日誌 | 20230117 - 0120

1 月 17 日 火曜日

 パリに拠点を置く諸外国の文化機関連盟の総会に出席する。この日の会場は在仏カナダ大使館。はじめの主宰者挨拶で文化機関としてウクライナへの連帯を表明することの必要性があらためて強調された。とても風通しのよい会合で、わたしはここはある種の世界の良心の顕れなのだというあいまいな印象をもった。イスラエル大使館のスタッフから声を掛けられ、フランスで柔道を広めたユダヤ人の話を聞く。試しにエリア・スレイマンの名前を出してみると、ああエリア・スレイマンね、と微妙な反応が返ってくる。

 11区の Café de la Danse で開催された Mermonte のライブに行く。このグループは九年前のフランス留学時代にたまたまラジオで聞いて以来追いかけているのだが、ようやくライブを見ることができた。観客は30代や40代のこじゃれた男性が多い。前座として出演していた Elliott Armen というソング・ライターが、MC で「WWOOF」という単語を発するのを聞いて、わたしはうろたえるほど驚いた。この数日のわたしにとって一番のホットイシューだったからだ。

Mermonte, Café de la Danse

 ライブに同行した同僚と一緒にバスティーユのあたりを彷徨って、なんとなくコンテンポラリーな雰囲気の中華料理屋に入った。わたしたちの隣に座っていた男の子が日本語で話しかけてくる。大友克洋を知ってますか。ぼくはありとあらゆる作品のうちで、大友克洋の『MEMORIES』がいちばん好きなんです。そのあと最近のフランス人は「Bon apétit(ボナペティ)」とは言わない、あえて食欲(apétit)が必要なほどマズそうな料理が供されていると解釈されるのでむしろ失礼に当たる可能性があると教えられた。「Bonne dégustation(よい消化を)」を使うほうが望ましいというが、「ボナペティ」が失礼に当たるというのははたして本当だろうか。普通によく聞くんだけどなあ。

 

1 月 18 日 水曜日

 快晴。イラン料理屋に足を運んで、店主に新年の挨拶をする。赤いインゲン豆や牛肉や玉ねぎを煮込んだソースとサフランライスをいただく。サフランのお茶をサービスしてもらい、またもや店主としばし話し込んだ。最近のイラン国内の政情不安について尋ねる。イランの命運が決まるまで、あと3か月から半年はただただ静かに待つことだ。それまではいかなるイランの政治的意見に賛成も反対も表明してはならない。きみも政治家のように狡猾でいなければならないんだ。わたしたちはいつになったら一抹の不安もなく自由にイランを旅することができるのだろう。

 それでも美味しいランチを取って上機嫌で職場へと戻る帰りの道すがら、破られた本のページが路面に落ちているのを発見する。覗き込んでみると「SOUFFRANCE ET MORT(苦悩と死)」というタイトルが目に飛び込み、わたしは一気に震えあがった。なんと不吉な徴。職場に戻ってから調べてみるとジャック・イゾルニという人物が1951年に著した『ペタン元帥の苦悩と死』という書物の一部だとわかる。ジャック・イゾルニは第二次世界大戦後のエピュラシオンの折に、ペタン元帥の弁護士を務めた人物だという。多数の著作があるようだが、日本では『ペタンはフランスを救ったのである』という訳本が一冊出ているだけだった。このあいだシネマテークで観たばかりのセンベーヌ・ウスマンの『Emitai』で、ペタン元帥からドゴール元帥へと政権が移行し、掲げられていた肖像画が挿げ替えられるときのセネガル兵たちの無関心を思いだす。フランスのいちばん偉い人間が変わったところで、いったいおれたちの生活の何が変わるっていうんだ?

