本棚(2021年1月)

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 先月の本棚に引き続き、2021年1月の本棚。さて、この記録はいつまで続くでしょうか。気長にやっていきたいものです。

 先月の本棚に登場した本も多々あるものの、『監督 小津安二郎』から右は、今月読んだ本。志賀直哉新潮文庫から左は、新たに迎え入れた積ん読です。いったい書物にどれくらいのお金を遣っているのかと気になって計算してみたところ、2021年1月の書籍購入費はだいたい22,000円。いくら薄給でも書物に関しては金に糸目をつけたくないですね。

 

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 わたしのなかで空前絶後の〈小津安二郎月間〉が開催されている。小津の映画を片端から観ながら、合間合間に関連書籍を読むという贅沢な毎日。なかでも蓮實重彦『監督 小津安二郎は、何度も読み返すことになった(いまも読み返している)。映画本というのは、言及される作品を未見であっても愉しめるものもあるが、本書についてはやはり映画を観てなんぼのところはある。

 先月も少し感想を書いたが、とにかく本書は、はじめに断言をしてみせるというやり口に魅惑されてしまう。たとえば「V III 晴れること」の「小津にあっては、空はいつでも快晴なのだ。曇りの日に取られた小津の映画というものは存在しない。」「その世界には、雨季が存在しないばかりか、時雨が降りかかったりすることさえないのだ。」といった断定の記述。作品群に立ち戻って考えると、このような断定は必ずしも正確なものとはいえない。たとえば『大学を出たけれど』や『東京の宿』や『浮草』や『宗方姉妹』など、雨の降るさまが描かれる作品も確かにあるのだ。もちろんそういったことについて、蓮實は断定のあとに例外として言及していくのだが、それは彼のスタイルなのだろう。あえてはじめになんの留保もなく断言をしてみせる。そうして論述へと読者を引きずりこんでいく。小津において天候という主題が重要な位置を占めるにもかかわらず、季節感はつねに不在であり、それが小津の説話においていかなる機能を果たしているか。そういった論述が、あたかも確かに小津にあってはきわめて重要なのだといつの間にか説得されているのだ。

 吉田喜重小津安二郎の反映画』は、蓮實重彦の批評の影響下で読んだからか、どうしても物足りなさを憶えてしまった。生前の小津との三度の邂逅、たとえば病床で小津が「映画はドラマだ、アクシデントではない」と語ったエピソードなど、確かに興味深い記述は多々あるのだが、肝心な小津安二郎論としてはどうも生ぬるさを感じてしまうというか、それはあなたの印象でしかない、牽強付会ではという疑念が頭をもたげてしまう。蓮實の以下のような警鐘が思い起こされる。

つまり、見たことを思考するのではなく、思考することによって画面を見ることを選んでしまうのである。視線は思考に従属し、その硬直ぶりに応じて画面を大胆に中心化する。そのとき瞳が無効にされるのはいうまでもない。
蓮實重彦『監督 小津安二郎』,241頁)

 2013年に刊行されたユリイカ 総特集 小津安二郎 生誕110年/没後50年』のいくつか論考も読んでいったが、蓮實重彦の二番煎じか(この『ユリイカ』から遡ること30年も昔に著された『監督 小津安二郎』の影響力がいかに大きかったかと痛感させられる)、やはり同様の物足りなさを憶えてしまうことが多かった。

 それでもきわめて印象的だったのは、四方田犬彦の手による「『東京物語』の余白に」という論考である。四方田はひょっとすると小津作品に批判的な立場を取るのではないかと先月書いたが、概ねその直感は間違ってはいなかった。小津礼賛の論考が続くなかで、小津がいかに画面から不都合なものごとを隠蔽していったかという批判がするどく繰り広げられていく。内田吐夢鈴木清順とちがい、強烈な戦争体験をしながらも戦後も沈黙を貫き、作品においても一貫して「転回」することがなかったという小津。この四方田の論で何よりも痛烈なのは、そのことに目を向けず、世界的な小津への評価に乗っかりながら、じつはノスタルジアに耽っているという日本人に対する批判だろう。

