19日
ローザンヌ行きの7時56分発の列車に、駅員に悪態をつかれながらぎりぎりで滑り込む。二人分の座席に腰を下ろして呼吸を整える。格安の往復切符を見つけた友だちと三泊四日のキャンプをする予定が、その友だちは仕事の都合で来れなくなり、結局ひとりでスイスを旅行することになったのだ。例によって今夜の宿さえまだ決めていない。この野放図な自由を愛しているのだと、ぼくは100パーセントの確信をもっていえるだろうか。
四時間でローザンヌに到着。市街へ出ると、どこからともなくいい匂いがする。一昨日までいたアイスランドの純度が高い空気の感じともまたちがって、わずかに花の香が立つような、控えめで上品な匂いだ。気分が高揚していくのがわかる。それにしてもこのうえない快晴だった。坂の下に見えるはレマン湖は青く光輝いている。きょうこそ登山日和だと思い、踵を返して湖畔を廻る鉄道に乗り込み、二駅ほど乗ってモントルー駅で下車。そこから当りをつけていた登山列車に乗り換える。徒歩では三時間の登山道というが、往復切符は45フランもした。物価の高さにたじろぎながらも、これがスイスなのだと言い聞かせる。
登山列車はがたごとと音を立てながら急な勾配を登っていく。車窓からはレマン湖と、その向こう岸に聳え立つアルプスの山々が見える。車内ではいろいろな言語が飛び交っていて、いまこの瞬間こそがわたしたちの思い描くバカンスの景色そのものだと思う。終着駅の二つ前のジャマン駅で降車。山あいに引かれた線路にぴたりと這うよう木造のレストランが建つ。かつては駅舎だったのだろう。標高1,742メートル。すでにレマン湖から1,400メートルほど登ってきたわけだ。眼前のDent de Jamanの峰は、その名のとおり歯のような形をしている。テラス席に座ってビールを頼み、日記帳をひらいてここ数日分の日記を書く。そして日焼け止めを塗りなおして山頂をめざす。山登りは余計なことを考えずに済むのがいい。どの足場を選べばより確実かという選択を不断に迫られ、その選択にあわせてただ機械的に身体を動かしていく、その単純明快がいい。三十分ほど没頭して急勾配を登り続けて山頂に到達。眼下には絶景が広がっていた。そうか、これが世界でいちばん美しい湖といわれる所以か。空の、湖の、山肌のテクスチャを、いつまでも眺めていた。ぼくのあとから山頂にやってきた人たちは顔を綻ばせながら大麻を吸っていた。




山肌に張ってあるロープを頼って下山。ジャマン駅に戻って再び列車に乗り、なんとなくCaux という中腹にある小さな集落で途中下車。歩いているとなんの変哲もない田舎道に「皇后の路」という看板が立っていた。いったいなにが皇后なのかと不思議に思いながらその路を辿ると豪勢なベルエポック時代に建てられたというホテルが現れる。パネルには十九世紀末にシシィと呼ばれたオーストリア=ハンガリー帝国のエリザベート皇后が、権力をにくむ無政府主義者に暗殺される前夜に泊まった最期のホテルと説明がある。ぼくの乗った登山鉄道もこの頃に建設されたのだという。一世紀以上前に険しい山を切り拓いて鉄道を敷いた人たちについて考える。
十八時。モントルーの街に戻ってきた。駅前のベンチに腰掛け、スマホで今宵の近場の宿を予約してから、レマン湖のほとりを散策。湖を泳ぐ人たちが見えて、ぼくも水着に着がえて湖に浮かんだ。地元の子どもたちが高台から飛び込んではしゃいでいたので、彼らに混ざって高台に登り頭から飛び込んでみたのだが、思いきり腹を水面に打ちつけてしばし呼吸困難に。慣れないことはするもんじゃない。砂浜にあがって、水着のまま夕暮れどきのやわらかな日光を浴びる。
