水林章, "Une langue venue d'ailleurs" ―― 異邦のことばを話すということ

 嫉妬した ――と表現するのがいちばん近いかもしれない。フランス語を学び、フランスでいくらかのかけがえのない時間を過ごし、そしてフランスという存在そのものへの執着を多少なりとももっているわたしにとって、そのような道の遥か先をゆく水林先生の存在は、この本との出会いを通じて、すぐさま尊敬と憧憬と嫉妬の対象となったのである。

 水林章による "Une langue venue d'ailleurs" (Gallimard, 2011) を読んだ。彼の存在を知ったのはごく最近のことで、とある仏語関係のイベントで知り合ったフランス語の達者な学生たちと卓を囲んで話しているときに、彼のことが話題に昇ったのがきっかけだった。なんでも、そのうちのひとりが上智大学にて仏語の指導を受けていて、「これまで7年くらいフランス語を勉強してきたなかで、はじめて発音を矯正してもらった」というのである。卓を囲むだれもが、水林先生のフランス語は素晴らしいと口を揃えて賞賛するので、水林先生のフランス語を話している様子が収められた動画をYouTubeで見せてもらった。

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 正直にいって、狼狽えるほど驚いた。これほどフランス語の発声がうまい日本人は他に知らない。もちろん、幼少期にフランスに住んでいたためにネイティブレベルでフランス語を操ることのできる日本人は数え切れないほどいるだろう。しかし、彼にいたっては、19歳ではじめてフランス語を学びはじめた(parler des premiers mots en français)というのだ。この動画を見たわたしは、全編フランス語で執筆され、日本人として唯一アカデミー・フランセーズにより文学賞を授与されたという"Une langue venue d'ailleurs"をインターネットで注文してすぐに読みはじめ、そしてものの数日で読み終えてしまった。

 

 彼は本作のなかで、みずからの人生を赤裸々に語っている。両親について、幼少期について、フランス語とのはじめの出会い、留学先であるモンペリエに発ちはじめてフランスの土地を踏んだこと、生涯の伴侶となるミシェル夫人との出会い、修論や博論の執筆について、フランスの大学で出会った数々の教授たち、娘の多言語教育について…。もちろん、わたしのようにフランスやフランス語について興味を抱いているひとが読むべき本のひとつであるように思うのだが、一方で、たとえば外国語を習得するということに関心がある者にとっても、非常に示唆に富んだ本であるように思う。邦訳が出ていないのが惜しい。わたしは、以下でいくつかの感想を記しておこうと思う。

 

 

 "le français est ma langue paternelle.(フランス語はわたしの〈父語〉である)"と氏はいう。これは "langue maternelle"、すなわち母語を意味することばに対置された造語である。日本で生まれ育ってきた水林章にとっての母語は、まぎれもなく日本語である。これに対して、フランス語は「父語(父性語)」であるという。本作のなかでたびたび語られる父の影響によって、水林氏は知らず知らずのうちにフランス語へと導かれてきた。そこには幼少期の音楽体験が大きな役割を占めているのだが、ここでは詳述は避けておこう。ともあれ、そのような父の存在を多少なりとも意識しつつ、水林氏はかかる造語を置いたのである。

 だが、わたしはそのような彼の父とのあいだの属人的な体験を抜きにしても、後天的に獲得した言語のことを〈父語〉と表現することに、いくらかのシンパシーを感じたことを告白しなければならない。世界に多々ある言語のなかから、なんらかの理由によって、みずからの意志でひとつを選択し、その言語を能動的に習得せんとする ―― そのような言語は、幼少期に受動的に習得する言語とは、明らかにその出自を違えている。そこには、圧倒的な能動性/主体性が求められるといえよう。そのような能動性は、父と子との関係性にしばしば認められるのではないだろうか? わたしはそのような私感をもったのである。

 氏も次のように述べている。

"Ce n'est pas parce que je suis né dans ce pays, de parents japonais, que je dois demeurer japonais pour toujours. Il est vrai que j'ai le sentiment d'être soutenu au plus profond de mon être par ma langue d'origine ; mais il n'en reste pas moins que je me détache avec un plaisir certain de mon territoire primitif. Je m'arrache volontiers à ce formatage initial et prédéterminé qu'est ma nature japonaise." (p.260)

 「わたしが日本に、日本人の両親のもとに生まれたということは、わたしが生涯にわたって日本語を基軸とすべきこととはなんら関係がない」。もちろん、母国語によってわたしたちのもっとも深い部分が――いわばアイデンティティが――形成されていることは否定のしようがないだろう。だがそのことは、ある能動性のもと、あえて母国語からの離脱を試み、べつの言語を自らのものとしようとすることを妨げるわけではない。水林章のように、フランス語という世界に主体的に近づき、それまでの自らの〈世界〉を積極的に編み変えてゆくことは可能なのだ。

 

 水林章は、日本という場所から出たい、〈他者〉になりたい、という欲望を抱えたまま(たとえば幼少期には、「演じる」ということに熱を上げていたそうだ)、フランス語と出会った。氏がかほどまでにフランス語に情熱を注ぐようになったきっかけとして、いくつかのことが挙げられている。それは、語の音楽性であり、森有正の『遙かなノートルダム』であり、他のさまざまなフランス文学である。

 しかし、水林青年をフランス語の世界に決定的に導いたのは、モーツァルトであり(とりわけ『フィガロの結婚』におけるスザンヌという名の女性であり)、またジャン=ジャック・ルソーである。モーツァルトとルソーという二人の18世紀を代表する表現者たちについての思索は、本作において至るところに披露されており、非常に興味深い論が展開されている。べつのところでも記されていたが、近代の端緒となった18世紀のフランスの根幹にあるものを明らかにしたいという欲望によって、四十年近くに及んだフランス語という言語とともにあり続けてきた彼の生は突き動かされてきたのである。

 

 さて、二者に導かれるようにして、水林青年はモンペリエに二年にわたって留学することになる。大学の一年目を終え、数ヶ月の夏休みが与えられる。留学生の多くは、母国へ帰国したり、あるいはフランスやヨーロッパの地の観光へと旅立ってゆく。だが、彼はモンペリエに残り続けることを選ぶ。その決断について、以下のように述懐する。

"Je vivais, oserais-je le dire, dans la fraîcheur virginale des noces célébrées entre moi et Montpellier. Je tenais à cultiver cette familiarité naissante avec mon environnmenet urbain immédiat, la développer, la façonner à mon gré, pour que l'espace alentour devienne enfin mon espace à moi. Je voulais m'enraciner, creuser mon existance le plus profondément possible, là où je me trouvais. "(p.137)

  モンペリエという地に、自らの存在を、なるたけ深く根づかせたい。彼を取り巻く土地との親密さをさらに育み、その地が〈みずからの場所〉となるまで仕立て上げたい、と彼はいうのである。わたし自身、フランスに留学するにあたって、似たようなことを考えていた。というより、東京という土地と不可分で育ってきたわたしは、その土地とどれくらい断絶できるか、ということを考えていたのだ。