 小津を論じる少なからぬ者たちは、海外において初めて小津を発見する。(…)彼らはカルチェ・ラタンの小さな名画座で十年一昔のように上映され、欧米人から神のごとくに賛美されている『晩春』や『浮草』を観る。そして自分が後にしてきた祖国の街角の風景、自分がひとたび訣別を宣言してきたはずの人間関係をそこに発見し、そこにナルシス的な同一化を果たす。

 ひとたびノスタルジアにわが身を委ねてしまえば、後は簡単だ。ジャン=ピエール・リシャール(誰だっけなあ?)でも、ジル・ドゥルーズでも、当座に手元にある現代思想を手掛かりに、自分の同国人の芸術作品を普遍的映画形態の特例として論じていけばよい。重要なのはフィルムのテクスト分析であって、それを成立させていた文化的背景や伝記的要素は捨象される。小津が日本人であり、小津映画が日本映画であることも、論者が異郷にあって郷愁に駆られたことも、わざわざ言及しなくともよい。

四方田犬彦「『東京物語』の余白に」(『ユリイカ 総特集 小津安二郎 生誕110年/没後50年』収録,42-43頁)

 四方田による痛烈な批判の前後に、まさにそういう論考が収録されている、つまりは「喧嘩を売っている」のだから、まったく『ユリイカ』もおそろしいことをする…。しかし確かに小津については何かを語ってみたくなってしまう。世界映画オールタイムベストの首位に『東京物語』が選出されているのだから、とにかく褒めてしまえばいちおうの格好はつくのだから。しかしそれ小津をめぐる言説に限らず、なにごとにおいても陥りやすい罠である。わたしも慎重にならなければならない。思わず身を正した。

 

 さて、小津についてはこの調子でいくらでも書けそうだが、またの機会に譲る(果たしてそんな機会は来るのだろうか)。

 主宰する海外文学読書会の課題本として、クォン・ヨソン『レモン』パウリーナ・フローレス『恥さらし』をそれぞれ取り上げた。「韓国の現代サスペンス」という触れ込みで興味をもった『レモン』は、一読してかなり好感をもったが、すでに記憶が曖昧になっている。2002年、日韓W杯で世間が湧き立つなか、ひとりの女子高生が殺害される。遺された彼女の妹や級友の「その後」が、視点を変えながら語られる。サスペンスを期待して読むと拍子抜けしてしまうが、ところどころ異常なほど生々しい細部が書き込まれていて、それが妙な色気を放っている。日本でも韓国文学ブームに火がついて数年が経ち、新世代の小説家たちの邦訳も次々と刊行されているが、本書の著者は1965年生まれ。中堅どころといっていいだろう。それなりに長いキャリアをもっている作家が、『レモン』のような若々しいというか、ここから大きな発展性を内包しているような粗削りでフレッシュな純文学を書いているということに驚きがあった。いったいこの著者はどのような作品を書き継いできたのだろうか。

 いっぽうで『恥さらし』は、1988年生まれのチリの若き作家による短編集。ボラーニョをはじめ、『俺の歯の話』など新しいラテンアメリカ文学を次々と訳出している松本健二氏による邦訳である。表題作はどうやらロベルト・ボラーニョ短篇小説賞なるものを獲得しており、訳者の強烈なリコメンドによって邦訳刊行に漕ぎ着けたようだ。ラテンアメリカ文学といえばマジックリアリズムというような定式の貧しいイメージしかわたしも持ち合わせていなかったのだが、これはある意味「普通の」小説。かなりフラットな文体によるリアリズムに準拠した掌編がいくつか収められているが、わたしにはこれがラテンアメリカの土地でなければ生まれ得ない小説だとは思えずにあまりピンと来なかった。チリ映画にくわしい読書会の参加者は、チリの「イヤーな仄暗い感じ」がよく出ていて好意的な評価を下していたが、わたしには残念ながらまだそれを嗅ぎ分けるだけのラテンアメリカ世界への解像度が備わっていなかった。

 

