ミア・ハンセン=ラヴ『L'Avenir』

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イザベル・ユペールの出演している作品は実のところあまり観ていなくて、いちばん記憶に残っているのはマイケル・チミノ天国の門』('80)で奇跡的な美しさを放っていた彼女の姿である。あれから三十五年ほどのときを経て、いま63歳になった彼女は、もちろんあのころの弾けるような瑞々しい若さはすでに失ってしまっている。その若さの代償にして、彼女はなにかを手に入れたのだろうか? それはなんだろうか?

 

そのようなだれに取っても普遍的となりうるような問いがミア・ハンセン=ラヴの新作『L'Avenir』のうちに見て取れるだろう。イザベル・ユペール扮する主人公は、パリの高校の哲学教師である。おなじく哲学教師の職に就く夫と、ふたりの子どもと、パリの一角のアパートに暮らしている。パリにひとりで暮らす彼女の母は、精神的な疾患を患っているためか、一日中ひっきりなしに彼女に電話をかけてくる。彼女が教え子たちに哲学的な問いを投げかけている最中ですらも。

 

そうした彼女の日常は、徐々に崩壊の兆しを見せる。べつの女性と余生を過ごすことを決意した夫は、彼女に離婚を申し出る。子どもたちは自立し家を離れる。施設に収容された母はこの世を去る。いつのまにか彼女の周りにはだれもいない。パリの上品なアパートに帰り、孤独のなかで簡単な食事をすませる毎日。だが、そこから彼女は思いがけず手にした「自由」を行使し、みずから「幸福」を探し求める――。その「幸福」のひとつのヒントとなるのは、次なる世代への"transmission"ということだろう。だから彼女は高校生たちに哲学を教えるし、孫の誕生に歓喜する。

 

おそらくはこのようなテーマでこの作品は制作されたのだろうと思う。しかし、ぼくは鑑賞中、それにしてはあまりにも物語の強度に欠けるなと思っていた。ひとりの中年女性の孤独を描くにしては、描き方が淡白すぎる。もっと彼女の孤独を際立たせられることはできたはずなのに。しかし映画館から出て、0時を回ったパリを歩きながら反芻していると、なぜだか突然とてもいい映画だったのではないかと思えてきたのだ。

 

中年女性の孤独を、ドラマティックに脚色するのは簡単かもしれない。だが、あの淡白さは逆にリアリティなのだ。とりわけ哲学教師という職に就く彼女は、いかにもフランス人的な強い女性の肖像となっている。サーカスティックな性格――たとえば彼女は政治にたいする興味をすでにあらかた失ってしまっている――をもつ彼女にとって、子どもを育て上げたあとの老後の人生というのは、あのような淡白さのもと緩やかに後退してゆくようなものなのだろう。

モンタージュはいささか性急で、冗長な部分を観客に見せることはしない。また物語も2時間未満の映画のあいだ、めまぐるしく時間が進行する。そのようなある種のダイジェスト的なナラティヴは、彼女の生活の断片を少しずつ取り上げてゆき、ひとりの女性のリアリティに迫ってゆく。

 

あるいは僕自身の人生もそのような末路を辿るのだろうと思った。ほとんどの人間はゆるやかな逓減のもとにおのおのの人生を閉じる。そこにはときおりダイナミズムも観察されうるかもしれないが、巨視的に眺めたときは、ひとつの平坦な線でしかないのであろう。そのことに思い当たったとき、わたしたちは耐えられない。だから人生の無為を思って、もう失って二度と戻ってこないものたちを思って、途端に涙が溢れてくることがある。枕を涙で濡らしてしまう。

 

けれどその人生もまた美しいじゃないか、とこの映画にこっそりと教えられたような気がしたのだ。この煙草あまりうまくねえなあ、なんて思いながら深夜のパリで帰路を急ぐ自分の目にしている光景を、いつかふと思い出すことがあるかもしれない。

 

