ルシール・アザリロヴィック『エヴォリューション』―― 時代遅れの旧き想像力

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 ひどかったとしか言いようがない。確かに美しいシーンはあった。とりわけはじめの海中のシーンは息を呑むような美しさを湛えていた。神秘的な碧の海に、鮮やかな赤いパンツを履いた白い肌の少年が潜ってくる。そのような色彩の感覚はいい。美点をあげようと思えばいくつか挙げられる気もするのだが、総じてひとつの作品としては救いようのないくらいの酷さだった。

 UPLINKで見たのだが、わたしはほかの観客の顔すら見たくなかったので、エンドロールの途中で退出した ―― 同じ場を共有しているほかの観客たちの顔が見たくなるかどうか? というのは、わたしは映画にかぎらず、ひとつの作品を評価するときに大事にしている指標である。つまり、その指標軸ではゼロ点。

 しかし、UPLINKはどうしてこの作品をかくも推しているのだろうか。ある意味、劇場としての個性を獲得しているといっていいのだが、この作品を5回も1日に上映するくらいなら、もっとほかに上映するべき優れた作品はあるように思うのだけれども。べつにフランスでヒットを記録したわけでもないので、おそらく作品を引っ張ってくるひとたちのお眼鏡にかなったのだろうけれど、なんだかなという気持ちが晴れない。

 カイエ・ドゥ・シネマの評にはあまり共感しないことも多いけれど、この作品についての短評はよく言えているな、と思ったので以下に引用。

Un cinéma incroyablement daté, tout droit tiré de cet imaginaire d’Europe de l’Est des années 80 qui n’a cessé depuis lors d’empoisonner le petit monde du court-métrage fantastique français.

 簡単に訳せば、1980年代の東ヨーロッパ的な想像力は、フランスの幻想的な短編映画の小さな世界をずっと毒し続けている、その象徴的な作品であるというところか。まさしくその通りだと思う。そういう想像力は、もはや時代遅れであるという感覚はわたしもどこかで共有している。日本では、やたらとヤン・シュヴァンクマイエルやイジー・バルタといったチェコ・アニメのあたりの奇怪な想像力が、あまりにも称揚されすぎているきらいがある(なぜあれほどまでに頻繁に特集上映がかかるのか)。もちろん、そのことにはおそらくれっきとした理由があり、わたし自身も惹きつけられる気持ちもわかる(というか、そもそもチェコアニメもぜんぜん嫌いではない)のだが、いまの時代において新たな作品をつくるとき、そのような想像力がもうすでに古くなってしまっているということは、世界的には共有されている感覚にちがいない。

 その感覚については、依然としてうまく言語化できないのだが、この『エヴォリューション』という映画を観て、わたしはその確信をさらに深めることとなった。やれやれ、という気分だ。ランタイムが90分以内だったからまだ耐えられた。ルシール・アザリロヴィックというフランスの女性監督は、ほかに『エコール』('04)という、それなりに日本でも知名度のある作品を撮っているようである。いまのままだとおそらく観ることはない。

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 たぶん監督としてはいろいろと作品のうちにメタファーを込めたのだろう。そういうメタファーをひとつひとつ解き明かしていく遊びも愉しいことには同調するし、わたしとしても、メタファーにすべて気づいたうえで批判しているわけではぜんぜんない。強いていえば、この映画は女性による男性への復讐、そして復讐の対象としてさらなる弱者としての少年が選出されていることへの皮肉を描いていたのだろう、とは思ったけれど、そのこともまったく的を外しているかもしれない。後者の視点は、いまの時代において求められていることなのかもしれないが、なにぶんそのナラティブにはうんざりだったのだ。

 

   なぜうんざりだったのにこれほどくどくどと書いているのかというと、 このことが言いたかったからに過ぎない。ロクサーヌ・デュランさん、ラ・トゥールの絵に出てくる怖い女性にあまりにも似ていて、上映中も集中ができなかった。わたしはラ・トゥールの怖い女のひとがからっきしダメなのだ。《いかさま師》の女性にも似ているよね。森村泰昌のように、ロクサーヌ・デュランさんをキャスティングして《いかさま師》を再現してほしい。

 

 それくらいです。

アメリカという眩い夢のつづき ―― リチャード・リンクレイター『エブリバディ・ウォンツ・サム!!』

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 『Boyhood(6才のボクが、大人になるまで。)』という傑作のあと、リチャード・リンクレイターが新たに世界に送り出したのは、本人の語るように前作の続編のようでもあり、またある意味では、まったく真逆の指向性のもとにつくられた(というように思われる)もうひとつの傑作であった。『エブリバディ・ウォンツ・サム!! 世界はボクらの手の中に』を観た。

 

 1980年代、アメリカ。テキサスの大学に新入生として入学したばかりのジェイクたちは、野球をするという固い意志をもって強豪として知られる野球部に入部するも、どこかで新たな環境に浮かれている。無理もない、それは新学期がはじまる直前なのだから。個性の際立った野球部の先輩たちにもみくちゃにされながら、夜な夜なパーティを梯子し、酒とセックスと恋に耽る三日間。いままさに始まらんとしている新たな生活にたいして心をときめかせる彼らの青春のひとコマが見事に捉えられている。

 それは、『アメリカン・グラフィティ』の主人公であるカート・ヘンダーソンの後日譚のようでもある。同じ高校の友人たちと最後の一夜を過ごしたあと、翌日にカートは東部の大学に入学するべく飛行機に乗って地元を発っていく。『アメリカン・グラフィティ』は、以上のようなシーンで幕切れとなるが、新天地でのカートの生活をカメラが捉えてしまっていたとしたら、『エブリバディ・ウォンツ・サム』のジェイクのような三日間を過ごしていたかもしれない。

いまの家を出て新しい家に住み込んだり、いまの車を捨てて新しい車を手に入れたり、いまの友達と別れて新しい友達に出合ったり……そんなの何の意味があるっていうんだ? 