宿に荷物を置き、モントルーの旧市街を歩く。腹が減った。見晴らしのいいベンチにおじいさんがひとりで座っていたので、ぼくも隣に腰をかけさせてもらう。沈みゆく夕陽がアルプスの岩肌を赤く染めていた。この町の人たちは毎日この景色のもとで暮らしているのか。坂を下っていくと通りの角に感じのいいイタリア料理屋があって、そのまま吸い込まれるように席に着いた。ナポリ出身の愉快なおじさんがテーブルからテーブルを華麗に行き来しながら、イタリア語で、スペイン語で、フランス語で威勢よく冗談を飛ばしては客たちを笑わせている。パスタメニューのいちばん下にあったブッタルガのリンギーネを注文してみた。きみはブッタルガが何か知っているのかと、おじさんは顔を上げる。南イタリアの魚卵のことだよね、ずっと食べてみたいと思っていたんだと答えると、彼はにやりと笑った。はじめてのブッタルガ。鮪の卵巣を塩漬けにしたもので、これが本当に絶品だった。会計のときに礼を述べて、あのブッタルガのリンギーネはどうして「Dottore Bruno(ドクター・ブリュノ)」とメニューに書かれていたのかと尋ねる。ブリュノという南イタリアの漁師の友人がいた。彼が土産物として持参してくれたブッタルガに虜になったのだが、ほどなくブリューノは急死し、追悼と感謝をこめてそのパスタのメニューにブリューノ先生と名づけたのだといった。あいつは本当にいい友だちだったんだ。
宿にあるバーで酒を頼んで往来に面したテラスで、日記帳の続きを書く。それからアイスランドで出会った友だちとメッセージで人生相談を交わす。モントルーは至るところに噴水があり、テラスのわきに設えられた噴水から、静まり返った夜の町に水が落ちる音が響くのをいつまでも聴いていた。いつか居を構えるとしたら、こんなふうに水の音が聞こえる場所がいい。

20日
目を醒ました瞬間に、きょうはパウル・クレーだと直観した。あの人のスマホの裏にも貼ってあった《忘れっぽい天使》のイメージが浮かぶ。連想して思い出されるのは、10年ほど前に葉巻をくゆらす鹿島徹さんの研究室で、ベンヤミン『歴史哲学テーゼ』の読解を進めていたときのことだ。本書の白眉ともいえるベンヤミンのパウル・クレーについての言及が記憶があいまいに蘇ってくる。そうとなったら話は早い。パウル・クレー美術館の位置を確認する。ここから三時間ほど列車とバスを乗り継いだ先のベルンという街にある。身支度をして宿をチェックアウト。
モントルーを後にする前に、宿から見えていた湖と山のあいだに建つ石造りの小さな教会をめざして坂を登る。きのうからそのひっそりとした佇まいに惹かれていた。しかし教会の扉は閉ざされている。傍らの、湖を一望できるベンチで談笑をしていた女性たちから、扉の取手を回しながら強く押すと開くと教えてもらって、無事にひやりと冷えた教会の中へと入ることができた。誰もいない。ステンドグラスの色彩が目に飛びこんでくる。祭壇に十字架が置かれているだけの質素なつくりに、ここがプロテスタントの教会だとわかる。葡萄畑の守護聖人とされる聖ヴァンサンだが、その由縁は、「Vincent」という綴りはフランス語のVin(ワイン)とSang(血)を連想させ、すなわちキリストの血を示すようになったこと、そして彼がサラゴサで異教徒として処刑されたときの拷問器具から滴る血がまるで搾り機から葡萄の果汁が流れ出すようだったことに求められるとある。その一文を読むだけで、鮮明に映像が浮かぶ。キリスト教の宣教において、人びとにいかに殉教のイメージを喚起をさせるかという課題はひときわ重要だったことだろう。十字架に磔になったイエス・キリストの殉教は何よりも強烈な印象を与える。だからプロテスタントも一切の偶像を廃す一方で、十字を残したのだろうと思う。その十字架の前にはぶあつい聖書が開かれたまま置かれていて、覗き込むと『エレミヤ書』の第三節とある。何かのお告げかもしれないと、教壇の前に立って音読をしてみる。不貞を働いた妻を二度と許すべからずという内容にひどく戸惑いを憶えながらも、石造りの教会に自分の声が低く響きわたるのは気持がよかった。教会のなかで聖歌を響かせることはそれだけで代えがたい愉悦があるはずだと、大きなオルガンを目にして思う。

モントルーの小さなパン屋で教会の扉の開け方を教えてくれた人たちとまた出くわして軽く立ち話。サンドイッチを食みながらローザンヌを経由してベルンへと向かう。悪天候の予報とは裏腹によく晴れた景色が車窓の向こうにどこまでも広がっていた。
ベルンはドイツ語圏で、列車から出た途端に言葉がわからなくなった。街並みも、ゲルマン系の角張って堅牢な石の感じに様変わりする。中心街まで歩く道中で、手錠を掛けられた男が警察官二人に連行されながらフランス語で叫んでいる場面に遭遇する。おれは無実だ。61歳のしがない小市民だ。お前らが警察じゃなくてマフィアの手下だっておれは知ってるんだ。この男が何をやらかしたのか知りたくて、しばらくぴったりと後を付けていったが、途中で室内に引き入れられてしまった。中心街のアーケード通りには明らかに薬物で錯乱状態にあるような者も何人か見かけ、心なしか物乞いも多かった。レマン湖畔の静けさとは打って変わって、混沌とした街に来たというのがベルンから受けた第一の印象だった。

