を、時が下ってもつねに思い出させるために立っているわけだけど、それはいまの僕たちからみたらひとつの「結果」が与えられている、ということにすぎない。
 
 つまり、戦闘のシーンが省かれて、結果だけを書いているというのは、その中身ではなくて、そこからもたらされたものを書こうというイシグロに通底している姿勢なのかなと思いました。
 
 
ファンタジーの装いのもとに現実を語るということ
 
K
 イシグロ作品は毎回、国や地域、時代も違うし、描かれている人間の立場もちがう。私は、そういうものがいくらバラバラになっていても、普遍的な感情が存在しているというのが、作家として言いたいんだと思うんですよ。たとえば限定的に現代のイギリスの話を書いたら、それはイギリス人的な発想だ、といわれるかもしれない。ただ、結局その場所や時代が変化しても、アクセルやベアトリスたちの時代の人間の感情は、いまの私たちと共有できるんじゃないかということが示されていると思うんだよね。
 
I
 これは僕はこれは完全なファンタジーじゃないと思うんですけれど、それは普遍的なところに迫っているからというのもそうだし、僕はこれ1ページの最初の文章がすごく肝要な気がするんですよ。
 
"イングランドと聞けば、後世の人はのどかな草地とその中をのんびりとうねっていく小道を連想するだろう。だがこの当時のイングランドにそれを探しても、見つけるのは苦労だったはずだ。"
 この文章から過去に遡っていくんだけれど、まずこの語り手は誰だよ、っていう。三人称小説なのはいいんだけど、こういうふうな語られ方が採られている箇所はもうこのあとにはない。で、こういうふうに始まって、ああいう終わり方をしているというのは、やっぱりまずは、私たちの生きているいまの「土地」は、かつてのアーサー王の時代から地続きになっているということを言っているのかもしれない。つまり、地中にはまだ「巨人」が眠っていて、またいつか動き出すのかもしれない。
 
W
 たしかに語り口は、けっこう現代的な感覚を持っている気がした。たとえば「鬼」の存在とか、違和感なくふつうに語られてるよね。
 
M
 カズオ・イシグロはこの作品を書くにあたって、1990年代のユーゴスラビア解体に伴って発生した戦争にインスピレーションを受けて書いた、とインタビューで語っているんだよね。この作品もまさにあのときの戦争と同じように、みんなが忘れていた歴史の記憶を思い出してしまう話で、そんなふうに近代の歴史を参照にしつつも、舞台設定としてはイギリスの7世紀くらいとかなり昔にしている。そしてアーサー王伝説という神話をもちだすことによって、あらゆる方面への歴史的な広がりを感じさせるような作品ではあるよね。そういう手法をとることによって、ある種の普遍性みたいなものを描こうとしているという意思表示があるのは間違いないと思う。
 
I
 つまり、いまの話を綜合すると、設定としてはファンタジーの体裁を取りながら、語り口はリアリズムに依拠しているし、じつはテーマとしてもすごくリアリティに迫っている、ということかな。
 
 
「忘れる」ということだけが憎悪の連鎖を断ち切れる
 
I
 そこで今回僕がいちばん思ったことがあるんだけど。カズオ・イシグロは、『忘れられた巨人』を通して、われわれにひとつのアンチテーゼを突きつけてきているんじゃないか、と。
 
M
 ……というと?
 
I
 というのも、われわれはよく「歴史は繰り返す」って言うじゃないですか。そして、凄惨な過去を繰り返さないためには、その事実を世代を超えて語り継ぎ、ずっと記憶に残していかなきゃダメよ、と。「凄惨な歴史を繰り返さないためには、その歴史を覚えていなければいけない」みたいなことが、戦争や原爆についてなんかでは標語になっていたりする。
 
 でも、『忘れられた巨人』においては、戦争を無くすためには、歴史を繰り返さないためには、歴史が「忘れられて」いなければいけなかった。つまり、ここでは「凄惨な歴史を繰り返さないためには、忘れていなければいけない」という、壮大なアンチテーゼが掲げられているのでは、と。
 
 やられたらやり返す的な、暴力や憎悪の連鎖は、いくら穏便にことを処理しようと、誰かがそのことを覚えている限り、いつまでも続いていく。だからその過去の事実を「完全に忘れる」ということではじめて、歴史は繰り返されずに済む、連鎖は断ち切られるのだ、ということをこの小説で示したのではないか、と。みなさん、どうでしょうか。
 