 もちろん、いくらフランス語を流暢に運用できるようになろうと、どれほど長くフランスに滞在し、フランスの文化を知悉しようと ―― さらにはフランスの国籍を取得したとしても ―― 日本人であるわれわれは、フランス人になれるわけではない。どこまでいっても、異邦人であることは変わりがないし、日本人であること――少なくとも「日本人であったこと」――は捨て去ることができない。また、氏が本作において記しているように、「フランス語によって育てられていないこと」の影響は、後天的な学習者がいくら努力を重ねようと、どこかにかならず蹄を残してしまう。

 

 だが、わたしの目には、水林章は、そのような試みをもっとも高次において達成してしまっている人物であるように思えてならない。どうしようもなく結び付けられてしまっている「日本」から、なるべく遠くへと主体的に発つこと。そのためには、まずは日本語という言語から離れ、他の言語において、母国語と同等の思索を重ねられるようにしなければならない。本作をフランス語で著し、フランスで成功を収め、冒頭で紹介したように驚くほど美しく流暢なフランス語を話す水林章という人物は、〈他者〉になりたい、〈ここではないどこか〉に根を下ろすという欲望を、みずからの力で達成してしまった。わたしの羨望と憧憬と嫉妬の起源は、このことに求められるように思う。

"Le jour où je me suis emparé de la langue française, j'ai perdu le japonais pour toujours dans sa pureté originelle. Ma langue d'origine a perdu son statut de langue d'origine. J'ai appris à parler comme un étranger dans ma propre langue. Mon errance entre les deux langues a commencé... Je ne suis donc ni japonais ni français."

 わたしの目には、当初の目論見を彼は達成したように映っているのだが、彼としてはどうやら異なるようである。彼はみずからを「フランス人にはけしてなれない」としつつも、「日本人ですらない」という。母語である日本語は、フランス語に心を奪われたときから、その母語としての純粋な地位を失い、彼は異邦人のように日本語を話すことを学んだ。他者になりたい、日本ではない場所に根を下ろしたいと願っていた彼は、最後にはどの土地においても異邦人であるということ 〈異邦性 étrangéité〉 ―― を自覚し、獲得したというのである。彼はつねに〈外側 hors de place〉にいるように感じるようになった、と。

 しかしながら、その〈外側 hors de place〉あるいは〈非-場所 non-lieu〉こそが、彼が日本語とフランス語という二つのことばにアクセスしうる地点である。その〈異邦性 étrangéité〉こそが彼にとっての新たなアイデンティティである。外側 ailleurs からもたらされたフランス語は、原初的に備わっている日本語とともに共存するようになり、いまでも彼は自在にそのあいだを行き来している。第二言語との付き合いかたの理想形がここにあるのである。

 

 

 さて、この調子でいくらでも書けそうなのだが、書き終わる気配がないので、いくつかわたしの気に入った箇所を引用して、すでに長くなりすぎてしまったこの文章を閉じようと思う。

"Ne suis-je pas un étranger dans ce pays ? me demendai-je. Ne suis-je pas extérieur aux limites territoriales de ce pays ? Pourquoi alors me choisit-il parmi mille autres individus ?"(p.95)

  モンペリエに着いて間もないころ、明らかにアジア人の外見をしている水林章に、フランスの青年は時間を尋ねる。日本では、起こりそうもないことだ。なぜ幾千もの道ゆく人々のなかから、異邦人である〈わたし〉を選んで時刻を尋ねたのか。このような経験から発せられる問いは、フランス滞在中においてわたし自身も立てた問いのひとつである。いくつかほかの国々を旅行したときにも似たような経験をしたので、フランスを主語にして語るのは危険だろうが、日本との対比のなかで思索を開始すると非常に興味深い問いであろう。

 

 モンペリエにおいて「明け方のまだ星空の出ている空のもとを大学に向かって歩いていると、奇妙な気分に陥った」という記述があった。これもわたしは大きな共感をもって読んだ。一方で、フランス人にはなぜこれが奇妙になるのかわからないことだろう。フランスでは日照時間が異なる――というよりも、日の入/日の出時間が日本よりもそれぞれ遅いために、朝の授業に出席するべく通学するときもまだ辺りが暗いということがたびたびあった。日本では、この感覚を得るためには相当早くにでなければいけず、「通学」という日常的な生活のなかでは、滅多にこのような状況に出くわすことはないだろう。わたしも、暗がりのなかを校舎へと向かって歩いていたことを思い出す。時間があれば、朝から開いているカフェに立ち寄って、エスプレッソを飲んで目を醒ましながら、一服するという至福のときを過ごしていた。

"Nous passâmes ainsi quelques moments d'une délicieuse complicité autour d'une tasse de thé vert. En moi, des mots d'amour étaient sur point de naître, non pas dans ma langue mais dans sa langue à elle que je m'efforçais de faire mienne, et que j'avais le plaisir de vous s'accroître et se développer de jour en jour."(p.147) 

  モンペリエで出合い、そして後には生涯の伴侶となることになるミシェルとの緑茶を飲む瞬間。まったくもって美しい描写で綴られている。うっとりするような瞬間だ。

 "Dans un cas comme dans l'autre, la parole de l'étrangère apparaît comme une parole neuve, virginale et authentique. Il s'agit certes d'une parole maladroite, fautive même, mais lourde de sens et infiniment persuasive dans une situation d'énonciation liée à la mort ou à la naissance : une parole vraie, articulée à mille lieues du souci de la correction."(p.239) 

 ミシェル夫人とともに日本に帰郷し、しばらく経ったころ、彼の父の死に際して、夫人が文法的に正しいとは言えない日本語でことばをかけた。なんとか外国語で意を相手に伝えようとすること。そのときに生まれることばは、確かに不器用で、訂正の余地はいくらでもあるかもしれない。だが、それは何よりも強いことばであり、本当のことばであるにちがいないと感じた、と。まさしくそうであるな、と強く同調したい。

"Autant de situations, autant de visages, autant de mots entendus. Feuilles verbales volantes que j'ai attrapées et qui se sont gravées dans ma conscience d'une manière indélébile."(p.241) 

 フランス語の単語や表現をひとつとっても、そのうちにこれまで遭遇してきた数多くの状況や、ひとびとの顔やことばたちが思い起こされる。ことばを学ぶということは、すなわちそのことばを話す他者から盗みを働くということでもある。言語の習得はすべてそうであることは間違いないのだが、幼少期は過ぎ去り、後天的に習得を試みている以上、わたしたちは盗みを意識的に働いてみせる。他者が話しているのを聞くことで、自らの過ちを知り、新しいことを学び、それらをおそるおそる自らの口で発してみる。その過程のなかには、さまざまな〈顔〉との出会いがあったはずなのだ。

"Il y a, et on le conçoit, des peuples sans écriture, mais pas d'êtres humains sans parole. Cependant, en ce qui me concerne, moi en tant que locuteur en français, j'ai toujours eu le sentiment que l'écriture précédait la parole..."(p.243)

  一般的には、パロールは、エクリチュールに先行するといわれる。なぜなら、文字をもたない民族は存在するが、ことば(パロール)をもたない民族はひとつとして存在しないからである。だが、後天的に言語を学んだフランス語話者としての水林章にとっては、エクリチュールパロールに先行するような感覚がある、という。記された文字をとおして彼はもっともフランス語を受容したからであろう。この主張も大いに頷ける。彼の経験ともまた異なることではあるだろうが、わたしは、Facebookメッセンジャーにおけるメッセージを通して、もっともフランス語が上達したかもしれないなと感じている。

