ヨーロッパ旅行記 Ⅲ(March, 2018)

3月12日(月) ブリュッセル、ゲント

 同じドミトリーに眠るひとたちとことばを交わすどころか、顔を合わせることのないままホテルをチェックアウトして、旧市街へと徒歩で向かう。わたしははじめて歩くブリュッセルにたいして、非常に奇妙な感覚を抱いていた。とにかくひとが少ないのだ。カフェのテラスはがらがらだし、路上で見かけるひとたちも少ない。一国の首都にしてはとても活気があるとは言えない。パリやアムステルダムに挟まれているので、人口の谷になっているのかもしれない。ハイ・シーズンを迎えるころには、もうすこし賑やかになるのだろうか。

 さらにいえば、旧市街はましにしても、全体的に景観に品が欠けている、という印象をもった。たとえば安っぽい字体で書かれた看板などがいたるところに掲げられていて、そういう雑多さが景観のリズムを崩している(過度な雑然さが、独特のリズムを形成している日本の都市の景観とは、ここでも対照的だ)。否応なしに歴史の鈍重さを感じてしまうパリと比べれば、この軽妙さにはどこか違和感を憶えてしまう。それに加えてわたしが気になったのは、ブリュッセルの若者たちはいったいどこで遊んでいるのか、まったく見えてこないということだった。生活が見えないということはこれほど逗留者を退屈させるのか。わたしの友人たちが口を揃えてブリュッセルはおもしろくないと言っていた理由がわかった気がする。ブリュッセルでいちばん大きなサン=ミシェル大聖堂にも駆けつけたのだが、これまで訪れたカテドラルのなかでは、ひょっとするといちばん下品なカテドラルかもしれない。14世紀に建立されたようなのだが、そのゴチック建築を何世紀にもわたって増築し、継ぎ接ぎだらけの悪趣味な建築になっている。19世紀にゴチックを模してつくられたステンドグラスの品のなさには、心底うんざりした。

 Jから薦められた「Tonton Garby」という旧市街のサンドイッチ屋にいく。「トントン(おじさん)」という親しみやすい名称にふさわしく、すこぶる陽気な中年男性がひとりで店を切り盛りしている。フランス語、英語、オランダ語でつぎつぎと客を捌き、笑わせている様子はエンターテイメントだった。"When you smile, I smile""Si vous êtes content, je suis content"と念仏のように唱えつづけていて、そこには非常に明快な哲学が存しているようだった。山羊のチーズの入ったサンドイッチが一押しの商品のようで、わたしもそのサンドイッチをオーダーした。ひと口目はたしかにうまい。かつてフランスの山奥の山羊チーズ農家で二週間ほど働いたことがある。そのときにも思ったが、山羊チーズというのはクセが強いので、食べつづけるとどうしても飽きてしまうのだ。結局、ひとつのサンドイッチを食べきるのにだいぶ努力を要した。それでも笑顔をつくって店をあとにした。

 月曜日だったので、ベルギー王立美術館が閉まっている。わたしは代わりに、隣接するマルグリット美術館にいった。わたしは、東京で開催されたルネ・マルグリット展やシュルレアリスム展には足を運んでいるし、ほかにも各地で作品を見ているのだが、シュルレアリスムというのはどうも趣味に合わない。言いたいことはさまざまにあるけれど、ひとことでいえば、言語によって規定された理論がマテリアルなものに先行しすぎてしまっているために――シュルレアリストたちの狙いに反して――多義的な作品解釈を阻んでしまっている、というところだろうか。とはいえ、ブリュッセルの一等地の建物が、ルネ・マルグリットという二十世紀の画家に捧げられているということの重みは大きい。雲が切れ切れに浮かぶ澄んだ青空を切り取った《呪い》(1936)という小品の不気味さには、胸がすくむ思いがした。マルグリットでいちばん好きな作品だと思う。

