日誌 | 20230922 - 0927

9/22 金
 中国語の飛び交うアジア料理店で、フランスで生まれたベトナム料理こと Bobun をひとり黙々と食べる。それまで中国語でお喋りに耽っていた客が「ヨボセヨ」と着信に応えるのを聞いて、わたしは思わずどんぶりから顔を上げた。流ちょうな韓国語を喋っていて驚く。といっても驚くほうがおかしな話で、中国語と韓国語のバイリンガルなんてそこら中に存在して然るべきなのだが、わたしはこれまで現代の中韓関係に思いを至らせたことがほとんどなかったと気づいた。日本にとって韓国や中国はとても身近な国で、われわれ日本人は東アジアの三国での位置づけを強烈に意識しているにもかかわらず、中国と韓国の直接的なつながりに関してはあまり多くを知らない。自意識過剰だ。

 パリ10区のライブハウス New Morning では、ブラジルからツアー中の Bala Desejo のコンサートが組まれていた。去年音楽雑誌社で務める友だちから『SIM SIM SIM』というファースト・アルバムの存在を教えてもらって以来、わたしはこのパンデミックを機に結成されたMPBグループを愛聴し続けてきたのだが、念願叶ってのライブである。多くのブラジル人たちが駆けつけていたせいもあってか、あれだけ踊らないパリの連中が終演のころにはみな踊り狂っていた。汗だくのまますがすがしい表情をしたわこさんと綾介さんと一緒に外に出て、冷気を浴びながらストラスブールサンドニのおいしいクレープを頬張る。わたしたちはまるで茹蛸だった。帰り際にメンバーの Lucas Nunes と立ち話をして、明日カエターノのライブでまた会おうと言われたとき、だいぶ大袈裟な言いかただが、まだ人類を信じていていいのだという気分になった。だいぶ大袈裟だ。

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9/23 土
 すでにケンちゃんは待ち合わせの北駅前のインド料理屋に到着していた。ガラス越しの再会は半年前とまったく一緒。今回はブラッセルからパリまで、長距離バスではなくタリスに乗ってきたという。たった一時間半のあいだ列車で座っているだけで隣国の首都に着いてしまう欧州の距離感。南アジア出身の客たちで賑わう店内の真ん中では、給仕の女の子が立派なガネーシャが飾られた神棚に手を合わせて祈りを捧げている。線香の煙がもくもくと焚かれるなか、わたしたちはビリヤニに舌鼓を打ち、それぞれの近況を報告しあう。やがてわたしはひとり抜け出していそいそとフィルハーモニーカエターノ・ヴェローゾのコンサートに向かった。

 八十一歳を迎えたばかりの壇上のカエターノは、たどたどしいフランス語でいまの時代のもっとも偉大な詩人はアウグスト・ヂ・カンポスを措いてほかにいないと言った。わたしの知らない詩人だったが、客席からは歓声が上がっている。それにしてもカエターノほど長きにわたってMPBの現在形に拘り続けた音楽家はほかにいないのではないか。旧作のレパートリーはほとんど演奏せず、近年の新曲ばかりで組まれた若々しいセットリストを聞いて、これは踊るしかないでしょうと、五階のバルコニー席にいたわたしはひとりおもむろに立ち上がって踊りはじめた。ぽつりぽつりと後続の者たちが現れて、しまいには会場を埋め尽くす二千人余りの観衆たちの誰も彼もが立ち上がって踊っていた。なんと幸せな空間だろう。何といったってわたしは二夜連続で極上のブラジル音楽で踊っているのだ。

 帰り道に言葉を交わした男性は、もうこのまま死んでもいいと夢見ごこちで語った。わたしも高揚感に包まれたまま、ピガールの駅前でケンちゃん一行に再び合流して、モンマルトルのあたりをぶらついて酒を飲んだ。四人でほろ酔い気分で就いた帰路。別世界に連れていかれるのではと訝しんでしまうほど地下深く深くまで続く Abbesses 駅の螺旋階段をみんなで下っていったことが妙に忘れられない。

