新型コロナウイルスをめぐって/ミシェル・ウエルベック「少し悪化した世界に」(試訳)

 2020年5月4日、仏作家のミシェル・ウエルベックが、パンデミックがはじまって以来、はじめてコロナ禍についての文章を公表しました。原文は仏ラジオ局「France Inter」に掲載(第三者によって朗読された音声もしばらくは聞けます)。すでにどこかで翻訳されているかもしれませんが、以下、わたしの試訳を掲載します。誤訳等ありましたらご指摘いただけるとうれしいです。

 

少し悪化した世界に —— 何人かの友人たちへの返信

 

 きちんと認めなければならない。この数週間にわたって交換されたEメールのほとんどは、宛先人が死んでいないか、あるいは死にかけていないかと確認することが第一の目的であったということを。それでも、わたしたちはひとたび確認し終えたら、この状況に対して、なにかおもしろいことを言おうとする。だが、それは簡単なことではない——この感染症は、不安を掻き立てると同時に退屈なものであるという離れわざを成し遂げてしまっているからだ。まったく平凡なウイルス——よくわからないインフルエンザ・ウイルスにしようもない仕方で似通っていて、生き延びる条件はあまり知られておらず、その特性ははっきりしない。あるときは軽微で、あるときは致死的であり、さらにいえば、性的接触によって感染するわけでもない……。つまりは、なんの価値もないウイルスなのだ。この感染症は、連日にわたり世界で何千ものひとびとを殺している。にもかかわらず、それはなんでもない出来事であるというようなおかしな印象を与えてやまない。わたしの尊敬すべき同業者たちも(とはいっても尊敬できるのはごく一部なのだが)、とりたててウイルスそのものについては話そうとはせず、外出制限の問題について言及するばかりである。ここでは、彼らの所見にたいして、いくつかわたしの考えを付け加えてみたい。

 

 フレデリック・ベグベデ(ピレネー=アトランティック県ゲサリー在住)。けっきょく作家というのは大勢の人間と会うのではなく、本の山とともに隠遁生活を送っているにすぎないのだから、外出制限がたいして影響を与えることはない。フレデリック、まったくそのとおりで、暮らしなんてものは、ほとんど変わっていやしない。ただ、きみはひとつだけ忘れている(おそらく田舎に暮らしているぶん、いろんな制限の被害を食らうことは少ないだろうから)。作家は、歩くことを必要としているということを。

 この外出制限の事態は、フロベールニーチェの古い論争に決着をつけるにはとっておきの機会のように思われる。フロベールはどこかで(どこだったか忘れたが)、ひとは座っているときにだけよく考え、書くことができるのだと言っていた。ニーチェによって発せられたそれに対する抗議と嘲笑は(これもどこだったかは忘れた)、フロベールのことをニヒリスト呼ばわりするほどだった(ニーチェはこのころから「ニヒリスト」という語をあちこちで乱用しはじめたのだった)。自身の著作はすべて歩きながら構想したのだし、散歩の最中に思いついたこと以外はたいていくだらなく、かれ自身はもともとディオニソス的なダンサーで……云々。ニーチェにたいして行き過ぎた同情を寄せるべきではないものの、このような場合、わたしはむしろニーチェのほうに理があると認めなければならない。一日のうち何時間もの時間を、決まったリズムで一心不乱に歩きつづける、そういう可能性が剥奪された状況でものを書くことは、絶対にやめたほうがいい。積もり積もっていくぴりぴりした緊張感はほぐされえないし、哀れな作家の脳内を思考や映像が痛ましく駆けめぐり、たちまち苛立ち、しまいには狂ってしまう。

 唯一大事なことは、歩くことの機械的な、無意識的なリズムなのだ。まずもって歩くことが新たなアイデアを浮かび上がらせるというのが理由ではなく(もちろん歩くことによってアイデアが生まれるということもあるのだが)、仕事机で生まれたさまざまなアイデアの衝動を鎮めるためなのだ(その点、フロベールが完全に間違っていたとはいえない)。ニーチェが、エンガディン地方の牧草地かどこかで、ニース後背地の岩だらけの坂道を歩く過程で練り上げていった考えについて語るとき、彼は多少なりともうわ言を言っているのだ。観光ガイド本を書くのでもないかぎり、目の前を過ぎていく景色は、内なる景色ほどの重要性をもたないのだから。

 

 カテリーヌ・ミレー(ふだんはパリジェンヌだが、移動禁止令がくだったとき、たまたまピレネー=オリエンタル州のエスタゲルにいた)。いまの状況は彼女に、わたしの著作のひとつである『ある島の可能性』に書かれた「予見」について思い出させたという。

