2017-01-01から1年間の記事一覧

本棚( December, 2017 )

MY FAVOURITE ALBUMS IN 2017

はじめてベスト・アルバムなるものを選定してみたのだが、けっこうむずかしかった。とりあえずよく聞いていたということを支点に思いつくものを挙げていって、結果的に20枚のアルバムをリストアップしたものの、この数字にとくに意味はない。音楽を語るため…

「単色のリズム 韓国の抽象」―― 空間そのものの穏やかな美しさについて

会期終了間際に東京オペラシティの「単色のリズム 韓国の抽象」に滑りこんだ。オペラシティのアートギャラリーはいつも落ちついた雰囲気があって、のびのびとできるので偏愛している(とはいえ、「梅佳代展」とか、「篠山紀信展 写真力」はだいぶ混んでいた…

ピーター・チャン『最愛の子』―― 群像劇といううっとうしさの克服

気が向いたので書く。 ピーター・チャン監督の『最愛の子』(2014)を観た。2016年の年始にこの映画も劇場公開されていたようなのだが、わたしのアンテナでは中国映画が引っかかることはあまりなく、表題には見覚えがあるようなないような、というおぼろげな…

その霧の曖昧さを肯定するか ―― カズオ・イシグロ『忘れられた巨人』読書会レポート

イギリスでは、カズオ・イシグロのノーベル文学賞受賞のニュースはさして報道されなかったそうだ。かつてノーベル文学賞を獲ったイギリス人作家も同様だったようである。というのも、イギリスでは、ブッカー賞のほうが権威があるので、ノーベル文学賞にはさ…

松岡茉優さん、あるいは単一か複数かの問い ―― 大九明子『勝手にふるえてろ』

快哉を叫びたくなるほどの傑作だ。いったいどれだけ生気に満ち満ちているだろう。この映画に流れる時間は、松岡茉優という女優のもつはちきれんばかりのエネルギーによって満たされている。オカリナ(片桐はいり)が玄関先でヨシカをひと目見てつぶやいた言…

奇矯な想像力に耽溺する悦び ―― エイモス・チェツオーラ『やし酒飲み』

エイモス・チェツオーラ『やし酒飲み』(土屋晢訳, 岩波文庫)を読んだ。ナイジェリア出身のチェツオーラが1952年に著した小説である。「アフリカ文学」にカテゴライズされる小説のなかで、おそらく唯一、岩波文庫に入っている作品ではなかろうか*1。ひょっ…

『猿の惑星: 聖戦記』―― 猿という種による人間的想像力の拡張について

「猿の惑星」新三部作の最終章にあたるマット・リーヴス監督『猿の惑星: 聖戦記』を観た。ひさびさにスクリーンでシーザーに会えた歓びはひとしおだ。わたしは前二作を高く評価していて、とりわけ『新世紀』('14)についてはシリーズ最高傑作だと思っている…

ジム・ジャームッシュの後ろ姿を見つめるわたし

わたしは、偶然にもジム・ジャームッシュと直接ことばを交わす機会を得た。初期の作品たちはもちろんのことながら、『オンリー・ラヴァーズ・レフト・アライヴ』も傑作だし、なによりも『パターソン』は、とにもかくにも素晴らしかった。わたしは、そうした…

ジム・ジャームッシュ『リミッツ・オブ・コントロール』に登場する絵画群についての覚書き

ジム・ジャームッシュの『リミッツ・オブ・コントロール』を観た。唐突に挟まれる、皿の上に載せられた洋梨のカットがやけに記憶に残っている。 この映画で、わたしは二つのスペイン語のフレーズを憶えた。ひとつは仲間たちの合言葉になっている"Usted no ha…

雑記 1( August, 2017 )

八月最後の日、わたしは大阪のちいさな公園のベンチに腰かけ、にわかに快がハウリングしていく歓びに浸っていた。その瞬間、わたしは幸福だった――この八月ならば、九月が来なくたっていい、永劫回帰したっていい、と純粋に信じることができたのである。 こう…

布団のなかで思い出し笑いをしたいひとのために/「しもきたドリームライブ」

幾月か前のこと、わたしは、ネットを介して、とある読書会に参加していた。課題本は、フリオ・リャマサーレス『黄色い雨』だった。その読書会の参加者のひとりと、帰りすがらに軽く話をする。かれは漫才が好きで、年間に100本を超える公演に足を運んでいると…

アリス=紗良・オットさん/モーリス・ラヴェル作曲『ピアノ協奏曲』第2楽章

www.youtube.com わたしは何年か前に、アリス=紗良・オットさんの弾く La Campanella に恋に落ちていたのだが、ふと久し振りに彼女のことを思い出し、YouTubeでいくつか演奏を聴きにまわった。ARTEで放送されていたらしい、ラヴェルの『ピアノ協奏曲ト長調…

