ヨーロッパ旅行記 Ⅰ(March, 2018)

3月4日(日) 東京、北京

  出発の日。本当は一週間ほど前にヨーロッパへと渡航する予定だったのだが、フライトが予定されていたその日にインフルエンザに罹って、あえなく自宅謹慎の日々を過ごしたのだった。わたしはこのころ友人と映画を撮っていて、ほとんど自宅はベッドの置かれる場所でしかなかったので、ひさびさの自宅はどう過ごしていいかわからなかった。ときおり症状もひどくなったりして、映画を観る気も、本を読む気にもならず、ただただ『ブラタモリ』の録画を一気に観ていた。タモリさんの姿は病める身体にもすっと沁みわたっていく。いくらか高額なお金を払ってまで渡航しなければいけない理由はなかったといえばなかったのだが、それでもわたしは航空券を再購入し、こうして渡航をすることとなった。あわてて荷造りをした小さなスーツケースをひとつ持って羽田空港へ。都心に近い上、国際線ターミナルの使い勝手がよく、空間設計もすっきりしていて心地がいいので、羽田に来るたびにもう成田は勘弁だという気持ちになる。しかし、わたしはどうしてこれから海外へと渡るのだろうか。なにがわたしを駆り立てるのだろうか。答えの出ない問いをみずからに投げかけながら、搭乗ゲートをくぐった。

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 四時間ほどのフライトを経て、トランジットの北京に到着。すでに夜更け。乗り継ぎを担当する中国人の係員に「こんなチケットの買い方をしてはいけない」と怒られた。たった二時間の乗り継ぎ時間で、ターミナルを変更しなければならなかったのだ。係員についていって、裏口からもうひとつのターミナルへ移動することとなった。わたしはたったひとりの乗客としてバスに乗る。窓越しに真っ暗になった北京の空港が眼前をよぎっていく。そういう係員の暗躍もあって、なんとかつぎの便には間に合った。アムステルダムへの10時間のフライト。もっぱら眠っているか『アンナ・カレーニナ』を読み進めていた。トルストイを読むのははじめてだ。こういう機会でもなければ、あれだけの長編に挑戦する気にならないのだ。スーツケースにも、残りの三巻を詰めてきているのだが、果たして読み終わるだろうか。

 

3月5日(月) アムステルダム、ベルリン

 中国語でうたう女性たちの声で目醒める。わたしの座席の後方に座る何人かが斉唱していたのだ。その響きはいくらか古風で、きっと民謡かなにかにちがいない。それにしても、いったいなんの曲だろう、そしてどうして彼女たちはそれをうたっているのだろう。どう考えても迷惑なのだが、そのときわたしはなぜだかとくに不快だとは思わなかった。午前五時すぎ、アムステルダムスキポール空港に到着する。荷物受取所で待っていたのだが、最後のひとりになるまでついにわたしのスーツケースは姿を見せなかった。KLMのバゲージセンターにいって褐色の女性スタッフと話す。なぜだかKLMは、他の航空会社と比しても、褐色の女性が多いイメージだ。それはオランダの人口比においてもそうなのだろうか。さておき、ロストバゲージのリポートをつくってもらって、わたしは空港を出て、とりあえず友人Tの家へと向かう。信じられないくらい走行音がしずかな電車に乗って中心街へ。アムステルダムは大きな街だな、と車窓の景色を眺めながら思う。経済がうまくまわっている街の雰囲気を湛えている(それは巨大な経済圏のうちにあるというだけの雰囲気とはぜんぜんちがう)。

 Muiderpoortという駅の近く、はじめてアムステルダムを歩く。六時を回っていたが、まだ町は目醒めきっておらず、いまだに暗がりのうちにある。そう、ヨーロッパの冬の朝は遅いのだ。かつてフランスに留学中の冬、八時からの授業に出席するためにまだ朝日すら出ていない暗闇のうちを歩いて、大学に着くころにだんだんと明るくなっていた日々のことを思い出す。煉瓦造りの建物たちのあいだをGoogle Mapsを頼りに歩く。わたしの周囲では頻繁に通勤するひとたちの自転車が行き交い、それぞれのアパートの前には建物の住人分だと思われる自転車が所狭しと停められている。伝聞に違わず、ここは本当に自転車の国のようだ。異国の空気を思いっきり吸い、白い息を吐く。澄んでいて気持ちがいい。気温は低いが、さほど寒さを感じない。