K
 それね、じつはもう言ってる、本人が(笑)。
 
I
 ああまじか、言われてた(笑)。
 
G
 まあ、そういう感じはするよね。集合的記憶、パブリックメモリー、みたいな。
 
I
 ただ、この「忘れられることによって歴史は繰り返さない」という言説って、いまの社会で認められることではないよね。
 
G
 そうだね。
 
I
 そもそもそんなアンチテーゼを掲げているこの小説は、矛盾を孕んでいるとも言える。ファンタジーだけれど、史実を語ることで、かつてのイギリスで起きたことを、読者であるわれわれに思い出させようとしている、とも解釈できるわけじゃないですか。
 
M
 でもさ……民族間の「戦争」というテーマ取り扱っておいて、それに10年も執筆に時間をかけたんだったら、もっと憎悪とか復讐心みたいな”業の深さ”を感じさせるようなものを書けたんじゃないかなあ。ちょっと物足りない感が否めない……。
 
一同 (笑)。
 
M
 でも、まったくそれがないのは逆に新鮮だとは思った。たとえば、ふつうは復讐心が連鎖していくこととか、自分の復讐心とどう向き合うかってことが文学的テーマになりがちじゃないですか。でも、この小説では、そういったものすべてが霧に包まれている状態、つまりその憎悪の連鎖が巻き起こる以前の状態を描いている。そういう意味では、戦争というテーマを扱う手法としては新鮮には映ったな。そして、その描きかたはけっこううまかったと思う。
 
 主人公ふたりの暮らすブリトン村、閉鎖的でその世界から外側は完全にモヤモヤとしたような状態から物語がはじまって、旅の道程でいろんな人に会いながら、彼らの記憶を取り戻していく。そういうミステリー的な記憶の回収の過程を含めて、少しずつ少しずつ霧が晴れて記憶が蘇っていく不思議な感覚には、単純にゾクゾクしたなあ。
 
G
 たぶん、戦争の直接的な憎悪とかを描かなかったのは、敢えてのことなんだろうなっていうのは思ってて。そういうことを書くのは簡単だし分かりやすいんだけど、敢えてそこに触れないことで余白を残せば、たぶん読者の各々が、各々の憎悪や事例をあてはめることができる。そういう曖昧さを敢えて設定することが、いい物語に繋がってるんじゃないかなって思う。俺は読みながら地元の沖縄戦のこと思ったしな。そういう余白が民族/宗教が多元的なイギリスでは必要なんじゃないかな。
 
I
 なるほど。あと、サクソン人のウィスタンは、自分はブリトン人たちと暮らしすぎて隣人を愛することを学んでしまった、彼らを心の底から憎めそうにない。だから弟子であるエドウィンに対して、「これだけは忘れるな、ブリトン人を憎み続けろ」ということを伝えるわけじゃないですか。
 
 こういうふうな距離感というか、実際の暴力にかかわった被害者/加害者ではない、事件から隔たれている人たちが、そのことを記憶して伝承させ、憎悪を増幅させた結果、つぎなる戦争というか暴力につながっていくというのは、まさに歴史の縮図のようで面白いなと思った。
 
T
 忘れないことで悲劇を繰り返さないって考え方がある一方で、忘れることでこそ悲劇を繰り返さないという考え方もある、ということをさっき言ってたじゃん。この小説のなかでは、忘れていないひとも何人か登場しているよね。
 
M
 とくにガウェイン卿だよね。あいつに至っては何も忘れていないよね。
 
G
 これさ、けっこう背景知識で言えるところがあって。
 
M
 でた!背景知識シリーズ(笑)
 
G
 うるさい(笑)。もともと『ガウェイン卿と緑の騎士』ってガウェイン卿が主人公の物語があって。彼はアーサー王に仕える「円卓の騎士」のひとりなんだけど。でさ、『忘れられた巨人』ではガウェインが、「ホルス」という彼の馬をすごい大事にしてたじゃん? でも、『ガウェイン卿と緑の騎士』でガウェインが一緒に旅する馬ってホルスじゃなくて、「グリンガレット」って名前なんだよね。
 
M
 へえー。
 
G
 だからガウェイン卿も、もしかすると自分の出自とかを忘れてて、どこかで何かの拍子に「あ、俺はアーサー王の円卓の騎士の一人、ガウェイン卿だわ」と思い出したのではないかな。一緒に旅をしていた馬のことも忘れていたので、「ホルス」という違う名前をつけたのかな、と思ったんだけど。
 
