日誌 | 20230105 - 0113

1 月 5 日 木曜日

 朝方にシャルル・ド・ゴール空港に着いて、 B 番線でパリ市内へと向かう。ちょうど通勤ラッシュの時間帯で、仕事に向かう人たちが続々と乗り込んできた。腹ごしらえをしてからマルセル・プルースト小径のベンチに深く腰掛けて、久し振りにマック・ミラー『Circles』を聴く。わたしはいまいちど観光客になったような気分に陥る。あまりに鮮烈なニューヨークの記憶に満たされていたためか、それとも年末年始を一緒に過ごした愉快な友人たちから離れてひとりになったためか、パリがどうしようもなく退屈な街に思えてくる。ここはニューヨークに比べてどこかのっぺりしていて、生活の迫力がない。つまるところわたしは寂しかったのだ。マック・ミラーは"Good news, good news, good news / That's all they wanna hear / No, they don't like it when I'm down" と歌っていた。

 7区の新しいアパルトマンに入居する。入居に立ち会ってくれた香港出身の大家の女性はやさしくて、生活に必要なありとあらゆるものをすでに用意してくれていた。彼女はかつてニューヨークで日本企業に勤めていて、そのとき日本語を習得したと流暢な日本語で話す。わたしがニューヨークから帰ってきたばかりだというと、若いときにあの街で暮らすのはすごくいいけれど、根っこが舗道を壊さないように街路樹は金属で押さえつけられていて、街中に土を踏める場所がほとんどなく、10年も住んだら息苦しくて参ってしまったといった。わたしの入居した建物は1880年エッフェル塔建設の労働者のために建てられたものだという。地上階はすべてリノベーションが施されているが、案内してくれた地下室に当時の面影がそのまま残っていた。わたしはこれからこの築140年の建物に暮らすことになる。

 シネマテーク・フランセーズのセンベーヌ・ウスマンの生誕100周年を記念するレトロスペクティヴへ向かう。初日は『BOROM SARRET』と『LA NOIRE DE…』の初期作品の二本立て。上映前にウスマンの息子が登壇して、父の仕事のなかでも『BOROM SARRET』は最高傑作だと思うと話した。父ははじめから自分の進むべき方向をわかっていたのです、と。家に帰ってから、YouTubeにアップロードされている「終わりの季節」を片端から聴いた。それで救われる気持。

 

1 月 6 日 金曜日

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 家の向かいの建物の屋上には、いろいろな大きさの換気杭がにょきにょきと生えて並んでいる。モランディの絵画を連想する。わたしは窓際に白いキャンバスを置いて油彩画に挑戦してみるのも悪くないなと考えた。絵画教室に通ったらいくらぐらいかかるのだろう。

 夜にパリに立ち寄った H さんと食事。有名店から若いシェフが独立して開いたばかりだという6区の「PRÈS DE SEINE(セーヌのそば)」という小さな店に行く。H さんは美術に造詣が深く、半年おきに日本からパリに立ち寄って美術展を廻っている。彼女はこのところSwitchの『ゼルダの伝説』に熱を上げているらしく、先日はじめて訪れたルクセンブルグの城塞都市を前に、思わず「まるでゼルダのようだ」と感動してしまったと語った。同作のパッケージがフリードリヒの《雲海の上の旅人》をそのまま引用していることは何度も指摘されているが、RPGゲームの想像力の源泉にロマン主義絵画が果たした役割は大きい。H さんは『ゼルダの伝説』のプレイを通じて、ロマン主義絵画の世界観への理解が深まったといった。二十一世紀のわたしたちがオリジナルに接近するためには、シミュラークルを通過するほかないのだろうか。彼女は美術を見はじめて20年近くになるが、いまだにピサロシスレーの見分けがつかないことがあるといった。確かによく似ているが、わたしはシスレーのほうが基調となっているトーンがやや暗く、より静かな絵画を描いているのではないかと答えた。実際のところはわからない。何年か前に彼女と会ったとき、ルノワールの絵画の人物には死疸が出ているという当時の評を聞いたのだが、わたしのルノワール観はこの話に大きく影響を受けている。

 

1 月 7 日 土曜日

 向かいの花屋の店頭に並んでいた黄色いミモザを買った。ミモザは春の花だと思っていたのだが、どうやらフランスでは冬の花で、ちょうど出荷されはじめたところらしい。往来でもわたしが買ったのと同じ黄色い花束を抱えた人たちと頻繁にすれちがった。

 午後にシネマテークに出かけ、ようやくシネマテークの会員カードを手に入れる。月々10ユーロで見放題で、UGCのカードとあわせて、パリで映画を観る体勢がようやく整ったわけである。この日もセンベーヌ・ウスマンの『Ceddo』『Mandabi』『Emitaï』の3本を続けて観た。四方田犬彦が書いていたように、センベーヌはアフリカにあってわたしに無関係な問題はないと言わんばかりである。セネガル大島渚

