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2016年、美術鑑賞の記録

 テレビで日曜美術館の「ゆく美くる美」の特集を録画しておいたものを観た。せっかくなのでわたしも、2016年に足を運んだ展覧会のことを振り返っておこうと思う。美術に触れるという意味では、さほど充実していたとは言えなかった一年だったが、新たな一年への決意をするためにもきちんと書き記して消化しておく。

 

 その前にしばし立ち止まって、このあいだ美術史を専攻していたという知人と話をしていたときに、印象に残ったことを記しておきたい。彼女は、美術史の研究者から「一年につき東京で開催されている50ほどの企画展に足を運ぶことを10年続ければ、美術史にとって重要な作家や作品の大半を見たことになる」といわれ、社会人となってからもかならず50の展覧会に行くことをノルマとして自身に課しているという。もうすぐ十年が経とうとしているが、その教えは正しかった。確かに自分のなかに美術史の総体への見取り図ができあがりつつあることを身をもって実感しているからだ。彼女はわたしにそのように語った。

 他の芸術と比しても、たとえば映画という分野であったら、そういうことはまず起こらないのではないかと思う。一年のうちに新たに公開される映画作品の数は、すべてをコンプリートするのが物理的な不可能なほどであるし(それでも全盛期に比べればひどく減少しているのだ)、映画史はわずか120年あまりの齢といえども、あまりにも作品の数が多すぎるうえ、一作品につき一時間を超える絶対的な時間を要するので、教養としては嘘をつきにくい。作品や作家についての評価が定まっていない場合も多く、いわゆる普遍的な見取り図ができるとは思いにくいのだ。わたしとしても、そのような試みを完遂することに、ほとんど諦念を抱いている(なかにはそれを達成しようと目論む若き猛者もいることにはいるのだろう)。

 少なくとも確かなのは、映画史についていえば、さきに述べた美術史と同じようなノルマは存在しないであろうということだ。もちろんわたしは、美術史が映画史に比べて狭小な世界のうちにあるだとか、そういうことを言いたいわけではない。むしろ逆で、映画史と美術史を対置させるとき、その長さについてはさながら三歳の幼児と八十歳の老人を並べるようなものであろうし、現代美術については、映画と同様、いままさに評価の定まらない新たな作家たちが世界各地でひっきりなしに登場していることだろう。それでも、わたしの個人的な印象からいえば、かほどまでに多様に肥大し、その多くがエンターテイメントとして世俗化してしまった映画芸術を〈歴史〉として拾い集めるという行為は、美術のそれと比して非常に収まりが悪いのではないか、と感じている。

  ともあれ、わたしにとってはそのような態度が当たり前だったので、さきの50の企画展の話を聞いたときには大きな驚きがあった。美術史についてはまったく知識をもたず、ただ漠然たる興味だけがあった数年前まで美術という世界の広大さに尻込みしていたわたしにとって、それは意外に思えたのだ。そして、そのような芸当が東京でできてしまうということにも驚かされた。つまり、東京の美術シーンの一翼は、優秀な学芸員たちの尽力によって支えられているということだろう。

 

 さて、2016年の話に戻る。一年に50の企画展という話を聞いて、わたしもそのノルマをクリアしようと決意をしたものの、その数は遥か及ばずたったの11にとどまった(釈明するならば、その話を聞いたのは、2016年も終わりに差し掛かっていた頃だったのである)。以下に足を運んだ美術展をリストアップする。

 なかでも印象的だったのは、ジョルジョ・モランディ展とトーマス・ルフ展の二つである。どちらもたまらず図録を購入した。モランディ展は、東京ステーションギャラリーの歴代来場者数の一位を記録したらしい。とはいえ、わたしは会期の比較的すぐ、平日の午前中に足を運んだので、ノイズとならないくらいのほどよい来場者数で大変気持ちがよかった。

 モランディの作品の実物をまともに見たのははじめてだったが、すっかり恋に落ちてしまい、春にはイタリアを旅行した際、たまらずボローニャの Museo Morandi に足を運ぶまでだった。ただ、まだ東京のモランディ展は会期中であり、ほとんどの作品は貸付されていて本場の美術館はたいへん淋しくなっていた。そんなことは、すこし考えればわかることである。所蔵作品がほとんどなくなっているモランディ美術館に行くぐらいなら、画家が生涯の大半離れることはなかったというフォンダッツァ通りの生家を覗いてみるべきだった。自分の頭の悪さに苛立つ。

 

 モランディ美術館然り、海外の美術館にはいくつか足を運ぶことができた。ボローニャでは、モランディ美術館はMAMbo(Museo d'Arte Moderna di Bologna)と呼ばれる現代アートの美術館と併設されており、そちらのほうもちらりと覗いた。時間がなかったので観るのは叶わなかったのだが、ちょうどパゾリーニの企画展が組まれていて、それもおもしろそうだった。そのほかのイタリアでいえば、フィレンツェウフィツィ美術館(Galleria degli Uffizi)、ヴェネツィアのアカデミア美術館(Gallerie dell'Accademia)に足を運んだ。ヴェネツィアのアカデミア美術館は、ヴェネツィア訪問3度めにしてようやくの訪問となった。ウフィツィの天井画がいちいち素晴らしく、わたしはしきりにカメラを天に向けて撮っていた。もちろん、ウフィツィやアカデミアなど、一度足を運べばいいものではない。イタリアに行くたびに、訪問を検討することになるはずである。

 パリにいたときは、もはや恒例行事となっているが、ルーヴル、オルセー、オランジュリー、ポンピドゥ・センターにも一ヶ月の滞在中にいくどか駆けつけた。何度いっても飽きることはない。オルセーでは、アンリ・ルソーの企画展がすばらしいキュレーションと演出で組まれており、フランスの美術界の強さをまざまざと見せつけられたような感想をもった。

 ほかにも、ギュスターヴ・モロー美術館(Musée Gustave Moreau)、マルモッタン・モネ美術館(Musée Marmottan Monet)、ケ・ブランリー(Quai Branly)などをはじめとして、ほかにもいくつか足を運んだ気がするものの、すぐに思い出せない。イタリアもフランスも、美術があちこちに存在しているので、身支度をして心構えをもって美術館にいくという感覚にはなかなかならない。生活と美術を線引きするのが難しいのだ。そのことこそが、たとえば遠藤周作『留学』で描かれたような、ヨーロッパの歴史ある街の息苦しさにも繋がってくるのだが。

 

 今年はヨーロッパに足を運ぶことがあるだろうか? 余裕があれば、ふらりと遊びにいくかもしれない。ともあれ、わざわざヨーロッパまで絵画に会いにいかなかったとしても、10年待てば、大抵の有名な作品は東京までやってきてくれるかもしれない。その一年めということで、今年は50くらいの企画展を回ることができればいいなと思う。いちばんの敵は怠惰である。

 2016年は怠惰に負けて、気づけば「鈴木基一展」も「黒田清輝展」も「メアリー・カサット展」もいけなかった。東京都美術館若冲展については、さすがに炎天下のなか2時間も3時間も並ぶ気にはならなかった。そのような苦行を強いられることも意に介さず若冲に執心している者たちが、あれだけいるという事実には大変驚かされた。

 今年は、国内で美術館をめがけていくつか旅行をするのもいいかもしれない。それこそ若冲であれば、国内ではいろいろなところで見れるのだろう。このようにぐるぐると考えている時間はなによりも楽しい。

 

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ミケランジェロ広場よりヴェネツィアの街並み, 2016年4月撮影)