 冷蔵庫を開けると酸っぱい臭いが立ち篭めている。鶏肉が腐りはじめていた。消費期限が明後日までだったので油断していたが、一度開封したため傷みはじめていたらしい。オーブンでこんがり焼けばなんとか食べられるだろうかと思ったが、焼いても口にしてみると腐った味がする。それでも自分の胃腸を信じて食べてみようと大丈夫そうな箇所を切り取って食べてみたが、やはりお腹が痛くなってきたような気がして泣く泣く捨てる羽目になった。奈良に移住した知人に向けた手紙を書く。

 

1 月 19 日 木曜日

 フランス全土で年金受給年齢引き上げに反対する大規模ストライキが起き、パリ市内ではほとんどの地下鉄が止まっていた。街中も職場も異様なまでに静かだ。数万人にも及ぶというデモの隊列がパリの街中を進行しているさまをニュースは報じている。まさにそのデモに参加している友人から、きみはデモには来ないのか、デモに参加せずしてフランス文化をわかったとは言わせないよというメッセージが飛んできた。

 パリに住んでいるマガリと連絡を取る。彼女とは2019年の山形国際ドキュメンタリー映画祭で会った。ヤマガタには彼女が共同監督したジャン・ルーシュについてのドキュメンタリーが選ばれていたのだが、そのあと偶然が重なって、当時代田橋のわが家にも一か月ほど居候していたのだった。マガリからはここにいるから来てと、わたしの職場から正反対にある 20 区の Belleville の住所が送られてきた。ストライキで公共交通機関は麻痺している。わたしはこんなときにどうしてわざわざこんな遠いところに呼び出されるのかと辟易しながら、徒歩と地下鉄とレンタル自転車を駆使して、一時間半ほどかけて目的地に向かった。メニルモンタンの駅から東に登っていく丘の上のほうにある Librairie Lieu-Dit という名前の店だった。

Lieu-Dit の壁に掲げられていた風刺漫画

 三年ぶりの再会するマガリとは軽く一杯を飲んで、近況などをしっぽりと報告するだけのつもりだった。ところが彼女は 20 人くらいに取り囲まれて、こっちこっちとわたしを手招きしている。これはパリを拠点に活動する極左社会運動家たちの集まりだよ、とあっけらかんとした口調で語った。日本からのスペシャルゲストが来ましたと、いきなりほかの参加者たちの前で自己紹介をする羽目になり、わたしはたじたじだった。

 マガリは2020年から、コロナ禍で公的支援の手が行き届かない困窮世帯のシングル・マザーを支援する NGO を立ち上げ、郊外のサン・ドゥニ市に、彼女たちのためにシェルターを開いていた。しかし最近になって市役所から不法占拠だと訴えられてしまったらしい。市からは 2 件の訴状が届き、逆にNGOは 3 件訴え返して、合計で 5 件の訴訟が進行中だという。一緒にその話を聞いていた男性は、ぼくはいま 3 件の訴訟を抱えているから、あと3 件誰かに訴えてもらわなきゃなと冗談を飛ばしていた。いったいなんという世界なのだ。この集まりに出席していた人たちはみなエリート中のエリートばかりで、社会運動のコレクティヴを組織する団体や移民の犯罪者の社会復帰支援を行う団体の代表たちが熱心に議論していた。わたしも何人かに日本の政治状況についての説明をしたり、彼らの話をいろいろと聞いた。まだ大学生だという若い活動家の女の子は、リベラルな左翼家庭に育ったが、かつて曾祖父が植民地官僚の要職に就いていたらしく、そのことが一家の恥辱として奇妙なねじれを生んでいると語った。わたしのような代々パリに暮らすブルジョワジー――わたしもブルジョワーズだと認めざるを得ないんだけど――は、結構おなじような歴史をもっている家庭は多いと思う。これはフランスという国家が抱えている近代史上の問題と一緒だね。

 マガリに映画はもうやってないのかと聞くと、もういまは全然! と朗らかな口調で答えた。でもね、このあいだパリに富田克也が来たとき、彼がドニ・ラヴァンに会いたいといったから、わたしは知り合い中にあたってドニの電話番号を入手して、いきなり電話を掛けてみたの。「わたしの友だちの日本人の映画監督があなたに会いたいと言っているんだけど、一緒に飲みませんか?」。それでドニとカツヤと三人で飲むことになって、カツヤは英語もフランス語もできなかったけど、ほんとにありえないくらい仲良くなって、最高の夜だったんだ。また今度ドニと遊ぶときは呼んであげるね。なんだかとても奇妙な夜だったなと思い返しながら、レンタル自転車を小一時間漕いで家に帰った。Belleville は活気があって、わたしの住む静かで清廉な 7 区とは大違いだ。冬の真夜中に汗をかきながらセーヌ川に沿って東から西へとパリ市を横断した。