 Tのアパートに着き、Tと再会を果たす。Tは、わたしの大学時代の哲学ゼミに出席していたオランダとギリシャのハーフの友人だ。昨夜のパーティの残骸が転がっていて、その隙間をモンティと呼ばれる老猫が慎重に歩いている。彼女はアパートに出現した鼠たちをすべて食べてしまったそうだ。いろいろと話していると、TのガールフレンドのIが部屋から起きてくる。一時間ほど話をして、わたしは慌ててアパートを出た。夕方までにベルリンに向かわなければならないのだった。

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 アムステルダム中央駅の朝の景色は、いたく感動的だった。対岸と往復をするフェリーから、大勢のひとびとが自転車とともに出ていって、颯爽といろいろな方向へと去っていく。駅前には数千台はあるのではないかと思しき二段積みの駐輪所がある。これほどまで生活の中心を自転車が占めている、というか自転車が町の景色の欠かせないピースを構成しているとは思っていなかった。あとから聞いたことによると、アムステルダムの政治は中心街への私用の車輌侵入を禁止しようとしているという。そういう町のつくりかたもあるんだな、と思った。東京はあまりに高低差が激しいので、自転車中心の街づくりには不向きだろうが。

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 ベルリンへの六時間の列車の旅。オランダにいるあいだは平坦な土地が地平線までつづいていたのに、ドイツとの国境を超えて少し経つと、窓の外に突然小高い山のようなものが出現して驚く。植生もいささか変わっている。すえた緑色の牧草地ではなく、黄色い野原が広がるようになった。ヨーロッパは、ひとつひとつの町の規模が小さい。それは列車に乗っているとよくわかる。ひとつの都市を過ぎてから列車で少し進めば、車窓の景色は途端に田園風景へと変わっていく。朝十時を回ったころの陽光の差しかたが、まるで夕刻のようなやわらかな光で、その光のうちのなかでなんども微睡んだ。列車の旅行はたのしい。

 ベルリン中央駅に着いた。ベルリンどころか、ドイツに降り立つのははじめてだ。中央駅構内の様子は、わたしに強い既視感を与えてきたのだが、その光景をどこで見たのか思い出せない。四十分ほどバスに揺られてNeuköllnという地区に着く。「新たなケルン」という名前が示しているとおり、ベルリンはケルンよりもあとに形成された町なのだろう。事実、わたしが抱いたベルリンの第一印象は、ヨーロッパにしては歴史の浅い街であるということだ。Neuköllnは、移民たちが多く暮らす町のようで、非常にたくさんのトルコ系やアラビア系を見かけた。逆にアジア系やアフリカ系をあまり見ない。あとから聞いた話だが、ベルリンにはチャイナ・タウンと呼称できるような大きな地区が存在しないらしい。てっきりチャイナ・タウンは世界中の都市にあるものだと思っていた。

 アパートの呼鈴を鳴らす。Pが扉を開ける。Pはフランス人の写真家で、かれが日本にいるときに出会った(いささかへんな出会いかたをした)。いまはグルノーブルの実家に戻っていて、わたしが声をかけて、ベルリンまで呼びつけたのだった。部屋のなかからギターの音色が聞こえてくると思ったら、ベルリンの近郊に暮らしているというPの友人のRだった。かれも東京に住んでいたらしく、しばらく東京の暮らしについての話で盛りあがる。ヒップスター的な外国人たち、みんな高円寺が好きだな。

