雑記 1( August, 2017 )

 八月最後の日、わたしは大阪のちいさな公園のベンチに腰かけ、にわかに快がハウリングしていく歓びに浸っていた。その瞬間、わたしは幸福だった――この八月ならば、九月が来なくたっていい、永劫回帰したっていい、と純粋に信じることができたのである。

 こういう気障なことがぽろぽろとこぼれ出てしまうくらい、いい一か月だったと思う。七月の暮れ、フジロックから東京へと戻ってきたころ、「夏休みが終わったみたいな/顔をしてた僕を/ただただ君は見てた」とカーステレオが告げたころ、わたしはたしかに夏休みの終わりを嗅ぎ取った。しかしそれは幸運にも、思い違いだったのである。


 いまだに学生の身分に甘んじているわたしにとって、八月は夏休みにほかならないわけだが、「齢二十四の夏休み」と書くと、そこにはいくらか切迫した響きがある。齢二十四の夏休み。まったく歳を取るというのは不可思議なことだ。

 さて、この夏休みがはじまって、わたしはなにをしていただろうか。いまもっとも鮮烈に思いだすのは、サバの骨が喉に刺さったまま抜けなかった数日間である。顔なじみの居酒屋で友人とビールを飲みながら、すこぶる美味しい焼き魚定食を食べていたとき、その不運は降りかかった。――喉に骨が刺さったのである。わたしはその骨を取り除くべく、すかさず白米をかきこみ、ビールをがぶ飲み、水でうがいをし、つよく咳き込み、とあらゆる手段を尽くす。だが一向に骨は抜けてくれない。

 きっと眠れば抜けているだろう、と家に帰って眠りにつくも、翌朝起きると依然として喉に痛みがある。それが数日間つづいた。「魚の骨 喉 抜けない」と検索窓に打ちこむと、炎症を起こして大事に至るケースもある――というような脅し文句が並んでいる。もちろん病院にいって抜いてもらうことも考えたが、齢二十四にして「魚の骨が喉に刺さって…」と申し出るために病院へといくことにいくらかの気恥ずかしさを感じた。わたしは、この気の毒なサバの骨とは、あるいは永遠に付き合っていかなければならないのでは、と危惧まで覚えはじめていた ――― だが、いつの間にか骨はなくなっていた。あれだけ四六時中喉の骨に気を煩わされていたはずなのに、不思議なことに、いつ抜けたかはまったくわからない。あるとき、「ああそういえば無くなっているな」と思い当たったのである。人間、都合よくできているものですね。


 喉に刺さった魚の骨に煩わされていたころ、わたしは論文の執筆に追われていた。図書館からどっさりと本を借りてきて、机にうず高く積んでは、ひいこらとキーボードを叩きながら、自身の不出来に――喉の違和感とあいまって――苛立っていたものだ。

 論文を執筆するという作業は、いまだにどうにも好きになれない。文章を書くこと自体は好きなのだけれど、ひとつの系統立った学術的な文章のようなものを書くというのは、どうにも骨の折れる作業である。学術的な文章においてはいくつかの制約があり、決まった言い回しがあり、わたしたちの思考につきものな逸脱や寄り道は、なるべく封印されねばならない(とはいえ、その〈逸脱〉は、体裁を整えて、脚注に放りこめばいいということを最近学んだので、いくらか自由にはなったのであるが)。ひとによっては、このことは、快感を感じることのできる作業でありうるのだろうと思う。わたしに、そのような瞬間は訪れるのだろうか。いや、むしろ問うべきは、そのような瞬間に訪れてほしいと考えているか否か、ということである。ううん、ちょっとわかりません。

 論文の執筆の大ファンというわけにはいかずとも、それに付随するあれこれのうちには、いくらか愛着を感じていることもあった。たとえば、腰を据えて執筆するために、パソコンと文献をどっさり抱えて赴くような深夜のファミレスはそのひとつである。日づけが変わるか変わらないかという時刻に車を出して、しばらく音楽でも聴きながらあたりをドライブして、24時間営業のファミレスへと行き着く。それから日が昇りはじめるまで、ひとりで論文と格闘するという時間である。遅々として進まない原稿に苛立つことが大半とはいえ、時折、とても創造的な時間がやってくることがある。キーボードを叩く手はリズムに乗って、つぎからつぎへと言葉がつながっていき、いつのまにかほとんど原稿はできあがっている――そんな夜の深い時間にまれにやってくる、わたしにとっての青春の一頁。

 その夜、わたしは新たな青春を求めて、いつものファミレスへと向かっていた。だが、24時間営業であったはずのファミレスは、深夜2時までの営業に変わっていた。見覚えのある中年の店員が、わたしの注文を聞きにテーブルへと来る。わたしは大きな喪失感を感じていた。失意のままにドリンクバーだけ頼んで、ココアを注いだカップをぐるぐると手のなかで回していた。その日の執筆にほとんど進展が見られなかったということは、いうまでもないことである。