 

1 月 20 日 金曜日

 朝から外部の撮影クルーと一緒に仕事。彼らはフランスを拠点にフリーランスとして日本のテレビ番組制作を請け負っていて、一年の半分は家に帰らずにヨーロッパのあちこちを飛び回り続けているのだという。ディレクターは取材する町にひとりで一か月くらい前乗りして、現地で実際に生活を送りながら番組のネタを集めながら構成をつくっていくのだといっていた。まさに理想的な暮らしではないか。そのディレクターから「サルミアッキ」と呼ばれるフィンランドの真っ黒なグミをもらった。はじめはまずいかもしれないけど、だんだん癖になってきますよ。ぼくはフィンランドに行くたびに買っていつもポケットに忍ばせてるんです。禁煙にもちょっと役立つし。わたしは恐る恐る嚙んでみると、まるでタイヤを食べているような奇妙な味がした。薬草酒のような味がするというと、その味は原料のリコリスから来ているのだという。

 アフリカ映画のシネクラブに足を運ぶ。センベーヌの特集上映のときに知り合った若いセネガル人のグループが主宰していたシネクラブだった。会場は 6 区オデオンのChristine Cinéma Club という映画館。左岸のシネクラブなんて、まるでヌーヴェル・ヴァーグの黎明期ではないかとうきうきしながら向かった。

 この日に上映されていたのは1977年にコートジボワールで撮られたデジレ・エカレ監督の『Visages de femmes(女たちの顔)』だった。わたし自身どこかで観れる機会はないかと願い続けてきた作品。本作はいろいろな経緯があって日の目を浴びたのは撮影から8年後の1985年である。そのあまりの長さに会場で失笑が起きていた河で戯れる若い男女のセックスシーンでは、女の子のほうが男の子をリードしている。いまよりもずっと父権性が強かったはずの半世紀前のアフリカにあって、これは驚くべき大胆な表現である。1970年代におけるコートジボワールの文化シーンはまったくもって自由な雰囲気を湛えていたことがディスカッションでも言及されていた。

映画館にあった『Visages de femmes』ポスター

 会場の外に出ると、マティ・ディオップがいた。わたしは彼女からジブリル・ジオップ・マンベティ『ハイエナ』に出演している日本人は彼女の親戚で、いまでは二人の子どもがいると聞く。そのあと主宰者も交えて流れ着いたブラッスリーで、『Visages de femmes』の先駆性について昂奮ぎみに話した。デジレ・エカレ監督は、1985年に発表されたこの作品を最後に2009年に没した。いったい死に至るまでの30年余りの沈黙は何を意味しているのか。そのあいだどのような思いで、何をして過ごしていたのだろうか。わたしたちがそういう話をしていると、それまで少しのあいだ黙っていたマティ・ディオップがわたしは〈作品の孤独〉について考えていると口を開いた。もちろんアーティストが辿った孤独も想像に絶するものがある。しかし作品それ自体も、この数十年の孤独に耐えながら誰かに見つけてもらえる日を、本当の意味で作品がもつメッセージが届く相手と出合う日をずっと待ち続けていたのではないか、そしてその日は今日だったかもしれないんだ、と静かに語った。こういう想像力の働きは、まさにわたしが『アトランティック』で感動を憶えたところだと思った。

 向かいに座っていた快活な建築家の女の子と喋る。彼女は日本の木造建築に関心を寄せていて、YouTubeで片っ端から日本の建築物を勉強しているといった。突然に彼女が、この人知ってる? わたしの叔父さんなんだけど日本のテレビに出ているらしくて、とスマホで写真を見せてきた。ゾマホンだった。わたしは驚きのあまり笑ってしまった。しかしわたしの向かいの席に座る二人は、片方はジブリル・マンベティ・ディオップの姪っ子で、もう片方はゾマホンの姪っ子なのだ。この状況を一緒に面白がれる日本人がここにいなかったのが残念だ。しかしこの状況はいったい何を示しているのか? 世界は狭いというひと言で片づけるべきか、いくらか自分も大きくなったと言えるのか?