I
 そうかなあ。うーん、いま思ったんだけど、彼はずっと甲冑を身につけてるじゃないですか。彼が覚え続けている理由は、それじゃないかな、と思った。アーサー王から命じられて任務に旅だったときから、ずっと彼は甲冑を身につけたまま脱いでいない、だからこそ自分の使命を覚え続けてるのかもしれない。というか、つねにある甲冑という存在が彼の使命のことをつねに思い出させている。つまり、さっき言ったように、なにかしらの「モノ」にこそ記憶は宿りつづけているのではないかな。
 
M
 いや、単純にガウェイン卿が魔法をかけた張本人だったからでしょう。本文には魔法が解けて霧が晴れると、サクソン人がすぐさまブリトン人をみな殺戮するってことが書いてある。そして、これは実際の史実になっていくことだよね。
 
I
 そうだなあ。ひとつ気にかかっているのが、ベアトリスとアクセルの二人の個人史と、国全体の趨勢が、過去が思い出されたあとに行き着く場所ってちょっと違う感じがしない? アクセルとベアトリスにとって、彼らが忘れていた時間は、二人の間にあった傷を癒やしてくれた、と言っている。一方で、「この後」どうなるか、というのはこの小説では書かれてないけど、史実を参照するならば、民族間の戦争は、一旦は忘れられていても、そのことが思い出された瞬間に、暴力は続いてしまった。
 
G
 その違いも、きっと彼が描きたかったところなんでしょうね。ミクロとマクロで忘却の効果も違う、みたいな。
 
 
文学は政治責任と向き合うべきか
 
I
 ああ、小説の最初のほうで、ひとびとの忘却の原因がクエリグの息のせいだとまだ分かってなかったとき、登場人物がいろいろと説を言ったりしてたじゃん。ひょっとして、神自身がお忘れになったのではないか、とか。そのこともわりとキーな気がしていて。
 
M
 うん。神様がもし忘れていたとしたら、最後に、「それって別に神様が忘れてるんだから仕方ないね」で終われるわけじゃないですか。俺のこの作品へのちょっとした不満なんだけど、もし神様のせいだったら、人間は責任を取らないでいいわけだよね。竜の息のせいだったと。
 
 で、その竜の息について、問われるところがあったじゃないですか。けっきょくもう少し待てば自然に竜は死んでいたのに、わざわざ討伐した。そのことに対する責任というものが描かれていないのはどうなのと俺は思うんだよね。この『忘れられた巨人』って、もっと深くその責任問題に切り込めたはずの話じゃないですか。実際の戦争を題材にとっているんだから。
 
W
 たしかにね。
 
M
 だから俺の個人的な感情でいうと、竜を討伐する責任を問うて欲しかった。戦争の責任の所在をめぐる問題って、これまで文学が描いてきたことでもあるわけじゃないですか。結局、「忘却」というテーマでそれこそ霧のようにあいまいにして、そこに真剣に向き合わなかっただけような気もするんですよね。
 
 もしラストシーンで、アクセルもベアトリスと一緒にあちら側の島に渡っていたら、俺は物語的にないなと読みながらずっと思ってた。結局アクセルは行かずに生きる道を選んだんだけど、でもそれは行かなかっただけで、この先どうするかまでは描かれてない。やっぱり憎悪の連鎖が始まるまでを描いている話なんだよね。
 
 で、その先の責任の取り方を描かないんだったら、クエリグの竜を討伐するとき、その行為の引き起こすものに対する態度とかは、もう少し深く描くべきだったんじゃないの? この「忘却の霧」というものを晴らしてしまったことに、読んでいてなにも傷つけられないんだよね。「なんとなく曖昧に深い感じがするなあ……」ぐらいで終わってしまうのが残念だと思う。要するにさ、もう少し本気でこのテーマについて考えさせられてしまうような描き方ができたんじゃないの?
 
