バスク旅行記 Ⅱ| 20231001 - 1003

10/1 日 San Sebastián (Donostia) - Cauterets

 最後のランナーが走り終わるまで待つしかないね。レンタカー屋の青年は力なく首を振った。市街のハーフマラソン大会で交通規制が敷かれ、大会が終わるまで車を出庫できないのだという。致し方がないのでもう何時間かサンセバスチャンに留まることになった。今日も気持のいい快晴。サンタ・マリア・デル・コロ大聖堂から南に向かってまっすぐに伸びる通りの先に、互いが向き合うように建てられたサン・セバスチャン大聖堂が小さく見える。街中を駆け抜けるマラソンランナーたちに無邪気に応援の言葉を送りながら、わたしたちはその大聖堂まで歩いていった。ネオゴシック様式のありふれた教会ではあるが、あざやかな色彩のステンドグラスから虹色の光が差し込んでいる。美しい。

 サンセバスチャンで最後の昼食を摂って、旅の仲間のひとりと別れを告げてから、四人でレンタカーに乗り込んだ。レンタカー屋の青年は借主の「KOKUBO」という名前を見て、昨夜のバスク・ダービー久保建英選手がどれだけ活躍したか熱弁しはじめた。KOKUBO は「リトル・クボ」を意味だというと、彼は気持のいい笑顔を見せて何か冗談を言った。わたしたちを乗せた黒いアウディは、悠々とスペインとフランスの国境を跨ぎ、いくつもの町を通り越してから、さらにピレネーの山道を登っていく。三時間ほどのドライブで、目的地であるゴーブ湖登山口に到着した。標高はすでに1,500メートル超。ピレネー山脈の澄んだ空気を目いっぱい吸い込む。草木の明るい緑が目に快い。

ピレネーのリフトから

 山頂付近まで続くリフトからの眺めは、まさに絶景という言葉が似つかわしかった。数百年、数千年、数万年ものあいだ、人間の思惑とは関係なしに存在し続けた自然。わたしたち人間はただその姿を見つめることしかできないという厳しさ。リフトに肩を並べて座るわたしたちはこの感動に値する言葉をうまく見つられないまま、言葉少なげに終点についた。きみたちが今シーズン最後の客だ。そう言って退けたのは係員の男性で、わたしたちがリフトを降りるとすぐに下山のための身支度をはじめていた。さらに山道を歩いていって、ようやく湖に辿り着いた。すでに日は傾きはじめ、観光客はみないなくなったところで、羊やヤギがのんびりと草を食んでいる。わたしたちはひとしきり動物たちと戯れてから下山する。草花にくわしい女子たちは、何かを見つけるたびに立ち止まってはその名前や特徴を言いあっている。彼女たちは青く小さな可憐な花を指さして、ひょっとしてこれはサフランじゃないかと言っていた。

 ピレネー山脈の中腹にあるコトレという小さな村の宿に辿りつく。宿泊者はわたしたちだけだった。この宿の主人は十五年ほど前に廃墟だった建物を買い取って、妻と一緒に二人の子どもたちを育てながら民宿を経営しているという。あの主人の風貌からは考えられないほど品のいい調度品が並んでいて、これからはじまる厳しい冬に備えてか、軒先には暖炉にくべるための薪木がうず高く積みあがっていた。わたしたちは村まで降りて夕飯を済ませたあと、宿の部屋から夜が大地を包摂するさまを見た。満天の星空。ついさっきまで丸々としていた月が山の稜線の向こう側に沈んでいき、やがて見えなくなってしまった。こんなにも早く地球は廻っているのかと驚く。

宿に棲みつく猫と目が合う

10/2 月 Cauterets - Lourdes - Biarritz - Bilbao

 目を醒ましてすぐに窓を開けて、身を乗り出して朝の空気を胸いっぱいに吸いこむ。山間に位置する村はまだ暗がりのうちにあったが、遠くに見える山々のてっぺんには朝日が綺麗に照りつけていた。ピレネーの山々の向こうまで続くゴンドラがゆっくりと運行しているのが見える。何度だって目ざめたい宿の、何度だって目のあたりにしたい景色。

 宿で供された朝食を採ってから、コトレの村へと下っていく。夏冬のバカンスシーズンのあいだは観光客で賑わうのだろうが、季節外れのピレネーの村の朝は、いやに淋しげな雰囲気をたたえていた。村でただひとつの教会を訪ねたあと、小さなキオスクで地域の来歴を記した本をめくってみる。この一帯は温泉が湧き、二十世紀初頭にはパリから直通の鉄道が敷かれ、滋養のための場所として栄えていたらしい。往年の観光ポスターが葉書として売られている。この温泉はいまも営業を続けていると知ったのは、下山してしばらく経ってからだった。時すでに遅し。いったいどんな風呂だったのか気になって仕方がない。

朝食会場

 わたしたちの乗るアウディがエンジンオイル不足を訴えていたので、まずは代わりのオイルを探すことになった。途中の町にあったガソリンスタンドに駆け込むと、よごれたつなぎを着た男性が、裏紙にガレージまでの道順を丁寧に記してくれる。その地図を頼りに車を走らせて、無事に幹線道路沿いのガレージにたどり着いた。GPSに頼らずに進んだ道中のスリルや、ついに目的地を見つけた感動は一入だった。わたしたちが利便性とのトレードオフで喪ったものの価値よ。

ガレージ屋による手書きの地図(背景はスリランカカレー…)