赤い色をしたバスの十二番線に乗り込んで、終点のパウル・クレー美術館へ。丘のうえにガラス張りの巨大なカマボコが三つ並んでいる。絵画ワークショップに参加している女性たちが和気藹々としている様子がガラス越しに見えた。クレーの常設展の入口には多言語国家のスイスよろしく独仏伊英の四言語で説明が掲げられている。想像していたよりもずっと小ぶりだったが、あまりに集中していたせいか半分ほど進んだところで意識を失いかけ、併設のカフェに避難。フラットホワイトを飲みながら瞼の裏でクレーの線と色を反芻する。すでにクレーの生涯に関する多くのことを教えられた。
クレーに接近するにあたり重要だと思われたことを列挙していく。ひとつ、クレーは音楽一家の出自で、自身もバイオリンを達者に弾くこと(ある時期まで音楽家としてのキャリアも真剣に検討したようである)。ふたつ、幼少期から自身の絵をまめに保管していて、後年画家自身が編んだカタログ・レゾネにも少年時代のデッサンに題名を付した上で多数の作品を収録したこと。みっつ、10代後半には異形のモチーフをたびたびデッサンしていたこと。よっつ、母の知人からの注文で製作したアール・ヌーヴォー調の五枚の屏風絵は画家の気に入らず、自身の作品として認めなかったこと。いつつ、二十歳の頃に描いた人間の強欲を主題にした諷刺画がキャリアではじめて成功した作品だと彼自身が考えていたこと。むっつ、カンディンスキーら「青の騎士」の面々と知己を得て、アウグスト・マッケらとのチュジニア旅行で色彩に深く感銘を受け、それを機にあざやかな色彩を使い始めるようになったこと(あの有名な、クレーの言葉。「色彩は私を永遠に捉えた。(…)私と色彩は一体である。私は画家だ」)。
展示室に再び戻る。ベルン近郊の自然に囲まれて育ったクレーだが、彼の芸術は自然の模倣には向かわない。地上には存在しない色とかたちの組み合わせの純粋な可能性を探り続けた芸術家だったのだと《ガラスのファサード》を見て思う。大人たちが子どものように絵を描くことができなくなるのは、成長の過程で世界の因果や意味連関を一定のかたちで解釈するように訓練されるからだ。クレーは生涯をつうじ、自然の原体験を手放さず、周到に規定の世界観を解体することに人生を賭けた画家だったのだ。アンヌ・ロッホという画家の企画展を覗いてから、そばの墓地に眠るクレーと妻の墓を詣でる。墓石に覆い被さるように植えられていたベゴニアの赤と淡いピンクの花が気持よさそうに風に揺れていた。

ベルンはアール川にぐるりと取り囲まれた要塞都市である。橋のところに人だかりができていて、身を乗り出して下を覗いている。何ごとかと思うと、おおきな熊がいた。どうやらベルン市が川べりで熊を飼育していて、それが観光名所になっているらしい。そうか、ドイツ語の熊 Bär とベルン Bernは同じ語源かと合点がいく。Berlinも熊をシンボルにしているし(あとでホテルの受付の子に同根なのかと尋ねてみたけど、考えたこともなかったと笑っていた)。橋の下では流れの速い碧い川で泳いでいる青年たちがいるのが見える。20メートルはあるのではないかという高さの橋から飛びこむ子たちもいた。楽しそうだ。昨日3メートルの高さから水に飛び込んでダメージを負ってばかりなので、絶対にやらないけれども。
ファラフェル屋に並ぶあいだに隣のフランス人の女の子二人組と会話。わたし、ちょっと前まで日本人の男の子と付き合ってて、去年は彼の住む横浜まで会いにいったんだ。結局ぜんぜんうまくいかなかったけどね。ファラフェルはおいしかった。宿に戻ると胸にクレー美術館の切符代わりのステッカーを貼っている男の子がいたので声をかける。名まえはマルコといった。ジェノバ出身の画家で、彼もぼくと同じようにクレーの美術館をめざしてひとりでベルンに来たのだという。こちらで知り会ったばかりのイタリア人の友だちと一緒に飲みにいくんだけど、きみも一緒にどう?
