八月十八日 火曜日 亡霊たち

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八月十八日 火曜日 亡霊たち

 職場を出たのはすでに23時を回っていた。つまりは14時間近くも働いていたことになる。いつものことといえばいつものことだが、いったい何をそこまですることがあるのだろう? ほとんどきょう一日の記憶を喪失してデスクをあとにする。わたしは空調のスイッチを切り、広いフロアで煌々と照る電気を切り、カードキーをかざして鍵を掛け、亡霊になったかのようにふらふらと町へと飛びだした。コオロギがけたたましく鳴いているとなりで、男女が地べたに座り込んでいる。男女が地べたに座り込んでいるとなりで、コオロギがけたたましく鳴いている。どっちが先で、どっちが後なのだろう。なんの足しにもならないことを考えながら駅へと向かった。

 

 電車に乗る。ぱっと横を見ると、知っている顔が座っている。あきらかに疲れている様子だった。わたしは声を掛けるか逡巡して、一度は自分のスマートフォンに視線を落としたが、それでも声を掛けることにした。彼女もまた仕事帰りだという。10分にも満たない会話。明日には内容を忘れているかもしれない、とりとめもない話。いまのわたしにとって、これぐらいのコミュニケーションが精いっぱいな気がしている。

 

 郵便ポストを開けると、 沖縄の古本屋から本が宅配されている。四方田犬彦『怪奇映画天国アジア』。東南アジアのホラー映画についての本が、沖縄というアジアとの中間地点からとどいたことに、少し特別な感情を抱く。

 

 オリジン弁当を食べながら、高橋洋のリモート作品『彼方より』を観た。主演の女性の表情がこわい。ほとんど亡霊的というような。"The time is out of joint." というシェイクスピアの一節。脱臼した時間。ある時間が脱臼し、異なる時間の流れと混ざりあう。三つの異なる画面の、三つの異なる位相の、三つの異なる時間のあいだでコミュニケートをする。

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 どうしてだかわからないが、安川奈緒という早逝した詩人の存在を知る。いくつか詩作が引用されているのを読んだが、わたしにはまだ良さがわからない。安川奈緒について言及しているブログを漁っていると、以下のヴィデオが紹介されているを発見した。

 

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 ああ、これはわたしの知らないメロディだ、抒情性だ、と昂奮した。2000年生まれのナイジェリア人シンガー。ナイジェリアといえば、最近リリースされていた Burna Boy の新譜もとてもよかった。この Rema というアーティストも、Burna Boy と並んでなんとかというナイジェリアの音楽賞を受賞したばかりだという。高橋洋の作品を観たせいだろうが、ナイジェリアには亡霊はいるのだろうか、という疑問が頭を過ぎった。亡霊がいるとしたら、いったいどのような形で、何に化けて現れるのか? 

 

 寝台で『怪奇映画天国アジア』を読む。四方田が冒頭で定立した問いはこうである。アジアにおいて、なぜ幽霊は女性であり、弱者であり、犠牲者なのか? まったくもって問いの立て方が素晴らしい。わたしはあっという間に、この書物の問題圏に引き込まれてしまった。

 たとえばアメリカ映画であれば、超自然の存在はあくまで男性的な屈強な怪物として登場し、それを英雄的な男性が倒すというのが通例であるのにたいし、アジアにおいて、多くの場合それは女性の姿をまとっている。さらにいえば、彼女たちは必ずしも邪悪な存在であるとは限らない。

破壊的衝動の権化であるハリウッドの怪物とは違って、はるかに人間的な執念の存在なのである。より正確にいうならば、彼女は退治されるのではなく、折伏されるのである。

 映画で表象される超自然的な存在が政治的な文脈を帯びるとするならば、アジアにおける女性という幽霊像は、どのような政治性を内包しているのか。その出自はどこにあるのだろうか。そのような野心的な問いを掲げた書物である。四方田犬彦はほんとうにいつも問いの立て方が素晴らしい。

 

 わたしは夢中で頁を繰って、傍線を引いたりしているうちに、いつの間にか眠りに落ちていた。この夜は、何の夢も見なかった。