日誌 | 20230915 - 0921

9/15 金

 ブローニュの森を抜けてパリ郊外の La Seine musicale に。坂茂セーヌ川に浮かぶ中洲の建築を手がけ、つい最近名和晃平のモニュメントが設立されたコンサートホールである。ここにはかつてルノーの自動車工場が建っていたという。

 バルタバスの演出によるモーツァルト『レクイエム』。触書きにはこのようにある。「騎馬オペラ」の劇団を立ち上げた奇才演出家。60人のコーラス隊とオーケストラによる生演奏。13頭の馬。9人の騎手。いったいどんなもんじゃと期待に胸を膨らませ、最大6,000人が収容可能だという巨大な会場に腰かけた……のだが、蓋を開けてみると「ステージ上で馬が走っている」というはじめの昂奮を超えることはなかった。馬にアクロバットをさせるわけにはいかないもんなあ。それよりもむしろ、白人ばかりが詰めかける会場でモーツァルトが演奏され、騎手はみな長髪の白人女性ばかりという人種的な偏りにだんだんと気持悪さを憶えていた。一緒に足を運んだ二人もあまりピンと来ていなかった様子で、悪口をいいあいながらバスで郊外から自宅に戻って、塵芥の舞うパリのケバブ屋で、いかにも健康に悪そうなケバブを食べた。今日にふさわしい食事。本当はこの日、わたしは長らく心待ちにしていた Amaarae のコンサートを見に行くはずだったのだ。アーティスト本人の個人的な都合で公演は中止、3月に延期となってしまった。

 

9/16 土

 キノコの炊き込みご飯にみそ汁、鯵の南蛮漬け、ほうれん草のおひたし、野菜の天ぷら、蕪の漬物。三人で料理をして(二人に料理を任せて?)、フランスの友人二人の来客を迎えて、五人でわが家の円卓を囲む。フランス人たちに対して君たちこのご馳走にもっと喜びなさいヨと内心思ったりしながらも、机の上では休むことなく箸が行き交い、やがてきれいに皿は平らげられた。ちょうど冷蔵庫に眠っていたとらやの羊羹が供される。二十四節気にあわせて売り出される季節限定で、水の意匠があしらわれたもの。美しい和菓子。カミーユは季節の名前が二十四もあることにいたく感動を憶えていた。

 

9/17 日

 三人でクリニャンクールの蚤の市へ。クリニャンクールで必ず寄ることにしている古本屋で、わたしはずっと探していた『パリ郊外』初版の実物を手に取った。ブレーズ・サンドラールが文章を書き、ロベール・ドアノーが写真を撮ったもの。この書物については堀江敏幸が文章を書いていたはずだ。値段は 200 € 。今回は購入を見送ってしまったが、手許に置いておきたい書物だったことは間違いない。そうしてわたしが本屋を漫然とぶらついているあいだ、わこちゃんは画集、綾介さんは写真集を片っ端から物色していた。アレックス・カッツの画集のほかにもあれやこれやをニコニコしながら購入していたわこちゃんを見て、ああこの子はどんな場所でも自分の力で切り拓いて生きていく力があるんだと、大げさな感銘を受けていた。

Blaise Cendrars / Robert Doisneau, LA BANLIEUE DE PARIS, 1949.

 セーヌ河に注ぐ運河に沿って歩いていると、ユダヤ教徒たちが川べりに集まって、みなでヘブライ語聖典を読んでいる姿をたびたび見かける。何人かは羊の角と思しき笛を手にしている。あとで調べてみると、あの集会はヘブライ語でローシュ・ハシャナと呼ばれる、ユダヤ教の暦における新年を祝うものだとわかった。過去に犯した罪を水に流すと説明にある。ユダヤ教ではアダムとイヴの誕生から暦を数え、今年で5784年目に当たるそうだ。