 過去二年近く続けている海外文学読書会に加え、あらたに今月から職場の何人かで現代日本文学読書会もはじめた。自分でも「そんなに読書会をやってどうすんの」と呆れてしまうのだが、普段はあまりあたらしい書物に手を伸ばさない自堕落な性格への処方箋としては、強制力が働くので読書会はとても有効な枠組みなのです。書店めぐりをするときのアンテナの張られかたもぜんぜん違って楽しい。これまでは日本文学棚は結構素通りしがちだったのだが、巡回のルーティンのなかに組み込まれるようになった。あまり文芸雑誌は読まないのだが、『文藝 2020年冬季号』を買ってぱらぱらとめくったした。まだまだ知らない作家がたくさん並んでいる。

 読書会の第一回課題本として選んだのは宇佐見りん『推し、燃ゆ』。読書会で選書をしたあとに芥川賞にノミネートされ、見事受賞を果たし、さらには本屋大賞にまでノミネートされて、いまは書店でも飛ぶように売れているようだ――いま日本中で読まれている、ということが素直に喜ばしい傑作。本書で描かれるのは、アイドルを「推す」という人間関係に釣り合いをもとめない非対称的な在り方。その閉じられた一方的な関係性のうちに生きる「あたし」は、バイトを辞め、学校を辞め、家族とも疎遠になっていく。生活は損なわれ、世界が小さくなっていってしまう。そうしたなかで、推しを推すことということだけが純然たる強度で残っていく。近年報道などでもたびたび見かけるセルフネグレクトの女性というプロフィールがひとつの強烈なリアリティをもって立ち上がる。安易なセオリーで考えるなら、そうした彼女の世界に、他者、つまりは一方的ではない関係性を結ぶことのできる生身の他者が外から闖入し、主人公の生が救出されていくという筋書きを辿るかもしれない。だが、この物語はそうした安易な結末を採らず、とにかく堕ち続けては最後に荒みきった自室で這いつくばり、散乱した綿棒を拾い集め、生きようと決意するのである。坂口安吾堕落論』の現代における実践の形であるといったら言い過ぎだろうか。あるいは三島由紀夫金閣寺』で最後に煙草を喫んではふと生きようと思った主人公の姿が重なっていく。

 『推し、燃ゆ』にいたく感銘を受け、前作である宇佐見りん『かか』も読んでみたのだが、これもまた素晴らしかった。方言のような語り口が採用されていて、著者の文体の自在さに感服しきってしまう。自分よりも六年も若い1999年生まれ、二十一歳の小説家が、こうして傑作を残している、その前途が洋々と拓けているということが純粋に喜ばしくて仕方がない。彼女の小説は今後も追っていこうと決意した。

 

 YouTube三島由紀夫川端康成の対談動画を見たことをきっかけに、書棚から川端康成『雪国』を引っ張りだしてきて読んだ。川端康成は『伊豆の踊り子』ぐらいしか読んだことがなかったのだが、ああ、わたしは川端が好きなのだなと深く認識した。現代において川端康成が好きだという立場を公言することにはいくらか留保が必要であるかもしれない。そう思ってしまうほど危うく妖しいエロティシズムが横溢しているのだが、彼の抑制の利いた文体が、まさに文学としか呼びようのない気品を与えている。あまりに有名な「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。」の一文からはじまる『雪国』の冒頭、主人公が列車のボックス席で、向かいに座っている女についての描写などは、本当に文章でこれだけの情感を立ち上げることができるのかと感動しきりだった。つづけて新潮文庫眠れる美女を買って、表題作「眠れる美女」や「片腕」などの中篇も読んでいく。前述の対談で三島由紀夫が評していたように、四畳半で孤独に生み出された物語が、これだけの豊かな想像力を掻き立てるという文学の奥深さに心を奪われた。もっと読んでいこう。

 

 先月、イスラエルパレスチナ問題にもっと接近したいと考え、まずは新書を読んでみようと少し調べてみたのだが、やはりそれなりの数の書物が世に問われていて、どれを選ぶべきかけっこう迷った。いろいろとレビューを読んだりして、講談社新書の高橋和夫『アラブとイスラエル パレスチナ問題の構図』を購う。買ったはいいが、最初の数章を読んでしばらく中座してしまった。イスラエルについては新型コロナウイルスのワクチン投与の状況などニュースでもたびたび目にするが、すでに興味が別のものに移ってしまって、なかなか腰を据えて読む機会がなかった。結局サイードの書物も紐解けていない。自分の移り気の早さをただ反省するしかない。また機会が巡ってくるのを待ってみよう。

