ゴーゴリ『外套』の命名にまつわる箇所について

彼の名はアカーキイ・アカーキエウィッチといった。あるいは、読者はこの名前をいささか奇妙なわざとらしいものに思われるかもしれない。しかし、この名前はけっしてことさら選り好んだわけではなく、どうしてもこうよりほかなに名前のつけようがなかった事情が、自然とそこに生じたからだと断言することができる。つまり、それはこういうわけである。アカーキイ・アカーキエウィッチは私の記憶にして間違いさえなければ、三月二十三日の深更に生まれた。今は亡き、そのお袋というのは官吏の細君で、ひどく気だての優しい女であったが、然るべく赤ん坊に洗礼を施こそうと考えた。(…)産婦に向かって、 モーキイとするか、ソッシイとするか、それとも殉教者ホザザートの名に因んで命名するか、とにかくこの三つのうちどれか好きな名前を選ぶように申し出た。「まあいやだ。」と今は亡きその女は考えた。「変な名前ばっかりだわ。」で、人々は彼女の気に入るようにと、暦の別の個所をめくった。するとまたもや三つの名前が出た。トリフィーリイに、ドゥーラに、ワラハーシイというのである。「まあ、これこそ天罰だわ!」と、あの婆さんは言ったものだ。「どれもこれも、みんななんという名前でしょう! わたしゃほんとうにそんな名前って、ついぞ聞いたこともありませんよ、ワラダートとか、ワルーフとでもいうのならまだしも、トリフィーリイだのワラハーシイだなんて!」そこでまた暦の頁をめくると、今度はパフシカーヒイにワフチーシイというのが出た。「ああ、もうわかりました!」と婆さんは言った。「これが、この子の運命なんでしょうよ。そんなくらいなら、いっそのこと、この子の父親の名前を取ってつけたほうがましですわ。父親はアカーキイでしたから、息子もやはりアカーキイにしておきましょう。」こんなふうにしてアカーキイ・アカーキエウィッチという名前はできあがったのである。

  ゴーゴリの『外套』(平井肇訳, 岩波文庫)を読み始めた。冒頭の命名にまつわる箇所の記述のわからなさがすごい。ワラダートやワルーフなら構わないのに、トリフィーリイやワラハーシイは許せないという感覚の遠さ。ロシア人の読者なら、だれもが「それはそうだな」と納得しながら読み進めるのだろうか。命名の妙というのは、異なる文化圏の眼から見れば、まったく未知の領域である。それにしても、作中に登場するロシア人の名前についての躓きは幾度もロシア文学を読む過程で経験していることではあるので、わたしもこんな意味のない箇所を引用するくらいなら、さっさと小説を読み進めればいいのに。年末には馬鹿なことをしたくなるものだ。

MY FAVOURITE FILMS IN 2016

 わたしたちが映画について語るときにしばしば発せらるる「今年は豊作であった」という謂に、何ら意味を見出せなくなってしまった。考えてみれば当たり前でもある。いまの時代において〈すべての映画〉という概念の質的な掌握は背理でしかなく、およそ恣意的な抽出と選出を幾たびも通過した末に、わたしたちはひとつひとつのフィルムとスクリーンの上で出会うのだから。とりわけ新たに発表された映画との邂逅は、その大方は恣意性に拠っていることは疑うべくもない。しかし、同時代に産出されたフィルムたちがひとつの時代の趨勢を証していることは間違いないし、すぐれたフィルムは、ひとつの時代や文化に留まらず、普遍性をめがけてどこまでも旅をするものである。そこで鑑賞者であるわたしたちが従事するべきなのは、ひとつひとつの断片を拾いあげて、〈すべての映画〉という総体への想像力を働かせ、おそるおそる言葉を乗せて形作っていくことだろう。いかなる文化も、そのような営為の連続によって育まれてきた。わたしたちは、偶々引きあわされたフィルムを手掛かりに、そのフィルムたちが総体として編み出す〈世界〉を垣間見るのである。

 

 ――いかにも大仰な文章を書いてしまったが、ともあれ。今年は、論文の執筆や日常的な些事、あるいは興味の喪失や純然たる怠慢などさまざまな理由によって映画をほとんど観なかった時期もあれば、性懲りもなく映画館に足繁く通い続けた時期もあった。正確に数えていないが、新作映画でいえば、鑑賞したのは100本程度だろう。話題作で見逃しているものも数多くある。

 わたしが2016年に鑑賞した映画のうちで、とりわけ気に入った作品を選出した。以下、そのうちとくに印象に残った10作品をコメントとともにリストアップする。作品のうちには、海外で鑑賞したもの、映画祭で公開されたものなど、すなわち日本で劇場公開されていない作品も含まれている。また、いうまでもなく、順位は流動的である。時間をおいて再度選定に臨めば、まったく違う結果になることもあるかもしれない。それでも、好きな作品をあれこれと思い出して選ぶ作業は非常に愉しかった。わたしは数年前までこの試みについて懐疑的な立場をとっていたのだが、すでに個人的な恒例行事になりつつある。10位から発表する。

 

2016年ベスト新作映画

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10. Safari(ウルリヒ・ザイドル監督, オーストリア, 2016)

 動物愛護団体に所属している紳士淑女たちがこのフィルムを眼の当たりにすれば、憤慨のあまり劇場を飛び出して、声高に糾弾をはじめるかもしれない。そうでなくても、徹底して挑発的に撮られたこのドキュメンタリーをひとたび目撃して、なにも心が動かされないということは不可能であるとすら断言できる。ナミビアのとあるサファリでレジャー・ハンティングに興じる白人たちにいつものシニカルな視線を向けたかと思えば、次の瞬間には黒人への旧来のクリシェを増強するかのような露悪的な編集を施してみせる(そもそも黒人たちには言葉を与えられていない)。美的に計算され尽くしたフレーミングといい、ワイズマン的手法とは対極の意図のもと撮られている。銃弾を身に受け、一匹の麒麟が崩れ落ちて息絶えるシーンの衝撃は、二度と忘れられない。