 シュプレー川の近くまで三人で歩いて、活気のあるバーで一杯引っ掛けてから、わたしはPとともにメルセデス・ベンツアリーナのケンドリック・ラマーのコンサートへ向かう。このベルリン公演は「THE DAMN. EUROPEAN TOUR」の最終日だったのだが、ケンドリックが来日することはそうそうないだろうと踏んでベルリンのチケットを購入していたのだった(このあと今年のFUJI ROCKのヘッドライナーに選出されていることを知る)。席に着いてあたりを見回すと、17,000人収容のハコの様子は壮観だった。こんなに大きいハコで観るライブはいつ振りだろう。開演前にベルリン生まれベルリン育ちの青年といくらか言葉を交わす。わたしはわざわざ東京からケンドリックの公演をめがけてやってきたのだというと、かれは大物アーティストのだれしもがベルリンにやってくるから、自分はわざわざ海外にいく必要がないのだと自慢げに語った。ベルリンは住みやすく、文化的な催しにも欠かすことがない、ほかの国や町に移住する未来はこれぽちも考えられないね、と。自分の生まれ故郷にこれだけの愛着を持てるというのはすごいことだ。パリや東京に暮らすひとたちのあいだでも、かれほど自信満々に自分の住まう土地に愛着を表明している人物には会ったことがない気がする。

 ケンドリックのショーの前に、前座としてジェイムズ・ブレイクの演奏があった。ビールを片手にリラックスしながら聴き入る。そして、お待ちかねのケンドリック。「D.N.A.」の"I got, I got, I got"が流れはじめた瞬間、一気にスイッチが入り、わたしを含めた17,000人の観衆は座席から飛び上がって口々に叫んだ。あの昂奮は本当に忘れがたい。バックバンドはステージの下方で構えているので、ケンドリックが広いステージをひとりで駆け回るのだが、かれのステージングは圧倒的で、あのだだ広い空間を完全に支配していた。わたしたちはただ身を任せればよかった。ときおりかれは観客にマイクを向け、代わりにうたわせる(驚くべきことに、「HUMBLE.」なんて、観客のおよそ半分は歌詞をすべて諳んじれるのだった)。絶妙なタイミングで自分の口にマイクを戻し、観客のボルテージはさらに上昇していく。かれの身の処しかたは、完全にスーパースターのそれだった。血液が逆流していくような昂奮のうちに酩酊する。

 昂奮冷めやらぬまま、アリーナを出て、ベルリンの壁の隣を歩いていく。途中で見つけたケバブ屋に入った。3.5ユーロで頼んだケバブは食べきれないほどの大盛り。またしてもベルリンの物価の安さに眩暈がする面持ちだ。わたしはこの昂奮のまま静かに眠りにつきたかったのだが、同行するPがクラブに行こうと言い出す。わたしはまったく気乗りせず帰宅を唱えたが、Pのクラブへの渇望が打ち勝ったので仕方なく同行。3Gがうまく機能せず、Wi-Fiを探して、結局Tresorというクラブへと向かった。外で列に並ばなければならず、わたしは寒さのあまりに口を利けない状態になっていた。身体は芯まで冷え切ってしまい、中に入ったあとも瀕死状態。やたらとハイテンションなフランス人カップルに捕まってしまい、わたしは疲れと眠気で椅子に座って居眠りをしていると、そのたびに見つけ出されて「なに寝てるんだ、踊るよ、踊るよ」と連れ出される。どんなに隅のほうで隠れて休んでいても、必ずすぐに見つけ出されて、しまいには若干怒りさえも芽生えた。わたしも加齢の足音からは逃れられないから、と言い訳したいところだったが、かれらはわたしよりも年長だった。結局、アパートに戻ったのは午前6時近くだった気がする。アパートへと戻る深夜バスが待てど暮らせど来なくて、現地人と一緒に憤慨していた。

 

3月6日(火) ベルリン

 Rとともに、Neuköllnを徘徊し、アラビア系の客で溢れ返っているアラビア料理屋に逢着する。お肉の入ったフムスを4.5ユーロという破格の安さで頼んだ(フランスでは考えられない安さだ)。フムスは中東に広く普及していて、すりつぶしたヒヨコ豆をオリーブオイルやにんにくで味付けたペースト状の料理だ。もちろんピタは食べ放題で、大満足で店をあとにする。東京でもおいしいレバノン料理屋などを探したいな。