 ブリュッセルを発ち、ゲントへと向かう。Tの恋人であるIがゲントに留学していて、Tも駆けつけるというので、わたしも合流することになったのだ。ゲントの駅舎から出ると、強く雨が降っている。わたしはずぶ濡れになりながら、小走りで彼女のアパートへと向かった。無事に目的地に到着したあと、TとIとともにバーへと繰り出した。ゲントはオランダ語圏に属するので、町を歩いていてもフランス語が聞こえてくることはほとんどない。バーの広い店内には、学生とおぼしき若い世代でごった返している。日本にはこのようなHUBのような広さのあるバーがほとんどない。東京ではバーといえば、雑居ビルの一室にある狭い空間ばかりだ。そこにも公共性のちがいが現れているように感ずる。途中からIの友人たちも合流し、ベルギービールをしこたま飲んだ。わたしはお酒には強いほうだと自認しているのだが、何瓶か空けただけで(とはいえ、この夜は10瓶ぐらい飲んだかもしれない)、完全に酔いが回っていた。雨上がりのゲントの夜、TとIと冗談をいって大笑いしながらアパートへと戻っていった記憶が朧げに残っている。なんの話をしていたかはまったく憶えていない。

 

3月13日(火) ブリュッセルアムステルダム

 ゲントから電車に乗り、ふたたびブリュッセルへと向かう。 車窓からの景色に見入ってしまう。長閑な田園風景が広がっていて、そのあいだに小さな町が点在している。動いているものは、ときおり走っている車を除けば、ほとんどない。ブリュッセルに着いて、すぐにベルギー王立美術館へといく。ベルギー王立美術館は、ピーテル・ブリューゲル(父)の作品をいくつかもっていて、有名な《叛逆天使の墜落》もここにある。ベルリンの絵画館ではかれの《ネーデルラントの諺》というすばらしくバラエティに富んだ作品を見たばかりだったが、ブリューゲル(父)については、あらためて丁寧に作品を追っていかなければならない。それは混沌とした16世紀オランダへと向かうような、非常にバラエティに富んだ旅となることだろう。同じ展示室にブリューゲル(息子)の作品も並べられていて、とくに《ベツレヘムの人口調査》にいたっては、父の作品と息子が模したものが置かれている。二作品を比べると、息子の作品も味があるといえば味があるのだが、残酷なほどに才能の差が歴然と出ていた。父を超えることができない息子。息子の前に立ちはだかり続ける父。

 

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Melchior de la Mars, Maria Magdalen in ecstasy, 1622-25

  わたしが気に入った作品。メルキオール・ドゥ・ラ・マルスと読めばいいのだろうか。Wikipediaによると、17世紀オランダで活動していたカラヴァジェスキのひとりらしいのだが、画家の生涯はほとんどわかっておらず、作品も二点しか特定されていないらしい。こういう作品に出会うと、カラヴァッジョという存在の偉大さをあらためて思い知らされる。上記の作品は、カラヴァッジョの影響が透けてみえるものの、そこだけにはとどまらないロマンチズムを湛えている。ラファエロ前派の作品と見間違えるほどの筆致だ。気づいたら閉館まで30分を切っていることに気づく。隣接されている世紀末美術館(Musée Fin de siècle)のことをすっかり忘れていて、そのまま慌てて向かう。結局、すぐに時間切れになってしまったのだが、展示室をいくらか歩いただけでいっても、そのコレクションの質の高さに眩暈がするようだった。わたしは、やはり十九世紀を愛しているのだ、と強く思った瞬間であった。ルーベンスのような画家の作品群と対峙していた時間が惜しい(わたしはルーベンスのよさがさっぱりわからない)。世紀末美術館をゆっくり観ることができなかったのだが、ブリュッセルにはそのためだけでも再訪の価値があるように思った。

