日誌 | 20230114 - 0116

1 月 14 日 土曜日

 浴槽に浸かってから眠りにつくと目醒めの良さがまったく違う。地下鉄に乗って Itzy のプロデューサーのソロプロジェクトである 250『PRONG』(’22)を聴く。ポンチャックという韓国歌謡を現代ふうに再解釈したダンス・ミュージックで、一曲目からたちまち魅了される。これは新しい音楽だ。このアルバムを勧めてくれた友人は、キッチュなダサさの手前でギリギリ踏みとどまっているスリルがあると表現していた。

 今日も一日センベーヌの特集でシネマテークに缶詰。『母たちの村(Moolaadé)』『Niaye』『Borom Sarret』フランス語公開版の三本を続けて観る。何年か前につくったアフリカ映画カタログに寄稿をお願いしたカトリーヌ・リュエルという批評家が会場にいると気づき、終映後に挨拶にいった。たまたま持っていたカタログを手渡すと、彼女はたいそう喜んで、そのまま打ち上げに混ぜてもらうことになった。

 打ち上げでは上映時にも登壇していたフェリッド・ブーゲディールというチュニジアの映画監督を中心に、さまざまな議論が交わされる。センベーヌの姓名表記順についての問題。『Borrom Sarret』ウォロフ語とフランス語の2バージョンの存在をめぐる経緯。いちばん印象に深かったのは、フェリッドがチュニジアユダヤ人学校に通っていたときのエピソードだった。彼のフランス語の先生は本国から赴任していた厳格なクリスチャンだった。あるとき授業でボードレールの詩をひとりずつ朗読することになり、フェリッド少年はふざけてチュニジアユダヤ人訛りのフランス語で暗誦したところ、教室では大爆笑の渦が巻き起こったが、先生からは烈火のごとく叱られたという。いまも自分はちゃんとあの詩を憶えているだろうかといって、わたしたちに「チュニジアユダヤ人訛り」のフランス語でボードレールの詩の朗誦を披露してくれた。"Sois sage, ô ma douleur..." とはじまる詩句。わたしは何の詩なのかさえわからなかったが、周囲の人たちは「完璧だ、ひとつも間違いはなかったよ」と楽しげな様子。みな一言一句憶えているということか――わたしはこれがパリのインテリゲンチャかと圧倒されてしまった。家に帰ってから調べると、あの場で朗読されていたのは”Recueillement”という詩だとわかった。日本語では「沈思」という訳題で知られているようだ。

 

1 月 15 日 日曜日

 プチ・パレに行く。まずはパリ市営美術館の企画展が一年間見放題になる会員カードを手に入れた。49ユーロ。ルーヴル、オルセー、ポンピドゥーなどはパリ市の直営ではないので対象外だけれど、こういう制度は本当にありがたい。チケットカウンターで対応してくれた若い女の子はデスクに日本のロンリー・プラネットを置いていて、日本に旅行にいくのかと尋ねてみると、来月はじめていくんだと満面の笑みを見せた。プチ・パレの常設展では、ピサロの絵かと思って近づいてキャプションを見るとシスレーと書かれていた。ほんの数日前にえらそうなことをいったけれど、わたしもまだぜんぜん見分けがついていなかった。

Alfred Sisley, L’église de Moret (le soir) , 1894 / 初見はピサロにしか見えなかった

 ウォルター・シッカートの企画展に足を運ぶ。19世紀後半から20世紀前半にかけて英国のビクトリア朝時代の画家で、展示ではキャリア初期から後期までの作品を時系列で並べていた。同じことの繰り返しに飽きてしまうタイプの画家だったのだろう。世界大戦を経て、より政治性を帯びはじめた終盤の仕事は20世紀美術における画家の立ち位置を少し曇らせているように感じた。わたしはホイッスラーやドガに師事し、フランスの印象派に出会って、色彩を鮮やかにしていく初期の作品群が気に入った。展示室には、自分で椅子をもってきて、ひとつひとつの作品に付されたキャプションのテキストをノートに書き写しているお婆さんがいた。彼女はあのノートを家で読み返したりするのだろうか。

 画家の代表作として知られる《Ennui》について、ヴァージニア・ウルフが書いた言葉が紹介されていた。「この状況が恐ろしいのは〈危機〉がないということだ。汚れたグラスや葉巻の吸殻とともに古いマッチが積み重ねられていく、そんなふうに陰鬱な時間が過ぎ去っていくばかりなのである」。キャンバスに切り取られた瞬間だけでなく、その前後の代り映えのしないうつうつとした時間の流れを想像させる作品。

Walter Richard Sickert, Ennui, 1914.

 シネマテーク・フランセーズのセンベーヌ・ウスマン特集は、この日の『Camp de Thiraoye』('88)で閉幕。すべて一回ずつしか上映が組まれなかったが、スケジュールの合間を縫いながら、無事に完走することができた。あえて遺作の『母たちの村』でなく、ティアロエ虐殺を描いた作品をもってこの特集が閉じられることにプログラマーの思いを感じる。照明のついた満員の客席はずっしりと重苦しい雰囲気が流れていた。第二次世界大戦フランス軍に招集されたセネガル兵たちは、任地からの帰還の旅路で滞在していたセネガルのティアロエで、フランス軍に対して正当な賃金支払いの訴えを起こす。だがフランス軍はその訴えを拒み、あろうことか機関銃でセネガル兵たちを一斉に射殺し、そのまま死体を埋めて隠ぺいを試みてきた。センベーヌは1988 年の『Camp de Thiraoye』でこの一部始終を再演したのだった。大戦に参加したセネガル兵士たちのことは "Tirailleur(狙撃兵)"と呼ばれ、この呼称をタイトルにしたオマール・シー主演の戦争映画がいまフランスでも公開されている。

Sembène Ousmane, Camp de Thiraoye, 1988.

 シネマテークの前で沈鬱な面持ちで喫煙していると、ドキュメンタリー作家を名乗る若者から話しかけられて、連絡先を交換。きみはコレエダは知っているか。ぼくは『誰も知らない』が大好きなのだが、彼がフィクションを撮る前にドキュメンタリーを撮っていたと知って、どうにかして観る方法はないかと探しているんだ。自転車に乗って別れたあと、わたしと一緒に映画を観にきた F さんは、あんなふうに新しい知り合いができるなんて、ぼくも煙草を吸うべきかもしれないですねと言った。

 F さんと13区のイタリア広場のあたりに移動して、パリジャンたちでにぎわうベトナム料理屋でフォーを食べた。F さんは長きにわたった学生生活を終えて、4月から日本の大学で教鞭を取る。まもなく教員として学生たちの疑問に答えられるようにしていかなければいけないと思い、日々ひとり頭のなかで学生との想定問答を繰り返すようなったという。たとえばどうしてフランスでは紐につながずに散歩に出ている犬が多いんだろう、なんて些細なことまでね。その話を聞いてわたしは教育者というものは、その立場が育てていくものなのだと思った。

 

1 月 16 日 月曜日

 昨年の夏から参加していた某連続講義の最終発表会に参加する。わたしひとりだけ外国から Zoom 参加となって恥ずかしかった。

 先月パリやニューヨークで撮影していたフッテージを編集して、映像日誌を投稿した。編集しているあいだ、新居のオーブンで焼いた鶏肉を頬張ると、MacBookに油が飛び散り大惨事になってしまった。鶏肉はおいしかった。

 

immoue.hatenablog.com