いま、ふたたび〈変身〉するグレゴール・ザムザをめぐる身体性 ―― ふたつの『変身』をめぐって

f:id:immoue:20180108061816j:plain

 カフカの小説をときどき身体がひどく欲するので、仕方なしに餌としてカフカを与えることがある(カフカのことを考えはじめると、思考パターンまでもがカフカ的モチーフに侵食されてしまう)。今回もその生理現象が生じたので、フランツ・カフカ『変身』を読みなおした。そういえば、とパソコンに眠っているデータを探索すると、三年前に書いた文章が出てきたので、自己満足にすぎないが置いておく。それなりにがんばって書いた記憶があるのだが、いまではこのような安易な結論を取ることはないだろうな、とちょっとは微笑ましく思えた。

 今回、はじめて丘沢訳の『変身』(光文社古典新訳文庫)を読んだのだけど、ううむ、という感じだった。やはりわたしは多和田葉子の新訳のいくらか冗長なところが好きだ。「複数の夢の反乱の果てに目を醒ますと」という書き出しからたまらない。『変身』については、いつかきちんと訳文を比較検討したい。というか、原文で読めるようになりたい。カフカについてはとくにそう思う。

 

 

いま、ふたたび〈変身〉するグレゴール・ザムザをめぐる身体性
――カフカ『変身』多和田葉子訳/平田オリザ作・演出『変身 アンドロイド版』から

 

"グレゴール・ザムザがある朝のこと、複数の夢の反乱の果てに目を醒ますと、寝台の中で自分がばけもののようなウンゲツィーファー(生け贄にできないほど汚れた動物或いは虫)に姿を変えてしまっていることに気がついた。"

 これまで数多の邦訳が出版され、いまも広く読まれているフランツ・カフカの中編小説『変身』に、また新たな翻訳が加わった。以上の文章は、多和田葉子が訳出した『変身(かわりみ)』の書き出しである(集英社「すばる」2015年5月号収録)。新訳においてとくに着眼すべきは、過去には「巨大な虫」「馬鹿でかい虫」「大きな毒虫」などと訳されてきた箇所が、原文のドイツ語の単語 Ungezieferをそのままカタカナ読みにした「ウンゲツィーファー」となっている点だろう。そのことについて、多和田葉子は短いあとがきに説明を寄せている。

"(ウンゲツィーファーは)害虫をさす言葉で、実際にザムザの新しい身体は巨大な甲虫を想い起こさせるので、害虫とか甲虫と訳してもいいが、ウンゲツィーファーという単語の語源を調べてみると、「汚れてしまったので生け贄にできない生き物」という意味があると知った。"

 ここでは「生け贄」という言葉がキーになる。グレゴール・ザムザは、ある朝目を醒し、自分が人間ではないばけもののような何かに変身していることに気づく。しかし、その事実について彼は驚くほど冷静に受け止め、むしろ仕事や家族のことを思い煩ってばかりだ。出張旅行に朝早く出かけなければいけなかったのに、寝台から動くことすらままならない。刻一刻と過ぎてゆく時間。これまで5年間いちども欠勤したことがなかったのに、なんという失態だろう。仕事を失ってしまったら、だれが父母と妹を養うのか ――。

 変身前のグレゴール・ザムザは、家族を養うため、身を挺して仕事に人生を捧げていた。まさしく、家族という共同体の「生け贄」として、自らの欲望を殺していたのだ。しかし、ある朝に「ウンゲツィーファー」へと変身を遂げ、「汚れてしまう」ことで、「生け贄」の役目すら請負うことができなくなってしまう。「ウンゲツィーファー」となったグレゴール・ザムザは、最終的に家族から見棄てられ、激昂した父の投げた林檎が甲殻に減り込み、やがて衰弱した末に死んでしまう。そのあと、残された家族三人で、電車で郊外へと出かける最後の場面は、非常に印象的だ。

"そして電車が目的地に着くと娘がまず立ち上がり、若々しく身体を伸ばしたことが、両親には自分たちの新しい夢と意図の正しさをしめす証のように思えた。"

 以上の一文を以って物語は幕切れとなっている。彼らの家族の一員を喪ったことに対する悲壮はまったく見受けられない。ここで描写されているグレゴールの妹グレタの、電車に差し込む暖かな陽の光を照り返すかのような瑞々しく若い身体のイメージは、「ぺしゃんこで乾ききって」息絶えたザムザの汚らわしい身体と明らかな対照をなしている。『変身』の読み方はさまざまであるが、結末部分に認められるザムザ家の兄妹のそれぞれの表象−−−一方はすでに忘れられた薄暗い過去を、もう一方はこれから訪れる輝かしい未来を象徴しているこの対比は、わたしに鮮烈な印象を残した。

 

 フランツ・カフカが1915年に『変身』を発表してからちょうど100年が経ったいま、ひとりの劇作家が『変身』をふたたび現代に蘇らせた。平田オリザ作・演出の舞台劇『変身 アンドロイド版』である。この作品において原作ともっとも異なるのは、表題にもあるとおり、グレゴールがある朝突然「ウンゲツィーファー」ではなく「ロボット」に変身してしまうという点である。実際、ロボットに変身したグレゴールを演ずるのは、ロボット工学者の石黒浩と共同開発した「リプリーS1」というロボットだ。セリフや動きをあらかじめコンマ単位でプログラムされたロボットと、彼を取り巻く家族たちに扮する生身の役者たちの共演は、それだけでも大変興味深いものであった。

