本棚(2021年3月)

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 2021年3月の本棚。『星の時』から左は積ん読です。

 

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 雪舟にご執心。きっかけは李禹煥雪舟の魅力を語るという「日曜美術館」の番組録画を見たことだった。それまで雪舟についてはほとんど教科書に載っている知識しかないに等しかったのだが、番組で紹介されていた雪舟の作品に完全に絆されてしまい、突如として水墨画にも興味が湧いたのだった。

 まずは水墨画についての入門書の類でもと思って調べたところ、めぼしいものがほとんど無くて驚いた。「日曜美術館」でもインタビューが収録されていた島尾新『水墨画入門』岩波新書, 2019)を購入。同書にも水墨画に関する入門書が刊行されたのは、1969年の矢代幸雄水墨画』以来のことだと書かれていた。それならば市井の好事家たちははじめにどのような形で水墨画についての学びを深めていったのだろうか。

 意外なことに雪舟に関するまともな書物も、わたしがざっと調べるかぎりでは、片手で数えられる程度の冊数しか刊行されていないようだった。むしろ白隠についての書物のほうが多いようである。とりあえず新しいものということで、2020年に雪舟生誕600年を記念して刊行された島尾新, 山下裕二編『雪舟決定版 生誕六〇〇年』というムックを購入。さまざまな角度から雪舟という画僧に迫っている書籍だが、あの日曜美術館を見たときに、わたしがなにかを感得し、そのまま言語化できずにいた雪舟の「凄み」に肉薄してくれる文章はなかったように思える。表面的な知識は手に入れても、わたしはまだ水墨画とはなんなのか、雪舟がいかにすごいのか、あまりよくわかっていないのだった。

 それならば本物を見なければいけないと、特に調べずに東京国立博物館京都国立博物館まで足を伸ばしたのだが、いずれもわたしが足を運んだときには雪舟の作品は展示されていなかった。無念である。事前に調べておけばよい話なのだが、京都国立博物館には特別展しかなく(なぜなのか)、東京国立博物館のめまぐるしく内容が変わる常設展示でも、雪舟の作品が出ることはさほど頻繁でないようである。東京と京都の二大国立博物館が、国宝や重要文化財に指定されているものも含めて多数蔵しているはずなのに、国民的な画家の手による作品を一点も展示していない時期がある、そんなことがあっていいのか。大英やルーヴルやエルミタージュではきっとそんなはずあるまい。それにしても雪舟の真筆による作品をまだ一点も目にできていないというのは落ち着かないものである。またの機会を気長に伺っていこうと思います。愛知の斎年寺というところにいけば《慧可断臂図》は見ることができるようだ。

 

 東京ステーションギャラリーで「没後70年 南薫造」展。南薫造という洋画家の名はこの展示ではじめて知ったのだが、これだけの力のある画家の展示が故郷の広島以外では組まれたことがないとはにわかに信じられなかった。とても気に入ったので図録を購入。1910年以後の作品群がとくに素晴らしかった。美校を卒業し渡英を経て、東京の画壇の中心で活躍しはじめてから数年が経ったあと。わたしには1916年のインドへの旅がきっかけで作風が変わったように見えた。展示されていた以後の作品では、赤の使いかたが印象的なものが多かった。キャンバスにぱあっと紅を点すということ。 

 

 鴨長明方丈記は、ぼうっと本屋を徘徊しているときに目に入り、蜂飼耳さんが現代語訳を手がけたんだと思って光文社古典新訳文庫のシリーズを購入。現代語訳も含めて、きちんと全文を読むのははじめてのことだったのだが、こんなに素晴しい書物だったのかと感動しきりだった。京都の名家に生まれ家業の神職に奉ずるも、政治に巻き込まれて失脚、擾乱の世にひとり「方丈の家」で閑居することになった男の内省のさまが綴られる随筆。世間から身を離して、山林にわけいって草庵で自然と触れながら暮らす生活が、いかに素晴しいかということを平易な言葉で語っていく。

 だが鴨長明は最後に自らに問う。そのような生活に愛着を持つことは、さらにはそれをあえて文章に認めることは、何事にも愛着を持つべからずと教える仏教修行の道に悖るのではないか? いまふうに言えば「ファッション修行」をやっているに過ぎないのではないか? わたしの心は濁りきってしまっているのではないか? ・・・「そのとき心更にこたふる事なし。只かたはらに舌根をやとひて、不請阿弥陀仏、両三遍申てやみぬ(だが、自分の心にそんなふうに問いかけても、心は何も答えなかった。ただ、舌を動かして、阿弥陀仏の名を二、三度、唱えただけだった)」。この随筆はこの一文で閉じられる。なんという結末。深い感動とともに読了したのだった。ところでほどなくして『ノマドランド』を観たのだが、あの映画は「現代版方丈記」としか思えなかった。フランシス・マクドーマンドは、現代における鴨長明である。


 京都旅行のお供にと積ん読から抜きさってきたロラン・バルト『表徴の帝国』。もう少し体系的に日本論が語られているのかと思っていたが、断片的な随筆集といった趣きで、読みものとして単純におもしろく読んだ。中心の不在、意味の欠如。ロラン・バルトがもともともっていた思想が彼のもとに徐々に日本を呼びよせていったのか、東洋との出会いそのものが彼の思想を深めていく端緒となったのか。唐突に紙面上に登場する新聞に掲載された「ロラン・バルト氏」の肖像写真ににんまりとした。「この講演者は、神戸新聞誌上に紹介され、日本の活版印刷術によって、目は左右に細長く、瞳は黒くされ、たちまち日本人化されたのを発見する」と本人がわざわざキャプションもつけている。こういったバルトのある種の無遠慮な観察を批判することも不可能ではないのだろうが、さぞかしうれしかったんだろうなあとわたしにはかわいく見えてしまう。

 

 カズオ・イシグロ『クララとお日さま』は読書会の課題本として。『忘れられた巨人』以来、六年ぶりの新作長編ということであるが、いまとなってはノーベル文学賞の作家の新作である。少し意地悪な言いかたになるが、小説としての巧さははしばしから感じた。設定もうまい、構成もうまい、描写もうまい。けれども巧さばかりが目立ってしまって、かといって感動がなかったわけでもないのだが、いまひとつという印象。しかし帯に「イシグロ。AIロボット。少女。境界を越えた心の交流。読まずにいられるわけがない」と是枝裕和の応援コメントが掲載されていたのだけど、これは絶対読んでないでしょ。いくら忙しいからといってこんな手抜きのコメントはよくないと思います。

 

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