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9/24 日

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 フィルハーモニーの隣のシテ・ドゥ・ラ・ミュージックで組まれている能楽公演に足を向ける。会場に立派な檜の能舞台が組まれているのを見て、わたしは思わず息を呑んだ。この日の演目は狂言の「川上」と能の「重衡」。終演後に綾さんと合流してビールを一杯奢ってもらう。彼女は前夜に観た片山九郎右衛門の「船弁慶」にえらく感動して、もう一度観に行こうと思うと言った。わたしたちはいま見たばかりの「川上」について話す。能は神々の世界を描くのに対して、狂言は人間賛歌だと言われる。「川上」の結末も、カミからの信託に背いて、目くらのままあっても妻と一緒に暮らすこと、つまりは信仰よりも愛を選ぶ物語だったよね?

 五番線の地下鉄に乗って、13区のラオス料理屋へ。わが家で面倒を見ている三人に加えて、イッセイ・ミヤケで働くエリさんとスイスの藝大を修了してパリを拠点に活動するヒカルくんとはじめまして。みな炒飯の美味しさに驚いていた。二軒目にいこうと辺りを散策するのだが、13区のチャイナ・タウンといえど、さすがに日曜日の夜遅くに開いている気の利いた店はほとんどなかった。適当な店でもう一杯だけ引っ掛けて解散となり、わたしたちは四人で家に帰る。わたしが猿楽に現を抜かしているあいだ、ケンちゃんたちは一日パリを散策していたようだ。この二人と街歩きするのは楽しかったよ、いつの間にか二人ともいなくなって自分のことをやっててさ、とわこちゃん。綾介さんが街の写真を撮り、ケンちゃんは街の音を録り、わこちゃんはその様子を眺める。ケンちゃんは机の上にパソコンを広げて、このところ制作に取り掛かっているソロアルバムの一曲に、今日公園のバスケットコートでレコーディングしたばかりの音声を重ねて聞かせてくれた。あまりの美しさにうっとりして、これは傑作になるにちがいないと期待に胸を膨らませた。

 

9/25 月
 三日連続で五番線で La Villette に向かい、今日は三人で能楽公演へ赴く。演目は狂言「舟渡聟」と能「隅田川」。わたしは半年前にヴァンセンヌの森のなかにある太陽劇団で、喜多流能楽師による「隅田川」を観て、身体の震えが止まらないほどの感動を味わったばかりだった。この日のわたしも、息子の行方を捜す狂女の悲哀に満ちた演目を観ながら、いつ舞台の中央に据え置かれた茂みから子どもが飛び出してくるのかと身構えていたのだが、そのまま終演を迎えてしまった。物語のディテールも前回と微妙に異なっている。どうやら「隅田川」には世阿弥の手によるものと息子元雅が改変したものの二通りがあって、最後に小方が登場するのは後者らしい。わこさんもわたし同様、過去に元雅作を観たことがあったようで、その異同についてあれこれと話し合う。てかさあ、「舟渡聟」の酒飲みの爺さんって、現代の電車でワンカップを飲んでる爺さんと一緒だよねえ、人間変わってないんだなと思ってげんなりしちゃったよ、とはわこさん。

 そういうお喋りに耽りながら夜道を歩いていると、ばったり林其蔚とその奥さんに遭遇。彼らもちょうど能楽を観たところだという。腹を空かせたわたしたち五人は、台湾と日本の伝統芸能の違いなんかについて喋りながら、フラフラと飲食店を探す。どこも開いていない。もはや空腹を満たせればなんでもいいと最後に逢着したファストフード店で、粗悪なチーズがこんもりと盛られたタコスを食べた。六百年前に生み出された能楽を観たあとの落差がすごいねとテラス席で笑い合う。あんなにお腹が空いていると言っていたはずなのに、林其蔚の奥さんはほとんど注文したフードを残していた。

 