トリノ出身のジュリアとはじめまして。彼女は物理を専攻する博士の学生で、いまは数日間のバカンスにベルンに長距離バスで来たのだという。あ、川で泳いでる子たち見た? わたしも今日ひとりで泳いできたんだけどさ、水の流れがあんまり速いもんだから、浮かんでるだけであっという間に2キロも流されちゃったよ。あの調子でどこかの湖に放出されちゃいそうだったね。マルコがおもむろにトートバッグから取りだした油絵具とノートで、われわれはお絵かきに耽る。三人でふざけながら絵筆を走らせていると、マルコはあらゆる線と形に父の姿を幻視していたので、なによ、きみの父親はそんなやばい父ちゃんだったわけと弄る。オー、パードレ、と天を仰ぐマルコ。

解散してスマホを開くと、今日がフランク・オーシャンの『Blond(e)』のリリースから10年だとある。ヘッドホンを被って、きっかり一時間の尺をもつアルバムを聴くあいだ夜のベルンをひとりで歩き回る。何度聴いたってあたらしい悦びがあり、過去の思いでが走馬燈のように甦ってくる。金沢に住む友人のもとを訊ねた夜のドライブでふいに井田が「Nike」を再生したこと。ゴールデン街のカウンターで隣に居合わせた日本旅行中の米海兵隊員と聴いた「Solo」。カンヌでイギリス人とカタルーニャ人の若いカップルと三人で、「Be Yourself」の母の箴言をおどけながら言い合ったこと。このアルバムを愛してやまない人たちが世界中にいて、そんなわたしたちの青春はこの音楽に彩られ、いまもなおフランク・オーシャンが新たなアルバムが世に送りだすのを心待ちにしている。もう10年。
21日
ドミトリーの窓は開け放たれていた。しばし目を閉じたまま、寝台に横たわって雨音を聴く。昨夜はクレーのイエナ大学講演録を読んでいるうちに眠ってしまったようだった。身支度を済ませて、近くのベーカリーで朝食を取りながら続きを読み進める。ソーセージパンがおいしい。芸術について語るクレーの言葉は想像していたよりもずっと理論的で、いかにもドイツ的な形式ばった物言いに驚いたが、それでも確かにあの子どものような絵画を残した画家の言葉だとも感じる。
どれほどしっかりつくられた形態だったとしても、それは世界で唯一のものではないのだ、と。だから、自然が形成して目の前にさし出してきた事物を、芸術家は食い入るように見つめるのだ。深く見つめれば見つめるほど、芸術家は、今日から昨日への自分の視野を容易に伸張できるようになる。創世紀へとたどり着くような、創造の本質的なイメージだけが既成の自然像に置き変わって、心に刻みつけられるようになるのだ。
ゴアテックス仕様のミレーのコートはよく雨を弾いた。フードを深く被ってベルンの美術館へ。クレーの作品が常設展でもっと見れるのではと期待していたが、架けられていたのは二点だけ。しかし《Ad Parnassum》は傑出した作品で、これだけでもお釣りが来るかもしれないと思った。ベルンはホドラーに縁のある土地でもある。アドルフ・ヴェルフリの小部屋もあって驚いた。東京ステーションギャラリーのすばらしい展示も10年ばかり前ではなかったか。画家はベルン近郊に生を享け、近くの精神病院に収容されていたのだった。やはりこの土地には人を狂気に向かわせてしまう何かがあるのではと早計してしまいそうになる。
フランツ・ゲルチュ展とキリスト教美術展を足早に回る。中世美術の小部屋で、ドゥッチオとフラ・アンジェリコの同じくらいの大きさの木版の聖母子像が向かい合うように飾られている。この二枚のイコンが描かれた時間の隔たりは一五〇年。キリスト教がおける祈りの力がもっとも強く伝播していった中世の時代だ。あの時代にはまだ精神病棟は存在していなかった。狂気がもっとも羽ばたいていた時代ともいえるのかもしれない。最後に美術館を出る前に、もう一度クレーの作品に会いにいく。すばらしい。ベルンまで来てよかった。


フライブルグで乗り換え。駅前でドイツふうの街並みをぼんやり眺めていると、清掃員からフランス語で話しかけられて驚く。そうか、ベルンからはたった30キロほどの距離に過ぎないが、ここはもうフランス語圏になるのか。独仏の言語圏の境界を調べると、この街はちょうど境界線上に位置しているとわかった。街を足早に一周してから、再び列車に乗ってエスタヴェイエ・ル・ラックをめざす。いつしかグーグルマップで「蛙」と調べたとき、このヌシャテル湖畔の小さな町に蛙の剥製が並べられた博物館があると知って以来ずっと訪れてみたいと思っていた場所だ。駅を出る頃にはきれいに雨が上がっていた。観光案内所のお兄さんに荷物を預かってもらって、軽い足取りで中心街を歩く。とても氣のいい町だ。やたらと床屋が多いと気づいてからさらに三軒も別の床屋を発見して、ぜんぶの店が異様に繁盛していた。ここの人たちは髪が伸びるのが早いってこと?