 

 言語への興味は尽きない。ここに記したさまざまなテーマについて、それぞれをもっと展開できるような気がする。また機を改めて書きたい。とりあえずは、水林青年を決定的にフランス語へと導いたもののひとつであると紹介されていた、森有正『遙かなノートルダム』を読み進めようと思う。この書籍についても、気が向いたら筆を執ることとしよう。

 

VIDEOTAPEMUSIC "Her Favorite Moments"

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 VIDEOTAPEMUSIC『世界各国の夜』。このアルバムを手にしてからおよそ一年のあいだ、いったいどれほどの夜がこの愛おしき音楽によって救われただろうか。終電を逃し、ひとりで夜の東京の街をさまよいながら、イヤフォンを耳に突っ込んで歩きつづける夜。疲弊しきった身体に鞭を打ちながらハンドルを握り、首都高を走りながら帰路をいそぐ夜。つかの間の異国での滞在を終えて、東京へと向かう飛行機の窓から都市を見下ろす夜。夜と表題に記されているからという短絡的な理由だけではなく、まちがいなくこれは夜の音楽であり、夜のための音楽である。わたしたちは VIDEOTAPEMUSIC がVHSを拾い集めてつなぎ合わせた音楽たちを通して、もうすでに失われてしまっている、かつての世界各国の夜に思いを馳せる。

 

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 渋谷 WWW で開催されていたVIDEOTAPEMUSICのワンマンライブ "Her Favorite Moments" に行ってきた。このところ足を運んでいる公演はほとんど WWW でブッキングされているような気がする。わたしが高校生だったとき、WWW のこけら落とし公演で神聖かまってちゃん(の喧嘩)を観にいった日が懐かしい。昨年末まで残っていたシネマライズのもうひとつのスクリーンもついに潰れてしまい、跡地に WWW X という2号館がオープンした。Anderson .Paakの来日公演に行けなかったことが本当に悔やまれる。

 

 さておき、"Her Favorite Moments"の公演。まったくもって素晴らしい夜だった。VIDEOTAPEMUSIC のライブを観るのははじめてだったので、YouTubeにアップロードされているPVという形でなければ、VHSからサンプリングされた映像たちとともに音楽を体験する機会をようやく得たことになる。わたしにとっては、非常に真新しい音楽体験だった。VJが音楽に合わせてスクリーンに映像を投影しているライブとはちがって、そもそもひとつひとつの音の出自が、わたしが目の当たりにしている映像のうちに求められるのだから。

 スクリーンの上で音とともに繰り返されるイメージは、すべて過去に属するものである。わたしたちは、その映像が示している過去のひとつひとつの瞬間に思いを馳せる。その瞬間とは、ジャズ・ドラマーの刻むビートであり、香港のカンフー少年たちであり、どこかの民族の艶やかな踊りであり、20世紀のアメリカの女子高生たちの叫びであり、ダンス・ホールでおめかしをして踊る人々であり、映画史に残る往年の大女優たちの姿である。そうした世界各国の過去の瞬間が矢継ぎ早に繋がれてゆき、新たな音楽を躯体を手にして、わたしたちの目前に提示される。そうしてわたしたちはただ音楽に身を委ね、身体を揺らすのだ。いったいなんと甘美な音楽体験であろうか。

 

 かといって、過去へのノスタルジーに耽溺するのではない。「世界各国の夜」というアルバムの表題曲のうちに、"I wonder if future generations will even hear about us... It's likely not." という科白が引用されているのだが、帰宅してからいったいなんの科白だろうかと検索エンジンを走らせると、ウディ・アレンラジオ・デイズ』('87)のものだということがわかった。この映画についてはわたしは未見なのだが、どうやら1943年のニューヨークを舞台にしている作品だという。あの科白が VIDEOTAPEMUSIC の音楽においてサンプリングされているということに、わたしは並々ならぬ感動を憶えてしまう。

 1943年のニューヨーク、男は、彼らのことを未来の人間が聞きおよぶことはおそらくないだろう、と吐露する。その科白が、ウディ・アレンの手により映画のなかに再現されて、作品が収められたVHSは、ひとの手から手へと渡り歩いてゆき、偶然にも VIDEOTAPEMUSIC のもとへと届く。彼はその科白を抜き取り、音楽に仕立てあげて、2016年の東京に再び息を吹き込んだのだ。会場であの科白を聞いたとき、わたしはおもわず叫びたくなってしまった、"I am now hearing about you!"、と。こうして、1943年のニューヨークと2016年の東京が、まったく予想されえなかった形で交差してしまった。これを感動的と呼ばずになんと呼べるだろうか(一応附言しておくと、1943年に実際に何者かがあの科白を吐いたかどうかはさしあたって重要ではない)。

 

 VIDEOTAPEMUSIC の音楽は、わたしたちを〈ここではないどこか〉へと連れ出し、過去への擬似的な旅をしているような気分を味わせてくれる。だが、あくまでそれは現在からの消極的な逃避行ではない。つねに〈いま〉からの郷愁として、わたしたちは過去をそっと想像してみるにすぎないのだ。わたしたちはいま2016年の東京に立っているのだということは、楽曲のなかでも強調されている。だからこそ、過去を眼前に蘇らせるという彼の試みは、感傷的に過去に求めるという消極的ものではなく、つねに現在地に立ちながら、過去の夜にいくらか思いを馳せるためのポジティヴな試みである。過去は、簡単には忘却されえない。まったく思わぬかたちで、こうして未来の時点に甦り、未来のひとびとによって想われることだってあるのだから。過去と現在と未来は、すべて地続きでつながっているのだ。

 

 アンコールで学生のころにつくった「煙突」という楽曲を披露していた。この曲は、彼が20歳のころ、着メロ作成アプリでビートを打ち込んで、それを枕に押し付けながら再生し、その音をマイクで拾ったものからつくったという。この静かな曲が披露されているあいだ、ふと会場の観客たちに目をやると、それぞれが思い思いのかたちで楽曲に聴きいっている様子が見えた。わたしは、それぞれが、それぞれの過去を想い起こしているように思えた。そして、彼らはきっと、2016年の東京で過ごしたこの一夜のことも、ふとした拍子に未来で想い起すにちがいない。わたしもこの一夜のことをいつかまた想い起すことになるだろう。

 

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「日本におけるキュビスム ― ピカソ・インパクト」展

f:id:immoue:20161208155135j:plain 埼玉県立近代美術館で開催中の「日本におけるキュビスムピカソインパクト」に訪れた。わたしはわりに近くに住んでいるのだが、この美術館を訪れたのは、草間彌生展以来二度目である。あのときは大盛況だった模様で、たしかに展示も充実していて面白かった。エントランスにも草間彌生印の水玉模様が施されていて、吹き抜けになっている場所に巨大な人形があったのがよく記憶に残っている。かなり昔だったように思っていたのだが、いま調べると2012年の春ことだったようだ。

 平日の昼間だったので、案の定、ひとの入りは疎らだった。おそらく、同時にいたのは全体で10人程度にすぎないのではないかと思う。あまりにも混雑しすぎている状況に比べればよほど好ましいのだが、かといってこれだけ少ないといくらか淋しい気もしてしまう。首都圏とはいえ埼玉県という僻地にある立地の問題なのか、あるいは企画展の訴求力の問題なのか(とはいえ「ピカソインパクト」は、それなりにポップであるはずなのだ)わからないのだが、中小の美術館の運営は、ここにかぎらずどこも深刻な問題があることはおそらく間違いないだろう。

