日誌 | 20230415 - 0418

4 月 15 日 土曜日

 カレーにいんげん豆は相性が悪いと学んだ。チーズ屋とパン屋に仕入れにいったら、どちらの店でも目の前に並んでいた客が、わたしが頼もうとしていた組合せどおりに頼んでいて、いくらかバツの悪い思いをしながら全く同じ注文をする。まるで観光客みたいだ。この土地で暮らし始めてから四ヶ月経つが、まだどこか観光客だという気分が抜けない。いつになったら自分の街だという感覚になるのだろう。果たしてそんな日は来るのかどうかもよくわからない。

 シャイヨー国立舞踊劇場までぜえぜえと自転車を漕いで、二夜連続で麿赤兒とフランソワ・シェニョーの『ゴールドシャワー』を観劇。八十歳の暗黒舞踏家と四十歳のコンテンポラリー・ダンサーの身体のうちで、あらゆる二項対立が融解している。千秋楽を無事に終えた二人のカーテンコールに拍手を送りながら、理想郷とはわたしたちを分け隔てる境界線のない世界のことであって、その景色はこんなにも美しいのかと感動を憶えていた(カーテンコールでニーノ・ロータの『8 1/2』を流すのは反則だ)。

 しかしフランソワ・シェニョーには魅惑させられっぱなし。今日も深緑の三角帽子を被り愛犬を抱えてブラッスリーに現れたフランソワから、数年に及ぶ麿赤兒との協働についていろいろと聞いた。わたしの質問にたいして「最初にマロの身体に触れたとき」と答えはじめていたのが印象に深かった。ダンサーにとって、触覚こそが何ごとにも先立つのだと言わんばかりだ。

 

4 月 16 日 日曜日

 毎週のこととは言え、この日のブニュエルのシネクラブに集っていたのは品のいい高齢の紳士淑女ばかりだった。上映作品は『銀河』(1969)。この人たちはみな無神論者なのだろうか、こんな涜神的なフィルムを見ても大丈夫なのだろうかと、余計な心配をしてしまう。はるばると南仏からサンティアゴ・デ・コンポステーラまでの巡礼の旅に出た二人が、あと一歩で聖地に踏み入れようというとき、デルフィーヌ・セイリグ扮する妖艶な娼婦の誘惑に負けてへいこらと踵を返してしまう話。ある意味『ビリディアナ』とまったく同じ結末を辿るとも言える。

 まだコートは手放せないが、それでもこの日の陽気はとても心地がよかった。十九世紀の歴史家から取った名前の通りを歩いていると、よく晴れた日曜日らしい光景につぎつぎと出くわす。道端にキャンバスを置いて油彩で肖像画を描いている老人。両親に見守られながら馬の形をした自転車に乗ってはしゃぐ少年。水路の両脇にずらっと並んで腰かけている人たちはめいめいが談笑に耽っていた。これから本当にいい季節が来るのだと、このところ塞ぎ込みがちだった気分もいくらか明るくなる。

 松井宏さんと待ち合わせて、Colonel Fabian 広場そばの Gunbo Yaya というアメリカ料理屋で昼食。周囲を見渡すと、どの皿もくすんだ黄色の食べものが乗っている。スパイスで味付けされたチキンを挟んだワッフルに、わたしも恐る恐るメイプルシロップをかけて頬張った。辛さと甘さがまじわらずに拮抗している。はじめての味覚におどろきながら、これは案外いけますね、としゃべった。

 解散してからひとりでパリ市営の現代美術館に向かい、閉館までの三十分ほどの時間をマティスの部屋で過ごす。1930年代初頭に制作された三点の《ダンス》。はじめの一点は、バーンズ博士の求めに応じてつくられ、フィラデルフィアのバーンズ財団の美術館の壁画として飾られているというが、残る二点はこのパリの美術館が所蔵している。わたしは部屋の入り口に途中でキャンバスの寸法を誤っていたため未完成のまま放棄されたほうの《ダンス》に強く惹かれた。鉛筆の跡も残ったままで、ほとんど淡い青色と灰色の二系統の色で構成されているが、ダンスの運動性がきわだった傑作だと思う。むしろ塗り残しの白色が広がるからこそ、ダンスを踊る人たちの運動の一瞬を切り取っているという印象をよりつよく与えているのかもしれない。見る者の側に視線の運動性を生み出すセザンヌとちがって、マティスの絵画はキャンバスから躍動感が溢れ出ている。わたしに退館をうながした美術館のスタッフと少し話して、オランジュリーでいまマティスの展示が組まれていると教えられた。すっかり忘れていた。

 近所のカフェに入って、ガリマール社から出されているジャン・ジオノ『木を植えた男』を読む。南仏の人里離れた荒廃した高地で暮らす、妻と息子に先立たれた孤独な老人が、来る日も来る日もどんぐりを植えつづけ、十数年のときを経て、やがて辺り一帯が森となる。わたしはこの三十頁余りの掌編に慰みを憶えて、二度、三度と繰り返し読んだ。

 

4 月 17 日 月曜日

 二人でトイレの扉を押さえながら、暗がりのなかの麿赤兒の立ち小便を見守った。わたしたちはこれこそまさに「ゴールドシャワー」だときゃあきゃあ盛りあがっていると、麿赤兒は「立ち小便する男の後ろ姿ほど情けないものはない」と恥ずかしそうにいった。彼らは明日からブルターニュに旅行に出かけるのだという。

 Reflet Médicis で川島雄三『女は二度生まれる』。最終回となった上映後の討論で、たとえば50年代に撮られた成瀬巳喜男の『流れる』の芸者には救いがあったが、この映画の若尾文子はまったく成長をしていないように見えてがっかりしたという観客からのコメントにたいして、クレモン・ロジェはだからこそこの映画はおもしろいのだ、最後に上高地の駅でひとり佇む若尾文子の佇まいこそが、川島雄三のモデルニテではないかと答えていた。

 いつものとおり映画館の向かいの店に流れこむ。今夜もカウンターに腰掛けて読書に耽っている青年がいた。ちらりと書物に目をやるとヘブライ語が書かれている。わたしはなんという作家の本かと聞いてみると、彼は面倒くさそうに「チェルニホフスキー」とひとことだけ呟いて、ふたたび読書を再開した。

 別のテーブルにいた知人がお代を払わずに帰ってしまったと、わたしたちのもとに店員がやってくる。代わりに支払いを済ませると、サービスでウィスキーのショットを三杯供してくれる。わたしたちは最後にくいっとショットを飲み干して、しずしずと帰路に着いた。

 

4 月 18 日 火曜日

 フランスの柔道育ての父と称される粟津正蔵をめぐる講演会に立ち会う。フランスで生まれ育った息子が登壇して、わたしは柔道の専門家ではないので、父についての個人的な思いでを語りますと断ったあとで、数十分にわたって個人的な家族の写真をスライドショーで紹介しつづけていた。父の正蔵は1950年にフランスにわたった。最愛の妻とあいだにわたしや弟が生まれ、やがてわたしたちにもこの国で家族ができて、さらに子どもたちもまた親となった。ありふれた一族の話で、わたしたち聴衆にとっては、ほとんどどうでもよいような話だった。けれどもその凡庸さが、なんとも言いがたい感動をもよおすのだった。この日はまさに粟津正蔵の生誕100年に当たる日だった。正蔵も浮かばれていることだろう。