日誌 | 20231010 - 1016

10日 火曜日

 幸田露伴五重塔』を読み進める。その文体に手こずってなかなか読めない、現代語訳が必要かもしれないと同僚に愚痴を垂れると、彼はたった百三十年前の文章が読めないとは日本人はなんて可哀そうなのだ、同時代のフランス文学だったらいまとは接続法の用法が多少異なるくらいで難なく読めるのにと言った。


11日 水曜日

 パリ郊外に位置するメトロ五番線の終着駅に近づいて、列車は地下から地上に再び浮上する。まだ19時だというのにほとんど日は傾いていて、日が本当に短くなったと思う。Bobigny 駅に降りたのははじめてのことだが、駅前にはまるで共産圏のような画一的な建物が立ち並んでいて、ただちにわたしはここは陰鬱な地区だという印象をもった。この地区にある「MC93」という文化施設は国主導の再開発プロジェクトによって2015年に開館し、以来パリの文化界隈でも大きな注目を集めていると聞く。この日はフランソワ・シェニョーの公演初日で、しかも今日が彼の誕生日だというので、プレゼントに蓮の花のお香を鞄に忍ばせて、はるばる駆けつけたのだった。けれども開演時間に数分間に遅れてしまい、受付で粘ったのだが入場を断られてしまった。わたしはしょぼくれながら町を散歩する。駅前の南アジア系の露天商から1ユーロで買った焼きトウモロコシを頬張り、往来の人びとの顔を眺めているうちに、何となく映画が観たくなって、シャトレに移動してアキ・カウリスマキの『枯れ葉』を観た。すでに都市の孤独は厭というほど味わいつくした夜だったのに、そんなわたしに畳みかけるようにヘルシンキの労働者たちの孤独の感が襲ってくる。業務用スーパーのルーティンワーク。毎日毎日何も変わらない通勤の風景。ラジオはウクライナ戦争の戦況を事細かに報じている。まっすぐなラブストーリー的結末に救われる間もないまま、陰鬱な気持に伝染して、寒空のもと一時間ばかり歩いて家に帰った。

 

12日 木曜日

 二十時を回ったころに職場を出て、自宅に一度帰って荷物を置く。昼につくった炒飯を掻き込んで、自転車を飛ばして手ぶらでオルセー美術館に滑り込んだ。何となくシスレーが見たいと思って五階に上がったのだが、新たに収蔵されたカイユボットの向日葵に心を奪われ、しばらく椅子に座って眺めているうちに、いつの間にか閉館時間を迎えていた。カイユボットの作品にしてはあまり奥行きがないのだが、逆にその平面性が、わたしの記憶の奥底に堆積していた〈夏〉のイメージと共鳴してハウリングを起こしていく。思えばこの夏は本当にいい夏だった。七月、ザグレブの安宿で30歳の誕生日をひとりで迎えたときには、まさかこんなにいい夏を過ごすことになるとは想像だにつかなかった。来年も再来年も向日葵が咲く季節は巡ってくる。そのことに大きく救われる気持がした。

Gustave Caillebotte, Les Soleils, jardin du Petit Gennevilliers, 1885年頃.

13日 金曜日

 朝早くに赴いたカフェに設えられたテレビで、昨日のレピュブリック広場での親パレスチナの集会デモをめぐる報道を眺める。案の定、イスラエルによる報復攻撃がはじまってしまった。フランスはあれだけの規模の親イスラエルのデモを開催したにもかかわらず、パレスチナのデモには公式な認可を出さない。あからさまな不平等である。パリに新たに駐在となった共同通信の記者が、まさかこれほどまでにフランスをはじめ欧州諸国が親イスラエルの姿勢を露骨に出すだとは思ってもみなかったと言っていた。最初の報道でハマスのことを「テロリスト」と表現しなかったのは、BBCと日本のメディアぐらいしかないんじゃないですかねえ。

 