エスタヴェイエ・ル・ラック博物館と蛙の仲間たち。町の郷土品が展示された小ぶりの博物館の一室に、十九世紀にフランソワ・ペリエという作家がつくった蛙たちが、講義を聞き、鶏の世話を焼き、カードゲームに興じ、饗宴を繰り広げている。愉快なミニアチュールたち。西洋ではもとより蛙は貪欲や怠惰の象徴だと目されていたという。受付のお姉さんと話す。もともと歴史的に蛙と深いつながりがあったわけではなく、ペリエの作品が先にあって、その後に町もシンボルとして蛙を登用するようになったそうだ。まあ、湖畔の町だから、蛙はずっとむかしからいたと思うんですけれど、どうして蛙だったのかはわからなくて。ぼくみたいにただ蛙が好きだっただけかもしれないですねと言うと、そうかもしれないですね、と微笑んだ。
ヌシャテル湖のほとりへと降りていく。水際のベンチに腰掛け、西から吹く風を受けて水面がおなじ方向にざざめくのを見ていた。白鳥の群れのまんなかで全裸のおじさんが湖を遊泳するのを見ていた。湖の向こう岸から徐々に雨脚がこちらのほうへ迫ってくるのを見ていた。一時間ほどそうしていただろうか。とうとう雨雲が頭上までやってきたので、町のはずれにある屋根のある高台まで登ってしばし雨宿りをする。そこに居合わせた地元のリカルドという青年としばらく立ち話。イタリア系スイス人の父とウズベキスタン出身の母のもとで育ち、自学自習で身につけた投資だけで自活できるようになったので、都市生活を捨て、二か月前にこの町に越してきたのだという。きみの直観は正しいよ。ここはとても気のいいところで、スイスはいろんな町を回ったけど、とくにこの町を気に入ってひとりで越すことにしたんだ。しばらくはゆっくりと自分の時間を大切にして暮らしながら、いつか人道支援の仕事がしたいと思ってる。大きな仕事でたくさんの人を救えなくともいい。本当に救いの手を必要としている誰か、ひとりやふたりだけだっていい。人を助けることは、つまりぼく自身がその人に助けられることと同義だから。
リカルドから十二月半ばには流星群が見れるから、また遊びに来るといいと言われ、別れを告げた。雨はもう上がっている。町の外れの真新しい住宅が立ち並ぶあいだの公園の雨上がりの匂いを放つ原っぱを踏みしめて歩いて、真新しい建物のレストランに到着。鯖のフライを食して、地元の白ワインを飲む。ウェイターは日本に旅行で訪れたばかりで、君の国は本当に美しい国だと言った。蛙のためにたまたま訪れたにすぎないが、とてもいい町だった。また流星群を見にきたい。




日が暮れてからローザンヌ駅へ。宿に荷物を置いて、体制を整えて、夜の街に繰り出す。金曜日の夜のローザンヌは賑やかだった。大聖堂の前の広場を横切って、Folklor というクラブにいく。誰もいないフロアで踊っているうちに次つぎと老若男女が流れ込んできた。喫煙所にはガンビア出身の男たちが屯していて言葉を交わす。そうか、おまえは日本人か。たぶん、おまえはおれの人生であったはじめての日本人かもしれないな。
22日
突き抜けるような快晴で、青く光り輝くレマン湖を眼下に見下ろしながら、ローザンヌ駅のわきにある美術館が並んで立つエリアへ。ローザンヌ州立美術館で常設展を見てから、オトボン・ンカンガ展に行き、mudacに移動して、ヴェネツィアの動物硝子細工展、高畑勲展を梯子し、Photo Elyséeで、エラ・マイラール展、ハンナ・ダラビ展、アルフレド・ジャール展を廻っていく。みっちりと五時間。
高畑勲展は、パリの職場で去年の秋冬に開催した展覧会のスイス巡回篇だったが、展示スペースはより広く、パリでは展示されていなかった資料も多数あって、あらためてじっくりと堪能。秋と冬に二度、高畑勲のレトロスペクティヴも組んでいたので、ほとんどの作品を観たばかりのタイミングで、あらためて高畑勲のキャリアを辿りなおすのはめっぽう愉しかった。


