玉田企画『バカンス』/幸福だったときの記憶の一片に生かされて

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 玉田企画の演劇は、一貫して関係性についてを思索しているように思われる。ある閉じられた二者関係に第三者が介在することによって、関係性のベクトルがいかに変容していくのか。ベクトルの矢印がふえたりへったりすることで、その場の空間の秩序はいかなる変貌を遂げるのか。とりわけ『バカンス』は、そのような関係性の緊張と弛緩の塩梅が非常に巧妙につくられている。その様子を目撃するスリルはまったく素晴らしく――玉田企画の演劇は障子の穴から「のぞき見」することなのである――、過去に観た『少年期の脳みそ』や『あの日々の話』に比しても、本作は群を抜いているのではないかと思った。

 

 夜のバーベキューには、すべての登場人物が集うこととなる。乾杯の合図で開けられたビール缶はいつまでもテーブルの上から動かない。買い出したはずの生肉はいつまでも冷蔵庫の中に置かれたままである。そのあいだ、ひとつのパラソルのもと、幾層にも重ねられた関係性の糸がほどかれたり、またさらにほつれたりする。そのことを目撃する、目撃してしまう悦楽と背徳感。

 この戯曲に豊かさをもたらしているのは、近くの船着き場の漁師の存在である。漁師は時間の象徴でもある。漁獲量がつねに変動するのと同様に、人間関係もまた変容を免れない。それでも、かつての記憶は、かつてあった出来事は、確かなものとして、いまを生きているひとびとを支えている。第二幕のラストシーン。彼らの関係性は、とっくの昔にこわれてしまっていて、もはや修復できないのかもしれない。それでもかれらは、現在に至るまでの少なくないときをともに過ごしてきたのであって、その事実はだれにも否定できないのである。あの夏の日、あの三人は漁師の船に乗り込んで、沖で釣った小さな魚をそのまま食して、腹を壊してしまった。あの日の記憶は、たしかに彼らが幸福であったひとときの記憶として、美しさを保ったまま、彼らのなかで一生生き続けるのであろう。たったそのことだけでも、ひとは生きていけるのかもしれない。そのような幸福な記憶は、きっとだれにだってあるはずなのだ。

 

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 ところで、この場面はとてもおかしかった。内と外で関係性はまるっきり変容してしまう。かれら二人のときの関係性なんて、本当は見てしまってはいけないんだけどな。客席にいるわれわれは、みんなして覗き穴から見ています。

 

(2018年8月 うだるような暑さの日、五反田アトリエヘリコプターにて)