14日 土曜日

 レピュブリック広場には、親パレスチナのデモの開始数時間前に多数の警察官が出動していた。わたしはその場にいた白人の警官に問うてみると、本来は禁止されているデモなのに、と含みのある言い方をしていた。参加者が三々五々に集まってきている。

 新婚旅行でパリを訪れている学部時代の先輩夫婦とともに、パリ郊外のパンタン墓地に眠るエマニュエル・レヴィナスの墓参りに向かった。かつて先輩はレヴィナスを中心に〈怠惰〉をめぐる修士論文を書き上げていて、今回のパリ滞在でも、レヴィナスの墓参りだけはしたいと新婦に伝えていたそうだ。わたしたちは墓地の向かいにある花屋で薔薇の花を買って、境内に足を踏み入れる。受付の男性はレヴィナスの名を知らず、探し当てた墓石はユダヤ人区画にあるきわめて質素なものだった。近くにはアルジェリア戦争で命を落としたユダヤ人の共同墓石があった。自身の出自に徹底的にこだわったレヴィナスシオニストとしての立場を取り、往年のイスラエルによるパレスチナ侵攻にたいしても支持を表明していた。この時勢であらためてレヴィナスの問うた倫理を考えることはどういうことだろうかと、若干のためらいを憶えながらもわたしは彼の墓地の前で手を合わせたのだった。

パンタン墓地には第一次世界大戦の名もなき戦没者の墓がずらりと並ぶ

 

15日 日曜日

 昨夜の Nyege Nyege 主催のパーティは、朝方になればなるほど盛りあがっていったようだ。ウガンダのエレクトロを束ねているコレクティヴ。もう少し残ればよかったと、布団にくるまってインスタグラムを眺めながら思う。わたしはもそもそと布団を脱け出して、列車に乗って  Seine Musicale のチャプリンの子ども向けシネ・コンサートへ。『チャップリンの悔悟』と『チャップリンの寄席見物』の二本立て。親に付き添われた年少の子どもたちがごった返すなか、ひとりで観に来ていたのはわたしひとりだけだったのではないかと思う。『寄席見物』での劇中のチャプリンをはじめとする登場人物たちが劇場で繰り広げるすったもんだ。数百人の子どもたちの笑い声がげらげらと響きわたる様子を聴くうちに、胸中に幸福感が迫り上がってきて、ひとり悟られないように声を殺して泣いた。まるで発作を起こしたかのように泣きながら、ときどき笑って、ああなんかこのまま死んでもいいなあと、なんともベタなことを思ったのだった。

Seine Musicale の会場にて

 夕方。今宵の宴に備えて買い出しに出かける道すがら、イヤホンをつけて森島慎之助の新譜を聴くと、たちまち東京の景色に引き戻された。あの独特な言語感覚で紡がれた歌詞の端ばしからにじみ出るユーモアに口角を緩めていると、不意打ちでわたしになじみのある曲が流れてきて、いてもたっても居られず、その場で泣き崩れてしまった。往来の人たちに涙していると悟られないように、わたしは俯きながら路地裏に入って、おいおいと泣いた。泣いてばかりいる一日だ。パリの夕日はことさらに朱かった。

 

16日 月曜日

 わたしは昨夜のキムチ鍋の残り。画面の向こうの二人は里芋や海老の揚物やお刺身。パリは昼、東京は夜で、ビデオ通話を繋いで同時にいただきますといって、ぺちゃくちゃとおしゃべりをしながらお互いに近況を報告しあった。

 夜。仕事でいただいたシャブリ・グラン・クリュのボトルを一本開けてみる。ワインについては素人同然で、アペラシオンの類も話半分で済ませてきたが、わたしがこれまで飲んできたあらゆるワインが一瞬にして霞むくらいの衝撃的な美味。これは白ワインにはまってしまいそうだ。気づけばいつの間にかボトルが空いていて、心地のよい酩酊に身を任せて眠りに就いた。