 三人で近所のアイリッシュパブラグビーW杯の日本対イギリス戦を見に行く。イギリス人たちに混ざって日本のチームを応援するわれわれ三人。試合はイギリスが勝利を収めた。わたしは周囲のブリティッシュに祝福の言葉のひとつやふたつ進呈して差し上げようと寛大な気持になっていたのだが、試合が終わった瞬間にみなわたしたちとは目すら合わさずそそくさと帰っていった。まるで日本人みたいだ。

 

9/18 月

 Facebook のタイムラインに、わたしの「友達」に寄せられた追悼のメッセージが次々と流れてくる。十年以上前のインド旅行で一度会ったきりのバックパッカーだったが、どうやらつい先日、若くして急死したと知る。彼はわたしのことなど憶えていなかっただろう。わたしだって彼のことはよく知らない。けれどもたくさんの人たちが彼のアカウントをタグ付けして、故人を偲ぶ文章や写真の投稿をかたっぱしから読んで、本当に愛されていた人だったんだなと神妙な気分になる。その日も彼はいつものように和歌山で畑仕事に出かけ、梅の木に抱き着くようにして亡くなっていたのが発見されたのだという。まさに天に召されたという感じの最期だ。

 パリを訪問中の高校の同級生と十年振りに食事。彼は手土産にアルプス木島平の「村長の太鼓判」という米を持ってきてくれたのだが、これが炊いてみると抜群においしい。

 

9/19 火

 引越しの相談で茉莉さんの家にお邪魔する。コレージュ・ド・フランスの物理学のオープン講座から帰ってきたミシェルの、優しげな皺の入ったお茶目な表情を見て、わたしはこの五区のアパートに住むのがなおさら楽しみになった。

 

9/20 水

 パリの埃っぽい空気はもう辟易、森にお出かけして新鮮な空気を目いっぱい吸おうというわこちゃんの提案を受け、わたしたちは一時間ほど列車に乗ってフォンテーヌブローの森に出かけた。十九世紀のバルビゾン派の画家たちが絵を描いていた土地。コローの時代からそう変わらない風景がある。わたしたちは森のなかを数時間歩いて、やがてバルビゾンの町に辿り着いて、カフェでデザートを食べてから、日が暮れるころにパリに戻った。

Camille Corot, Fontainebleau – Chênes noirs du Bas-Préau, 1832 or 1833

9/21 木

 待ち合わせの時間に遅れそうになって、冷たい風が吹きはじめた薄暮の大都会を大急ぎで自転車を漕ぎながら、ああパリの冬も美しいのだという感覚を久々に思いだした。L'Olympia の位置するマドレーヌ寺院とオペラ座ガルニエ宮を結ぶ大通りは、わたしが知るかぎりパリでもっとも都会的な感じがする。この日の Arlo Parks のライヴに詰め掛けていた若者たちも、まさにシティボーイ・シティガールという風貌だった。

 わたしはサウス・ロンドンの大都会出身の若きミュージシャンのパフォーマンスそのものよりも、むしろ彼女のもつ黒い肌の美しさに感動を受けた。しかし「黒い肌が美しい」という美的判断は、どのようにして育まれるのだろうか――という仕方で問いを立てるとかなりきわどくなってしまうが、換言すれば、たとえば100年前のパリにあって、この日のわたしと同じぐらいの深さで、黒い肌の美に感動を憶えることは「可能」だったのかと思った。いまは先人たちの闘争の甲斐あって、ファッションやコスメティクスの宣伝でカラードの存在を見ることは日常茶飯事になった。いまでも行き過ぎたコレクトネスには微妙な感情を抱いているが、さまざまな肌の美しさを純粋に慈しむことができる時代に生まれて、わたしは本当によかったと思う。たとえどんな肌の色であっても、美しい肌は美しいのだというゆるぎない確信がある。けれども一見生来の感覚的なものに根差しているようにも思われるこの確信に、どれだけ文化的なバックグラウンドが寄与しているだろうかと考えはじめると途端に分からなくなってしまう。