アメリカという眩い夢のつづき ―― リチャード・リンクレイター『エブリバディ・ウォンツ・サム!!』

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 『Boyhood(6才のボクが、大人になるまで。)』という傑作のあと、リチャード・リンクレイターが新たに世界に送り出したのは、本人の語るように前作の続編のようでもあり、またある意味では、まったく真逆の指向性のもとにつくられた(というように思われる)もうひとつの傑作であった。『エブリバディ・ウォンツ・サム!! 世界はボクらの手の中に』を観た。

 

 1980年代、アメリカ。テキサスの大学に新入生として入学したばかりのジェイクたちは、野球をするという固い意志をもって強豪として知られる野球部に入部するも、どこかで新たな環境に浮かれている。無理もない、それは新学期がはじまる直前なのだから。個性の際立った野球部の先輩たちにもみくちゃにされながら、夜な夜なパーティを梯子し、酒とセックスと恋に耽る三日間。いままさに始まらんとしている新たな生活にたいして心をときめかせる彼らの青春のひとコマが見事に捉えられている。

 それは、『アメリカン・グラフィティ』の主人公であるカート・ヘンダーソンの後日譚のようでもある。同じ高校の友人たちと最後の一夜を過ごしたあと、翌日にカートは東部の大学に入学するべく飛行機に乗って地元を発っていく。『アメリカン・グラフィティ』は、以上のようなシーンで幕切れとなるが、新天地でのカートの生活をカメラが捉えてしまっていたとしたら、『エブリバディ・ウォンツ・サム』のジェイクのような三日間を過ごしていたかもしれない。

いまの家を出て新しい家に住み込んだり、いまの車を捨てて新しい車を手に入れたり、いまの友達と別れて新しい友達に出合ったり……そんなの何の意味があるっていうんだ? 

  カートは、『アメリカン・グラフィティ』において、新たな生活をはじめることについての心情を不安げにこう吐露していた。きっと彼だけではない。すべての新天地に向かわんとするひとびともまた、このように問うたことがあるだろう。出会いと別れを繰り返していくだけの人生、そんなの何の意味があるっていうんだ? ――ジェイクの頭にも同じような葛藤が翳んだことがあったかもしれない。しかし、ジェイク青年は、先輩の洗礼を受け、新たな恋に落ち、激動の三日間のうちにそのような葛藤などどこかへ吹き飛ばしてしまったにちがいない。

 まだまだパーティは終わってなかった。『アメリカン・グラフィティ』は夢のなかの儚い一瞬ではなかったのだ。60年代のカートの人生は、80年代のジェイクの人生と交錯する。そのあいだにはベトナム戦争があった。アメリカ社会もまた闇を抱えていたのだ。しかし、まだアメリカン・ドリームは死んだわけではなかった。わたしはこのフィルムでそのことを痛感させられてしまったのだ。彼らの夢は、いったいなんて素晴らしいのだろう。『エブリバディ・ウォンツ・サム』に描かれたかれ(ら)の青春に、わたしは羨望を抱かずにはいられないのだった。

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 この映画を観た者の多くは、わたしのように、アメリカに行きたい、アメリカの大学で青春を送りたかったと強く願うのではないだろうか、と邪推する。それくらいに美しい燦めきのうちに青春が捉えられていたのであれば、そのように願うのは当たり前かもしれない。だが、これは特異なことであるともまた同様に感じている――わたしたちは、この物語の舞台がアメリカでなかったとしたら、その地に行きたいとかくも願っていただろうか? アメリカではないどこかを舞台にウェルメイドの「青春ムービー」を観たときに、その地で青春を過ごしたかったとこれほど強く願っていただろうか?

 『エブリバディ・ウォンツ・サム』だけではない。アメリカという土地で繰り広げられるすぐれた物語を目撃した者は、なぜかアメリカを欲望してしまうのである。それが、イランであったら? インドであったら? ブラジルであったら? スペインであったら? わたしたちは、アメリカほどその異国の地そのものを欲望していなかったのではないだろうか。もちろん、そのような事態はありうる。しかし、アメリカほどにすべての人種を包摂してしまう土地は、ほかに存在するだろうか。

 