 つぎの目的地は、カトリック最大の巡礼地として知られるルルドである。十九世紀半ば、ルルドに住むベルナデッタという名の無学な14歳の少女がマリアの出現を立て続けに目撃した。マリアが顕現した洞穴の湧き水はつぎつぎと病人や障害者を癒やし、その奇蹟は噂に噂を呼び、はじめは取り合おうとしなかったバチカンも、熱烈な信者の支持を得ていたベルナデッタの奇蹟を公式に認めることとなった。以来、変哲もない村のひとつに過ぎなかったルルドはマリア信仰の巡礼地と化し、巨大な教会が建てられ、世界中からその奇蹟にあやかるべく信者たちが訪れるようになる。フランスではパリに次いでホテルの客室数が多いという。

 まるでフランスの街並とは見えないような雑多な景観の土産物屋街。でかでかと英語で書かれたパネルがあちこちに掲げられ、一瞬ここは東南アジアかどこかではないかと錯覚しそうになる。ルルドの町にはどういうわけかスリランカ移民が多いそうで、土産物屋街に並ぶスリランカレストランに入った。Rはむかしスリランカに留学したことがあり、彼女からシンハラとタミルの二大民族から成り立つスリランカという国家についてあれこれと聞く。

 腹を満たしたわたしたちは、イタリア人の経営する土産物屋で購入したマリアを模ったガラスの聖水入れをもって教会へ向かう。なによりもまずその教会の巨大さに度肝を抜かれる。五十人くらいの車椅子のグループが列を成して広場を横切り、修道服に身を包んだ女たちがぞろぞろと礼拝へ急ぐ。わたしたちはしばし聖堂で司祭の説教を聞き、体育館がいくつも続くような巨大な地下聖堂をぐるりと一周し、洞窟の湧き水に触れるための列に並び、そのわきにずらりと並ぶ蛇口を捻って聖水をボトルに注いだ。その道中、周囲からはありとあらゆる言語が聞こえてくる。教会の屋根から景色を眺めていると、褐色の肌の男性から流暢な日本語で声をかけられる。彼は偶然なことにスリランカ人で、横浜で十年余り住んでいたこともあったという。バスク地方を旅行中だというと、ビアリッツには行きましたか? 絶対に行くべきですよ、あんなに美しい町はありませんよ、と鼻息が荒い。わたしたちはある種の信託だと思って、燦然と差し込む夕日を正面から浴びながら数時間車を走らせて、大西洋沿岸のビアリッツへ向かった。

 この旅のあいだじゅうずっと晴れていたのに、ようやくビアリッツに到着しようという瞬間に、どこからともなく暗雲が立ち込めはじめ、いつの間にか真っ暗になった。あのスリランカ人はサタンだったのではないかと冗談を言いながら、強風のなか埠頭に立つマリア像のもとに参詣した。こんなところに聖母マリアが立っていたなんて知らなかったし、ましてやビアリッツに来る予定もぜんぜんなかった。マリアさまによって導かれていたわけだ。

ルルドの聖水が汲まれたマリアと大西洋の荒波に向き合うマリア

10/3 火 Bilbao - Paris

 路面電車に乗って、グッゲンハイム美術館に向かう。フランク・ゲーリーの手による二十世紀を代表する建築を目当てに世界中からどっと観光客がおしかけて、人口三十万人ほどのバスクの地方都市は息を吹き返したといわれる。確かにあの曲線が複雑なリズムを織りなす巨大な銀色の構造物の異様な存在感に惹きつけられはしたが、わたしはニューヨークのフランク・ロイド建築のほうが遥かに好みだと思った。入口の近くには猿の仮面をかぶった大道芸人がいて、わたしたちは遠くからパフォーマンスを眺めてそのシュールさにひとしきり笑い転げたあと、急にみな押し黙ってしばらくその光景に見いっていた。美術館に飾られたどんな作品よりも、この大道芸人の姿がずっと記憶に残るのではないかというこのときに抱いた予感は半分当たって、あの体験の強度に伍すのはロスコが黄と赤で塗った大きな作品ぐらいだったかもしれない。企画展として組まれていたピカソ彫刻展はなかなかの見ごたえがあったが、あまり時間がなくて足早にまわった。今年、世界でピカソの没後五十年を記念して組まれた特別展は五十を超えるという。それだけの数のホワイトキューブを埋めてしまうほどのピカソの多作ぶり。ピカソはその作品の厖大さと多様において二十世紀を代表する画家となりえた、と言っていたのは誰だったか。

猿の仮面を被った大道芸人グッゲンハイム美術館

 ビルバオ空港の搭乗ゲート前で抱擁を交わして、ひと足先にマドリードに帰っていくRを見送った。わたしたちパリ組は、二時間ほどのフライトで五日ぶりにパリに帰ってくる。例によってシャルル・ド・ゴール空港からのB線の列車は待てど暮らせど来ず、ようやく家に戻ってきた夜半にはどっと疲れが吹き出した。それでも綾介さんが機転を効かせて、乾麺を茹で長葱を切りきざみ、あたたかいラーメンを用意してくれた。柚子胡椒風味のあたたかいスープが本当に沁みる。静かな夜半に送られてきたRのブログを読んで、彼女の頭のなかを覗き込んだ気がしておおきく感情を揺さぶられた。同じ文章を読んだわこちゃんは目に涙を浮かべていた。

 寝台に入る。さまざまな瞬間がせわしなくフラッシュバックして、わたしは疲れていたのになかなか寝つけなかった。確かにこの旅であたらしい流れがはじまった、と思う。泉から水源へ遡行する。そこで湧く清らかな水は奇蹟を起こす。その湧き水は山を下り、やがて大きな河となって海へと流れこんでいく。わたしたちの乗り込んだ舟は、どれだけ遠くまで行けるだろうか。