八月十七日 月曜日 発熱と生命

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 かつて記事を投稿していたブログを久方振りに更新するとき、ひとは「これからは少しでもいいからなるべく記録を残していこうと思う」という、ほとんど独語ともいっていい、だれに向けているのか定かでない宣言をしてみせる。わたし自身も過去にそのような独語を吐いたことは(おそらくは何度も)ある。しかしながら、そのような頼りない宣言のあとに辿る結末はいつも決まっている。いくつかの記事が散発的に投稿されていればよいほうで、大抵の場合、ただ果たされなかった宣言として、人間の決意の弱さをありありと示す証左として、インターネットの海のなかに揺蕩っているだけである。だからわたしはそのような宣言はしない。ひょっとしたらこのブログはこれきり二度と更新されることはないかもしれない。まあ、すべてどうでもよいことだ。

  

八月十七日 月曜日 

 連日の気温は人間の平均体温を上回っている。少しでも発熱があれば外出するなと言われているにもかかわらず、いま炎天下を歩くほとんどの人間は微熱持ちなのだ。そう考えると少しおかしい。案の定、新宿ビックロの入口にある検温モニターに表示されたわたしの体温は37.4℃を示していた。モニターの脇に立つスタッフと一瞬目が合うも、わたしはそのまま素知らぬ顔で入店する。

 

 新型コロナウイルス、もとい Covid-19。わたしたちの2020年は、この凡庸なウイルスによってほとんど損なわれてしまっている。あらゆる人間の夢と計画にアクリル板が挟まれているかのようだ。そのアクリル板に反射する自分の顔は、どんな表情をしているのだろうか。まあまあのアホ面を晒しているんだろうな。

 70代の知人から一通のメールが届く。厚労省が発表している7月15日付の70代のコロナ感染者致死率は14.2%だという。「14.2%って、6〜8連発のリボルバーに弾丸1発詰めてロシアンルーレットやってるような確率だよな?」とあって、おもわず笑ってしまった。彼はコロナ騒動が本格化してからほとんど家から出ていないという。確かにそんなロシアンルーレットをやるぐらいなら巣篭もり生活を選ぶような気もする。

 しかし、これは2020年だけで終わるのか。このまま2021年、2022年もこの状況が続いたとしたら。コロナによる平均死亡年齢がほとんど平均寿命と等しいのだとしたら、ロシアンルーレットに賭けるほうがよっぽどマシじゃないか、とも思う。身体は動くのにも関わらず、余生は自宅で過ごすしかないというのはあまりにも虚しすぎる。わたしはそちらのほうが耐えられないと思う。

 

 少女時代。ソニョシデ。彼女たちのことが数日前から頭から離れなくなり、耐えかねて「Genie」のMVを観たら、おもわず泣いてしまった。「Genie」というのはほんとうにいい曲だ。お呼びですか? と問われたらお呼びです! と威勢良く返答しそうになる。

 アイドルにゾッコンになるという心性がこれまで理解できなかったのだが、あの健気な様子に救われた気分になり、ああ、つまりこういうことか、とはじめてわかった気がした。だが問題は、少女時代はもうほとんど活動していないということだ。

 というかもう解散したんだっけ、とインターネットで調べてみると、いちおう解散はしていないようだが、ゆるやかにフェードアウトへと向かっているようであった。もう彼女たちの全盛期も10年前なのだ。ひとつの時代の終焉。いま、メンバーは30代に突入し、それぞれの持ち場でがんばっているらしい。わたしはInstagramでユナを見つけたので、すかさずフォローしてみた。「13 YEARS TOGETHER」というテキストが添えられただれかの誕生日会の写真が貼られている。まったくもって尊さしかない………が、ちょっと見るのが厭になってアプリケーションを閉じた。

 

 二週間前に紛失した黒の帽子。誰かに拾われてメルカリに出品されているのではないか、と検索してみたら、容疑者があまりにもたくさんいたので諦めた。

 

 家のWi-Fiが使いものにならないので、新宿の喫茶店でパソコンをひらいて仕事をする。仕事がなければ、おそらくわたしの精神は崩壊していたと思う。仕事をしているあいだは少なくとも余計なことを考えなくていい。こういうふうに仕事に没頭することで、生活の圏域が奪取されていってしまう――ある意味それは救いでもあるわけだが――ということは、この世の中にありふれた話なのだろう。社会人にたいする憐憫の情。自分が社会人でしかないこと、社会人以外では、いれそうにないこと。

 恋人からメッセージがとどく。そのことにまた救われる。彼女はウエルベックの『プラットフォーム』を読んでいるところで、この主人公がわたしに少し似ているという。するとぼくはミシェルのようにタイに売春婦を漁りに出かければいいのかい。そう、コロナが終わったら出かけてらっしゃいよ。あなたの眼差しでもう少し生きるということをしてもいいんじゃない。

 

 ビックロに預けていたネガ二本が現像されて戻ってくる。案外悪くない写真を撮っている。この記事の冒頭に貼った空の写真もその一枚。ブリュッセルで見たルネ・マグリットの空の絵に似ているのに、ぜんぜんちがっていて好きだ(まあ、空はたいてい似通っているし、まったく違う表情を見せるものではあるので、何も言っていないに等しい言明ではあるのだが)。

 

 わたしは童心に還るべきなのだ。アカシアでロールキャベツを食べているさなか突然そう思いたち、童心とは正反対の欲望が渦巻く新宿・歌舞伎町を早足で横断し、TOHOシネマズで『ドラえもん のび太の新恐竜』を観た。客席にはわたしと同い年ぐらいの二十代、三十代の男性のひとり客がちらほらといて、ひょっとして彼らも童心を思いだしたいのかもしれないね、とひとり笑みを浮かべた。 大山のぶ代からの切り替わりをリアルタイムで経験している世代。

 オープニング・クレジット。ふうん、川村元気が脚本なんだ。東宝川村元気のおかげで、いくら稼いでいるのだろう。というよりもおんぶにだっこという感じが適当なのかもしれないが。

 映画は悪くなかった。童心に還ってスネ夫ジャイアンのギャグで声を出して笑えた。そのことにまずわたしは感謝しなければならない。ところどころ入るヱヴァンゲリヲンへの目配せ(加持リョウジを出すなら葛城ミサトも出すべきではないか? 加持リョウジの声を木村拓哉にやらせるのはいかがなものか?)。

 お話自体は旧約聖書ノアの方舟と同じようなものである。ドラえもんヤハウェであり、のび太はノアであり、のびジオパークは方舟なのだ。つがいの恐竜たちを乗せて、地球を飲み込む大災害から生命の連関を守っていく…。

 冒頭、のび太の部屋。「タイムふろしき」で孵化させた恐竜に「こわがらないで」と語りかけるのび太ナウシカじゃないか!)。恐竜の赤んぼうがそっとのび太の広げた両手に乗る。するとのび太は「あったかい」と独りごちた。わたしはその瞬間にはっとした。そうか、生きものはみなあったかいのだ。生命をつなぐということは、体温をつなぐことなのだ。

 

 家に帰り、缶ビールを開けて考える。わたしはいつまで発熱しつづけられるのか。今年のお盆は、熱をもたない霊たちだけが帰省を果たした。わたしは来年の夏は、そしてしばらく先の夏も、お盆に霊たちを迎え入れる側でいたい。少なくともまだそう思っている。