だが人生悪くねえなあと思わされたのは、なによりもパリから離れ、そのあまりにも美しい光に満ちた自然のなかの風景である。はじめは夫の所有するブルターニュの海沿いの家。後半は元教え子のひとりが暮らしているVercorsというアルプス山脈に近い山奥。夏のパリの朗らかな日差しもまた魅惑的なものとしてフィルムに収められているが、この自然に囲まれた暮らしを羨まないわけにはいかなかった。この奇跡的なまでの美しさに耽溺することができるだけでも、この作品は見る価値があるとすら思う――そしてその美しさとわたしたちは生活のなかで相対することができるのだ。いちどああいう暮らしを送ってみたい、"C'est le paradis ça !"と心の底から叫んでみたい。

 

最初のカットは、船のなかで書き物をしているイザベル・ユペールの後ろ姿から始まる。5分にも満たない最初のシーンは、家族4人でブルターニュ地方に旅行に出ているところである。まだ幼い子どもたちを引き連れて、海のほとりに立つ十字架に対峙する。そこに現れるタイトル。作品中、思った以上に哲学者が出てくる。ジャンケレヴィッチ、ルソー、レヴィナスショーペンハウアー…。あまりにも哲学思想の使いかたが雑駁であるように思ったこともいちおう記しておこう。フランス語で哲学書を引用されてもきちんと頭に入ってこないので、たいして理解できていないだけかもしれないけれど。

 

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ヤニキ

ヤニキ - 新・なんJ用語集 Wiki*

 

無為に囚われるままにネットサーフィンをしていると、「新・なんJ用語集」で「ヤニキ」と書かれた項目を見つけた(新・なんJ用語集をだらだらと読んでいる暇なんて本当はぜんぜんないはずなのだが)。当然、われらが金本監督のことである。このページはさいきん更新されたようで、開いてみると右のスクロールバーがやたらと伸びている。すこしスクロールすると「異名一覧」という見出しがある。

ふとしたきっかけで新たな異名が生まれることも多く、その際は「まーたヤニキの蔑称が生まれてしまったのか」とレスされるのが恒例である。
特に、2010年シーズンにおいて右肩の故障をして以降爆発的に蔑称が増加した。

 その「恒例」とやらはあずかり知らぬところだったのだが、金本のことを少しでもご存知のかたはぜひ「ヤニキ」のページを訪れて、スクロールしてみてほしい。

 

 

久し振りに笑いが止まらなかった。こんなにくだらないことで笑えるのは最高である。「youは何しに左翼へ?」「もしプロ野球選手が右肩の手術をせずに試合に出たら」なんかは最高。「金本知憲」は本名。

 

僕は阪神ファンになってからかれこれ十三年ほどだが、ちょうど金本が失墜し聖域化していたときは野球への関心が薄れていたので、金本の凋落ぷりがどれくらいのものだったのかは直接は知らない。いま記録を見ているとあっ(察し)となるくらいである。2003年、2005年のリーグ優勝時の素晴らしい活躍を見せていた金本の印象が強いだけに、この叩かれっぷりはすこし寂しくなる。そういえば小学生のころは、金本のユニフォームを持っていたな。「6」という数字が比較的好きなのも、おそらくは金本の背番号だから、なきがする。たぶん。

 

 

さて今シーズンから監督として阪神に帰ってきた金本、これからはポジティヴな渾名が量産されることを祈るのみである。僕はもともと解説者としての金本があまり好きではなかったので(ほとんど喋らない!)監督としての力量を疑っていたのだけれど、いやはや、僕が誤っていたことを認めなければならないだろう。もちろんまだ判断を下すのは早計とはいえ、非常に見ていて愉しい野球をする。そのことは、またの機会にでも記すンゴ。

 

 

「自由貨幣」がビットコインの台頭により日の目を見るかもしれないという話

 

www.monde-diplomatique.fr

 

仏月刊誌の Le Monde Diplomatique をぼんやりと眺めていたら、なかなか興味ぶかい記事に遭遇した。"Le banquier, l'anarchiste et le bitcoin"(「銀行家、アナーキスト、そしてビットコイン」)と名付けられたものである。本文の邦訳は日本版サイト(『ル・モンド・ディプロマティーク』日本語・電子版)が手がけてくれることを期待するとして、二番煎じにすぎないがメモ程度に書き残しておく。

 