 そのあとわたしは友人と別れ、ベルリン美術館の絵画館(Gemäldegalerie)へ向かった。その手前にベルリン・フィルハーモニーがあったので、建物の中に入る。ヴィム・ヴェンダースが『もしも建物が話せたら』で主人公として描いていたのが記憶に新しい。残念ながら公演中でコンサートホール内には入れなかった。そのまま歩いて、絵画館に到着する。わたしは観光客で溢れ返る美術館を想像していたので、思いのほか閑散としていて驚いた。この美術館は、13世紀から18世紀までのヨーロッパ有数のコレクションがあり、たとえばフェルメールも、『真珠の首飾りの女』と『紳士とワインを飲む女』の二点を持っている。

 じっくりと時間をかけて回る。最近は個人的に中世の宗教絵画に胸がときめく。遠近法の技術がルネサンス期にイタリアで確立される以前のパースペクティヴの崩壊した絵を見ると、おもわずニヤニヤとしてしまう。余談だが、紀元前1世紀ごろのポンペイの壁画のうち、驚くほど遠近法的に精確な作例がいくつもあるということを近頃知った。かの街がもし火山灰に埋もれていなかったら、ヨーロッパ中世の絵画もまったくちがうものになっていたかもしれない。ともあれ、中世の作品には、思わず目を疑ってしまうような作品が多々あるので、こういう美術館を回って無名の作家のへんな作品に出会うのが愉しい。以下は『キリストの生涯(Das Leben Christi)』と題された、ケルンの未詳作家の15世紀初頭の作だとされている。いずれのパネルに描かれているのも、キリスト教絵画における主要なシーンばかりなのだが、人物造形や構図にクセがあるものばかりだ。いやはや、おもしろい。

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 それにしてもじっくりと絵を見ていると疲れる。絵画館をあとにしたころにはもう夕方になっていて、映画でも観に行こうかと逡巡したが、結局わたしはアパートに戻って、ゆっくりとした時間を過ごした。ピザが食べたいという話になり、アパートの近くのイタリア料理屋にいったのだが、感動的なうまさだった。ベルリンに着いてからまったくドイツ料理を食べていない。とはいえ、ケバブやアラビア料理のほうが、現代におけるベルリンの食のマッピングに近しい気もする。音楽を聴いていたら、布団にたどり着く前に眠りに落ちていた。

 

3月7日(水) ベルリン、パリ

 iPhoneが床に落下し、完全に画面が映らなくなってしまった。今回、モバイル回線でインターネットに接続して旅行しようとしていたので、旅行の序盤にして手痛いトラブル発生だ。行きのフライトで紛失したスーツケースもすでに中国で発見されているらしいのだが、いまベルリンの空港に輸送中だという。もう間もなくベルリンを発ちますがと告げても、すでに移送中なので変更は認められないという始末。災難がつづくのは、わたしにとってはもはやいつものことだ。PとRに「Mr. Bad Luck」といじられる。

 ベルリンのHamburger Bahnhofという現代美術館にいく。ハンバーガーとはなんぞやと思っていたら、かつての駅舎を改装したもので、ハンブルグ行きの列車が運行していた終着駅だったそうだ。ベルリンでは、かつて行き先の町の名前が駅名になっていたらしい。毛沢東を描いたウォーホルの巨大な作品が常設展にある。彫刻の企画展に展示されていたドゥシャン・ジャモニャというマケドニアクロアチアの彫刻家の作品が非常によかった。すでに没しているようだが、ほかの作品の多くは(モニュメントも含めて)、氏にゆかりのあるバルカン半島にあるようだ。旧ユーゴスラビアも含めて、バルカン半島はわたしにとって完全なる未知なので、思いがけぬ形で少しずつ解像度を豊かにしていきたい、と思っている。