K
 そうかなあ。それを書くとちょっと政治的になりすぎてしまうという気がする。
 
G
 これさ、暗に社会の戦争の構図を象徴しているとしたら、その責任の所在を語るにあたって、政治的な立場をきちんと表明しないといけないじゃん。それは文学にとって、かなりタブーだと思うんだよね。
 
M
 いや、それはないよ。それはない。
 
G
 いや、内容的に、カズオ・イシグロ的な立場から言うと、政治的にこれはこうするべきだという感じで……。
 
M
 「〜すべき」という意見じゃなくて、もっと深い、仮説や想像力のようなものを用意できなかったのかと思うんだよね。
 
I
 そのことについては、やっぱりウィスタンの最後の描かれ方が象徴的だよね。ウィスタンは、彼を阻もうとした騎士を殺し、クエリグを殺した。つまり、のちに熾烈になるであろう戦争の口火を切った張本人なわけじゃないですか。けれど彼のその後は描かれず、尻切れトンボで終わっている。
 
M
 そう。そうなんだよね。
 
I
 でも、逆に思うんですけど、カズオ・イシグロはそもそも「責任の所在を問えないもの」について書こうとしたのではないんじゃないかな、と。
 
M
 うーん、それだったらこのテーマで書く必要ないんじゃないかな、と思っちゃうんだよね。
 
I
 いや、Mの言うとおり、文学にとって「責任」をどう取るかっていうことはつねに大きな主題だったわけじゃないですか。その文学と責任のありかたそのものに対して、カズオ・イシグロは違和感を覚えてたんじゃないかな。
 
M
 それはありえるかもしれないけれど、それにしたってもっとうまくやれたのではないかなあ……。
 
I
 ひとりひとりの憎悪による殺戮が国家規模で広がって「戦争」になったとき、その責任をだれが取ったところで、過去に起こった殺戮の事実は拭い去れないし、完全なかたちで贖罪もできない。それなら「責任」を問うても意味がない、と思い至ってあえて書かなかった。
 
M
 うーん。そもそも「責任」を取るなんて言ったら政治的な立場が問われることもそうだし、「責任」を問うたところで結局意味ないよね、みたいな話って、わかりきっているわけじゃないですか。ただそんな相対主義だとあまり意味がないような気がする。その上であえて文学で描くべきものがあったらいいんじゃないかな、とは個人的にはすごく思うんだよね。
 
I
 現代の戦争にインスピレーションを受けて書いている割に、現代の戦争を調停するソリューションがまったく描かれていない。
 
M
 それもそうだし、正しすぎてつまんないっていう。
 
G
 そっか。それはそういう感想としてありだと思う。俺はまったくMとは逆の感想だったから。
 
M
 この物語の「正しさ」は、けっこう神話的なつくりを想起させるものがあったじゃないですか。最後に竜という分かりやすい悪の根源を倒して、解散! という神話的ストーリーで……あえて穿った見方をするならば、ただ読者は誤魔化されたに過ぎないなって思ったんだよね。だから、そこに間違っててもいいから、ひとつの態度が示されてもよかったし、物語的に分かりやすぎるのにも違和感を抱いた。
 
 物語を読み進めて、残り50ページぐらいに差し掛かるとき、最後はどうなるんだろう、ここからすごい突き詰められるんじゃないか、みたいな期待感を抱くわけですよ。ただ、けっきょく全然傷つかなかったっていうのがある。
 
I
 ただ、やっぱり下手に責任を取っちゃうと、ただのファンタジーに成り下がってしまう。
 
G
 そうだね。勧善懲悪になりかねない。
 
I
 だから責任が取られないままうやむやに終わって、その歴史が現代まで陸続きで繋がっているというところが、この小説をある種のリアリズムたらしめているところなんじゃないかな?
 
M
 ヘンな例だけど、俺は今日『ウルトラセブン』を観てたんです。で、「ウルトラマン」って、よく言われる話なんだけれど、日本の日米安保条約の状況を描いているんだよね。「ウルトラマン」は米軍で、ウルトラマンがくるまでの予備戦力でしかない科学特捜隊は、自衛隊の象徴。しかも科学特捜隊の指揮権はパリにあるから、怪獣を殺しても、日本国憲法の「武力による紛争解決」にはあたらない……。そんなふうに、ざっくりだけど、「ウルトラマン」はそんな日本の政治的状況を描いた作品だった。
 
T
 そういう見方あるんだ!
 