 Thalysに乗って、ブリュッセルからふたたびアムステルダムへ。イーストウッド監督の『15時17分、パリ行き』を観たばかりだったので、Thalysに乗るのはいくらかへんな気持ちだった。とはいえ、まったくテロ行為などの気配はなく、平穏無事にアムステルダムに到着する。アムステルダムにあるTのアパートにたどり着く。Tはまだゲントに残っていたのだが、TのフラットメイトであるBが、ちょうど料理をしているところだった。いくつかことばを交わし、Bの用意していた野菜を油で焼いて、ハーブで味つけをした料理を食べた。Bはアムステルダムで物理学を専攻している学生で、ときどき役者業もやっているという。わたしはベルリンでケンドリック・ラマーのライブを観てきたんだという話をすると、かれは同じツアーのアムステルダムでの公演を観にいったばかりだという。わたしたちはケンドリックについて、ひいてはヒップホップについてのあれこれを話し込む。Netflixで、かれが勧めた『Anomalisa』というクレイアニメの映画を観る。そのあと、わたしの勧めたNetflixオリジナルドラマ『マスター・オブ・ゼロ』のシーズン1を何話か観た。わたしはもう何度もこのドラマを観ているが、何度観ても最高のドラマだ。Bもたいへん気に入っているようだった。

 

3月14日(水) アムステルダムデン・ハーグ

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 朝目醒めてすぐ、わたしのベッドのもとで丸まっていた猫のモンティと遊びつくす。彼女はアパートに出現した鼠をすべて食べつくしてしまったらしい。たしかに悪そうな顔をしている。しかし、猫という存在は、どうしてこれほどおもしろいのか。わたしは幼少期に近所の猫に顔を引っ掻かれた経験がトラウマ化していて、長らく犬の派閥に属していたのだが、そろそろ猫に再転向してしまいそうだ。近所のカフェでエスプレッソを飲む。隣に座っていたアムステルダム在住の夫妻とたまたま話した。男性は航空会社に勤務していて、休みのたびに家族で世界中を旅行しているという。日本にも数度訪れたことがあるといい、日本の印象をいろいろと語ってくれた。わたしもアムステルダムは気に入っているというと、かれは豪快に笑っていた。アムステルダムのおいしい日本料理屋を無理矢理に薦めてくる。メモまでさせられたのだが、おそらく一生いくことはないだろう。

 トラムに乗って、アムステルダム国立美術館(Riksmuseum)にいく。17.5€という法外な入場料には若干の憤りを憶えつつも、いくつかの展示室を回って、すぐさまその価格設定にも納得がいった。それぐらいにまったくもって素晴らしい美術館だった。作品の配し方に気づかいが感じられ、動線や照明の設計も素晴らしく、ひとつひとつの作品にもれなくオランダ語と英語でキャプションがついている(すべての作品に英語併記のキャプションがついているというのは、世界的に見ても稀なことではないか)。とりわけ初期フランドル派の興味ぶかい作例が山のようにある。初期ネーデルランド、ハールレムで活動していたトット・シント・ヤンスに帰属するとされる《エッサイの木》(15世紀ごろ)を見てほしい。西欧人の余白恐怖症とルネサンス的な合理性の相克がひりひりと感じられる。

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 よく記憶に残っているのは、突如として展示室に現れたカラフルな帽子たちだ。キャプションを読むと、近年17世紀オランダで捕鯨に携わっていた男たちの墓を調査したところ、多くの遺体が帽子をかぶったまま葬られているということが発見されたそうだ。厳しい寒さ対策でだれもが着込んでいたために、表情や服装ではほとんど見分けがつかず、代わりにおのおのが被っている帽子の色彩やモチーフで人物を同定していたという。当時は「赤帽のヤンさん」みたいな通り名で溢れかえっていたのだろう。じっくりと中近代のセクションを時間をかけて回っていたら、いつのまにか閉館時間が近づいていて、十九世紀のコレクションを十分に見ることができなかった。ベルギー王立美術館とまったく同じことをやってしまっている。足早に展示室を回っていたわたしの足をふと止めたのは、アルマ=タデマの《The Death of the Pharaohs Firstborn Son》(1872)だった。わたしはこの画家がラファエル前派の画家のなかでいちばん好きだ。かれの作品のコレクションは、どこにいけば見れるのだろう。日本では知名度があまりないせいか、おそらくかれの回顧展が組まれることはないかもしれない。わたしの知人は海外まで企画展を見にいっていた。