 そのときわたしは、読者がいるというのはなんだかんだいいことじゃないか、と思ったのだった。というのはわたし自身、いまとなってはまったく当然なことに思えるのだが、彼女の指摘があるまで、あの本で書いたことといまの状況を関連づけようとはまったく思わなかったからだ。それにわたしが思い返すとしたら、当時わたしが考えていたこととまったく同じ、つまりは人類の絶滅についてにほかならない。とはいっても、それはスペクタクル映画のようなものではまったくない。もっと陰鬱なものだ。人間は個室に隔離されていて、ほかのひととの物理的な接触をもたず、たたパソコンで通信をしながら暮らす。そうして、ひとは少しずつ滅びていく。

 

 エマニュエル・キャレール(パリ→ロワイヤン。どうやら引越しのまっとうな理由を見つけたようだ)。この状況にインスパイアされて、なにか意義ある本が生まれうるのだろうか? 彼は自らにそう問いかけていた。

 わたしもまた同じことを考える。わたしも本当に自らに問いかけてみた、しかし奥底ではそうとは信じていない。ペストをめぐっては、数世紀にもわたって、わたしたちは数多くの収穫を得た。ペストは作家の関心を大きく喚起したのだ。新型コロナウイルスについては、すでにそこで疑念が生じている。そもそもわたしは「なにもかもが以前とは変わってしまう」という類の言説を一瞬たりとも信じていない。むしろ逆に、すべてはまったく同じままだろう。この感染症の蔓延は、驚くべきほどふつうなのだ。「西洋」は神権とやらで未来永劫存在しつづけるわけではないし、世界でいちばん裕福で、もっとも発展した地域でありつづけるわけでもない。そんなものは全部、すでに前々から終わっていることで、注目するようなことはなにもないのだ。たとえばすこし細かく立ち入っても——フランスがいくらかスペインやイタリアよりもうまく対処していて、ドイツには負けているということも——驚くようなことはなにひとつだってない。

 むしろ新型コロナウイルスは、いくつかの進行中の変化を加速するという帰結をもたらすだろう。何年も以前から、あらゆるテクノロジーの発展は——それが些細なものでも(ビデオ・オン・デ・マンド、非接触決済)、あるいは大きなものでも(テレワーク、インターネット通販、SNS)——物質的な接触、とりわけ人間どうしの接触を結果として(あるいはその第一の目的として?)減らしてきた。ウイルスの流行は、この物々しい傾向に拍車をかけるまっとうな理由を差し出してくれている。つまり、人間関係そのものの、ある種の陳腐化である。ここでわたしは「未来のチンパンジー」という名のアクティヴィスト・グループが発表した反=生殖補助医療のテクストに書かれていた、明快な比較を思い出す(わたしは彼らをインターネットで発見した。うむ、わたしは一度たりとてインターネットは不都合ばかりだなどと言ったことはない)。さて、引用しよう。「ほどなくして、自分ひとりで無料で、テキトーに子どもをつくるということが、ウェブのプラットフォームなしにヒッチハイクをするのと同じくらい突飛なことに見えるようになるだろう」。カーシェアリング、シェアハウス、わたしたちにぴったりのユートピアがあるのだが、もう終わりにしようじゃないか。

 

 わたしたちがこの機会に悲劇や、死や有限性といったものを再認識したなどと言ってのけるのも同様に間違っているだろう。フィリップ・アリエスがするどく指摘したことだが、いまや半世紀以上にわたって、ひとびとはできるかぎり死を隠蔽しようとしてきた。実際、死というものが、この数週間ほど目立たなかったことはいまだかつてなかった。感染者は、病室や老人ホームでひとりで死に、すぐさま参列客もないままひっそりと埋葬される(あるいは火葬される? 火葬のほうがことさらに時代に即している)。被害者は、だれからも看取られることなく、日々の死者数の統計に加えられていく。そうして累計死者数が増えるにつれてひとびとのあいだで高まっていく不安は、奇妙なほどに抽象的である。

 

 この数週間、もうひとつ、かなり重視された数字がある。感染者の年齢である。いったい何歳までなら蘇生させ、治療するべきなのだろうか? 70歳か、75歳か、80歳か? どうやらこれは、世界の暮らす地域によって異なる。ともあれひとびとが「すべての命は同じ価値ではない」という事実を、これほどまで落ち着きを払った破廉恥さで言ってのけたことはなかっただろう。結局のところ、わたしたちはある一定の年齢からは(70歳、75歳、80歳?)、ほとんどすでに死んでいるに等しいようなものだ。

 

 こうしたすべての傾向は、すでにいったように、新型コロナウイルス以前の世界にも存在していた。ウイルスの蔓延によって、新たな明白な事実とともに表出したにすぎない。わたしたちは外出自粛が解かれたあと、真新しい世界で目醒めるわけではない。世界は、以前と同じままか、あるいは少し悪化しているだけなのだろう。

 

ミシェル・ウエルベック

 

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