雑記( October, 2018 )

金木犀が香っていたのはほとんど一瞬のことにすぎなかった。

・少し前からツイッターで、いわゆる裏アカウントをつくって、毎日140字の日記をつけはじめた。これまでわたしは数え切れないほど、いろいろなメディアで日記をつけようとしてきたが、ほとんど三日坊主に終わったものばかりであった。B5ノート、B6ノート、A5手帳、Evernote、ブログ、Workflowy…とメディア遍歴は枚挙にいとまがない。折々につけられた日記が、それぞれの場所に断片的に残っていて、逸してしまったものも多くある。

・今回ツイッターに鞍替えをして、一日の記録を1ツイート以内、すなわち140字以内に収めることをみずからに条件として課した。いくら日記とはいえど、140字で書くことのできる内容は限られていて、出来事や人物の羅列に過ぎない日もあるのだが、そのためあってか十月は一日も欠かすことなく日記をつけることができた。フォロー、フォロワーはゼロの鍵アカウントで、タイムラインには自分の日記だけが表示されている。恍惚とした気持ちで、わたしの十月をスクロールをしていく。

・トカゲとヤモリの見分けかたは、瞼があるかどうかだそうだ。ヤモリには瞼がないので、目が乾燥しないようにときおり舌で目を舐めるらしい。

・千葉雅也が『別のしかたで:ツイッター哲学』で、ツイッターが書きやすいのは、書きはじめた途端にもう締め切りが訪れるからであるというようなことを書いていたことを思い出す。あれは断片的にしか読んでいないが(それがより正解に近い読み方であるようにも思う)、有限性についての書物であったと思う。

・わたしたちは何らかの制約を受けることではじめて――有限性の中に投げ込まれてはじめて――逆説的にある種の自由を獲得できる。そのことは、厖大な余白を一から埋めていかなければならない修士論文の執筆が課せられたわたしにとっては、痛切な響きをもって了解できる。

修士論文が書けない。ほとんど書くべきことはわかっていて、もっと展開していきたいアイデアも数多く抱えている。それでも、書けない。より正確にいうならば、書くことに気後れを感じて書きはじめることができない。二ヵ月と少しでやってくる締切の直前は、非常に大きな苦しみに襲われているのは火を見るよりも明らかなのにね。

・わたしは "procrastination " というフランス語の(英語でも同型なのだが)単語がやけに気に入っている。あまり見慣れない単語ではあるが、ラテン語をかじっているひとにとっては語意の理解は容易であろう。接頭辞の pro - は「先に、前に」で、cras というのは「明日」。つまり、明日へと先延ばしにすること、眼前に抱えている課題を先延ばしにすること。

修論を先延ばしにして(procrastiner)なにをやっていたのだろうか。池袋の西武デパートの屋上にある鶴仙園というサボテン屋で草木を眺めていたり、その隣にある熱帯魚の店でグッピーの尾ひれに見とれていたことを思い出す。草木に囲まれるような暮らしをしたいと希いつづけている。

・『2001年宇宙の旅』のIMAX版はとてもよかった。わたしがかつてDVDで観たものとはまったくちがった。東京国際映画祭で『お熱いのがお好き』のデジタル4Kリストア版を観た。20世紀で映画というものは終わっていて、21世紀においては20世紀の記憶を繰り返しているに過ぎない、と戸田奈津子がどこかで語っていたことを思いだす。19世紀は小説で、20世紀は映画だったとしたら、21世紀とはなんなのだろう。

・カントの『純粋理性批判』を読む。表紙が美しいことで知られる、岩波文庫に収められている篠田訳だ。わたしはこれまで解説書には数冊あたっていたが、訳文とはいえ、オリジナル・テクストを腰を据えて読むのははじめてである。彼の独特の術語にさえ惑わされなければ、それほど悪文だと思わないどころか、カントの息づかいさえ伝わってくるような文章である(『精神現象学』のほうがよほど難解な書物であろう)。たとえば自然法則を偶然的であるとしているのだが、それはあくまで絶対的自発性であるところの神の必然性に対置されているためであり、そのような議論にしぶとくついていくことができればけして理解不能なテクストではない。とはいえ、五年前のわたしに読ませても、確実にちんぷんかんぷんであったことは確かだ。こむつかしい哲学書を読む力がついたという意味では、成長を実感するべきなのかもしれない。手放しに喜んでいいことなのかどうかはよくわからない。

・口臭や体臭のきつい人間は、けして歯医者になってはならない。現代に生きるわたしは、真理や本体なんてものは背理であると信じているが、このことだけは、おそらくカントも同意してくれるであろう、世界の真理について語っている命題である。

・居酒屋で小さな子どものいるひとと話しこむ。ほかでもない自分の子どもが、たまたま部屋で流していたある曲に特別な反応を示し、うれしそうに踊ったのだという。その楽曲は、かつて彼自身が若いころにレコードを買い求め、何度も何度も繰り返し聴いた大好きなソウルの曲だった。P-VINEのレコードの宣伝文句には、「全国に1000人のソウルファンに贈る」というようなことが書かれていた。たった1000人しか聴いていないようなマイナーな音楽を愛するということ、そして偶然にも自分の子どもがそれを聴いて自然に踊っているということ。彼は、その瞬間にそれまでの人生で味わったことのないほどの至上の幸福を味わったと目を細めて、恥ずかしそうに語った。わたしは、愛というものが世界のうちに立ち現れてくるということは本当にあるのだと思って涙ぐんだ。