 17時にアムステルダムの街に放り出され、カナルの沿道をいくらか散歩する。日は傾きはじめているが、依然として街に活気がある。アムステルダムは、本当にすばらしい。平坦な街のいたるところに血脈のように水路が張り巡らされ、その水はあちこちで樹々を芽生えさせている。芝の生えた広い公園があちこちにあって、子どもたちの声がこだまする。煉瓦造りの街並みのふもとを自転車で駆け抜けていく。わたしが訪れたのは三月のなかばで、まだ肌寒い季節ではあったが、天候にはめぐまれ、つねに燦々とした陽光が差していた。空の青と、樹々の緑と、陽光を受けた煉瓦の赤という色彩に満たされっぱなしだったのだが、天気が悪いと、ひょっとすると陰鬱な気分に陥っていたかもしれない。とはいえ、暮らしやすいのは間違いないだろう。ベビーカーを押している親の姿を頻繁に見た。子育てには絶好の地だと思う。

 アムステルダムへの再訪を心に誓いながら、ふたたび電車に乗って、デン・ハーグへと向かう。デン・ハーグにはTの実家がある。前日の朝までゲントで一緒にいたわけだが、TとIはすでに車でデン・ハーグに到着し、ひと休みしているところだという。車を数時間走らせれば、国境を悠々と越えることができるヨーロッパの感覚は、やはりまだ体得できていないな、と思う。デン・ハーグのTの実家で、Tの母の手料理をいただく。彼女は去年息子とともに日本の北陸地方を旅行したらしい。「ガソリンスタンドで車をバックさせているときに店員が一様に唱える呪文はなんなのか」と真剣なまなざしで問われた。わたしは苦笑しながら "All right" のことですよと答えると、彼女は豪快に笑う。そのあとギリシア人の父とも話していたのだが、かれらはいずれも英語が達者で驚いた。オランダ人は、ドイツ人に比べても圧倒的に英語がうまい。日本ではおよそ考えられないことだ。Tとともに夜のデン・ハーグに繰り出す。街の案内をしてもらいながら、The Fiddlerというアイリッシュ・パブにたどり着く。ひょっとすると同級生がいるかもしれないと店内を進んでいると、案の定Tの同級生の三人がいた。高校時代の俺たちはばかやってたな、あれがもう10年も前の話か。いまの高校はまるっきり変わってしまったらしいぜ、と談笑している。いくらかのノスタルジアにつまされながら過去を回想する様子は、万国共通である。とはいえ、かれらはわたしに気を遣って、みなオランダ語から英語に切り替えて話していたのだが。わたしだったらすぐに諦めていただろう。驚異的なことだ。

 
3月15日(木) デン・ハーグ

 Tの実家の屋根裏部屋で目醒める。おいしいエスプレッソをいただき、トラムに乗って中心街へ。9時をすでに回っていたが、まだ街が眠りから完全に目覚めていないような雰囲気だった。時間の進みかたがまだのっぺりとしている。目醒めてからなにも口にしていなかったので、とりあえず何か食べよう、うまいものを食べよう、とわたしは提案する。Tはいう。オランダには〈うまいもの〉は3つしかない。チーズ、クロケット(Kroket)、ハーリング(Haring)だけだ、と。開店したばかりのクロケットを売っている店で、クロケットを買う。伝聞に違わず、たしかにおいしい。日本のコロッケの元祖とされていて、具は牛肉をつぶしたものだ。国民的なファストフードになっていて、Wikipediaを読むと、2008年には3億5000万個のクロケットが消費されたという。人口の70%が年に平均29個いただくらしい。いまいち多いのか、そうでもないのか掴めない。