  カートは、『アメリカン・グラフィティ』において、新たな生活をはじめることについての心情を不安げにこう吐露していた。きっと彼だけではない。すべての新天地に向かわんとするひとびともまた、このように問うたことがあるだろう。出会いと別れを繰り返していくだけの人生、そんなの何の意味があるっていうんだ? ――ジェイクの頭にも同じような葛藤が翳んだことがあったかもしれない。しかし、ジェイク青年は、先輩の洗礼を受け、新たな恋に落ち、激動の三日間のうちにそのような葛藤などどこかへ吹き飛ばしてしまったにちがいない。

 まだまだパーティは終わってなかった。『アメリカン・グラフィティ』は夢のなかの儚い一瞬ではなかったのだ。60年代のカートの人生は、80年代のジェイクの人生と交錯する。そのあいだにはベトナム戦争があった。アメリカ社会もまた闇を抱えていたのだ。しかし、まだアメリカン・ドリームは死んだわけではなかった。わたしはこのフィルムでそのことを痛感させられてしまったのだ。彼らの夢は、いったいなんて素晴らしいのだろう。『エブリバディ・ウォンツ・サム』に描かれたかれ(ら)の青春に、わたしは羨望を抱かずにはいられないのだった。

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 この映画を観た者の多くは、わたしのように、アメリカに行きたい、アメリカの大学で青春を送りたかったと強く願うのではないだろうか、と邪推する。それくらいに美しい燦めきのうちに青春が捉えられていたのであれば、そのように願うのは当たり前かもしれない。だが、これは特異なことであるともまた同様に感じている――わたしたちは、この物語の舞台がアメリカでなかったとしたら、その地に行きたいとかくも願っていただろうか? アメリカではないどこかを舞台にウェルメイドの「青春ムービー」を観たときに、その地で青春を過ごしたかったとこれほど強く願っていただろうか?

 『エブリバディ・ウォンツ・サム』だけではない。アメリカという土地で繰り広げられるすぐれた物語を目撃した者は、なぜかアメリカを欲望してしまうのである。それが、イランであったら? インドであったら? ブラジルであったら? スペインであったら? わたしたちは、アメリカほどその異国の地そのものを欲望していなかったのではないだろうか。もちろん、そのような事態はありうる。しかし、アメリカほどにすべての人種を包摂してしまう土地は、ほかに存在するだろうか。

 

 わたしは、これは〈アメリカ〉という夢の神話の力に依るものだと思っている。なかでもリンクレイターは、〈祝祭〉を描写することに――かかる神話の創生に非常に長けているということは、まざまざとこの作品が証左している。アメリカ的な青春に遭遇したとき、わたしたちはただ観察者としてそうした幻を羨望するだけには留まらない。いわばいち生活者として、虚構としてのアメリカではなく、現実としてのアメリカに結びつけ、それすらを欲望してしまうのである。そのことこそが、いわゆる「アメリカン・ドリーム」という神話の効力なのではないだろうか(このことについてはさらに展開してゆきたいのだが、まだわたしのなかに十分に論じれるだけの知見が備わっていないので、あくまで仮説として放り投げておく)。

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 興味深いシーンがあった。まさに夜が明けようとしている新学期がはじまる前の最後の日、ジェイクは、新たに出会った女の子(ゾーイ・ドゥイッチは紛れもなく次世代を代表するヒロインになるだろう!)をまさに仕留めようとしている。明け方、浮き輪にゆられながら、川のなかで彼女とふたりで囁き合っている。

 ジェイクは語る。高校を卒業するときに、シーシュポスの神話と野球を結びつけた文章を書いた。いわく、シーシュポスと野球、ひいては人生はすべて似通っている。観点と解釈次第では、いままさにやっている何らかの行為に、わたしたちはいくらでも意味を見出すことができる。無意味なことなどひとつもない。すべては主体の捉えようであるのだ、と。

 それは、一般的にいえば、シーシュポスの神話の曲解でしかないだろう。そもそもの神話の主題は、神から与えられた罰によって、無意味なことを永久に繰り返すことになるという〈不条理〉そのものであったのだから。わたしたちは、変わり映えのしない平坦な毎日をただ繰り返すだけだという不条理の感に苛まされることがある。だからこそ、シーシュポスの神話は、わたしたちに特別な意味を訴えかけてきていたはずなのだ。

 一方で、ジェイクにおいて、シーシュポスの不条理は、途端に有意味なものに――さらには女の子を口説く文句にすらも――変解させられてしまう。果たしてそれは、欺瞞ではないのだろうか? 120分の映画のなかでしか存在し得ないユートピアではないのだろうか?