 


 無事に論文を仕上げてから、八月の後半、わたしはずっと東京を離れていた。京都、大阪、尾道、熊野の漁村、神戸、大阪と点々と動きまわっていた。

 

  もともと行き先のうちに勘定されていなかったのだが、ややあって急きょ京都に行くことになった。出発直前に特急券と乗車券の区間を変更する。さらに偶然がかさなって、旧知のフランスの友人と一緒に東京から京都へと赴き、二日のあいだのいくらかの時間、行動をともにすることになった。忘れられない瞬間がいくつかある。

 新幹線のなかで、彼女はわたしに iPhoneテザリングを求めた。わたしは快諾して、彼女はだれかと電話をしにデッキのほうへと向かった。やがて新幹線は京都駅へと到着する。彼女はいまだに電話をしている。わたしが声をかけようとすると、彼女は涙を流しているということに気がついた。涙声でぽつりぽつりことばを絞りだしている。わたしは何も言わずに彼女の荷物をまとめた。
 
 わたしたちは新幹線のホームから降りて、ひとごみを縫って京都駅を歩いていく。彼女はわたしのあとを追いながら、いまだに電話口に耳を当てて、なにか頷いたり、否定したりしている。かんかん照りの京都駅前で、わたしはひとりで煙草を吸った。わたしの手の中では、いまなおテザリングで電波を発している iPhone が熱を発しつづけていて、その充電はすごい速さで目減りしていく。喫煙所の外にいる彼女に視線を向ける。彼女はおもむろに通話をやめ、地面に座りこんで、遠くを見つめながら、嗚咽しはじめた。その姿は、ひどく美しかった。

 ひとことでいって、彼女はひどいうつに悩まされていた。京都駅での通話もそのような要件であった。わたしたちは京都での数日間、彼女のうつについてずいぶんと話しこんだ。鴨川の川辺で、おでん屋で、バーのカウンターで。わたしが彼女にはじめて会ったのは、三年前のパリだったのだが(スタンリー・キューブリックの『ロリータ』の野外上映を一緒に観にいった)、それから間もなくしてうつになったのだという。この二、三年間は、まさに出口の見えない深い闇にいるようであって、なにについても楽しさを見いだせなくなってしまった。かつて思い描いていた将来への計画、夢のようなものにも、もうわくわくしない。映画を観ても、本を読んでも、音楽を聴いても、以前のように救われた気分にならない。ただ鬱々とした日々があって、それがずっと一生にわたってつづくのではないかという恐怖に怯えている。世界中の何人もの精神科医にもかかって、カウンセリングも受けて、抗うつ剤も欠かさず飲んでいる。それでも出口が見えず、医者も家族も、自分自身もお手上げ状態にある。ただ、自死するつもりはない。その勇気はないし、家族や友人にそんな迷惑は掛けられない。いまは、仕事を辞めて、無期限の旅に出ている。日本を再訪したのは、そのような理由である、と。

 わたしは、彼女にたいして有益なことはなにひとつとして言えなかったような気がする。彼女の話に耳を傾けながら、彼女が身を置いている闇の深さを想像してみることはできるけれど、わたしの想像上の闇の黒々しさは、彼女にとっての黒々しさとは、まるでちがうなにかであるような気がしていた。わたしの無責任な想像から、彼女にあれこれと指南をするというのはあまりに危険すぎると嗅ぎ取ったのかもしれない。それ以上に、彼女を救うことのできそうなことばなんて、ぜんぜん浮かんでこなかったのだった。わたしたちがことばを交わしている時間以上に、そこには沈黙があった。沈黙ばかりがあった。

 わたしはいくらか自分の無力さを呪った。だが、それも仕方ないことなのだろう。京都の二日めの夜、出町柳のあたりでわたしたちは抱擁を交わした。彼女はわたしに感謝を告げた。彼女は、翌朝早くに関空からホノルル行きの飛行機に乗るという。彼女の友人が招待してくれたらしい。ハワイの陽光が彼女のうつをいくらか軽減してくれればいい、とわたしは心から願った。

 

 そのような京都の数日間で、わたしは一本分のカラーフィルムを使い切った。後日、そのフィルムを現像に出して、受け取りに赴くと、「なにも撮れていない」ということが判明した。どうやら、フィルムがうまく巻き取れていなかったらしい。わたしの手落ちである。このような事態に遭遇したのははじめてのことだったのだが、あの京都の数日間でなくてもよかったのに、とわたしは思う。だがいっぽうで、あの京都の数日間であったからこそよかったのかもしれない、とも思える。シャッターが切られた瞬間たちの多くはとても美しかった、という確信はわたしの手もとに残っている。きっとそれだけで充分なのだろう。