 マウリッツハイス美術館へと向かう。マウリッツハイス美術館の一角の窓から見える円筒形の建物は、ハーグの市長のオフィスだという。微妙にオフィスのなかは見えない角度になっているが、行政と市民の距離が近しいことが感じられていい。美術館にはルイスダールの作品がいくつもあり、高揚した気持ちで作品と対峙する。ユベール・ダミッシュ『雲の理論 - 絵画史への試論』という本を以前紹介してもらったことがある。わたしは読んでいないので正確な情報かはわからないのだが、西洋絵画史において、ルイスダールがはじめてキャンバスのなかに遠近法的に正しく「雲」を位置づけることができたとされているらしい。たしかに雲というのは不思議な存在だ。空に浮かんでいるのを見ても、あれが遠景の町や山脈よりも近くにあるのか、遠くにあるのかすらわからないことがある。遠近法的な視覚の秩序を無視するような存在であるということだろう。

 《真珠の耳飾りの少女》のある展示室にいると、どこからともなく黒いスーツに身を包んだ、日本人の妙齢のサラリーマンの団体が展示室にわらわらと現れた。かれらはフェルメールレンブラントといった画家の著名な作品を見て回るツアーの最中のようだった。ひとりの40代くらいの男性がガイドの通訳を担当していて、残りは還暦前後のおじさんたちだった。わたしは少し離れたところでかれらの様子を眺めていたのだが、かれらの口から出てくるのは「ほお」「すごい」といったことのみで、ひとしきりそう言い合い、スマホに収めては、足早に去っていくのであった。そのあと団体が美術館から帰るところにもちょうど遭遇したのだが、黒塗りのメルセデスベンツを3台もチャーターしていて、かれらだけバブルの時代を生きているかのようだった。これだけステレオタイプの日本のサラリーマンって生き残っていたんだな。バブル期には、ああいう光景が西欧の美術館では日常茶飯事だったのかもしれないと考えると寒気がする。日本人に反感をもつのは当たり前だろう。かれらの他にも、日本人の来訪者が心なしかたくさんいた。わざわざデン・ハーグにまで足を伸ばす旅行客はあまりいないのかもしれない。そう考えると、やはり日本人のフェルメール愛は異常である。とはいえ、わたしもフェルメールは好きだ。とりわけ《デルフト眺望》は改めて傑作だと思った。

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 マウリッツハイス美術館を出て、あたりを散策した。オランダ三大美味のもうひとつであるハーリングのサンドイッチを購って、ベンチに座って食べた。ハーリングとは、ニシンの生魚の塩漬けのことだ。多量のたまねぎとともにサンドイッチに挟んでいただく。おいしい。いくらオランダの食に期待できないとは言っても、クロケットハーリングがあれば、やっていける気がする。安価なソウルフードだ。ベンチに腰掛け、Tとともにぼんやりとこれから先に待ち受ける人生のことなどを話す。かれは今年の夏から渡英し、オクスフォードの大学院で哲学の勉強をつづけるそうだ。わたしは、どうだろう。いくつかの可能性と不可能性についての話をした。ようやく会話のエンジンがかかってきたというころ、わたしの電車の時間が近づいていることを知る。わたしはTとともに駅まで歩き、感謝を告げて改札をくぐった。東京に帰らなければならない。