経済はまったくの専門外にしているわたしは、シルビオ・ゲゼルという経済学者の名まえをこれまで一度も耳にしたことはなかった。だが、なんでもケインズが「近い将来ゲゼルの名はマルクスのそれよりも経済史に刻まれることになるだろう」という文章を寄せたそうなのだ。マルクスの影響力について言及するまでもなく、ケインズもまた経済史を語るには外せない人物であるからには、わたしにもゲゼルという人物の思想の重要さがなんとなく理解できる。しかし、この予言は、二十一世紀を生きるわたしたちから見れば、的中していないように思われる――少なくともいまはまだ。

さきほどの記事は、いまから一世紀あまり前、十九世紀末にゲゼルによって構想された「自由貨幣制度」が、ビットコインをはじめとする暗号通貨のテクノロジーの台頭によってはじめて実現可能になるのではないか、と説いたものだ。そもそもわたしは「自由貨幣制度」というものを知らなかったので、この記事はたいへん勉強になった。

 

ところで余談ではあるが、日本の大手メディアは、ここのところ暗号通貨についてのニュースをほとんど報じなくなっているように感ずるのは気のせいだろうか。二年ほど前のマウントゴックスのごたごたがあったときはもちろんのこと、それより以前も数多くのメディアがこぞってビットコインが現行の経済システムを変えてゆくかもしれないと期待と不安の入り混じった記事が量産されていたように思うのだが、もうすでに世間の関心は廃れてしまったのだろうか。「そもそもビットコインとは?」という特集を見つけるたび熱心に記事を読み、その新たな経済システムの十全な理解に努めようと試みていたのだが、理系的思考回路にまったく才覚がないわたしにとっては、なかなかに複雑なもので、いつもどこかで躓いてしまいけっきょく理解を諦めた記憶がある。なのでいまでもビットコインのくわしい成立の仕組みについてはあまりわかっていない。ナカモトうんたらという正体不明の開発者が、自身が産み出したビットコインのおかげで大儲けしているらしいぞ、ということなんかは覚えているんだけどな。

 

さておき、そもそも「自由貨幣制度」は、ゲゼル自身が資本主義の矛盾を解決するために編み出した制度である。資本主義――現行の貨幣主義の問題点のひとつに、「財やサービスの多くが時間の経過とともに劣化するのに対し、インフレがないと仮定すると貨幣は価値が減らない」ということが挙げられるだろう。いっぽうでゲゼルの提唱した「自由貨幣」(Freigeld)は、貨幣によって交換される対象である財とサービスと同じように、時間の経過とともにその価値が逓減してゆく。これはまったくインフレのシステムとは性質を異にしている。なぜなら、インフレが起きた場合、貨幣の所有量にかかわらず物価は全面的に高騰するが、自由貨幣においては、その貨幣を持っていないものにとっては、モノの価値は変わらないままだからである。

記事によると、ゲゼルの構想した自由貨幣は、毎週その価値の1000分の1、つまりは年間で5.2パーセントの価値を失うものである、とされている。したがってひとびとは無闇な貯蓄を避け、なるべくはやく消費するようになる。これは、銀行に金銭を預けると金利が増えてゆく(ゆえに貯蓄が奨励されている)といういまの仕組みとは真逆のものであるといえよう。

冷え込んだ消費を活性化するべく日本政府がはじめてマイナス金利政策を打ち出したことは記憶に新しいが、マイナス金利は、あくまで日本銀行が金融機関にたいして仕掛けるものであって、個人の消費を直接的に促すことはできない。また、現行のシステムでは、中央機関(銀行)は、社会全体で流通する貨幣の量を調整することはできても、その貨幣の流動性(fluidité)にたいしては直接働きかけることができない。ゲゼルがどこまで考えていたのかはわからないが、中央機関なるものが、貨幣そのものの逓減率を操作することができるならば、貨幣の流動性もまたより綿密にコントロールすることが可能になるはずである(たとえば逓減率を上げれば、利用者はより早く消費しようとするだろうし、逆もまた然りである)。

 

そもそも貨幣とは、貯蓄するためのものではなく、流通させるべきものであるはずだ。記事にはフランス革命期に生きた社会主義者であるサン=シモンのことばが引用されている。いわく、「金銭は政治にとって、人体にとっての血液に値するものだ」。血液のように貨幣が社会のなかを循環してゆくことによってはじめて富の分配が起こり、ひとびとに恩恵をもたらすことができる。それがそもそもの資本主義の理念ではなかったか。いまの資本主義において経済格差が著しく、だれもがその限界を感じ取っているのは、「貨幣が動かないこと」によるだろう。それもそのはずで、キャピタリストにとってみれば、個人の利益を鑑みるならば、浮ついたお金は消費に回すのではなく、貯蓄したほうが儲かるのである。