 

 さておき、「日本におけるキュビスムピカソインパクト」。わたしは、実際に展示を観るまでこのタイトルに半ば騙されていたのだが、前者と後者は、ある種のふたつの独立したテーマであって、その接合が試みられている展示だった、ということがわかった。

 つまり、日本においてキュビスムがはじめに受容された1910年代後半から20年代にかけた大正期が前者に対応しており(もちろん、キュビスムの創始者でもあるピカソの影響下において受容がなされている)、第一部「日本におけるキュビスム」では、当時の日本人画家によるキュビスムの模倣作品が展示されている。

 一方で、第二部「ピカソインパクト」では、1951年に東京と大阪で大規模なピカソの展覧会が開催されたされたことをきっかけとして、さまざまなジャンルにおいて横断的にピカソの影響が見られる作品群をおもに扱っている。すなわち、それらはかならずしも「キュビスム」とは分類されない。たとえキュビスト的手法をもちいていたとしても、それらはあくまで方法論における受容であるということだ。

 「この展覧会はキュビスムが二度にわたって、別々の文脈で日本の作家たちに受容されたという仮説に基づいて組み立てられています」と紹介文にもはっきりと言明されているように、その隔たった二つの時代における受容のされかたの違いというコントラストが展示にもはっきりと示されており、その点では非常に優れたキュレーションの展覧会だったように思われる。

 

 一部において印象的だったのは、日本における初期のキュビスムの受容で特筆すべきが、日本の作家たち(多くは1910年代のパリを知る者たちである)によるキュビスムへの理解/定義が非常に曖昧であったということである。日本におけるキュビスムは、西欧とは異なり、さほど他のイズムと区別されることのないままに作品がつくられていった。もちろん、このことは非常に興味深い点である。

 たとえば、さまざまな批判は寄せられてきたものの、西欧における通俗的理解では、キュビスムシュールレアリスムの対極としてあった。というのも、前者は画面をファセットによって分断し再構築するという論理的な思考に裏付けされた合理主義であり、後者は夢や無意識の表現に主軸をおいた非合理主義だからである。このような合理主義/非合理主義の二項対立は、キュビスムの影響下にある大正期の作品にはさほど認めることができない。キュビスムは、フォービズムと混濁され、シュールレアリスムダダイスムとも区別されないまま、日本で模倣されていったのである(とはいえ、萬鐵五郎の作品からは、かれがキュビスムの論理的構造を深く理解していたことが伺える、とキャプションには記されていた)。

 

 しかし、この風潮は長く続くことはなかった。作家たちはキュビスムの作品をつくることをすぐに辞めてしまう。多くの者たちがまたべつの作風に手を出し、それぞれの道は分岐していくというのだ。このことは、たとえばピカソやブラックが同じような作品を制作し続けなかったことにも関係しているのだろう。したがって、日本ではシュールレアリスムの作品は厚みがあっても、キュビスムの作例はあまり多く残されていないそうである。

 それでも、キュビスムが途絶えたとするのは早計である、と主張するのが第二部の「ピカソインパクト」であった。わたしは第二部が非常に充実していたように思う。というのも、さきほど書いたように、第二部はキュビスムの枠組みから大きくはみ出て、同時期に制作されたさまざまな作品が並べられているのだが、一見するとそれらのうちに共通点を見出すほどが難しいほどかけ離れた作風の作品もある。しかし、「ピカソインパクト」「キュビスム」という概念によって、不思議と文脈が浮き上がってくるようなのだ。このことは、キュレーターの力量が存分に発揮されているところだろう。前ぶりもなく河原温《肉屋の内儀》が展示されていたのには驚いたが、「そう言われてみればそうかもしれない…」と作品と睨めっこをし、周囲の作品を見渡すという経験はなかなか愉快であった。

 

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 インターネットで調べていると、以上のような近代美術チャートが見つかった。「キュビスムと抽象芸術」展カタログに掲載された、アルフレッド・バー・Jrによる系統図だそうだが、この展示に際して講演を行った尾崎信一郎氏が紹介したそうである。わたしはこのあたりについての全体の見取り図は持ち合わせていなかったので、とても参考になる。そして、さまざまな20世紀のイズムの源流に位置する作家として、ヴァン・ゴッホセザンヌはもちろんのことながら、ルドンとルソーの名が挙がっていることに成る程な、と思った。このへんはもう少し勉強したい限りである。

 

 さて、「日本におけるキュビスムピカソインパクト」で好きだった作品を列記して筆を措く。もう見れる機会はそうそうなさそうな作品ばかりであった。東郷青児コントラバスを弾く》、普門暁《鹿・青春・光・交叉》、黒田重太郎《マドレエヌ・ルパンチ》、鶴岡政男《人(14)》《夜の群像》、下村良之介《祭》、池田龍雄《十字街》、尾藤豊《変電所》など。

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 とくに下村良之介《祭》は、すごく大きな作品で、カンバスの隅々までにエネルギーが充填しているうえに、表題からもわかるように、きわめて日本的なモチーフを配置しているお気に入りの作品だった。このモダンな造形、モチーフの配置の方法に、確かにピカソの影響が伺えるような気もする。

 

 東郷青児も非常に良かったのだけど、初期には彼がキュビスムの作品を制作していたとはまったく知らなかった。そして、どうやら2017年の秋には損保ジャパン日本興亜美術館で生誕120年 東郷青児展が開かれるそうだ。こちらにも忘れないように足を運ばなければ。

 

togetter.com

 さきほどの尾崎信一郎氏によるレクチャーの実況まとめ。こういう実況は本当にありがたい。このような知は積極的に共有されていくべきであろう。

ルシール・アザリロヴィック『エヴォリューション』―― 時代遅れの旧き想像力

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 ひどかったとしか言いようがない。確かに美しいシーンはあった。とりわけはじめの海中のシーンは息を呑むような美しさを湛えていた。神秘的な碧の海に、鮮やかな赤いパンツを履いた白い肌の少年が潜ってくる。そのような色彩の感覚はいい。美点をあげようと思えばいくつか挙げられる気もするのだが、総じてひとつの作品としては救いようのないくらいの酷さだった。

 UPLINKで見たのだが、わたしはほかの観客の顔すら見たくなかったので、エンドロールの途中で退出した ―― 同じ場を共有しているほかの観客たちの顔が見たくなるかどうか? というのは、わたしは映画にかぎらず、ひとつの作品を評価するときに大事にしている指標である。つまり、その指標軸ではゼロ点。

 しかし、UPLINKはどうしてこの作品をかくも推しているのだろうか。ある意味、劇場としての個性を獲得しているといっていいのだが、この作品を5回も1日に上映するくらいなら、もっとほかに上映するべき優れた作品はあるように思うのだけれども。べつにフランスでヒットを記録したわけでもないので、おそらく作品を引っ張ってくるひとたちのお眼鏡にかなったのだろうけれど、なんだかなという気持ちが晴れない。

 カイエ・ドゥ・シネマの評にはあまり共感しないことも多いけれど、この作品についての短評はよく言えているな、と思ったので以下に引用。

Un cinéma incroyablement daté, tout droit tiré de cet imaginaire d’Europe de l’Est des années 80 qui n’a cessé depuis lors d’empoisonner le petit monde du court-métrage fantastique français.