 ベルリン大聖堂にいく。シュプレー川の中州、美術館が固まっている地区のすぐ南に位置している。いくつかの美術館は大規模な補修工事をしている真最中で、その光景はなかなか壮観であった。しかし、欧州の古い建物にああいう大型のクレーンが入っているのを見るたびに、いったいはじめはどうやってかような建造物を建立したんだろうと感じ入ってしまう。もちろんのことながら、クレーンなんてものはなかった時代に建てたのだ。木造建築が主であった日本のそれとは異なり、欧州の場合は石である。まったく建築への執着というのはおもしろい。さて、ベルリン大聖堂は、ネオ・ゴチック建築で、ドイツにおいてはプロテスタント宗派最大の教会だそうで、確かに壮麗につくられてはいるのだが、いまいち心に訴えかけてくるものがない(巨大なパイプオルガンは良かった)。ルター、カルヴァン、ツヴィングリ、メランヒトンという4人の宗教改革者が柱頭として高いところに据えられている。しかし思うのだが、こうした形で功労者をキリストが祀られている祭壇よりも高い場所に置いてしまうことについては、宗教上問題を呈さないのだろうか? キリスト教建築における空間的制約、とりたてて高さについてはやや興味をもっている。結局、大聖堂のドームの外側、展望台までひとりで階段を登った。あまり整備されておらず、非常に登りにくくて愉しかった。大聖堂からの景色にはさほど感銘を受けませんでした。天候が悪い。

 Friedrichstraßeのあたりで、ベルリンの友人Jと会う。かれは、二年前にパリで再開して以来の留学時代の友人。いまも変わらず学生をつづけているらしく、相変わらず反ユダヤ思想研究をしているらしい。かつて友人たちと旅行しているあいだ、フェミニズムをめぐって大口論になってしまい、女性1 : 男性3という構図になりかけたところ、Jは女性のほうに与し、激戦を交わし、しまいには彼女を泣かせてしまうまでにいたった(わたしたちはフェミニズムに反対しているわけではなく、あくまでラディフェミの訴えかける普遍性に疑問を呈していただけだったのだが)。Jとともに、三年前のあの夜のことを回顧したり、思い出話に花を咲かせた。そして、ベルリンの暮らし、東京の暮らしについてお互い報告しあった。

 Jとともに中心街を見て回る。ドイツ人は空間設計がへただ、とわたしは思った。国会議事堂の向かいにある広場は、ただ芝生になっているだけで、だれひとりとして横切るものがいない。これがフランスであれば、市民がピクニックをする空間として開放されていてもおかしくないのだが、そもそもそういう用途での利用を受け付けないような雰囲気がある。Jによれば、ある批評家はその空間のことを「ドイツ全土でもっとも意味のない空間」と呼んだそうだが、そういう無駄な空間が町のいたるところにあった気がした。そのあと、ブランデンブルグ門を通って、ホロコースト記念碑のあたりを歩く。数メートル大の石碑が等間隔で並べられた奇妙な空間だ。石碑の上に乗って遊んでいるひとたちや、石碑に落書きがひとつもないのが逆に不気味だった。

 ベルリンから離れる。ベルリンには2泊3日いたわけだが、ケンドリック・ラマーの公演があったということもあったが、やはり満喫するには最低でも一週間くらいはいないとだめだな。慌ただしく観光して、というのはそもそもわたしのスタイルに合っていない。とまれ、ベルリン・テーゲル空港からパリ・オルリーへ。パリに入った瞬間、看板の言葉も、ひとびとの会話も頭の中に飛び込んでくるので、突然情報量が増えてやや面食らった。パリに住んでいる友人Mを訪ねるべく、Cité Universitaire へ。活況なスポーツ・バーに入って、近況をいろいろと話しこんだ。かれはソルボンヌで修士課程をしているかたわら、パリでフリーランスとして働きはじめ、ようやくいろいろなものごとが順調に回りはじめたらしい。そのまま彼の住むイタリア館に泊まった。

 

ヨーロッパ旅行記(March, 2018) ― 全三回