フュースリ展 Füssli, entre rêve et fantastique

 パリ8区のジャックマール=アンドレ美術館で開催されていた「Füssli, entre rêve et fantastique(フュースリ、夢と空想のはざまで)」という企画展に足を運ぶ。フュースリ(1741-1825)は、スイスに生まれ、18世紀後半から19世紀初頭にかけてイギリスで活躍したロマン派の画家で、わたしはこの展示を機にはじめて名前を知ったのだが、フランスでこの画家に焦点を当てた個展が組まれたのは1975年以来およそ半世紀ぶりのことだという。ならば日本では到底紹介されていないだろうと思って調べてみると、なんと1983年に国立西洋美術館北九州市立美術館で「ハインリヒ・フュースリ展」という名前で企画展が開催されていた。おそらくは先のフランスの展示を受けて企画されたものだろう。8年のインターバルで、名が知れているとはいえない画家の展示を組めたという往年の日本の文化度の高さを思い知らされる。一か月余りの展示期間で、来場者は38,414 人と西美のホームページには書かれていたが、これが多いのか少ないのかはよくわからない。

 

 フュースリは1741年にチューリヒで生まれ、若くして国外追放の憂き目に遭ってロンドンへとわたり、王立芸術院の初代院長であるジョシュア・レイノルズのもとで絵画を学んで画家としてのキャリアを本格的にスタートした。1825年に84歳で没するまで、イタリアに数年間滞在してミケランジェロに魅せられたことはあったが、画壇の中心だったパリをはじめ、この動乱の時代に幾度となく戦火に包まれていた大陸へと戻ることはなかなかに困難だったようだ。その画業の大半がイギリスで制作されている。

 ロンドンでラファエル前派が結成されたのが1848年。フュースリはレイノルズから薫陶を受け、19世紀の変わり目にアカデミーの教授に就任したということもあって、ラファエル前派の若き画家たちの目には、おそらくフュースリの絵画は権威主義的で古臭いものに見えていただろう。わたし自身もラファエル前派の作品が好きで、絵筆のタッチという技術の側面でも、マチエールの質感でいっても、フュースリよりもはるかにミレイやアルマ=タデマのほうに軍配が上がると思うのだが、彼の作品群は、十九世紀末のイギリスで新しい絵画運動が生まれる前夜の、貴族的でアカデミックな画風をよく伝えているように思う。当時のフランスに目を転じれば、同年代の画家としてはダヴィッド(1748-1825)がいる。わたしはダヴィッドの油彩のタッチは好きだが、フュースリの油彩には粗雑さを見てしまう。これはイタリアの留学時代にどれだけカラヴァッジョを通ったかということが分かれ目なのではないかと思った。ダヴィッドと印象派のあいだにはアングルやドラクロワドーミエがいるわけで、やはりフランス絵画の厚みに比べると、イギリスはやや見劣りしてしまうようにも感ずる。フュースリ自身の画風も、念願のパリ滞在が叶っていれば変わっていたにちがいない。

 それではフュースリはロンドンで何をやっていたのか。芝居を愛好し、事あるごとに足しげく劇場に通っていたようで、とりわけシェイクスピアの戯曲については、その一場面を描いた作品が数多く残されている。たとえばこういう作品。

Fuseli, Lady Macbeth Seizing the Daggers, exhibited 1812

 ダンカン国王を暗殺したマクベスが血塗れの短剣を手に夫人のもとに戻ってきた場面。焦燥し切った様子のマクベスと冷静さを保ったままの夫人の対照が印象的で、『マクベス』における重要な転換点がダイナミックに切り取られている。絵具のタッチや色彩には象徴主義の走りのような趣きがある。

 フュースリがウィリアム・ブレイク(1757-1827)と知己を得て、交友関係があったという点もおもしろく思ったのだが、シェイクスピアの戯曲を題材にした絵画をはじめ、ロマン主義から象徴主義への系譜に連なるような作品もいくつもあった(フュースリが憑りつかれたように描き続けた『夢魔』もそうだろう)。その雰囲気に惹かれることもあったが、実際のキャンバスを前にして仔細に眺めると、やはり筆の運びの粗雑さに落胆することのほうが多かった。わたしがルーベンスを苦手としているのとおなじ理由だ。

 それでもジョン・ミルトンの詩をもとにした《Lycidas》という作品は気にいった。間近で見ると同じ画家の手によるものとなんとなくわかるような気もするのだが、さきの『マクベス』の一場面とはまったく違う雰囲気で、この振れ幅の大きさこそがフュースリの、ひいては19世紀初頭の懐の深さなのではないかという感じを受けた。

Johann Heinrich Füssli, Lycidas, 1796-1799