 簡単に訳せば、1980年代の東ヨーロッパ的な想像力は、フランスの幻想的な短編映画の小さな世界をずっと毒し続けている、その象徴的な作品であるというところか。まさしくその通りだと思う。そういう想像力は、もはや時代遅れであるという感覚はわたしもどこかで共有している。日本では、やたらとヤン・シュヴァンクマイエルやイジー・バルタといったチェコ・アニメのあたりの奇怪な想像力が、あまりにも称揚されすぎているきらいがある(なぜあれほどまでに頻繁に特集上映がかかるのか)。もちろん、そのことにはおそらくれっきとした理由があり、わたし自身も惹きつけられる気持ちもわかる(というか、そもそもチェコアニメもぜんぜん嫌いではない)のだが、いまの時代において新たな作品をつくるとき、そのような想像力がもうすでに古くなってしまっているということは、世界的には共有されている感覚にちがいない。

 その感覚については、依然としてうまく言語化できないのだが、この『エヴォリューション』という映画を観て、わたしはその確信をさらに深めることとなった。やれやれ、という気分だ。ランタイムが90分以内だったからまだ耐えられた。ルシール・アザリロヴィックというフランスの女性監督は、ほかに『エコール』('04)という、それなりに日本でも知名度のある作品を撮っているようである。いまのままだとおそらく観ることはない。

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 たぶん監督としてはいろいろと作品のうちにメタファーを込めたのだろう。そういうメタファーをひとつひとつ解き明かしていく遊びも愉しいことには同調するし、わたしとしても、メタファーにすべて気づいたうえで批判しているわけではぜんぜんない。強いていえば、この映画は女性による男性への復讐、そして復讐の対象としてさらなる弱者としての少年が選出されていることへの皮肉を描いていたのだろう、とは思ったけれど、そのこともまったく的を外しているかもしれない。後者の視点は、いまの時代において求められていることなのかもしれないが、なにぶんそのナラティブにはうんざりだったのだ。

 

   なぜうんざりだったのにこれほどくどくどと書いているのかというと、 このことが言いたかったからに過ぎない。ロクサーヌ・デュランさん、ラ・トゥールの絵に出てくる怖い女性にあまりにも似ていて、上映中も集中ができなかった。わたしはラ・トゥールの怖い女のひとがからっきしダメなのだ。《いかさま師》の女性にも似ているよね。森村泰昌のように、ロクサーヌ・デュランさんをキャスティングして《いかさま師》を再現してほしい。

 

 それくらいです。

アメリカという眩い夢のつづき ―― リチャード・リンクレイター『エブリバディ・ウォンツ・サム!!』

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 『Boyhood(6才のボクが、大人になるまで。)』という傑作のあと、リチャード・リンクレイターが新たに世界に送り出したのは、本人の語るように前作の続編のようでもあり、またある意味では、まったく真逆の指向性のもとにつくられた(というように思われる)もうひとつの傑作であった。『エブリバディ・ウォンツ・サム!! 世界はボクらの手の中に』を観た。

 

 1980年代、アメリカ。テキサスの大学に新入生として入学したばかりのジェイクたちは、野球をするという固い意志をもって強豪として知られる野球部に入部するも、どこかで新たな環境に浮かれている。無理もない、それは新学期がはじまる直前なのだから。個性の際立った野球部の先輩たちにもみくちゃにされながら、夜な夜なパーティを梯子し、酒とセックスと恋に耽る三日間。いままさに始まらんとしている新たな生活にたいして心をときめかせる彼らの青春のひとコマが見事に捉えられている。

 それは、『アメリカン・グラフィティ』の主人公であるカート・ヘンダーソンの後日譚のようでもある。同じ高校の友人たちと最後の一夜を過ごしたあと、翌日にカートは東部の大学に入学するべく飛行機に乗って地元を発っていく。『アメリカン・グラフィティ』は、以上のようなシーンで幕切れとなるが、新天地でのカートの生活をカメラが捉えてしまっていたとしたら、『エブリバディ・ウォンツ・サム』のジェイクのような三日間を過ごしていたかもしれない。

いまの家を出て新しい家に住み込んだり、いまの車を捨てて新しい車を手に入れたり、いまの友達と別れて新しい友達に出合ったり……そんなの何の意味があるっていうんだ? 

  カートは、『アメリカン・グラフィティ』において、新たな生活をはじめることについての心情を不安げにこう吐露していた。きっと彼だけではない。すべての新天地に向かわんとするひとびともまた、このように問うたことがあるだろう。出会いと別れを繰り返していくだけの人生、そんなの何の意味があるっていうんだ? ――ジェイクの頭にも同じような葛藤が翳んだことがあったかもしれない。しかし、ジェイク青年は、先輩の洗礼を受け、新たな恋に落ち、激動の三日間のうちにそのような葛藤などどこかへ吹き飛ばしてしまったにちがいない。

 まだまだパーティは終わってなかった。『アメリカン・グラフィティ』は夢のなかの儚い一瞬ではなかったのだ。60年代のカートの人生は、80年代のジェイクの人生と交錯する。そのあいだにはベトナム戦争があった。アメリカ社会もまた闇を抱えていたのだ。しかし、まだアメリカン・ドリームは死んだわけではなかった。わたしはこのフィルムでそのことを痛感させられてしまったのだ。彼らの夢は、いったいなんて素晴らしいのだろう。『エブリバディ・ウォンツ・サム』に描かれたかれ(ら)の青春に、わたしは羨望を抱かずにはいられないのだった。

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 この映画を観た者の多くは、わたしのように、アメリカに行きたい、アメリカの大学で青春を送りたかったと強く願うのではないだろうか、と邪推する。それくらいに美しい燦めきのうちに青春が捉えられていたのであれば、そのように願うのは当たり前かもしれない。だが、これは特異なことであるともまた同様に感じている――わたしたちは、この物語の舞台がアメリカでなかったとしたら、その地に行きたいとかくも願っていただろうか? アメリカではないどこかを舞台にウェルメイドの「青春ムービー」を観たときに、その地で青春を過ごしたかったとこれほど強く願っていただろうか?

