15日
昼過ぎにのそのそと起き出し角川映画特集へ。Christine Cinéma Clubで深作欣二『里見八犬伝』と大林宣彦『ねらわれた学園』を続けて観る。二作品ともクレモンがイントロダクション。薬師丸ひろ子ファンの同僚がずっと狂喜乱舞していたのがおかしかった。『ねらわれた学園』からエリーズが合流して、終映後にそのまま飲みにいく。来月にはじめてソロEPをリリースするという彼女だが、RIP SLYMEが好きだという信仰告白を受け、ふとRIP SLYMEの面々も中学生の時分は薬師丸ひろ子に熱を上げていたのだろうかと思う。

16日
先週の大福が好評で気をよくしたマルゴが、今度は抹茶ティラミスをつくってくれるというのでありがたくいただく。代わりに麻婆豆腐を振る舞った。最近自閉型ADHDという診断が下されたという彼女から、自閉症の症状は男性と女性でいかに異なり、また女性の自閉症の研究や治療が遅れているかという話を聞いた。思うところがありペソアの「異名者(hétéronyme)」の概念について話すと目を輝かせている。彼女が帰ったあと、ペソアの詩集をいくつか引っ張り出し、寝台に寝ころがって読み進める。どうして彼の詩は、ここまでわたしたちを惹きつけるのだろう。
17日
日本からパリ出張中の池田さんとランチ。最近の東京の小劇場界隈の動向をいろいろと聞く。記憶の底に沈澱していた固有名詞群がつぎつぎと水面に浮上してくる。固有名詞ベン図が大きく重なる人との会話がドライブしていく快楽ったらない。それにしてもナカゴー・ほりぶんの鎌田順也の死ほど惜しいものはない。東京にかえっても彼の芝居が見れないなんてあんまりだ。
アレクサンドルと打ち合わせ。日本映画の配給を中心とした新しい映画会社を旗揚げして、この数年、ひとりであくせくと頑張っている。不器用ながら大きな映画愛を感じる人だ。今後のラインナップを見せてもらって、そんな作品まで買ったのかと驚きの連続。
六番線に飛び乗ってゴブランのUGCへ。藤元明緒監督『LOST LAND』の先行上映で、監督や日仏のプロデューサー陣も来ていた。隣の客席に座っていた妙齢の女性は過去にミャンマーに住んだことがあり、アウン・サン・スーチーでさえもロヒンギャへの迫害を黙認していたのだと声を顰めて語った。ぼくはロヒンギャのことを何も知らない。そのまま藤元さんたちと打ち上げに行くことになり、日英仏の三言語をせわしなく往還しながらいろんな人としゃべった。今日はよくしゃべった日だ。

18日
朝、カフェ。店内のスピーカーからエディット・ピアフの「水に流して」が流れ始めると、周囲の客たちが歌詞を口ずさみはじめ、しまいにはちょっとした合唱になった。わたしには何も、何一つだって過去に未練はないのよ。
夜、読書会。今回の課題本は、前回の鳥山まことに続いて、芥川賞の同時受賞を果たした畠山丑雄の『叫び』。ぼくは『時の家』よりもこちらのほうが好みだったが、四人の参加者の意見は割れた。
19日
La Seine Musicaleのデヴィッド・バーンのコンサートへ。九番線の終着駅から会場に向かう道すがら、同行の三輪さんと高校生のときに『Remain in Light』から受けた衝撃の大きさについて語った。あのアルバムからほぼ半世紀。齢73歳を迎えたデヴィッド・バーンは、肌の色も年齢も多様なメンバーからなる大所帯のマーチング・バンドを引き連れ、いまもステージのうえで歌い踊っていた。『アメリカン・ユートピア』のコンサート・フィルムのときも思ったけれど、デヴィット・バーンは左翼おじさんの第一線を張り続けている。焦らずにじっくりと時間を掛けてひとつのショーを育てていく成熟した鷹揚さ。いまの時代、ますます余裕を喪いつつある左翼の振る舞いとしても学ぶべきものがあると思う。朗らかで力強く、感動的なアクトだった。
20日
パリ駐在を終え本帰国する上司と食事へ。席に着くなり彼は、じつは二十年前の今日がはじめてパリに赴任した日だったんですよと、当時の写真を見せてくれた。彼は三十年間、パソコンで毎日欠かさず仔細な日記を書き続けているという。そのディシプリンにいたく感銘を受ける。
解散してからまだ飲み足りないなと思いながら帰路につくと、ちょうどモハンから電話。友だちと家で飲んでるからおいでよという絶好の誘いだった。リンジーとはじめまして。パリを拠点にしてニット服のブランドをひとりでやっているというリンジーだが、どういうわけか彼女の服は日本でよく売れているらしい。まだ一度も日本に行ったことがないから、早く行ってみなくちゃ。
21日
すし展にあわせて組んでいた福田育弘先生のすしの歴史についての講演会。学生時代に何度かお世話になり、食事に連れていってもらったこともあったので、こうして自分がパリで迎え入れる立場になるとは不思議な縁だと思う。福田先生は定年を迎え、この三月末で大学からは退官になる。もとは大陸から伝わり、郷土料理のひとつでしかなかったすしは、百万人都市の江戸で単身者の空腹を手軽に満たすべく握り寿司という形態を産み、明治維新の折にインテリたちが日本文化を代表する料理として人工的に拵えていった歴史をもつ、云々。
ビュット=ショーモンの公園わきのカフェで、クレールと茶をしばいてから、すぐ近くの骨董品屋で行われていたミカのソロライブに足を向ける。演奏のあいまに調子のいい冗談を飛ばしてゆく。彼の人柄のよさが存分に発揮された和やかなライブで、聴衆は子どもたちから大人までみなずっと口もとに微笑を浮かべていた。