 

 さきほども言ったように、毎日は繰り返しだ。祝祭ばかりではない。ジェイクの過ごした夢のような三日間は、いつかは醒めることになってしまうかもしれない。平坦で退屈な日常に苦しめられることもあるかもしれない。しかし、『エブリバディ・ウォンツ・サム』を撮ったリンクレイターが、そのことについて無自覚であったとは到底思えない――なぜなら、『Boyhood』という作品は、まさしく本作の対極に位置するような、〈ハレ〉でなく〈ケ〉の日だけを十二年にわたって描写したものだったのだから。なんの変哲もないあなたの日常も、じつは喜びに満ち満ちた愛すべき日常であるということを、あのフィルムは雄弁に語ってくれたではないか。

 『エブリバディ・ウォンツ・サム』では、「やり残した事にこそ後悔が生まれる」という言葉が合言葉のように頻出する。映画に登場しているすべてのキャラクターが、この合言葉を肝に命じて生きているような印象を憶える。不幸な人間は、だれひとりとして出てこない。年齢偽証で退学となった30歳のウィロウ(ワイアット・ラッセル!)ですらも、諦観を帯びた顔つきで仲間のもとを去ったが、不思議と不幸だとは思えなかった。彼はただ純粋に、ほかの奴らとまだまだ夢を見ていたかっただけなのだ。

 

 シーシュポスの神話の不条理は、リンクレイターの創出するアメリカという神話に打ち勝つこともあるだろう。『エブリバディ・ウォンツ・サム』では、わたしたちはあくまで神話を、アメリカという眩い夢を見させられているにすぎない。『アメリカン・グラフィティ』の若者たちの夢の続きを。だが、刹那的な祝祭が終わってしまっても、『Boyhood』のような日常は、わたしたちのことをずっと待っているのだ。それならば、夢が醒めてしまってもいい。そして、いつか醒める夢ならば、とびきりの美しい夢を見せて欲しい。それは欺瞞かもしれない。だが、欺瞞だっていいじゃないか。報われないと了解しながら山の頂きまで岩を運んでいく道程で、八十年代に見た眩い夢はいつでも記憶として慰めてくれるのかもしれないのだから。わたしたちは、たぶん、みんなそうやって生きている。

錦織圭さんの2016年

 テニスのルールすらほとんど知らなかったわたしが、あるときテニスというスポーツの熱狂的なファンへと変化を遂げてから一年半ほどが過ぎた。今年ははじめて一年を通してテニスの動向を追い続けてきた年だったのだが、まったくもって愉しくて仕方がなかった。テニスというのはなんと奥深いスポーツなのだろう! これまでのテニスのない人生とはいったいなんだったのか ―― とすら言ってしまいたくなるほどにハマってしまったのだ。

 テニスに興味を持ちはじめたきっかけはいたって月並みである。なにを隠そう、かの錦織圭さんの存在である。父もテニスファンであったというのは多分に影響しているのだが、完全に巷の錦織圭ブームに煽られ、たまたま試合を目撃したことがはじまりだった。それでも、ミーハーであることは抜け出たくらいには、錦織圭さんの試合を中心に、いろいろな試合を観てきたように思う。

 アルゼンチンとクロアチアの対決となったデビスカップ決勝の4戦目、デル・ポトロとチリッチの素晴らしい試合をもって(5戦目のカルロビッチ大先生の不本意なテニスには幻滅して途中で観戦を放棄してしまった)、今季のテニス観戦はひとまず終了である。12月にはIPTLがあるようだけれど、こちらについてはシーズンに含めないでも構わないだろう。

 

 今年の錦織圭さんの試合は、おそらく9割方は観戦したと思う。試合時間が明け方の4時に組まれようと、夜更かしをしてそのまま観るなり、気合いで4時に起床するなり、リアルタイムで追うように心がけていた。本来は体たらくなわたしが、錦織圭さんのために費やした努力の数は計り知れない。どうしても観れないこともあったが、たとえば用事のあったときは、満員電車に揉まれながら小さな画面上のストリーミングで必死の形相で試合を観ていたこともあった。まさかこれほどまでにどっぷりとハマってしまうとは、二年前には考えてもみなかったことだ。趣味ができるのはいいことではある。

 錦織圭さんの試合はおもしろい。よく言われることだが、さまざまな選手の試合を観てきて改めてそう思うのだ。それは、かれが単純に強いからというだけではない。もちろん勝てる試合ほどおもしろいものはないのだが、よくいわれるように、試合の勝ち負け以前に、かれのテニスは豊かで多様なアイデアが溢れている。そして、そのアイデアを瞬時に実現する確かな技術。

 それがなければ、三年連続でツアーファイナルに出場という快挙を達成することは不可能であっただろう。錦織圭さんがこのところつねに在籍しているので慣れてきてしまっているが、テニスという選手層の厚いスポーツ界で、世界トップ10を長きにわたってキープするというのはほんとうに途轍もないことなのだ ―― そのような選手が、日本人であるということは、もしかするとわたしの目の黒いうちにはもう二度とないかもしれない。それだけに、当初より今年の目標としていた、マスターズ1000での優勝が達成できずに残念であった。

 

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 年間58勝という記録が物語っているように、怪我による棄権も比較的少なく、かつてない安定感で一年間を戦った。よく指摘されていたように、下位の選手に敗北を喫することなく、自分のシードは本当によく守っていたと思う。58勝21敗。

 さきほど数えてみると、今年錦織圭さんがビッグ4を除いた下位の選手に負けたのは、ブリスベンQFでトミック、メキシコOPでサム・クエリー、全仏R16でガスケ、シンシナティR16で再びトミック、パリ室内R16でツォンガ、バーゼルFでチリッチ、そしてツアーファイナルズRRでチリッチという7回だけだった(棄権を除く)。つまり、ほとんど取りこぼしはなかったということである。

 それだけに上位選手との試合でやはり黒星を重ねている。6度の対戦があったジョコビッチには今年一度も勝てなかった。全豪オープンQF、マイアミF、マドリードSFではジョコビッチに完敗。そのあとのローマの決勝では、ほんとうに両者の差が縮まっているのを感じたものの、今年のトロント決勝、ツアーファイナルでは再び完敗といったさまだった。

 とくに、仮に10位以内の選手から勝ち星をあげたところで、そのあと連続で上位選手と当たったときに勝てたことがないというのは大きな問題だ。テニスという体力的にハードなスポーツで、たとえば二日連続で死闘を繰り広げるのは並大抵のことではないのは承知しつつも、かれがもう一段階上にあがるためには不可欠であろう。