・友人と、彼の知り合いの女優たちと五人で車を借りて、はるばる南相馬までいって、柳美里が主宰する青春五月党の復活公演を観た。日帰りだったので、往復で8時間余りも、高速で移動する鉄の塊に閉じ込められていた。だがその甲斐あったというか、『町の形見』は傑作だったし、柳美里の営む書店・フルハウスもすばらしかった。帰路、あたりはすっかり暗くなった公道を走っていて、突如として帰宅困難区域の入り口に警備員がぽつりと立っているすがたが視界に飛び込んできて、うろたえてしまった。わたしのあずかり知らないところで、彼らは放射能に汚染された土地に立ち続けている。

・何かの啓示のように、わたしは、自分がこれまでずっとフィクションをフィクションとして--それがあたかもわたしの実存している現実とは無関係なものとして--受容していたという根本的な態度にはたと気づいた。フィクションを現実に奉仕させるのでなく、現実の関係性の網目を円滑にするためのコンテンツとして利用していたのにすぎなかったのかもしれない。とても恥ずかしいことだ。

・自分にしか聞こえていないと思っていたなか卯の歌。

・たまたま呑みの席で同席していた中学生の女の子の恋事情を、複数の中年男性、中年女性で取り囲んで根ほり葉ほり訊いていく。まったく好事家な大人たちだ。夜にLINEで、お互いの好きなひとのヒントを出し合っていって、もうほとんどお互いが両想いだと勘づいたところで、「2分後に好きなひとを発表しよう」となった。その2分後である23時47分、彼女のスマートフォンは、自分の名前だけが書かれているメッセージを受信する。

・『モアナと伝説の海』をもって、ややあって九月から観続けていたディズニープリンセス映画をすべて観終わった。1937年につくられた『白雪姫』から最新作にいたるまで、その数は13本。初見の作品も多かった。わたしはとくに『シンデレラ』『アラジン』が好きだ。『メリダとおそろしの森』のヒロインが、スコティッシュ・アクセントの英語を鼻につくような声で話していて、なんらかのフェティズムがくすぐられた。

・「結婚式、やってよかったよ」とわたしにすっきりとした顔つきで語ったJが、とても遠く見えた。

・あるひとに居酒屋で「おまえの欲望は、あらかじめ打ち消されてしまっているんだな」と言われる。なんらかのロマンが羽ばたきそうになる前に、ひとつの大きな諦念が襲ってくる。そのことに対しても、すきとおった諦念を抱いているくらいには、わたしの欲望は打ち消された欲望としてあるのかもしれない。「♪ ドアの外で思ったんだ/あと10年経ったら/なんでもできそうな気がするって/でもやっぱりそんなのウソさ/やっぱり何もできないよ/僕はいつまでも何もできないだろう」というフィッシュマンズの歌詞を思いだす。どうしてかれのうたう諦念はあそこまでわたしに痛切に響いてきたのだろう。

・キラリ☆ふじみまで『Beatiful Water』を観にいく。ずっととなりに佐々木敦がいたのだが、キャップを被っていたので、どれくらいハゲが進行していたのかは確認できなかった。

・深夜のレンタルショップに、小さなゲームコーナーがあって、ここ何度か挑戦していたUFOキャッチャーで、ミニオンズの人形がとれた。ひとりで自転車を漕ぎながら「うれしいなあ」とつぶやきながら帰った。さっそく本棚の隙間に配置して、にこにこしながら眺めたり、記念に写真を撮ったりした。

・別れぎわ、駅のホームで知り合いのおじさんに「嫌いだ!」と叫ばれる。酔っ払いの扱いはめんどうくさい。

・営業終了間近の銀行に、汗を流しながら駆け込んで、後期のぶんの学費を払ったら文字どおりすっからかんになった。しばらく極度の貧困生活を送るはめになる。貯金の有無は人間の尊厳にかかわる。水が飲みたいときに購入するのを我慢して、トイレの洗面台の蛇口をひねって、しかたなしに水道水を飲むひもじさ。

・お金がないのに、ここ数ヶ月勤めていたバイトを辞めた。わたしの上司と衝突して、ほとんどクビのような形で退勤となったのだが。最後の出勤を終え、多少は名残惜しくなるのかと思ったら、あまりにうれしくてスキップまでしそうな気分だった。

アントニオ・ロウレイロの音楽がいい。

四方田犬彦『モロッコ流謫』の「砂と書物」という章にいたく感動する。すべての書物の記憶を奪ってしまう砂、あらゆる記憶の退色から負けじと存在しつづける書物。いつかモロッコには足を運ばなければならないなと思う。

・わたしは何も忘れたくない、という。彼女は何もかもを忘れたい、という。なにかを憶えているというのはどういうことなのだろう。なにも忘れないという決意と、その決意をあざ笑うかのようにこぼれ落ちていく記憶たち。わたしは記憶の喪失に抗うかのように、こうしてだれのためにもならない文字を画面に打ち込んでいる。記憶が堆積していくということ、記憶が消滅してしまうことについてよく考えた一ヶ月だった。