22日
春の陽気に誘い出されて外へ。マルシェをさまよい、リュテス闘技場のベンチに腰を下ろし、これでぼくも日曜日の景色を構成する人びとの仲間入りだと思う。カレーを食べて昼寝をしたらもう夕暮れ。MK2 Odéonでネメシュ・ラーズローの新作『Orphelin』を観にいく。アウシュビッツのゾンダーコマンドを主人公に据えた傑作をもって名を馳せたラーズローは、1910年代のブタペストを舞台にした二作目から一転し、続いてハンガリー革命の翌年の、1957年の不安定な社会情勢にあった首都に生きる少年を主題に選んだ。ハンガリーという歴史に翻弄された国家が宿す仄暗さについて考える。いつか彼には正面からハンガリーの現代社会を撮って欲しい。
23日
アンナと落ち合って、シネマ・デュ・レエル映画祭の会場であるL'Arlequin で、韓国のドキュメンタリーを観にいく。頭部が切り落とされた仏像の謎を追い、日本軍による統治時代の話にも及んで興味ぶかく見ていたのだが、結局のところ謎は解明されないままだった。近くのバーで飲んでいると、隣のテーブルでユダヤ人のグループが合コンらしきものを開催していたので、スウェーデンにも合コンはあるのかとアンナに訊いてみたら、即座にないと答えた。そうか。
24日
Point ÉphémèreでBuck Meekのライブ。年始に出た先行シングル「Gasoline」でたちまち彼の楽曲の虜になり、ひと月ほど前にリリースされた『The Mirror』は、たぶん今年いちばん聴きこんでいるアルバムだと思う。シンプルな言葉で紡がれるラブソングの数々。一切合切が感動的な夜で、「一生忘れられない思い出」になったと思う(小学生の作文定型文)。あの時分の一生忘れられない思い出は結局ほとんど忘れてしまったが、今夜のことはどうだろう。

25日
午前中、水曜マルシェへ。きれいな縞の入ったサバが1キロ16.9ユーロと安くなっていたので、一尾買って味噌煮をつくった。旨い。
午後、いくつもの通り雨がやって来ては過ぎ去っていく。静かに仕事を進める。ふと、自分は会いたかった人にけっこう会えている人生だと思った。自分は夜は職場の歓送迎会へ。
26日
イラン出身の振付家Armin Hokmi のダンス公演へ。Théâtre des Abessesの最上階の席で開演前のステージを見下ろしながら、イラン全土の停電が史上最長を記録と報道で見たけれど、と同行のガゼルに訊いてみると、停電で通信も絶たれ、もう一週間もテヘランに住む家族と連絡が取れずに安否も確かめられていないという。そんな大変な状況下で暢気にダンスなんて誘っている場合じゃなかったかもしれないと詫びると、ひとりでじっとしているほうが気が狂ってしまいそうだから、むしろ誘ってくれてありがたいよ、と笑った。