 グランドスラムも、もう少しいけたのではないか、という思いがある。SFまで進出した全米もそうだが、いちばん行けるのではないかと思ったのは、むしろ全仏である。今年のクレー・シーズンにおいては本当に調子を良さそうにしていて、バルセロナマドリード、ローマと熱戦が続いたのでもしかしたらという期待が膨らんでいたのだった。結果的に地元のガスケに敗けてしまい、QFで敗退。去年もおなじく地元のツォンガに長い中断のあった試合で負けてしまったので、二年連続で似たような負け方をしてしまったことになる。フランスという国を知っている分複雑な気分になるのだが、フランスのオーディエンスのマナーは本当に最低だ。イタリアも本当に酷いなと思ったが、フランスの試合もいやな気持ちになることばかりであった(もっとも日本のスポーツの応援も大概だとは思うので、声を大にして主張はしにくいが)。むしろアルゼンチンくらいの応援になったら、逆にあたたかい気持ちで観れるのだが。

 

 

 今年いちばん印象に残っているマッチは何だろうか。やはりいちばんはじめに思い出すのは、デビスカップ、全米OP、ツアーファイナルでのアンディ・マレーとの対決である。どの試合も死闘としか呼べないくらいの凄まじい試合だった。結果的にデ杯とファイナルでは負けてしまったが、全米での勝利の味はなんとも忘れがたい。とくに、全米に突入していたころは、ジョコビッチの調子が崩れてきていた時期であり、マレーはまだ世界一位の座は獲得していなかったものの、実質的にはナンバーワンと呼ばれていたときである。あのマレーにあれだけの試合をするとは。オリンピックの準決勝など、完敗したこともあったが、マレーにとっては脅威を植え付けることに成功したにちがいない。

 それから、さきほども触れたが、ローマでのジョコビッチとの対戦。第一セットを圧倒的な強さで押し切ったものの、第二セットで巻き返しに遭う。ファイナルセット、ジョコビッチはさきにブレークをし、マッチポイントを握る。もうダメか……と息を呑んだとき、すばらしいウィナーを決めて危機を脱出。タイブレークに突入し、どちらに勝利が転がりこむのかわからなかった試合は、錦織圭さんのDFによって崩れ、すんでのところで敗北を喫してしまったというあの試合。手に汗を握るとはこのことか、と克明に観戦の様子を覚えている。そして、当時のジョコビッチの勝利への執念には打ちのめされてしまったものだった。トッププレイヤーとはこういうことなのか、と。

 ほかにもいくつかある。マイアミQFのモンフィス戦もそうだし、バルセロナFのナダル戦の惜敗、全仏R32のベルダスコとの死闘、オリンピックの3位決定戦でのナダルから勝利をもぎとった銅メダル、ツアーファイナルでワウリンカに見せた圧倒的な強さ。思いのほかいろいろな試合を思い出せる。

 

 ポイントでいえば、つぎの二つはとくに印象深い。ひとつ目のマドリードの動画は、なんどもなんども見て泣きそうになったことがある。実況がたまらず声をあげる "Extraordinary tennis from the two best players!" というのが好きすぎる。

 

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 ふたつ目の "Oh smash! Can you believe that? What was he thinking!?" というのもよかった。いやはや、このタイブレークは忘れられない。これを見て思うのは、重要な局面であっけなく負けるということが本当に減ったような気がするということだ。去年はもっと簡単に敗けていた。確かにいい成績を収めた大会もあったことは間違いなかったが、上位選手にとってみれば、それほど厭な印象はなかったにちがいない。ただ、今年は簡単に屈することは減っていた。あのタイブレークも、よくもぎ取ったものだ。

 

 わたしはジョコビッチやマレーと錦織を分けるのは、いちばんは勝利への執念だと考えている。生涯グランドスラムを達成するまでのジョコビッチ、世界一位の座に就いてからのマレーについていえば、ほんとうになぜそこまでできるのか、というくらいに勝利というものにたいしてがむしゃらに突進しつづけていた。かれらが試合の途中で諦めのそぶりを見せたことは、少なくともわたしの記憶には一度もない。ここぞというときのサービスエース。ここぞというときのウィナー。ここぞというときのディフェンス力。テニスという競技において、勝利と敗北がほんとうに紙一重な分(わたしはその点がテニスの奥深いところだと思っている)、やはりそのような局面に耐え抜く能力が、王座に君臨するために求められているのだろう。

 技術的なことについていえば、錦織圭さんはやはりサーブがまだまだ足りない。体格的にももしかするとすでに限界点にあるのかもしれないが、マイケル・チャンの指導のもとに着実によくなっているとは思うので、さらなる高みを目指して欲しい、というのはすべての錦織圭ファンの願いだろう。サーブでフリーポイントが取れるかどうかというのはほんとうに大きい。

 ビッグ・サーバーであるだけでは上位に名を連ねることはできない昨今のテニスだが、ビッグ・サーブをときどき打つことができない選手にとっても、相当に厳しい現実である。マレーは210キロ級のサーブが打てていなければ、一位になることはおそらく不可能だったであろう。錦織圭さんにも同じ球速を求めるわけではないのだが、やはりコースの打ち分けやセカンドのスピン量などで匹敵するサーブを身につけてほしいものだ。今年は、サーブアンドボレーも使い始めたりしていて、サーブからの戦術に引き出しが増えたと思うので、その分サーブを着実に決めることというのはますます肝要になってくる。

