ヴァレンチン・ヴァシャノヴィチ『リフレクション』(’21)

 五つ目のショットで現実と虚構のあいだに張られていたスクリーンが突如として破られる。車輌のフロントガラスはロシア兵の放つ銃弾によって破壊され、以後に続くいくつかのシーンでは、主人公は境界の向こう側で酸鼻たる現実の只中に勾留されてしまう。そのほとんどがワンシーン・ワンカットでつくられた本作は、およそ30からなるショットで構成される。前作の『アトランティス』(’19)と同様、すべてのショットが入念に計算されており、形式と内容とが驚くほど高いレベルで一致を見せている。

 ロシアのクリミア併合によって戦争の火蓋が切られた初年のこと。ウクライナの外科医である主人公は、娘のひと言をきっかけに前線に赴くものの、冒頭に述べたシーンでロシア側につかまり捕虜となる。ロシア兵には外科医であることでいくらか優遇されるが、旧知の友人アンドリの拷問に立ち会うことを余儀なくされ、拷問で瀕死の状態にあった彼を、みずから手を下すことで息の根を止める。火葬されるはずだった彼の遺体は、ロシア兵とウクライナへと運ぶ取引を秘密裡におこなう(それがあの極限状態にあった彼にとってのせめてもの友人への弔いなのだ)。本人は捕虜交換により家族の待つキーウへの帰還を遂げるが、アンドリを父のように慕う娘や妻には、その死を告げられず、深い懊悩のうちに投げ込まれる。

 わたしはこの “Reflection” という多義的なコノテーションをもつ題がどのような形で昇華されるのかと考えていたが、それは意外なかたちで果たされる。高層階にある自宅の部屋の窓に衝突して絶命してしまった鳩。鳩の死を嘆く娘に、主人公は「窓に反射する空に向かっていったのだ」と語る。この科白を聞き、わたしはなるほど、と虚をつかれてしまった。それまでわたしは境界の手前のことしか考えておらず、向こう側からの手前の世界がどう見えるかということに想像が及んでいなかった。本作はロシアによる戦争をウクライナ側の視点からしずかに糾弾するものであることにちがいないが、それでもロシア側からの視点を完全に捨象することはない。車が買えたらいいなあというロシア兵のささやかな呟きにもまた耳を傾けるのである。

 すべてが友と敵の二分法に回収されてしまう戦争の渦中にあって、これはすぐれた知性がなしうる最良の功績のひとつではないか。戦後でさえもそのような知性の発露が困難なことは日本の例を引くまでもないが、まさに戦争状態のうちにあり、さらにはこの戦争にあっては被侵略側であるウクライナ国家でこのような作品がつくられたという事実に、わたしは大きな感慨を憶えてしまう。火葬と土葬、身体と魂をめぐる慎ましやかな対話も、死後の生についての娘の心境の変化も、この作品の主題とすぐれて呼応している。このような傑作が、近親者の足音を聞き分ける「訓練」のシーンで終わったことについて、わたしはもう少し考えを進めなければならないと思う。