 わたしは、これは〈アメリカ〉という夢の神話の力に依るものだと思っている。なかでもリンクレイターは、〈祝祭〉を描写することに――かかる神話の創生に非常に長けているということは、まざまざとこの作品が証左している。アメリカ的な青春に遭遇したとき、わたしたちはただ観察者としてそうした幻を羨望するだけには留まらない。いわばいち生活者として、虚構としてのアメリカではなく、現実としてのアメリカに結びつけ、それすらを欲望してしまうのである。そのことこそが、いわゆる「アメリカン・ドリーム」という神話の効力なのではないだろうか(このことについてはさらに展開してゆきたいのだが、まだわたしのなかに十分に論じれるだけの知見が備わっていないので、あくまで仮説として放り投げておく)。

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 興味深いシーンがあった。まさに夜が明けようとしている新学期がはじまる前の最後の日、ジェイクは、新たに出会った女の子(ゾーイ・ドゥイッチは紛れもなく次世代を代表するヒロインになるだろう!)をまさに仕留めようとしている。明け方、浮き輪にゆられながら、川のなかで彼女とふたりで囁き合っている。

 ジェイクは語る。高校を卒業するときに、シーシュポスの神話と野球を結びつけた文章を書いた。いわく、シーシュポスと野球、ひいては人生はすべて似通っている。観点と解釈次第では、いままさにやっている何らかの行為に、わたしたちはいくらでも意味を見出すことができる。無意味なことなどひとつもない。すべては主体の捉えようであるのだ、と。

 それは、一般的にいえば、シーシュポスの神話の曲解でしかないだろう。そもそもの神話の主題は、神から与えられた罰によって、無意味なことを永久に繰り返すことになるという〈不条理〉そのものであったのだから。わたしたちは、変わり映えのしない平坦な毎日をただ繰り返すだけだという不条理の感に苛まされることがある。だからこそ、シーシュポスの神話は、わたしたちに特別な意味を訴えかけてきていたはずなのだ。

 一方で、ジェイクにおいて、シーシュポスの不条理は、途端に有意味なものに――さらには女の子を口説く文句にすらも――変解させられてしまう。果たしてそれは、欺瞞ではないのだろうか? 120分の映画のなかでしか存在し得ないユートピアではないのだろうか?

 

 さきほども言ったように、毎日は繰り返しだ。祝祭ばかりではない。ジェイクの過ごした夢のような三日間は、いつかは醒めることになってしまうかもしれない。平坦で退屈な日常に苦しめられることもあるかもしれない。しかし、『エブリバディ・ウォンツ・サム』を撮ったリンクレイターが、そのことについて無自覚であったとは到底思えない――なぜなら、『Boyhood』という作品は、まさしく本作の対極に位置するような、〈ハレ〉でなく〈ケ〉の日だけを十二年にわたって描写したものだったのだから。なんの変哲もないあなたの日常も、じつは喜びに満ち満ちた愛すべき日常であるということを、あのフィルムは雄弁に語ってくれたではないか。

 『エブリバディ・ウォンツ・サム』では、「やり残した事にこそ後悔が生まれる」という言葉が合言葉のように頻出する。映画に登場しているすべてのキャラクターが、この合言葉を肝に命じて生きているような印象を憶える。不幸な人間は、だれひとりとして出てこない。年齢偽証で退学となった30歳のウィロウ(ワイアット・ラッセル!)ですらも、諦観を帯びた顔つきで仲間のもとを去ったが、不思議と不幸だとは思えなかった。彼はただ純粋に、ほかの奴らとまだまだ夢を見ていたかっただけなのだ。

 

 シーシュポスの神話の不条理は、リンクレイターの創出するアメリカという神話に打ち勝つこともあるだろう。『エブリバディ・ウォンツ・サム』では、わたしたちはあくまで神話を、アメリカという眩い夢を見させられているにすぎない。『アメリカン・グラフィティ』の若者たちの夢の続きを。だが、刹那的な祝祭が終わってしまっても、『Boyhood』のような日常は、わたしたちのことをずっと待っているのだ。それならば、夢が醒めてしまってもいい。そして、いつか醒める夢ならば、とびきりの美しい夢を見せて欲しい。それは欺瞞かもしれない。だが、欺瞞だっていいじゃないか。報われないと了解しながら山の頂きまで岩を運んでいく道程で、八十年代に見た眩い夢はいつでも記憶として慰めてくれるのかもしれないのだから。わたしたちは、たぶん、みんなそうやって生きている。