 インターネットに流布している噂のうちに、錦織圭さんはアガシをコーチとして招聘するのではないか、というものがある。マイケル・チャンの仕事に不満があるわけではないが(しいていうなら、もう少しさまざまな大会で帯同してくれればいいのに、とは思うが)、コーチを変える/増やすというのは、彼にとって悪くない変化なのではないかと思う。このまま頭打ちになってしまうのがいちばん恐ろしい。とくに来年は27歳で、スポーツ選手としては一般的にピークのきやすい歳なので頑張って欲しいのだ。裏を返せば、27歳でつかめなければ、あとは下り坂を下っていくだけとも言えてしまうのだから。ともかく、怪我にだけは気をつけて、このオフ・シーズンのあいだに課題をひとつひとつクリアして、万全な状態で来季を迎えて欲しい。全豪で第4シードまでに入れなかったのは残念だが、来季こそはマスターズ優勝、そして悲願のグランドスラム優勝も果たして欲しい。この希望がけして夢物語ではないことに、なによりもおもしろさを感じている。錦織圭さんとテニスという競技にはありがとうという気持ちだ。

 

 べらべらと語りすぎてしまった。実をいえば、この調子でいくらでも語り続けることができそうなのだが ―― ラオニッチの好調、チリッチの終盤の強さ、デルポトロの復活、ティームやキリオスの台頭、あるいはウィンブルドンセンターコートフェデラーと戦った世界ランク772位のウィリスの話など、一年間追い続けてきたぶん、いろいろなネタが記憶のうちに転がっている。錦織圭さんの試合以外もわりあい見ていたので、ミーハーとはいえ、ある程度いまのテニス界について立体的に観れるようになってきた。

 とはいっても、男子テニスのことについてだけだけれども。女子のほうは、大阪に大きな期待を寄せつつ、時間があえば眺める程度に終わっているので、いまのところあまり興味を抱いているわけではない。テニス好きが昂じて、来季は女子の試合もきっちり追っているかもしれないな。なんなら今年、わたしはテニススクールに通い始めるほどにテニスという競技にぞっこんだったのだから。はあ、テニスが観たい、テニスがしたい。自分でもこの欲望の強さに驚きを隠せない。

高山俊は明らかに頭がいい

 11月も残すところ数日になって、ようやくプロ野球の2016年のMVPが発表された。パ・リーグは大谷、セ・リーグは新井である。セ・リーグのMVPは、カープのうちで選ばれる可能性があった選手は何人かいたが、かならずしも数字に現れないここぞというときの活躍、チームの精神的支柱という意味では、新井にMVPが授けられるのは順当といっていいだろう。

 大谷の受賞については、だれもが納得いく結果だろうと思う。投手と指名打者の両方から選ばれたベストナイン選定といい、まったく彼にとって大躍進の年だった(投手としての受賞については疑問が付されるという意見には同調しつつも、レギュラーシーズン終盤のピッチングについては、圧倒的であったことはとりわけ印象深い)。もちろん、こんなところで収まる器ではないのは重々承知である。数字でいえば今年は規定打席/イニングに到達しなかっただけに、来年はどちらも達成したうえで、投打のタイトル総なめしてくれるくらいの活躍を日本中のだれもが期待しているにちがいない。そして、満を持して海をわたって、文字通り「前人未到」を貫徹してほしい ••• というふうに、彼については期待が無尽蔵に湧き出てしまう。そういう期待を一身に受けてもなおそれを軽々と越えていくというところが、大谷翔平の規格外のすごさなのである。

 野球がぜんぜんわからないという友人から「大谷はどれくらいすごいのか」という質問を幾度か受けたことがあるのだが、いまだに適切な喩えが見つからなくて困惑している。「イチローとどっちがすごいの?」と訊かれるとどうしても答えに窮するのだけれど、全国の野球ファンの皆さんはどういうふうに説明しているのだろう。わたしはいつも「そもそも比較することが間違いだ」などとごにょごにょと誤魔化しているのだが。

 

 とまれ、同日には新人王も発表された。パ・リーグの新人王が茂木でなく高梨にいったのは少し残念だが、セ・リーグはといえば、大方の予想通り高山俊である。タイガースの選手の新人王受賞は、2001年の赤星以来だという。タイガースファンのわたしとしては、高山くんの活躍を見ているだけでも十分に楽しいシーズンだった。

 シーズン終盤、優勝争いはもとより、Aクラスも絶望的になったとき、北條や原口といったいわゆる「若虎」の活躍を追うことだけが観戦のモチベーションだったといっていい。とくに高山に至っては、坪井が記録した135安打というチーム新人最多安打を越すかどうか、かつて長嶋茂雄が樹立した新人としての猛打賞13回という記録を越すかどうかという新記録樹立が掛かっていた分、なおさら応援には力が入ったのである。残念ながら後者は12回で止まってしまったが(マルチ・ヒットを達成しても、猛打賞を記録するのは本当に難しいことなのだと身にしみてわかった)、136安打を記録し、新人としては申し分のない記録を打ち立てたことは間違いがない。新人王の結果も納得である。一年前のドラフト会議でよくぞ真中監督は外してくれたと感謝の気持ちは果てしない。金本監督もよくぞ引き当ててくれた。

 

 わたしが彼のことを気に入っているのは、卓越したミート力といった、技術の高さはもちろんのことながら、明らかに頭がいいということだ。ヒーローインタビューを見ていてもそうだし、普段の記者の受け答えを見ていてもそうなのだが、やはりいくらスポーツ選手とはいえ、知性の高さというのは、一流を目指すにおいては肝要なポイントであると思っている。もちろん、才能やセンスだけでもプロ野球選手にはなれる。そういう選手を追っていく楽しさもわかる。だが、わたしは野球IQの高さということがどうしても気になってしまうたちなのだ。