 だが、ここで取り上げたいのは、物語の結末部分に見られる原作との差異についてである。先ほど見たように、原作において、変身を遂げてしまったグレゴールは、最終的に家族から拒絶されてしまう。しかし、平田の『変身 アンドロイド版』では、ロボットの姿に変身してからも、家族からの承認を受けることとなる。彼らは、グレゴールの変わり果てた姿に困惑し、葛藤を抱えつつも、最後にはロボットとなったグレゴールのなかの「人間性」を信じ、彼を愛そうとしていたようにわたしには見えた。

 

 原作では、「ウンゲツィーファー」に変身したグレゴールの面倒を長らく受け持っていた妹のグレタでさえも、最後には「そもそもこんなに長い間、これがグレゴールだって信じ続けたのが、わたしたちの不幸の始まりだと思う」「もしこれがグレゴールなら自分から家を出て行ったはずでしょう。こんな虫獣が人間といっしょに棲むのは無理だってことグレゴールならすぐに分かったはずでしょう?」といった台詞を吐き捨てていた。いっぽう、今作では、彼女は最後までグレゴールの横たわるベッドに腰をかけて、愛らしい目線でロボットを見つめる。必死にグレゴールの人間性に賭けようとするのである。

 脳神経を専門とする医者が彼らの家を訪ねた際も、妹のグレタは、グレゴールの状態と重ね合わせて「脳死」や「植物人間」についての質問を矢継ぎ早に医者へと投げかけ、彼は丁寧にそれらに医学的見地から回答をする。彼が説明すればするほど、グレゴールを人間だと言える可能性は絶たれてゆくばかりだ。ロボットとなってしまった彼は、生物学・医学的にはもはや人間とは言えない。しかし、グレタは納得できない。彼女には、このロボットがグレゴールであるという確信めいた直感がある。

 そして、しまいにグレゴールは、まさに原作においてグレタがこぼしていたような行動を取ろうとさえする。彼は家族の今後を思って、母親に「ねえ、ぼくの電源を切ってくれないか」と頼み、自ら命を絶とうとするのだ。原作では、「生け贄」になれないほど汚れた「ウンゲツィーファー」に変身したグレゴールだが、「ロボット」に変身した現代のグレゴールは、家族という共同体のために、「生け贄」として自身を捧げることを選択した。同様に彼を取り巻く三人の家族は、グレゴールに最後まで寄り添うことを選択したのである。そこには、脈絡なくザムザ家に突きつけられた不条理な現実のなかでも、それに向き合って希望を持ち続けようとする家族という共同体の姿が描かれているのである。

 

 さて、わたしがここで考えたいのは、グレゴール・ザムザの〈変身〉の表象に、なぜかような変化が生まれたのか、ということである。繰り返すが、原作においては、「ウンゲツィーファー」に変身したグレゴールを見棄てた家族三人は、瑞々しく若い女の身体のなかに、未来への希望を見出している。いっぽう、今作では、「ロボット」に変身したグレゴールを、家族が団結し最後まで愛し続けるという希望が描かれている。この結末の差異は、どこに根拠をもっているのだろうか?  ―― わたしは、ひとつの仮説として、現代において「ロボット」への変身に、肯定的なイメージが付与されてきているからではないか、と考えた。

 現代のテクノロジーは、もはやわれわれを補完するためではなく、超越するために存在する。両足義足のスプリンターであるオスカー・ピストリウスが、パラリンピックで幾度も優勝を経験したのち、ついには2012年のロンドンオリンピックへの出場を果たしたことは記憶に新しい。彼は惜しくも決勝進出は逃したが、このことは、義足の選手が健常者の選手よりも速く走りうる時代が到達したことをわれわれに告げた。ひょっとすると、近い将来、より速く走るため、生身の足を高性能の義足と取替える者も出てくるかもしれない。

 すなわち、これまで「身体の補完」にすぎなかった生まれ持った肉体への人工物の装着が、「身体の拡張」として肯定される可能性が出てきたということだ。オスカー・ピストリウスの義足は、刃のように薄い素材を用いているために、彼はたびたび「ブレードランナー」と称されていた。生物的身体の欠陥を補う身体の拡張は、ここでも肯定的な意味を帯びているのが見て取れるだろう。

 人間的身体とは、他者の欲望の対象である。その欲望とは、他者から向けられる性的欲望や、羨望のまなざしといった種類の欲望も含まれている。その欲望は、往々にしてカフカ『変身』の結末に認められるような、瑞々しい若い女の身体へと向けられることがセオリーであった。だが、これまで見てきたように、人工物をあてがうことによる「身体の拡張」 ―― あるいは、「ロボット」への〈変身〉 ―― が、他者の欲望の対象になりうる時代は実現しつつある。「メガネフェチ」という言葉が存在するように、すでにメガネは時としてひとびとの欲望を喚起する。身体の拡張装置でしかなかったメガネは、この趨向に先行しているといえるだろう。あるいは、オリンピックの舞台で走るオスカー・ピストリウスの義足に魅せられたひとびとが少なくないことは、想像に難くない。

 カフカ『変身』において、「ウンゲツィーファー」へと変身を遂げたグレゴールは、家族からの拒絶に遭った。1世紀後の現代に蘇った『変身 アンドロイド版』で、「ロボット」に変身したグレゴールは、まだ家族によってしか承認を受けることができなかった。だが、その承認の輪がさらに外部へと広がり、社会全体の欲望のまなざしがグレゴールへと向けられるような未来を想定することは、もはや不可能ではないだろう。人間の身体性をめぐる表象は、大きな転換点を迎えている。