 『エブリバディ・ウォンツ・サム』だけではない。アメリカという土地で繰り広げられるすぐれた物語を目撃した者は、なぜかアメリカを欲望してしまうのである。それが、イランであったら? インドであったら? ブラジルであったら? スペインであったら? わたしたちは、アメリカほどその異国の地そのものを欲望していなかったのではないだろうか。もちろん、そのような事態はありうる。しかし、アメリカほどにすべての人種を包摂してしまう土地は、ほかに存在するだろうか。

 

 わたしは、これは〈アメリカ〉という夢の神話の力に依るものだと思っている。なかでもリンクレイターは、〈祝祭〉を描写することに――かかる神話の創生に非常に長けているということは、まざまざとこの作品が証左している。アメリカ的な青春に遭遇したとき、わたしたちはただ観察者としてそうした幻を羨望するだけには留まらない。いわばいち生活者として、虚構としてのアメリカではなく、現実としてのアメリカに結びつけ、それすらを欲望してしまうのである。そのことこそが、いわゆる「アメリカン・ドリーム」という神話の効力なのではないだろうか(このことについてはさらに展開してゆきたいのだが、まだわたしのなかに十分に論じれるだけの知見が備わっていないので、あくまで仮説として放り投げておく)。

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 興味深いシーンがあった。まさに夜が明けようとしている新学期がはじまる前の最後の日、ジェイクは、新たに出会った女の子(ゾーイ・ドゥイッチは紛れもなく次世代を代表するヒロインになるだろう!)をまさに仕留めようとしている。明け方、浮き輪にゆられながら、川のなかで彼女とふたりで囁き合っている。

 ジェイクは語る。高校を卒業するときに、シーシュポスの神話と野球を結びつけた文章を書いた。いわく、シーシュポスと野球、ひいては人生はすべて似通っている。観点と解釈次第では、いままさにやっている何らかの行為に、わたしたちはいくらでも意味を見出すことができる。無意味なことなどひとつもない。すべては主体の捉えようであるのだ、と。

 それは、一般的にいえば、シーシュポスの神話の曲解でしかないだろう。そもそもの神話の主題は、神から与えられた罰によって、無意味なことを永久に繰り返すことになるという〈不条理〉そのものであったのだから。わたしたちは、変わり映えのしない平坦な毎日をただ繰り返すだけだという不条理の感に苛まされることがある。だからこそ、シーシュポスの神話は、わたしたちに特別な意味を訴えかけてきていたはずなのだ。

 一方で、ジェイクにおいて、シーシュポスの不条理は、途端に有意味なものに――さらには女の子を口説く文句にすらも――変解させられてしまう。果たしてそれは、欺瞞ではないのだろうか? 120分の映画のなかでしか存在し得ないユートピアではないのだろうか?

 

 さきほども言ったように、毎日は繰り返しだ。祝祭ばかりではない。ジェイクの過ごした夢のような三日間は、いつかは醒めることになってしまうかもしれない。平坦で退屈な日常に苦しめられることもあるかもしれない。しかし、『エブリバディ・ウォンツ・サム』を撮ったリンクレイターが、そのことについて無自覚であったとは到底思えない――なぜなら、『Boyhood』という作品は、まさしく本作の対極に位置するような、〈ハレ〉でなく〈ケ〉の日だけを十二年にわたって描写したものだったのだから。なんの変哲もないあなたの日常も、じつは喜びに満ち満ちた愛すべき日常であるということを、あのフィルムは雄弁に語ってくれたではないか。

 『エブリバディ・ウォンツ・サム』では、「やり残した事にこそ後悔が生まれる」という言葉が合言葉のように頻出する。映画に登場しているすべてのキャラクターが、この合言葉を肝に命じて生きているような印象を憶える。不幸な人間は、だれひとりとして出てこない。年齢偽証で退学となった30歳のウィロウ(ワイアット・ラッセル!)ですらも、諦観を帯びた顔つきで仲間のもとを去ったが、不思議と不幸だとは思えなかった。彼はただ純粋に、ほかの奴らとまだまだ夢を見ていたかっただけなのだ。

 

 シーシュポスの神話の不条理は、リンクレイターの創出するアメリカという神話に打ち勝つこともあるだろう。『エブリバディ・ウォンツ・サム』では、わたしたちはあくまで神話を、アメリカという眩い夢を見させられているにすぎない。『アメリカン・グラフィティ』の若者たちの夢の続きを。だが、刹那的な祝祭が終わってしまっても、『Boyhood』のような日常は、わたしたちのことをずっと待っているのだ。それならば、夢が醒めてしまってもいい。そして、いつか醒める夢ならば、とびきりの美しい夢を見せて欲しい。それは欺瞞かもしれない。だが、欺瞞だっていいじゃないか。報われないと了解しながら山の頂きまで岩を運んでいく道程で、八十年代に見た眩い夢はいつでも記憶として慰めてくれるのかもしれないのだから。わたしたちは、たぶん、みんなそうやって生きている。

錦織圭さんの2016年

 テニスのルールすらほとんど知らなかったわたしが、あるときテニスというスポーツの熱狂的なファンへと変化を遂げてから一年半ほどが過ぎた。今年ははじめて一年を通してテニスの動向を追い続けてきた年だったのだが、まったくもって愉しくて仕方がなかった。テニスというのはなんと奥深いスポーツなのだろう! これまでのテニスのない人生とはいったいなんだったのか ―― とすら言ってしまいたくなるほどにハマってしまったのだ。

 テニスに興味を持ちはじめたきっかけはいたって月並みである。なにを隠そう、かの錦織圭さんの存在である。父もテニスファンであったというのは多分に影響しているのだが、完全に巷の錦織圭ブームに煽られ、たまたま試合を目撃したことがはじまりだった。それでも、ミーハーであることは抜け出たくらいには、錦織圭さんの試合を中心に、いろいろな試合を観てきたように思う。

 アルゼンチンとクロアチアの対決となったデビスカップ決勝の4戦目、デル・ポトロとチリッチの素晴らしい試合をもって(5戦目のカルロビッチ大先生の不本意なテニスには幻滅して途中で観戦を放棄してしまった)、今季のテニス観戦はひとまず終了である。12月にはIPTLがあるようだけれど、こちらについてはシーズンに含めないでも構わないだろう。

 

 今年の錦織圭さんの試合は、おそらく9割方は観戦したと思う。試合時間が明け方の4時に組まれようと、夜更かしをしてそのまま観るなり、気合いで4時に起床するなり、リアルタイムで追うように心がけていた。本来は体たらくなわたしが、錦織圭さんのために費やした努力の数は計り知れない。どうしても観れないこともあったが、たとえば用事のあったときは、満員電車に揉まれながら小さな画面上のストリーミングで必死の形相で試合を観ていたこともあった。まさかこれほどまでにどっぷりとハマってしまうとは、二年前には考えてもみなかったことだ。趣味ができるのはいいことではある。

 錦織圭さんの試合はおもしろい。よく言われることだが、さまざまな選手の試合を観てきて改めてそう思うのだ。それは、かれが単純に強いからというだけではない。もちろん勝てる試合ほどおもしろいものはないのだが、よくいわれるように、試合の勝ち負け以前に、かれのテニスは豊かで多様なアイデアが溢れている。そして、そのアイデアを瞬時に実現する確かな技術。

 それがなければ、三年連続でツアーファイナルに出場という快挙を達成することは不可能であっただろう。錦織圭さんがこのところつねに在籍しているので慣れてきてしまっているが、テニスという選手層の厚いスポーツ界で、世界トップ10を長きにわたってキープするというのはほんとうに途轍もないことなのだ ―― そのような選手が、日本人であるということは、もしかするとわたしの目の黒いうちにはもう二度とないかもしれない。それだけに、当初より今年の目標としていた、マスターズ1000での優勝が達成できずに残念であった。

 

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 年間58勝という記録が物語っているように、怪我による棄権も比較的少なく、かつてない安定感で一年間を戦った。よく指摘されていたように、下位の選手に敗北を喫することなく、自分のシードは本当によく守っていたと思う。58勝21敗。