 清原と野村克也のつぎのようなエピソードが印象的だ。鳴り物入りでプロ野球に入団し、申し分のない成績を残していく清原だが、すでに指導者の立場にあった野村克也は、あるとき彼の限界に気づいてしまったという。「清原は天性だけでやっている、あいつには思想がない」、と。

 たとえば、イチローには知性があり、独自の思想がある。発言はもちろんのことながら、プレースタイルを見ていても、それは火を見るよりも明らかである。わたしは、高山にも似たようなものがあるような気がしているのだ。イチローほど活躍するとは買いかぶりすぎかもしれないが、あるいはそれくらいのポテンシャルは秘めているんじゃないか、と密かに期待を寄せている。

 シーズン中盤、不振が続いたことがあったが、終盤にかけてきっちりと修正して成績を残した。中途で苦しんでいたのは、ミート力が高すぎるがゆえに、どのコースの球でも振ってしまい、結果的にバットの芯を外して凡打となってしまうということだった。だが、そこからきちりと修正をして、終盤には球の見極めがうまくなっていたように思う。たんなる天性や運動神経だけでは、これほど早く修正はできないだろう。だれにとっても問題は明らかなのにもかかわらず、いつまでも同じ過ちを繰り返している選手なんて現に山ほどいるではないか。

 もちろん、プロとして一年目の選手に思想を問うのは酷だろう。だが、いずれは自らの論をきっちりと打ち立てることのできる選手だろうし、このままプロ野球で活躍し続ければ、引退後の解説者/評論家としての道も堅いだろうと踏んでいる。わたしは高山と同い年なこともあって、肩入れしすぎているのかもしれないが、同世代の活躍はいつだって刺激的である。強いて苦言を呈するならば、入場曲にEXILEは辞めてほしい。彼の音楽の趣味についてはあまり評価できなさそうなのだが、かといって音楽的嗜好と野球選手としての能力の因果関係を立証することもできなさそうなので、声を小さくして言っておく。せめてEXILEは辞めてくれ。

 

 ともあれ、まずは来季の活躍に期待しよう。守備や走塁という点では、まだまだ課題は山積みなので、オフシーズンのあいだにひとつひとつクリアしてもらいたい。修正能力にすぐれている高山のことであれば、きっとさらなる高みを来季は見せてくれるにちがいない。打撃についていえば、3割15本は越えてくれるだろうと期待している。来シーズンが待ち遠しい。

ソロモン諸島の音楽にたちまち恋に落ちて

 四の五の言わずにとりあえずこのヴィデオを観てほしい。

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 フィリピンのカリンガ族の楽器だというトガトン(Tongatong)のことを調べ、YouTubeで目についたものを片っ端から再生していたところ、たまたまソロモン諸島のサンタ・イザベル島の部族の演奏を撮影したものに遭遇した。この音楽がべらぼうにいいのである。くらくらとたちまちに恋に落ちてしまった。

 これはもう、わたしの心を完全に掴んで離さなかった。このヴィデオを観てから数日のあいだ、ずっとソロモン諸島のことが頭から離れないのだ。世界各地の多くの民族音楽がそうであるように ―― とはいえ、ほんとうにそうであるか、なぜそうであるかということについては知見を持っていないのだが ―― 反復を基調とするリズム音楽なのだが、わたしの知っている民族音楽とはちがって、ソロモン諸島の音楽はミニマリズムとは一線を画するポピュラー・ミュージックに仕上がっているのである。

 

 複数の奏者によって叩かれている竹でつくられたシロフォンのような打楽器は、たとえば西アフリカによく見られるバラフォンと同じような構造をもっているように見受けられるものの、このヴィデオで奏でられている音楽はアンサンブルとしての多幸感のあふれる長調のコードを繰り返してゆく。このコード進行が、なにもかもを浄化してくれそうな、はじけるエモさを携えている。そのうえに乗っかってゆくメロディの感動的であること! いますぐに踊りだしたくなってしまう。

 

 この映像はいつ撮られたものなのだろうか。まだこのような風景は、このような音楽は、かの島に残っているのだろうか。4年おきに開催されている Festival of Pacific Arts ものがあるらしく、前回の2012年はソロモン諸島での開催であったようだ。もうすこし早く出会っていれば、その機会に是が非でも足を運んだのだが。とまれ、ソロモン諸島にはいつか足を運ばなければならない、もうすでにわたしは呼ばれてしまっているのだから。

 ソロモン諸島をはじめとして、バヌアツパプアニューギニア、フィジー、ニューカレドニア(フランス海外県!)といった国々からなるメラネシアの地域は、もうすこしいろいろと調べる価値がありそうだ。じつは、ニューカレドニア日本語教師アシスタントの募集の口を目にして、ものすごく逡巡したのだが、結局任務期間と相談したすえに辞めてしまったことがあった。もしまたこのような機会があれば、飛びつくようにしたい。メラネシアの島での暮らし。浪漫しかないじゃないか!