M
 たしか制作者が沖縄出身のひとで、もともとそういうリアルな政治の切迫感を描きたかったらしいんだよね。で、『ウルトラマン』のあとにできた『ウルトラセブン』では、怪獣が完全悪ではなくなっていて、そのことにウルトラマンたる主人公のモロボシ・ダンはすごく悩むわけですよ。
 
 というのも、じつは怪獣は地球人より先に地球に住んでいたりして、すげえいいやつらだと知っているんだけど、地球人の利益からすると倒さなければならない、だから自分は怪獣を倒さないといけない。その彼の感じた葛藤こそが、戦争を描くということの一つの深さだと思ったんだよね。「うわっ! 俺はどうすればいいんだろう……?」みたいな葛藤に傷つけられる、みたいな。そういうのが『忘れられた巨人』にはなかったなーと思った。
 
K
 そういう見方をするならこの作品では確かになかったと思うけど、私はそれが好きだなって思う。
 
M
 その気持ちもわかる。こんな言い方しといてあれだけど(笑)。
 
I
 Mにあえて答えるならば、僕はさっきこの小説には「結果」しか与えられておらず、その「結果」の蓄積としての過去は、いまの位置から参照することしかできない、ってことを言ったじゃないですか。
 
 そうした過去を語るためには、そのときどきで抱いていた葛藤とか、責任の所在だとか、そういった具体的なものよりも、いまここから記憶に昇華してしまった「過去」がどう見えているのか、あるいは見えていないのかっていうことのほうが大事じゃないかな。「記憶」についての小説なのだから、ある意味描かれ方がぼやけていて当たり前じゃないのかなあ、と思った。
 
 
その霧の曖昧さを肯定する
 
K
 私がカズオ・イシグロの作品を好きな理由って、その曖昧さにあるんだよね。彼の作品は、どれも曖昧なんだけど、その曖昧さが非常に豊かなんだよね。彼の紡ぐ物語には幅もあって、深さもあって、解釈のしようはいくらでもある。そういう曖昧なものを描くのがとてもうまくて、だから私は好きなんだけど。
 
 『忘れられた巨人』では、「霧」というものがフォーカスされていたけど、霧という単語として出ていなくても、カズオ・イシグロ作品って全体的に霧がかかっている。その空気感みたいなもの、漂っているものが、とてもきれいに言語化されている。だから私はその曖昧さを楽しむのが楽しいんじゃないかなって思います(笑)。けど確かに、文学としての在り方を鑑みたら、ある意味そういう責任感はないかもしれないけど…。
 
G
 その「曖昧さ」って、たしかにカズオ・イシグロにおいてはひとつのキーワードだと思っていて。みんな嫌かもしれないけど、彼の作品は村上春樹と通ずるものがあると思ってて。けして言い切らない。
 
 曖昧だからこそ、光を差したらプリズムが色んな光を反射するように、すごく多面的で、読者それぞれの人生に合わせた見方ができると思うんですよ。そこがすごい面白いなと思って。
 
 世界的に読まれている小説ってそこがあると思うんですよね。人間の経験の共通項を掬い出して、多くの場合それは曖昧なものだから、そのまま小説の中に組み込んでいる。だから曖昧なままだけれど、そこになにかメッセージがあって、面白いなって思うから、俺は別に言い切らなくてもいいんじゃないかな、って。
 
M
 いやべつに言い切れとか責任をとれとかじゃないけど……曖昧さの描き方かなあ。
 
G
 そうだね。
 
K
 私はそれが経験としての読書として結構好きで。なんかこう、どれもあんまり楽しい話じゃないんだよね(笑)。『わたしを離さないで』も、バッドエンドと言わずとも悲しい終わり方だし、たとえば『わたしたちが孤児だったころ』も、「あ、これ絶対主人公とか周りの人たちみんな信じてるけど絶対嘘だ」っていうことが読者には初めから分かっているんだよね。
 
 作中の人物たちも、なんとなく彼らも気付いているのかもしれないけれど、それを信じて突き進んでいくしかないみたいな空気感があって。そのなかで感情がじわじわと広がっていって、一つの単色の悲しみというよりゆっくりと色が拡がっていくある種の「曖昧さ」は、とても豊かだな、と感じるんだよね。だから好きだな、と私は思います。……これ、どこに着地すればいいんだろう(笑)。
 
G
 難しいね(笑)。でもそろそろ宴もたけなわなお時間ですから……じゃあ主催者さん、まとめていただけますか。
 
M
 いや……なんか……良かったです。
 
一同 (笑)
 
M
 最初はこの本で話ができるのかと危惧していたんだけど、危惧していたよりはいろいろと盛り上がって安心しました。まあ、それぞれの議題がちゃんと着地していなかった感はあるので、もうちょっと踏み込んで、火を散らしてもよかったんじゃないかなとは思うけど、ひとまずまあ、こんなところで(笑)。
 
(2015年11月11日 都内某所にて)