 さきほど数えてみると、今年錦織圭さんがビッグ4を除いた下位の選手に負けたのは、ブリスベンQFでトミック、メキシコOPでサム・クエリー、全仏R16でガスケ、シンシナティR16で再びトミック、パリ室内R16でツォンガ、バーゼルFでチリッチ、そしてツアーファイナルズRRでチリッチという7回だけだった(棄権を除く)。つまり、ほとんど取りこぼしはなかったということである。

 それだけに上位選手との試合でやはり黒星を重ねている。6度の対戦があったジョコビッチには今年一度も勝てなかった。全豪オープンQF、マイアミF、マドリードSFではジョコビッチに完敗。そのあとのローマの決勝では、ほんとうに両者の差が縮まっているのを感じたものの、今年のトロント決勝、ツアーファイナルでは再び完敗といったさまだった。

 とくに、仮に10位以内の選手から勝ち星をあげたところで、そのあと連続で上位選手と当たったときに勝てたことがないというのは大きな問題だ。テニスという体力的にハードなスポーツで、たとえば二日連続で死闘を繰り広げるのは並大抵のことではないのは承知しつつも、かれがもう一段階上にあがるためには不可欠であろう。

 グランドスラムも、もう少しいけたのではないか、という思いがある。SFまで進出した全米もそうだが、いちばん行けるのではないかと思ったのは、むしろ全仏である。今年のクレー・シーズンにおいては本当に調子を良さそうにしていて、バルセロナマドリード、ローマと熱戦が続いたのでもしかしたらという期待が膨らんでいたのだった。結果的に地元のガスケに敗けてしまい、QFで敗退。去年もおなじく地元のツォンガに長い中断のあった試合で負けてしまったので、二年連続で似たような負け方をしてしまったことになる。フランスという国を知っている分複雑な気分になるのだが、フランスのオーディエンスのマナーは本当に最低だ。イタリアも本当に酷いなと思ったが、フランスの試合もいやな気持ちになることばかりであった(もっとも日本のスポーツの応援も大概だとは思うので、声を大にして主張はしにくいが)。むしろアルゼンチンくらいの応援になったら、逆にあたたかい気持ちで観れるのだが。

 

 

 今年いちばん印象に残っているマッチは何だろうか。やはりいちばんはじめに思い出すのは、デビスカップ、全米OP、ツアーファイナルでのアンディ・マレーとの対決である。どの試合も死闘としか呼べないくらいの凄まじい試合だった。結果的にデ杯とファイナルでは負けてしまったが、全米での勝利の味はなんとも忘れがたい。とくに、全米に突入していたころは、ジョコビッチの調子が崩れてきていた時期であり、マレーはまだ世界一位の座は獲得していなかったものの、実質的にはナンバーワンと呼ばれていたときである。あのマレーにあれだけの試合をするとは。オリンピックの準決勝など、完敗したこともあったが、マレーにとっては脅威を植え付けることに成功したにちがいない。

 それから、さきほども触れたが、ローマでのジョコビッチとの対戦。第一セットを圧倒的な強さで押し切ったものの、第二セットで巻き返しに遭う。ファイナルセット、ジョコビッチはさきにブレークをし、マッチポイントを握る。もうダメか……と息を呑んだとき、すばらしいウィナーを決めて危機を脱出。タイブレークに突入し、どちらに勝利が転がりこむのかわからなかった試合は、錦織圭さんのDFによって崩れ、すんでのところで敗北を喫してしまったというあの試合。手に汗を握るとはこのことか、と克明に観戦の様子を覚えている。そして、当時のジョコビッチの勝利への執念には打ちのめされてしまったものだった。トッププレイヤーとはこういうことなのか、と。

 ほかにもいくつかある。マイアミQFのモンフィス戦もそうだし、バルセロナFのナダル戦の惜敗、全仏R32のベルダスコとの死闘、オリンピックの3位決定戦でのナダルから勝利をもぎとった銅メダル、ツアーファイナルでワウリンカに見せた圧倒的な強さ。思いのほかいろいろな試合を思い出せる。

 

 ポイントでいえば、つぎの二つはとくに印象深い。ひとつ目のマドリードの動画は、なんどもなんども見て泣きそうになったことがある。実況がたまらず声をあげる "Extraordinary tennis from the two best players!" というのが好きすぎる。

 

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 ふたつ目の "Oh smash! Can you believe that? What was he thinking!?" というのもよかった。いやはや、このタイブレークは忘れられない。これを見て思うのは、重要な局面であっけなく負けるということが本当に減ったような気がするということだ。去年はもっと簡単に敗けていた。確かにいい成績を収めた大会もあったことは間違いなかったが、上位選手にとってみれば、それほど厭な印象はなかったにちがいない。ただ、今年は簡単に屈することは減っていた。あのタイブレークも、よくもぎ取ったものだ。

 

 わたしはジョコビッチやマレーと錦織を分けるのは、いちばんは勝利への執念だと考えている。生涯グランドスラムを達成するまでのジョコビッチ、世界一位の座に就いてからのマレーについていえば、ほんとうになぜそこまでできるのか、というくらいに勝利というものにたいしてがむしゃらに突進しつづけていた。かれらが試合の途中で諦めのそぶりを見せたことは、少なくともわたしの記憶には一度もない。ここぞというときのサービスエース。ここぞというときのウィナー。ここぞというときのディフェンス力。テニスという競技において、勝利と敗北がほんとうに紙一重な分(わたしはその点がテニスの奥深いところだと思っている)、やはりそのような局面に耐え抜く能力が、王座に君臨するために求められているのだろう。

 技術的なことについていえば、錦織圭さんはやはりサーブがまだまだ足りない。体格的にももしかするとすでに限界点にあるのかもしれないが、マイケル・チャンの指導のもとに着実によくなっているとは思うので、さらなる高みを目指して欲しい、というのはすべての錦織圭ファンの願いだろう。サーブでフリーポイントが取れるかどうかというのはほんとうに大きい。

 ビッグ・サーバーであるだけでは上位に名を連ねることはできない昨今のテニスだが、ビッグ・サーブをときどき打つことができない選手にとっても、相当に厳しい現実である。マレーは210キロ級のサーブが打てていなければ、一位になることはおそらく不可能だったであろう。錦織圭さんにも同じ球速を求めるわけではないのだが、やはりコースの打ち分けやセカンドのスピン量などで匹敵するサーブを身につけてほしいものだ。今年は、サーブアンドボレーも使い始めたりしていて、サーブからの戦術に引き出しが増えたと思うので、その分サーブを着実に決めることというのはますます肝要になってくる。

 インターネットに流布している噂のうちに、錦織圭さんはアガシをコーチとして招聘するのではないか、というものがある。マイケル・チャンの仕事に不満があるわけではないが(しいていうなら、もう少しさまざまな大会で帯同してくれればいいのに、とは思うが)、コーチを変える/増やすというのは、彼にとって悪くない変化なのではないかと思う。このまま頭打ちになってしまうのがいちばん恐ろしい。とくに来年は27歳で、スポーツ選手としては一般的にピークのきやすい歳なので頑張って欲しいのだ。裏を返せば、27歳でつかめなければ、あとは下り坂を下っていくだけとも言えてしまうのだから。ともかく、怪我にだけは気をつけて、このオフ・シーズンのあいだに課題をひとつひとつクリアして、万全な状態で来季を迎えて欲しい。全豪で第4シードまでに入れなかったのは残念だが、来季こそはマスターズ優勝、そして悲願のグランドスラム優勝も果たして欲しい。この希望がけして夢物語ではないことに、なによりもおもしろさを感じている。錦織圭さんとテニスという競技にはありがとうという気持ちだ。

