VIDEOTAPEMUSIC "Her Favorite Moments"

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 VIDEOTAPEMUSIC『世界各国の夜』。このアルバムを手にしてからおよそ一年のあいだ、いったいどれほどの夜がこの愛おしき音楽によって救われただろうか。終電を逃し、ひとりで夜の東京の街をさまよいながら、イヤフォンを耳に突っ込んで歩きつづける夜。疲弊しきった身体に鞭を打ちながらハンドルを握り、首都高を走りながら帰路をいそぐ夜。つかの間の異国での滞在を終えて、東京へと向かう飛行機の窓から都市を見下ろす夜。夜と表題に記されているからという短絡的な理由だけではなく、まちがいなくこれは夜の音楽であり、夜のための音楽である。わたしたちは VIDEOTAPEMUSIC がVHSを拾い集めてつなぎ合わせた音楽たちを通して、もうすでに失われてしまっている、かつての世界各国の夜に思いを馳せる。

 

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 渋谷 WWW で開催されていたVIDEOTAPEMUSICのワンマンライブ "Her Favorite Moments" に行ってきた。このところ足を運んでいる公演はほとんど WWW でブッキングされているような気がする。わたしが高校生だったとき、WWW のこけら落とし公演で神聖かまってちゃん(の喧嘩)を観にいった日が懐かしい。昨年末まで残っていたシネマライズのもうひとつのスクリーンもついに潰れてしまい、跡地に WWW X という2号館がオープンした。Anderson .Paakの来日公演に行けなかったことが本当に悔やまれる。

 

 さておき、"Her Favorite Moments"の公演。まったくもって素晴らしい夜だった。VIDEOTAPEMUSIC のライブを観るのははじめてだったので、YouTubeにアップロードされているPVという形でなければ、VHSからサンプリングされた映像たちとともに音楽を体験する機会をようやく得たことになる。わたしにとっては、非常に真新しい音楽体験だった。VJが音楽に合わせてスクリーンに映像を投影しているライブとはちがって、そもそもひとつひとつの音の出自が、わたしが目の当たりにしている映像のうちに求められるのだから。

 スクリーンの上で音とともに繰り返されるイメージは、すべて過去に属するものである。わたしたちは、その映像が示している過去のひとつひとつの瞬間に思いを馳せる。その瞬間とは、ジャズ・ドラマーの刻むビートであり、香港のカンフー少年たちであり、どこかの民族の艶やかな踊りであり、20世紀のアメリカの女子高生たちの叫びであり、ダンス・ホールでおめかしをして踊る人々であり、映画史に残る往年の大女優たちの姿である。そうした世界各国の過去の瞬間が矢継ぎ早に繋がれてゆき、新たな音楽を躯体を手にして、わたしたちの目前に提示される。そうしてわたしたちはただ音楽に身を委ね、身体を揺らすのだ。いったいなんと甘美な音楽体験であろうか。

 

 かといって、過去へのノスタルジーに耽溺するのではない。「世界各国の夜」というアルバムの表題曲のうちに、"I wonder if future generations will even hear about us... It's likely not." という科白が引用されているのだが、帰宅してからいったいなんの科白だろうかと検索エンジンを走らせると、ウディ・アレンラジオ・デイズ』('87)のものだということがわかった。この映画についてはわたしは未見なのだが、どうやら1943年のニューヨークを舞台にしている作品だという。あの科白が VIDEOTAPEMUSIC の音楽においてサンプリングされているということに、わたしは並々ならぬ感動を憶えてしまう。

 1943年のニューヨーク、男は、彼らのことを未来の人間が聞きおよぶことはおそらくないだろう、と吐露する。その科白が、ウディ・アレンの手により映画のなかに再現されて、作品が収められたVHSは、ひとの手から手へと渡り歩いてゆき、偶然にも VIDEOTAPEMUSIC のもとへと届く。彼はその科白を抜き取り、音楽に仕立てあげて、2016年の東京に再び息を吹き込んだのだ。会場であの科白を聞いたとき、わたしはおもわず叫びたくなってしまった、"I am now hearing about you!"、と。こうして、1943年のニューヨークと2016年の東京が、まったく予想されえなかった形で交差してしまった。これを感動的と呼ばずになんと呼べるだろうか(一応附言しておくと、1943年に実際に何者かがあの科白を吐いたかどうかはさしあたって重要ではない)。

 

 VIDEOTAPEMUSIC の音楽は、わたしたちを〈ここではないどこか〉へと連れ出し、過去への擬似的な旅をしているような気分を味わせてくれる。だが、あくまでそれは現在からの消極的な逃避行ではない。つねに〈いま〉からの郷愁として、わたしたちは過去をそっと想像してみるにすぎないのだ。わたしたちはいま2016年の東京に立っているのだということは、楽曲のなかでも強調されている。だからこそ、過去を眼前に蘇らせるという彼の試みは、感傷的に過去に求めるという消極的ものではなく、つねに現在地に立ちながら、過去の夜にいくらか思いを馳せるためのポジティヴな試みである。過去は、簡単には忘却されえない。まったく思わぬかたちで、こうして未来の時点に甦り、未来のひとびとによって想われることだってあるのだから。過去と現在と未来は、すべて地続きでつながっているのだ。

 

 アンコールで学生のころにつくった「煙突」という楽曲を披露していた。この曲は、彼が20歳のころ、着メロ作成アプリでビートを打ち込んで、それを枕に押し付けながら再生し、その音をマイクで拾ったものからつくったという。この静かな曲が披露されているあいだ、ふと会場の観客たちに目をやると、それぞれが思い思いのかたちで楽曲に聴きいっている様子が見えた。わたしは、それぞれが、それぞれの過去を想い起こしているように思えた。そして、彼らはきっと、2016年の東京で過ごしたこの一夜のことも、ふとした拍子に未来で想い起すにちがいない。わたしもこの一夜のことをいつかまた想い起すことになるだろう。

 

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