雑記( June, 2017 )

以前、ある時期に書いていた月記にあたるものをまた書きはじめようと思う。なるたけ続けることが肝要である。わたしの日常には、とりたてて読者の耳目を惹くような出来ごとはとくにないということをあらかじめお断りしたうえで、六月のこと。 極度の寒がりの…

はじめての文楽体験記/国立劇場 五月公演「菅原伝授手習鑑」

人生ではじめて文楽というものを観た。五月、国立劇場にて「菅原伝授手習鑑」。わたしは伝統芸能にはまったく疎く、これまで文楽や狂言はおろか、歌舞伎ですらまともに劇場で観たことはなかった。小学生のころにそのような機会があったような記憶も朧げにあ…

動的平衡の流れとしての生命への驚嘆 ―― 福岡伸一『生物と無生物のあいだ』

何年も積読となっていて、本棚の一角に居座りながら、わたしにたいしてちらちらと定期的に自己主張をしていた福岡伸一『生物と無生物のあいだ』(講談社現代新書, 2007)を読んだ。まったくもって素晴しい本だった。 よい本であるということはかねてより幾度…

美術鑑賞の新しい愉しみかた――〈ソーシャル・ビュー・ゲーム〉について

わたしは、このところお茶碗鑑賞に執心していて、その事の次第については改めてまた記したいと考えているのだが、ここでは先日の経験について一筆取ろうと思う。というのは、大阪の藤田美術館に足を運んだときのことである。藤田美術館では「ザ・コレクショ…

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あまりにも長い空白ができてしまった。かりにどれだけ懸命になってインターネットの荒涼な大地に足跡を残していこうとも、そこに痕跡として記録されうるのはわたしの人生を形づくっているもののほんの一部でしかない。だが一方で、このような場所は、ときど…

本屋でもっとも万引きされている村上春樹の小説

www.cbc.ca インターネットを徘徊していると、このニュースに遭遇した。トロントのある本屋において、最近では、村上春樹の小説がもっとも万引きに遭っているというものである。記事の本文を読んでみると、かつては頻繁に万引きされていたのは、ケルアックや…

クラーナハ展―500年後の誘惑/蠱惑的な女のまなざしに取り憑かれ

国立西洋美術館で開催されていた、会期終了目前のクラーナハ展に駆け込んだ。この企画展に足を運んでいなければ、もしかするとクラーナハについて思考をめぐらせる機会は今後訪れなかったかもしれない。画家に焦点をあてた企画展は、ヨーロッパにおいては幾…

FESPACO 2017/アフリカ映画、コンペティション部門の作品たち

FESPACO 2017(第25回)の長編フィクション部門の選出作品が発表された。FESPACO とは、ブルキナファソの首都ワガドゥグで二年に一度開催される映画祭 Festival Panafricain du Cinéma de Ouagadougou(ワガドゥグ全アフリカ映画祭)の通称であり、ブラック…

欲望の交差点、ひとを喰ったような映画 / ニコラス・W・レフン『ネオン・デーモン』

鑑賞する前に、どこかで「ひとを喰ったような映画だ」という評を目にした。カンヌの舞台では、歓声と怒号が同時に飛び交ったという。わたしはそれなりに身構えて鑑賞に臨んだ。そして劇場を出るとき、なるほど、まさに〈ひとを喰ったような映画〉にほかなら…

異物に病みつきになるという経験 ―― ナカゴー『ベネディクトたち』

異物が口のなかに入りこんでくる。あなたは怪訝な顔をして、おそるおそる舌のうえで異物を転がし、その味を確かめんとする。意外にイケるかもしれない。緊張をとぎほぐしながらゆっくりと味わっていると、次第にまるで麻薬を摂取しているかのような感覚に陥…

『ストレンジャー・シングス 未知の世界』―― 見事な 80 年代へのゲートウェイ・ドラマ

わたしはあらかじめ告白しておく。この作品について、いまの段階では願うとおりの文章が書けるとは到底思えない。80年代のアメリカでつくられたさまざまな作品群にオマージュが捧げられているのはわかるのだが、肝腎の引用先のカルチャーに精通しているとい…

2016年、美術鑑賞の記録

テレビで日曜美術館の「ゆく美くる美」の特集を録画しておいたものを観た。せっかくなのでわたしも、2016年に足を運んだ展覧会のことを振り返っておこうと思う。美術に触れるという意味では、さほど充実していたとは言えなかった一年だったが、新たな一年へ…

『天空からの招待状(看見台湾)』で寝落ちをするよい暮らし(という妄想)

わたしはこの数週間、台湾に執心している。インターネットの大海で「台湾」の文字が浮遊していないかとつねに目を光らせているし、友人たちと食事をするとなったら積極的に台湾料理店を選ぶようにしているし、侯孝賢や楊德昌といった台湾の監督たちのフィル…