アルフレド・ジャール展。Inferno e Paradiso、地獄と天国と題された展覧会は、アルフレド・ジャールが声を掛けた二十人のフォトジャーナリストに、それぞれのキャリアのなかでもっとも「地獄」と「天国」を示すと自身で考えている写真を一枚ずつ選んでもらい、そうして揃えられた「地獄」の二十枚と「天国」の二十枚の写真が二十分ごとにプロジェクターで交互に投影されるものだった。冒頭のパネルにはジャック・ランシエールの哲学を引きつつ、近年のメディアによる暴力のイメージの大量供給が人びとの感覚を麻痺させているとしたら、それはわたしたちが向こうから眼差しを返すことのない無名の身体をあまりにも多く目にしているからだ、と書かれている。その言葉に一見矛盾するようであるが、プロジェクターで投影される四十枚の写真については展示会場内には一切の説明がない(入口に置かれた紙にくわしい説明がある)。わたしたちは二十分のあいだ、ただ写真を見ることだけを要請される。ぼくが会場に入ったときはちょうど「地獄」に切り替わったタイミングだった。見るのもぞっとするような悲惨な戦争や壮絶な暴力の光景の連続。写真が撮られたときの文脈を説明するキャプションが不在ゆえに、これはパレスチナの少年だろうか、これはウクライナの戦争で殺された市民たちの遺体だろうか、などと一枚一枚のディテールを注意深く見ながら写真と向き合うことになる。確かにそういうふうにジャーナリズムの写真を見ることはめったにない。地獄の光景を直視をし続けて息が苦しくなってきたとき、ちょうど二十分が経って、プロジェクターががちゃんと音を立てて、画像も「天国」に切り替わる。ぼくはその瞬間、あまりの美しさに泣き崩れてしまった。作家は決して地上には地獄とおなじ数の天国があると言いたいわけではないと思う。むしろ天国の写真群は、地獄の鮮烈さに比べてあまりにもちっぽけで、ありきたりな写真ばかりだ。しかしその凡庸さそのものに打たれてしまった。ニーチェの永劫回帰の思想を思いだす。生涯のうちにほんの一瞬しか訪れないかもしれない生きることの輝きのために、他の一切の苦しみを引き受けることはできるか、果たしてその価値はあるのか。そう問うたニーチェが生を肯定したとき、彼はスイスのシルス・マリアに滞在していたのではなかったか。ぼくは涙で滲んだ目で「天国」の写真を見てゆく。天国の写真は五分見ただけで十分すぎるほどだった。思わず図録も購入して会場を後にする。旅が終わった。

パリ行きの列車に乗り込むまえのローザンヌ駅前で、迷彩服を着た若い男性の兵士が歩いているのを見かける。今回の旅行では至るところでスイス軍の兵隊たちを目にした。彼らはきまって若く、大きな荷物を運んでどこかに移動しているところだった。きのうの夜中には軍服を着た青年がひとり同年代の友人たちに混ざって広場で酒盛りをしている姿も見た。スイスには徴兵制がある。「永世中立国」たるスイスがいまもなお軍隊を堅持しているという矛盾について、スイス国民はどう思っているのだろうか。中立を貫くにも代償が伴うと納得しているのだろうか(日本の自衛隊の問題も同じ地平にあるはずだ)。それから四日間の旅行中、赤い正方形に白い十字架があしらわれたスイス国旗を家の軒先や庭に認めるたびに、スイス人は他の欧州諸国に比べて愛国心が強いのだろうかと思うが、中立国のイメージがあるせいかトリコロールや星条旗ほど厭な感じは受けないのも確かだった。とはいえ国旗というのはきわめて厄介な存在だ。日本での国旗損壊罪の施行をめぐる問題も何度も頭を掠めた。旅行中に読んだ朝日新聞の安藤馨のインタビュー記事にも大きな示唆を得た。
ローザンヌからの四時間の列車を終え、自転車に乗り換えてパリの自宅に着くと、スマホにマルコからメッセージが届いていた。きみの薦めてくれたベルンの美術館に行ってきたよ。このクレーの絵に、ぼくも恋しちゃったみたいだ。







