 そうした移り気の早さを象徴するかのように、インターネットで話題を集めていた『闇の自己啓発が書店に平積みにされているのを発見し、ついついわたしも買ってしまった。怪しげな表題にインパクトがあるが、数名で開催している読書会の模様を文字起こしして、書籍化したのが本書である。加速主義や反出生主義など、近年の現代思想を賑わせている諸概念をはじめ、わたしの(とても狭い)守備範囲外の話題が出ていて単純に勉強になる。たとえばいろいろな陰謀論を眉唾なものとしてただ退けるのでなく、いったんその可能性を真剣に考えてみるという姿勢には好感をもったし、現代において功利主義を徹底化することで拓ける可能性がであることにおもしろさを感じたが、はたして書籍にする必要はあったかななどと少し思ったりした。

 そのほか、『マイルス・デイヴィス クールの誕生』というマイルスの伝記映画を観たことを契機に、いつか購入してそのままになっていた菊地成孔 + 大谷能生『M/D マイルス・デューイ・デイヴィスIII世研究』を読みはじめた。このところ「菊地成孔の粋な夜電波」のアーカイブを聴き続けているのだが、S4 AW(2012年)は、毎回オープニング曲にマイルスの楽曲が流れている。本書は、両氏による東大での講義録が中心になっているもので、文庫本でも上下巻でかなりの厚みがあり、二時間のドキュメンタリーには到底詰め切れないようなマイルスの生涯が辿られていく。どうやらきっかり折り返し地点に1959年の『カインド・オブ・ブルー』の話だというから驚きである。わたしが読んでいるのは、セントルイスからニューヨークに出てきたマイルス青年が、チャーリー・パーカーとよろしくやって、ビバップの魔力にやられている時代。まだまだ冒頭でしかない。取り上げられている音楽を聴きながらゆっくり読み進めていきます。

 

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 以下、今月わが本棚に迎え入れたが、積ん読になったままの書物たち。

 

 たまたま機会があって立ち寄った荻窪のブラジルに特化した店の店主が著したというWillie Whopper『Brasileiramente』のほか、「Banca」というブラジル文化に関する情報のつまった小冊子をいくつか本棚に迎え入れた。ポルトガル語の勉強を再開し、ブラジルへの想いを日に日に高めていっている。次回の海外文学読書会でベルナルド・カルヴァーリョ『九夜』を選書したのもその一環である。水声社が「ブラジル現代文学コレクション」を刊行していたことをはじめて知った。これはその最新刊。

 第二回の現代文学読書会は、乗代雄介『旅する練習』を取り上げることにした。『推し、燃ゆ』とともに芥川賞にノミネートされていた作品である。志賀直哉小僧の神様・城の崎にて』は、小津への興味の延長線上から。小津安二郎が戦地で志賀直哉『暗夜行路』を読んで感銘を受け、プライベートでも交流があったということを知り、これまで志賀直哉は一冊も読んだことがなかったのだが、まずは短編集を買ってみた。この短編集に収録されている「十一月三日午後の事」を原案とし、舞台を現代のニューヨークの日系移民に移し替えた『The Chicken』という短編映画を昨年のロカルノ映画祭のオンライン配信で鑑賞したのも背景にある。あれは閉塞する日本映画に風穴を開けるようないい作品だった。

 『宝塚というユートピア』『松竹と東宝 興行をビジネスにした男たち』という二冊の新書は、宝塚狂いの職場の同僚から誘ってもらって、二月に宝塚デビューをするかもしれなかったので、その予習として。同僚はファンクラブにも入っているらしいが、結局公演には落選してしまい当面の宝塚デビューは立ち消えになったのだが。『松竹と東宝のほうは、松竹映画の巨匠・小津安二郎を観ていっている身としてもちょっと読んでおこうかなと思っている。

 一月はそんなところか。日々、余りの寒さにうち震えながら頁を繰る生活。公園やらそんなところで読書できるぐらいまで早く暖かくならないかな。コロナ禍で静かな生活は続くが、春の到来はいつだって決まって待ち遠しいものです。

 

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