ゆえに門外漢の目には、自由貨幣はいかにも素晴らしい貨幣システムであるように映るのだが、いっぽうでこのシステムは大きな問題を抱えていた。というのは、自由貨幣を実際に施行するのは至難の技だった、ということだ。いったいどうやって時間が経つにつれ価値が徐々に減ってゆく貨幣を、ミクロレベルで流通させるのだろう? ウィキペディアによると、自由貨幣の一例として、1930年代のドイツにおいて「スタンプ貨幣」(一定期間ごとに額面の一定割合の額(たとえば1万円札なら毎週10円あるいは毎月100円)のスタンプを購入して貼ることを強制する)なるものが、地域通貨として部分的に実現したことがあるそうである。しかし、だれが自分の貨幣に毎週毎週せっせとスタンプを購入し、紙幣に貼り付けるなんてめんどうなことをするだろうか。しかもその自らの行為によって、自分のお金が目減りしていくのだ。いうまでもなく、この試みはまもなく失敗に終わった。

 

ここでビットコインをはじめとする電子通貨の登場である。電子通貨においてならば、たとえば1か月に1%ずつ価値を失っていくような通貨を実装することは容易いだろう。もちろん、実際に流通される段階までに到達するには、いくつかのややこしいステップを踏まなければいけないことは承知のうえだが。ビットコインは、個人が銀行に金銭を預けて管理するのではなく、各々のデバイスのアプリケーション上で操作するものである。つまり中央機関への金銭の偏重をも避けることができる。

ビットコインは、従来の銀行の中間システム(銀行は、その役割からして「貸し手」と「借り手」をつなげる仲介者でしかないはずだ)を破壊するだけではなく、「貨幣」の概念そのものさえも変えてしまうのではないか、と期待を寄せる声があることを記事は紹介している。多くのものが躍起になって「資本主義の先」を探している現代において、自由貨幣のシステムを組み入れたビットコインは、たしかにその答えのひとつとなりうるものである。十九世紀に編み出されたゲゼルの思想は、マルクスほどの耳目を集めることはできていないようだが、この力関係が入れ替わる未来もいつかやってくるのかもしれない。

 

とはいいつつも、「未来」はいつくるのか、というのはまったくわからないのだけど。そもそも、その「未来」の前に、完全に経済が破綻してしまう可能性も無きにしもあらずである。あるいは、近い将来にはまたちがう可能性が見えているのだろうか。記事では、経済格差の元凶がはたして金銭の流動性だけであるのかは疑わしく、研究が待たれると締めくくられている。

「資本主義のその先」というテーマは、ご多分に洩れず、わたしの関心を大きく引くものである。そのわりには経済学の知識は皆無にひとしいのだけれど。その知識を有しているのが推奨されてるとはいえ、資本主義の孕む矛盾とは、なにも経済学の分野にとどまる問題ではないだろう。もっと多角的な視座から、根本的に見つめ直す必要がある。なのでわたしのような者がこうしてブログを書くことにも、数マイクロミリくらいの価値はあるのではないか、と自己満足に浸っておく。

 

まあ、時間があったらシルビオ・ゲゼルの著作にあたってみるのもいいかもしれない。と思ってAmazonで書籍を調べてみたら、

www.amazon.co.jp

という入門書が絶版になったのか、中古で五千円からの価格でしか売られていなくて驚いた。わたしはこういうかたちで経済を回すべきなのかもしれないが、そもそも自身に資本が足りていないことにふたたび気づき、やさぐれた気持ちになるのであった。

 

ここのところ追えていないが、webちくまで大澤真幸が「資本主義の〈その先〉に」というコラムを去年あたりから連載している(webちくま「資本主義の〈その先〉に」大澤真幸)。連載終了後、ちくまから書籍化されることはほぼ間違いなさそうだが、こちらも時間があるときにゆっくり読もう。