 

1 月 8 日 日曜日

 シネマテークの大ホールではフリッツ・ラングの特集も開催されていて、当然センベーヌよりも多くの人が詰めかけていた。入口でラングを見にいくという知り合いに遭遇して、わたしはこれからセンベーヌだというと、へえ、と微妙な顔をされる。『ハラ Xala』を観る。はじめて観たこの作品にいたく感動を憶えた。センベーヌのフィルモグラフィでいちばんの傑作ではないか。

 とある原稿の執筆を進めながらパスタを茹でた。あまり眠れなくて、だれもいないクレ通りを見下ろしながら煙草を吸って、布団を被り、枕元に置いた iPhone からいちばん小さな音でレイ・ハラカミの[lust]を流した。

 

1 月 10 日 火曜日

 職場の警備員と話す。彼はしきりにわたしの健康に気を遣ってくれていた。もしきみが金持ちでも、権力者でも、健康でなければ何にもならない。なによりも健康がいちばんだ。わたしは本当にそうだとうなずくばかりだった。

 

1 月 11 日 水曜日

 パリはひとたび日が差せば、たちまち美しい街に変貌する。昼休みは近くの水曜マルシェに足を運んで、魚屋の捨てたごみに大量に群がるカモメを見ていた。とある資料に bestiaire と綴るべきところを vestiaire と誤って書いていて、その間違いに気づいた同僚が笑いながら指摘してくれた。前者は動物で、後者はクロークの意味。日本語ではまったく異なる二つの言葉だが、フランス語では隣あわせの単語だ(フランス語の b と v の聞き分けはむずかしい)。言語ごとに単語が織りなす地図世界はまったく異なる。多和田葉子の問題圏。

 今日も今日とてシネマテークのセンベーヌ特集。仕事を少し早く抜けて、『Faat Kine』『Guelwaar』の二作品を続けて観る。家に帰って食事をとってから、ここ数日間ずっとかかずらっていた原稿をようやく書き上げた。

 

1 月 12 日 木曜日

 学生時代にポーランド語を専攻してクラクフに留学していたという同僚と、にぎわっていたイタリア料理屋で食事。クラクフという文化都市のことはずっと気になり続けている。ポーランドはここ数十年にわたって労働人口の国外流出が深刻になっていて、何年か前に滞在したロンドンではたくさんの若いポーランド人と会った。だれもがあの国で仕事を見つけるのはむずかしいと渋い顔をして話していた。そういえばパリではあまりポーランド系を見かけないなと思う。

 シネマテークフリッツ・ラング『月世界の女』(’29)を観る。Nova Materia という電子音楽のデュオの生演奏付きで、いちばん大きいラングロアのホールが満席だった。1969年にニーム・アームストロングがはじめて月の大地に一歩を踏み出したずっと前から、人類は空想の世界で幾度となく月面旅行を果たしていたのだ。この作品が撮られたのも、その40年前のことだ。当時の観客はどんなふうにスクリーンを見つめたのだろう。

Fritz Lang, Frau im Mond, 1929

1 月 13 日 金曜日

 職場の同僚の黒人連中にさそわれて、彼らが最近見つけて気に入ったというカメルーン料理屋の弁当を一緒に注文した。玉ねぎとハーブとスパイスで川魚をまるまる焼いたものとバナナの揚げ物がアルミホイルに包まれて届けられる。ブルキナファソではあまり縁のなかった熱帯の料理だ。味が濃くておいしい。

 夜に Saint-Michel の店にいって、数年ぶりにモロッコ出身のメディと会う。エクス=アン=プロヴァンスの留学時代からの仲だから、もう十年来の友人になる。お互い歳を取ったねと笑って、青春(jeunesse)の終わりについて長く話した。出会ったころにはミケランジェロ・アントニオーニについての論文を書いていたメディは、数年前にムスリムに帰依して煙草も酒も辞め、最近は映画業界から離れて、IT系の企業でSEとして働きはじめたそうだ。おれはいずれ家族が欲しいと思っていて、そのためには安定した収入は欠かせない。いずれ映画に戻れたらと思うけど、いまの自分の状況には不満はまったくない、好きなことをできるだけの金があることは素晴しいことだと、落ち着いた声で話した。数年前にメディと再会を果たしたのもこの店で、あのとき彼はレシートの裏にアラビア語コーランの一節を書いて、そのまま朗読してくれた。わたしはあのときの美しさをよく憶えている。イスラム教徒のメディは、わたしの最近の仏教への接近について真剣な顔つきで耳を傾けていた。