 

 

 

ジェフ・ニコルズ『ショットガン・ストーリーズ』

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先日鑑賞した『ミッドナイト・スペシャル』('16)が非常によかったので、ジェフ・ニコルズの過去作品を観はじめている。ことしのベルリン映画祭のコンペに出品された『ミッドナイト・スペシャル』の前にはすでに三作の監督作品があり、処女作である『Shotgun Stories』('07)は唯一の日本未公開作品のようだ。PREMIEREに寄稿されていた最新作についての文章を立ち読みしたのだけれど、監督三作目である『MUD -マッド』('12)を除く、この処女作と『テイク・シェルター』('11)と『ミッドナイト・スペシャル』の3つのフィルムを合わせて、監督自身の人生について描いたトリロジーというふうに捉えているらしい。

 

処女作とはいえ、すでに『Shotgun Stories』においてジェフ・ニコルズは、自身の作風を確立しているように思える。舞台は監督自身が生れ育った南部のアルカンザス州にあるちいさな田舎町。

 

幼きころに父は家を捨て、残された母からの愛情どころか憎しみを受けてこの町で育ったSon(マイケル・シャノン)、Boy、Kidの三兄弟は(この名前のふざけっぷりがすでに母のひととなりを示唆している)、養殖業や地元高校のバレーコーチなどでなんとか生計を立てながら、うだつのあだらない生活をしている。「システムが見えそうなのだ」といいながらカジノで金を遣い果たすSonにあきれ果てた妻は、息子とともに母の実家に帰郷してしまい、そのあいだふたりの兄弟たちは家になだれ込み、ひたすらビールを飲みながら頽廃的な暮らしを送る。Sonの背中にはショットガンで撃たれた跡が残っていて、養殖業の同僚たちは、「むかし強盗をやらかしたのではないか」などとこそこそと噂話をしている。

 

ある日、父の死を知らされた兄弟たちは、父の葬式に向かうのだが、そこにはSonたちの家族を捨てたあとにつくった新たな家族たちが悲哀にくれている。Sonは彼らに向かっていう。「彼はいい人間なんかでは決してなかった。あなたたちがどのように思っているかわからないが、これだけは言わなければいけない」。三兄弟はこうして葬式を台無しにし、静かに去ってゆく。

 

このことがきっかけで、同じ父を持つふたつの家族のあいだで啀み合いが勃発する。はじめは単純な言い争いだったはずが、どんどんとエスカレートしてゆき、Boyの可愛がっていたHenryという犬が、相手方の家族が故意に放った毒蛇に殺されてしまう。そのことに逆上したKidは、ひとりで相手の家族に復讐を仕掛け、相手家族の息子ひとりと激しい抗争になり、不幸にもお互いが命を落としてしまう。

 

そのあとも緊張感のなかに二家族は啀み合いを続けるのだが、ある日Boyはひとりで相手の家に向かい、「もうだれも失いたくないんだ」と停戦を持ちかける。そしてそれぞれが普段の日常に徐々に戻ってゆく。結局Sonの背中の銃跡の謎は明かされぬまま、幕が閉じる。

 

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個人的にいちばん好きだったシーンは、人通りのまったくない寂れた街角の道に3人で腰をかけ、ビールを引っ掛けながら訥々とことばを交わす場面だ。「だれもいないな」「まるでこの町が俺らのものになったみたいだ」「もしこの町が俺のものだったとしても、即座に売り払ってるさ」。この圧倒的な気怠さ。アメリカ南部のことはあまり詳しくないけれど、この気怠さというのは地方の田舎町には世界共通の感覚だろうと思う。さしあたって風景もあまり特徴がない。「特徴がない」という共通のコードを持ったグローバリゼーションの影響下にある一側面。

 

落命してしまうすこし前、Kidはひとりの女の子と結婚を考えているんだ、とSonに相談をする。「いまでも奥さんのこと好き?」「ああ、もちろんさ」。自身の貧困のために、ふたりぶんの人生に責任が持てるかわからないんだ、と結婚をどこかで躊躇っているKidに、Sonはこう助言する。「結婚において決めなければいけないのはひとつだけだ。あるひとりの相手を愛するのだ、という決意。あとはなんとでもなる」。そのことばを噛み締めるようにKidは静かに頷く。刹那的な生き方をする頽廃のなかに、わずかに未来への決意を固めた瞬間。いったいなんと尊いのだろうか。

 

 

『Shotgun Stories』は、後半にかけてスリリングな抗争のシーンが控えめに挿入されつつも、全体を通してそうした町で無為に暮らす現代の者たちの肌感覚を見事に描き上げた佳作だった。その肌感覚は、彼らが家族間停戦を宣言したあと、遺されたSonとBoyがふたりで並んで座っているシーンの倦怠において鮮やかに体現されている。あれだけの頽廃を描ききりながら、かったるいけれど仕方ねえなあ、それでも人生は続いてゆくのだ、とでも言わんばかりの爽やかなエンディング。その人生の節目には、確かに未来への決意がなされることだってあるのだ。

 

処女作ということもあって、この作品を観ていて思いだしたのは、ジョージ・ルーカスアメリカン・グラフィティ』である。西海岸のカルフォルニア州に近いModestoという田舎町で六十年代に高校時代を生きた明日への希望に満ち満ちた若者たちと、『Shotgun Stories』の倦怠のなかに生きる三兄弟をはじめとする若者たちは、アメリカという国の二面性を表しているように思えてならない。ただ、どちらの人生においても、若者たちは未来にたいして決意をしなければならない瞬間が訪れるのである。

 

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ところでどうでもいいのだが、マイケル・シャノンの妻を演じていたGlenda Pannellという女優が個人的にとてもタイプだった。調べたらあまり映画には出演していないようで残念。というか、ほかの写真はぜんぜんよくなくて、とにかくこの役が最高だった。この顔で怒られたい。

 

ジェフ・ニコルズ監督には、ことしのカンヌ映画祭のコンペ作品に選出されるのではないかとまことしやかに囁かれている次回作『Loving』の公開が控えている。おそらくアメリカではことしの公開だろう。主演は変わらずマイケル・シャノンが演じるようなのだが、助演俳優にジョエル・エドガートンの名前があがっていて思わず昂奮してしまった。ことし見た『ブラック・スキャンダル』『ミッドナイト・スペシャル』の二作で素晴らしい演技をしていただけに(というよりも、役どころがどんぴしゃなのだ)、次作も非常に楽しみにしている。そしてジョエル・エドガートンの妻を演じるらしいRuth Neggaというアイルランドとエチオピアの血の混ざった女優もまた美人で驚いた。ぼくとしては、アフリカ大陸でもっとも美しい女性の多い国はエチオピアだと勝手に思っているので、彼女が僕のテーゼを証明してくれている。こういうことを話していると止まらないので終わっておく。『テイク・シェルター』『MUD』も近いうちに観るつもりです。