 

 べらべらと語りすぎてしまった。実をいえば、この調子でいくらでも語り続けることができそうなのだが ―― ラオニッチの好調、チリッチの終盤の強さ、デルポトロの復活、ティームやキリオスの台頭、あるいはウィンブルドンセンターコートフェデラーと戦った世界ランク772位のウィリスの話など、一年間追い続けてきたぶん、いろいろなネタが記憶のうちに転がっている。錦織圭さんの試合以外もわりあい見ていたので、ミーハーとはいえ、ある程度いまのテニス界について立体的に観れるようになってきた。

 とはいっても、男子テニスのことについてだけだけれども。女子のほうは、大阪に大きな期待を寄せつつ、時間があえば眺める程度に終わっているので、いまのところあまり興味を抱いているわけではない。テニス好きが昂じて、来季は女子の試合もきっちり追っているかもしれないな。なんなら今年、わたしはテニススクールに通い始めるほどにテニスという競技にぞっこんだったのだから。はあ、テニスが観たい、テニスがしたい。自分でもこの欲望の強さに驚きを隠せない。

高山俊は明らかに頭がいい

 11月も残すところ数日になって、ようやくプロ野球の2016年のMVPが発表された。パ・リーグは大谷、セ・リーグは新井である。セ・リーグのMVPは、カープのうちで選ばれる可能性があった選手は何人かいたが、かならずしも数字に現れないここぞというときの活躍、チームの精神的支柱という意味では、新井にMVPが授けられるのは順当といっていいだろう。

 大谷の受賞については、だれもが納得いく結果だろうと思う。投手と指名打者の両方から選ばれたベストナイン選定といい、まったく彼にとって大躍進の年だった(投手としての受賞については疑問が付されるという意見には同調しつつも、レギュラーシーズン終盤のピッチングについては、圧倒的であったことはとりわけ印象深い)。もちろん、こんなところで収まる器ではないのは重々承知である。数字でいえば今年は規定打席/イニングに到達しなかっただけに、来年はどちらも達成したうえで、投打のタイトル総なめしてくれるくらいの活躍を日本中のだれもが期待しているにちがいない。そして、満を持して海をわたって、文字通り「前人未到」を貫徹してほしい ••• というふうに、彼については期待が無尽蔵に湧き出てしまう。そういう期待を一身に受けてもなおそれを軽々と越えていくというところが、大谷翔平の規格外のすごさなのである。

 野球がぜんぜんわからないという友人から「大谷はどれくらいすごいのか」という質問を幾度か受けたことがあるのだが、いまだに適切な喩えが見つからなくて困惑している。「イチローとどっちがすごいの?」と訊かれるとどうしても答えに窮するのだけれど、全国の野球ファンの皆さんはどういうふうに説明しているのだろう。わたしはいつも「そもそも比較することが間違いだ」などとごにょごにょと誤魔化しているのだが。

 

 とまれ、同日には新人王も発表された。パ・リーグの新人王が茂木でなく高梨にいったのは少し残念だが、セ・リーグはといえば、大方の予想通り高山俊である。タイガースの選手の新人王受賞は、2001年の赤星以来だという。タイガースファンのわたしとしては、高山くんの活躍を見ているだけでも十分に楽しいシーズンだった。

 シーズン終盤、優勝争いはもとより、Aクラスも絶望的になったとき、北條や原口といったいわゆる「若虎」の活躍を追うことだけが観戦のモチベーションだったといっていい。とくに高山に至っては、坪井が記録した135安打というチーム新人最多安打を越すかどうか、かつて長嶋茂雄が樹立した新人としての猛打賞13回という記録を越すかどうかという新記録樹立が掛かっていた分、なおさら応援には力が入ったのである。残念ながら後者は12回で止まってしまったが(マルチ・ヒットを達成しても、猛打賞を記録するのは本当に難しいことなのだと身にしみてわかった)、136安打を記録し、新人としては申し分のない記録を打ち立てたことは間違いがない。新人王の結果も納得である。一年前のドラフト会議でよくぞ真中監督は外してくれたと感謝の気持ちは果てしない。金本監督もよくぞ引き当ててくれた。

 

 わたしが彼のことを気に入っているのは、卓越したミート力といった、技術の高さはもちろんのことながら、明らかに頭がいいということだ。ヒーローインタビューを見ていてもそうだし、普段の記者の受け答えを見ていてもそうなのだが、やはりいくらスポーツ選手とはいえ、知性の高さというのは、一流を目指すにおいては肝要なポイントであると思っている。もちろん、才能やセンスだけでもプロ野球選手にはなれる。そういう選手を追っていく楽しさもわかる。だが、わたしは野球IQの高さということがどうしても気になってしまうたちなのだ。

 清原と野村克也のつぎのようなエピソードが印象的だ。鳴り物入りでプロ野球に入団し、申し分のない成績を残していく清原だが、すでに指導者の立場にあった野村克也は、あるとき彼の限界に気づいてしまったという。「清原は天性だけでやっている、あいつには思想がない」、と。

 たとえば、イチローには知性があり、独自の思想がある。発言はもちろんのことながら、プレースタイルを見ていても、それは火を見るよりも明らかである。わたしは、高山にも似たようなものがあるような気がしているのだ。イチローほど活躍するとは買いかぶりすぎかもしれないが、あるいはそれくらいのポテンシャルは秘めているんじゃないか、と密かに期待を寄せている。

 シーズン中盤、不振が続いたことがあったが、終盤にかけてきっちりと修正して成績を残した。中途で苦しんでいたのは、ミート力が高すぎるがゆえに、どのコースの球でも振ってしまい、結果的にバットの芯を外して凡打となってしまうということだった。だが、そこからきちりと修正をして、終盤には球の見極めがうまくなっていたように思う。たんなる天性や運動神経だけでは、これほど早く修正はできないだろう。だれにとっても問題は明らかなのにもかかわらず、いつまでも同じ過ちを繰り返している選手なんて現に山ほどいるではないか。

 もちろん、プロとして一年目の選手に思想を問うのは酷だろう。だが、いずれは自らの論をきっちりと打ち立てることのできる選手だろうし、このままプロ野球で活躍し続ければ、引退後の解説者/評論家としての道も堅いだろうと踏んでいる。わたしは高山と同い年なこともあって、肩入れしすぎているのかもしれないが、同世代の活躍はいつだって刺激的である。強いて苦言を呈するならば、入場曲にEXILEは辞めてほしい。彼の音楽の趣味についてはあまり評価できなさそうなのだが、かといって音楽的嗜好と野球選手としての能力の因果関係を立証することもできなさそうなので、声を小さくして言っておく。せめてEXILEは辞めてくれ。

 

 ともあれ、まずは来季の活躍に期待しよう。守備や走塁という点では、まだまだ課題は山積みなので、オフシーズンのあいだにひとつひとつクリアしてもらいたい。修正能力にすぐれている高山のことであれば、きっとさらなる高みを来季は見せてくれるにちがいない。打撃についていえば、3割15本は越えてくれるだろうと期待している。来シーズンが待ち遠しい。