ミニマルな音楽にあわせて微細な動きとそのヴァリアントを延々と繰り返してゆくストイックな『Shiraz』と題されたダンスは、それこそイランの都市シラーズの乾いた大地で観ていたらぼくもトランス状態に入っていたに違いないと感じた。シラーズはとてもうつくしい街だよと、ワイングラスを片手にしたガゼルは言う。でも、もしかするともう二度とあの土地を踏むことはないかもしれない、わたしはその覚悟でイランを離れたから。彼女は二年前までテヘランの一流企業に務め、マフサ・アミニの死をきっかけに勃発した「女性、生命、自由」運動などの反政府運動にも身を投じていた活動家だった。パナヒの『シンプル・アクシデント』の話を振る。映画のなかではスカーフを巻いていない女性たちも普通に往来を歩いていてビックリしたんだけど、いまのイラン社会ではどんな感じなのかな。
確かにこの数年でイラン社会の空気は確実に変わった。わたしもあの事件以来、外に出るときもスカーフをつけないことに決めて、頑なに守ってきた。タクシーの運転手から乗車拒否されたり、レストランに入店拒否されたりしたこともあったけど、そのたびにスカーフを付けるか付けないかの選択はわたしの問題であって、こうして他人の自由を侵害するのは許されないことだと絶対に従わなかった。デモには可能なかぎり行くようにしてたから、パリに移住せずテヘランに残っていたとしたら、たぶんいまごろわたしは死んでいたかもしれないね。周囲の知人友人の何人もが去年の暮れから今年にかけて当局に捕まって行方知れずになってしまった。たぶん処刑されたのだと思う。じつはわたしもいちどデモ行進中に軍隊の放った銃弾が当たって、いまも脇腹に傷が残ってるんだよね。以来しばらくはデモに参加することにも怯んでしまった。わたしは自分なりに闘ってきたつもりだけど、そんな不自由な国家のもとで未来を見るのは限界だったんだと思う。だからテヘランの生活の一切をうっちゃって、こうしてパリでまた学生をやってるってわけ。
イスラーム共和制が斃れたらイランに戻りたいと思う? と訊くと、わたしの目が黒いうちは、政治体制がどうなろうと、イラン社会は変わらない。だからイランに再び住むという選択肢はないと、きっぱりとした口調で答えた。イスラームはすでにペルシャの人びとの精神のいちばん深いところまで根を下ろしてしまっている。もっともリベラルに思える男性たちでさえも、イラン社会で生まれ育った以上は男尊女卑的な価値観を内面化していると、彼女は語る。わたしにとって自由とは何にも代え難い価値で、あの国では女性として生きるかぎり、わたしの求める自由が手に入ることはない。ひょっとしたら100年後は変わっているかもしれないし、未来の女性たちのためにそうなることを本当に願っているけれど、あの土地でわたしの求める自由は手に入らない。ぼくは彼女の口にする「自由」という言葉の重みが、自分のなかにある自由の内実とまったく違うと痛感して、まるで眩暈がするような気持になった。
27日
今日は待ちに待ったプロ野球の開幕日。阪神と巨人のマッチアップ。この日にあわせ休暇も取っていた。恒例のセ・リーグの順位予想だが、阪神、広島、De、中日、巨人、ヤクルトという予想を野球ファンの友人たちに送る。じつは去年の順位予想は的中させていたのだが、今年は評論家の似たり寄ったりな予想に辟易して、あえて広島の若手の伸びしろにベットしてみました。巨人戦はふてぶてしい表情でテンポよく投げ込むルーキーの竹丸に白星を献上してしまい、ブルーな気持に。プロ野球の勝敗で一日の気分や体調が左右される生活がまた戻ってきた。そう思うと本当に具合が悪くなってきた。
錠剤を飲んでブールデル美術館のマグダレーナ・ アヴァカノヴィッチ展を覗いたあと、職場の石田多朗の雅楽公演へ。たどたどしい英語のMCは愛らしかったが、演奏がはじまると一挙に場の空気が変わる。どこかに常世はあるに違いないと思わされるような神秘的な演奏。最後の曲といって石田多朗がキーボードで弾きはじめた旋律を聴いた小禾は驚きの表情を見せている。終演後に訊くと、かつてチベットの映画撮影のときに何日も続けて車を運転し、体力の限界に達して運転席で朦朧としていたとき、彼が弾いた旋律とまったく同じ旋律が頭のなかに降ってきたことがあったという。

28日
グラン・パレのマティス展へ。過去三年のあいだにオランジュリー、フォンダシオン・ルイ・ヴィトン、パリ市立近代美術館がそれぞれマティス展を組み、ニースのマティス美術館に二度足を運んでいたので、もうマティスはお腹いっぱいだという気持だったが、それらの展示をはるかに凌ぐ規模で、心ゆくまでマティスの線と色を堪能。隣で組まれていたナン・ゴールディン展が霞むほどの充実だった。今年のベスト展示のひとつだと思う。

Les 3 Luxembourgで、ヨアキム・トリアーの『センチメンタル・バリュー』。映画がはじまるまでは終映後にクラブ行を画策するくらい元気を持て余していたが、映画のもつバイブスに影響をうけ、代わりに帰路のマクドナルドで5ユーロのセットを買って、ひとりで静かに食事をとって、静かに床に入る。寝台に臥せてトリアーの映画のもつあの風通しのよさの正体について考えていた。方法論としてはまったく異なるが、カメラワークと編集リズムの異化効果を突きつめた映画作家という意味で、カウリスマキよりもずっと小津的な作家ではないか。

