 

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ミア・ハンセン=ラヴ『L'Avenir』

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イザベル・ユペールの出演している作品は実のところあまり観ていなくて、いちばん記憶に残っているのはマイケル・チミノ天国の門』('80)で奇跡的な美しさを放っていた彼女の姿である。あれから三十五年ほどのときを経て、いま63歳になった彼女は、もちろんあのころの弾けるような瑞々しい若さはすでに失ってしまっている。その若さの代償にして、彼女はなにかを手に入れたのだろうか? それはなんだろうか?

 

そのようなだれに取っても普遍的となりうるような問いがミア・ハンセン=ラヴの新作『L'Avenir』のうちに見て取れるだろう。イザベル・ユペール扮する主人公は、パリの高校の哲学教師である。おなじく哲学教師の職に就く夫と、ふたりの子どもと、パリの一角のアパートに暮らしている。パリにひとりで暮らす彼女の母は、精神的な疾患を患っているためか、一日中ひっきりなしに彼女に電話をかけてくる。彼女が教え子たちに哲学的な問いを投げかけている最中ですらも。

 

そうした彼女の日常は、徐々に崩壊の兆しを見せる。べつの女性と余生を過ごすことを決意した夫は、彼女に離婚を申し出る。子どもたちは自立し家を離れる。施設に収容された母はこの世を去る。いつのまにか彼女の周りにはだれもいない。パリの上品なアパートに帰り、孤独のなかで簡単な食事をすませる毎日。だが、そこから彼女は思いがけず手にした「自由」を行使し、みずから「幸福」を探し求める――。その「幸福」のひとつのヒントとなるのは、次なる世代への"transmission"ということだろう。だから彼女は高校生たちに哲学を教えるし、孫の誕生に歓喜する。

 

おそらくはこのようなテーマでこの作品は制作されたのだろうと思う。しかし、ぼくは鑑賞中、それにしてはあまりにも物語の強度に欠けるなと思っていた。ひとりの中年女性の孤独を描くにしては、描き方が淡白すぎる。もっと彼女の孤独を際立たせられることはできたはずなのに。しかし映画館から出て、0時を回ったパリを歩きながら反芻していると、なぜだか突然とてもいい映画だったのではないかと思えてきたのだ。

 

中年女性の孤独を、ドラマティックに脚色するのは簡単かもしれない。だが、あの淡白さは逆にリアリティなのだ。とりわけ哲学教師という職に就く彼女は、いかにもフランス人的な強い女性の肖像となっている。サーカスティックな性格――たとえば彼女は政治にたいする興味をすでにあらかた失ってしまっている――をもつ彼女にとって、子どもを育て上げたあとの老後の人生というのは、あのような淡白さのもと緩やかに後退してゆくようなものなのだろう。

モンタージュはいささか性急で、冗長な部分を観客に見せることはしない。また物語も2時間未満の映画のあいだ、めまぐるしく時間が進行する。そのようなある種のダイジェスト的なナラティヴは、彼女の生活の断片を少しずつ取り上げてゆき、ひとりの女性のリアリティに迫ってゆく。

 

あるいは僕自身の人生もそのような末路を辿るのだろうと思った。ほとんどの人間はゆるやかな逓減のもとにおのおのの人生を閉じる。そこにはときおりダイナミズムも観察されうるかもしれないが、巨視的に眺めたときは、ひとつの平坦な線でしかないのであろう。そのことに思い当たったとき、わたしたちは耐えられない。だから人生の無為を思って、もう失って二度と戻ってこないものたちを思って、途端に涙が溢れてくることがある。枕を涙で濡らしてしまう。

 

けれどその人生もまた美しいじゃないか、とこの映画にこっそりと教えられたような気がしたのだ。この煙草あまりうまくねえなあ、なんて思いながら深夜のパリで帰路を急ぐ自分の目にしている光景を、いつかふと思い出すことがあるかもしれない。

 

だが人生悪くねえなあと思わされたのは、なによりもパリから離れ、そのあまりにも美しい光に満ちた自然のなかの風景である。はじめは夫の所有するブルターニュの海沿いの家。後半は元教え子のひとりが暮らしているVercorsというアルプス山脈に近い山奥。夏のパリの朗らかな日差しもまた魅惑的なものとしてフィルムに収められているが、この自然に囲まれた暮らしを羨まないわけにはいかなかった。この奇跡的なまでの美しさに耽溺することができるだけでも、この作品は見る価値があるとすら思う――そしてその美しさとわたしたちは生活のなかで相対することができるのだ。いちどああいう暮らしを送ってみたい、"C'est le paradis ça !"と心の底から叫んでみたい。

 

最初のカットは、船のなかで書き物をしているイザベル・ユペールの後ろ姿から始まる。5分にも満たない最初のシーンは、家族4人でブルターニュ地方に旅行に出ているところである。まだ幼い子どもたちを引き連れて、海のほとりに立つ十字架に対峙する。そこに現れるタイトル。作品中、思った以上に哲学者が出てくる。ジャンケレヴィッチ、ルソー、レヴィナスショーペンハウアー…。あまりにも哲学思想の使いかたが雑駁であるように思ったこともいちおう記しておこう。フランス語で哲学書を引用されてもきちんと頭に入ってこないので、たいして理解できていないだけかもしれないけれど。

 

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