 スキポール空港へと向かう車内で、久し振りに『アンナ・カレーニナ』をひらいた。けっきょく1巻すら読み終わらなかった。残りの3巻は、依然としてヨーロッパ周遊中のわたしの小さなスーツケースに詰められている。スキポール空港のカウンターで、スーツケースを日本の住所に送ってもらう手はずを整えた。対応してくれたのはまたも褐色の女性だった。あまりに長い煌びやかなネイルを携えたほっそりとした指で、キーボードを叩いている。そのさまにわたしは釘付けだった。搭乗口に向かっているさなか、突然母子と思しき二人に「どうやってガーナに行けばいいんでしょうか」と訊かれる。わたしは驚いて「ガーナって、国のガーナですか」と咄嗟に問いなおすと、彼らは頷いた。ええっと…。わたしは彼らに搭乗券を見せてもらい、無事にガーナ行きの飛行機が発つ搭乗口まで送り届けた。ブルキナファソに住んでいたことがあって、と話すとうれしそうにしていた。
 

3月16日(金) 北京、東京

 機内で『LEGO ムービー』と『ズートピア』を観た。どちらも秀作だ。ひとりで涙しているのがなんとなく気恥ずかしくて、隣のひとに悟られないように静かに泣いた。明方、トランジットの北京に到着する。乗り換え時間が90分しかなく、しかも往路と同様、ターミナルを変更しなければならない。わたしは往路と同じように出入国のゲートを通らずに移動させてもらえないかと頼むが、英語がうまく伝わっていないのか、あなたはいったいなにを言っているんだという顔つきで、一度出国手続きを取ってからターミナルを移動してください、と突き返される。わたしは空港を駆け抜け、ときに断って割り込みをしながら、ターミナル間移動の無料シャトルバスに乗る。朝のラッシュ時間なのか、バスは遅々として進まない。ようやくもうひとつのターミナルに着き、慌てて窓口に駆け込むも、チェックイン時間は終わりました、と告げられる。東京に帰りたいなら、新しいチケットを買ってください。でも、きょうの便はすべて満席です。いくらごねても無駄だった。

 さて、わたしはきょう東京に帰るのを諦め、北京に滞在しなければならないのか。ターミナルから出て、朝日を浴びる。気温は氷点下に達しているのだが、まったく苦にならない澄んだ空気で、悪くないかもしれない、と煙草に火をつける。北京に滞在するとしたら、なにをしようかと頭の隅で考えながら残りのお金を計算すると同時に、東京で帰国してまもなく予定されているいくつかの用事の重大性を思った。とりあえず、アムステルダムから東京への便を運行していたKLMに相談にいく。そもそも、その便が20分ほど遅延しており、そのせいで乗り継ぎに失敗したのだった。カウンターで対応を待っていると、日本の赤いパスポートをもった男性が駆け込んでくる。ひょっとして、と尋ねるとかれも同様のケースで、東京への便の乗り継ぎに間に合わなかったようだった。"Are you together?"と問われたので、"No we are not, but we have the same issue" と答え、しばし待っていると、搭乗券のようなものを渡される。きょうの羽田行きの便を予約したので、こちらでお帰り下さい、と。さすがKLMだ。わたしはそのことに喜びつつ、反面北京に残れないことに淋しさも感じていた。もし北京に残っていたとしたら、どんな風景がわたしを待ち受けていたんだろう。

 帰れるようになってよかったですね、などと日本人の男性と当たり障りもないことを話す。かれはMさんと言って、ヨーロッパを1週間ほど周遊していたようだ。少し話していてわかったのだが、Mさんはかなりのシネフィルで、東京とヨーロッパの映画事情についてあれこれと話す。わたしが幾度か足を運んでいるゴールデン街の呑み屋の常連ということも判明し、どこかの映画館や呑み屋で確実にすれ違っているだろう、と。旅行の最後の最後に、こういう出会いもあるのだな、とわたしは不思議な感慨に包まれていた。なにがわたしをヨーロッパに、ひいては旅行に連れていったのか、結局明快な答えは出ないままに帰路についてしまったわけだが、こういう思いがけない邂逅を求めていたのだ、と言えるかもしれない。

 東京に着いた。電車に乗り込んで、そのまま東京の懐かしき顔たちが集う居酒屋に駆けつけた。

 

ヨーロッパ旅行記(March, 2018) ― 全三回