9/26 火
 パリで某新聞社が開催する某フォーラムの運営仕事。この日のわたしはスーツを着て、フランス人技術者とやり取りする無線機、日本人関係者の無線機に、同時通訳機器のイヤホンを両耳に付けて、職場の電話子機や私用のスマートフォンを首からぶら下げていた。機器への接続過多でサイボーグのような恰好になっている姿を鏡で見て、わたしはひとり舞台袖でほくそ笑んだ。

 登壇者のひとりに樂直入がいた。樂吉左衛門の先代で、初代から数えて十五代目に当たる。わたしは樂焼茶碗に熱を上げていた時期があって、京都に行くたびに樂美術館も決まって立ち寄るほどなのだが、わたしにとって先代は傑出した天才なので、本人を前にしてすっかり恐縮してしまった。ヨウジ・ヤマモト(かどうか確かではない)の黒に身を包んだ樂直入は、壇上でロスコやイヴ・クラインの絵について語っていた。あなたは芸術家ですかと問われたら、今日はそうだと答えるかもしれないが、明日には違うと言うかもしれない。ぼくはそういう未決定の「狭間」について考え続けてきました。そういう領域こそが大事なんです。

 

9/27 水
 昨夜、余りものの寿司の大皿をアフリカ人よろしく頭の上に載せて持って帰ってきていたので、昼から「ホレホレ寿司パーティじゃ」と三人でおいしく寿司を平らげる。夜はZOOMをつなげて読書会。この日に取り上げたのは吉本ばななの新刊『はーばーらいと』。宗教二世を主題に掲げた作品だが、もうじき還暦を迎えようとする女性作家が、思春期真盛りの男子中学生を主人公に据えていたことにいくらか厳しいものを感じた。べつに自由なのだけれど…。

 明日からの旅行の荷造りをひと足先に終えたわたしは、窓際でジェシカから届いたボイスメッセージを聞く。フランス旅行から帰国して一か月。ウィスコンシン州の公立学校で移民の子どもたちに英語を教えている彼女は、新学期がはじまって目の回るような日々を過ごしているという。わたしたちはエクス=アン=プロヴァンスに留学していたころの友だちで、この夏に九年振りに会って、一週間ほど南仏の旅行に一緒に出かけたのだった。それにしても、と彼女はいう。長年会っていない友だちと再会したときに呼吸や会話のリズムが合うことって、実はあんまりないと思うんだ。それぞれ違う場所にいて、ちがう文脈のなかで生活をしていたら、少しずつリズムが変わってずれてしまうのは当然だよね。でも、きみとは九年振りに会ったのに不思議と変わらぬリズムで一緒に時間を過ごすことができて、本当にうれしかったし、それはこのうえなく有難いことだったよ。

 わたしはそのまま窓際で煙草を吸いながら、この夏のジェシカとの南仏の旅行を思いかえしていく。128年前の『ラ・シオタ駅への列車の到着』と同じ構図でカメラを構えていたら、その列車に思いがけずジェシカが乗っていたこと。ラ・シオタの港に設えられた真夏のバンド演奏はカラオケ大会の様相を呈し、詰め掛けた老若男女全員で熱唱したダリダの「灰色の途(Je suis malade)」。花火が打ちあがる音を聞いた途端に住人たちと一緒に海岸線まで駆け出した足音。毎日のように海で灼かれたせいでひどい日焼けに苦しめられた肌。すらりとした長身のラファエルの先導に遅れないようにレンタル自転車を漕いだマルセイユの海岸線。バイレファンクがかけられている小さな箱でのダンスバトル。レイヴ・パーティー中の隅っこの浜辺で三人で喋ったあとに交わした長い長い抱擁。パリに戻る列車のなかで交わした言葉の数々。わたしはあの旅にどれだけ救われたことかわからない。まるで憑き物が落ちるかのように、しばらく体内を蝕み続けていた悲しみから解放されたという感覚があった。そして明日からまた別の旅行がはじまる、とも思う。あたらしい土地へ、あたらしい人たちと、あたらしい気持で。