 

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9. ラサへの歩き方 ~ 祈りの2400km|岡仁波斉チャン・ヤン監督, 中国, 2015)

 このフィルムにおいて、宗教が直接的に語られる場面は一切存在しない。権威のあるものが教義を語り、信仰をさし向けるという行為は、ニーチェの語ったように、畜群のルサンチマンを利用する俗悪な牧師者に属するものなのであろう。彼はこのフィルムについてなんと言うだろうか? 仏教における五体投地という礼拝について、わたしは知識としては有していたが、それが具体的にどのような営為であるかという観念を抱いたことはなかった。 このフィルムが捉えるのは、いくつかのトラブルに見舞われながらも、ただ約束の地をめざして五体投地で歩きつづける仏教徒たちの姿である。他者に信仰を強要したり、干渉したりする場面はひとつたりてないし、その道程に過剰なドラマは発生しない。信仰とは、静謐な内的達成にほかならないのである。そして何より、彼らの宗教的観想は、途方もなく美しい。このような発見こそが、映画という芸術のもたらしうる達成ではないか?

 

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8. キャロル | Carol(トッド・ヘインズ監督, アメリカ=イギリス=オーストラリア, 2015)

 映画にとって見つめ合う瞳を撮ることは原理的に不可能である、と述べたのは蓮實重彦だった。かかるテーゼを意に介さぬかのように、このフィルムは執拗にキャロルとテレーズというふたりの女性の視線の交錯を描き出していく。彼女たちの視線がぶつかることによってはじめて、この愛の物語は走り出してゆくのだ。だが、愛の萌芽を視線の交錯に求められたとしても、それだけでは愛を描き切ったとはいえまい。パーティを抜け出したテレーズがキャロルを見つけたあと、愛する者のほうへと確かな足取りで歩み寄ってゆくシーンで、このフィルムが幕引きとなったことを憶えているだろうか。かくして彼女たちの困難な愛はひとつの達成を見るのである。わたしは、"What a strange girl your are... Flung out of space."とキャロルがテレーズへと語りかけて微笑むシーンの艶やかさにいまだに囚われている。

 

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7. 裸足の季節Mustang(デニズ・ガムゼ・エルギュヴェン監督, トルコ=フランス=ドイツ, 2015)

 なんらかの退っ引きならぬ問題に直面している人物を描く物語の結末に待ち受けるものとして、以下の三つに大別できるように思われる。ひとつは、問題を根本より直截的に解決してみせること。もうひとつは、問題をめぐる状況にたいしての新たな視線を獲得すること。最後に、眼前の問題から愚直な逃避を試みること。私感にすぎないが、近年の小さなフィルムのうちでは、ふたつ目の類型の結末を取る場合が多いような気がしている。乱暴に言えば、それは現代的な感性であり、その地点から出発せざるをえないという時代の要請なのだろう。だが、この物語については、三つ目の顛末を見る。少女は、伝統的な風習に息苦しさから抜け出し、イスタンブールに向かう――かかる価値観の対立を、ぎりぎりの強度を保ちながら描くということ。そして、93分にわたる少女の物語の冒頭と結末において意図的に仕組まれた、ある人物との抱擁。その救済には、紛れも無くひとつの映画的愉悦が横たわっている。

 

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6. Midnight Specialジェフ・ニコルズ監督, アメリカ, 2016)

 ある先行する作品に捧げられたものが、過去を超え出るということは大いにありうる。おそらく映画史はそのようにして成り立ってきたし、かくして過去は現在に接合され、未来へと放射されうるのである。このフィルムは、わたしの目には明らかに『未知との遭遇』へのオマージュとして写り、したがってプロットのうちに革新を見出すことはできなかった。だが、それでもなお過去を超え出そうとする物語の強度が備わっていたと認めなければならない。オープニング・タイトルが提示されるまでの当初の五分間にわたって張り詰められた緊張とスリルに、わたしは震えるほどの悦びを感じた。そして、フィルムの後半部分においてあえて〈未知〉を見せるという作家の選択に、わたしは確固たる意志を感じ取らないわけにはいかなかった。

 

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5. 淵に立つ | Harmonium(深田晃司監督, 日本=フランス, 2016)

 このフィルムには、いたるところに記号が散りばめられている。キャメラが捉えたすべては、けして偶然に映りこんでしまったのではなく、緻密な計算のもとに配置された諸々である。このような記号性の過剰に、わたしたちは感動を憶えることができるだろうか? わたしは否と答えたい。パズルのように記号を拾いあつめる作業そのものには、情動は付随してこない。情動を喚起するためには、ただ形式的に記号を置いていくだけでは不十分なのだ。だが、このフィルムは、その地点に留まらない。ナラティヴが記号を真に有機的に物語へと奉仕させる。記号性の過剰を超越するナラティヴの強度がある。そこに説得力が生じるからこそ、わたしたちは色彩に慄き、構造に息を呑むことができるのである。かくして冒頭のメトロノームは、末尾の拍動と重なり合ってゆく。

 

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4. サウルの息子Saul fiaネメシュ・ラースロー監督, ハンガリー, 2015)

 ホロコーストの当事者ではないわたしたちは、けしてその目撃者にはなれない。だからといって、わたしたちはなにも語ることができないわけでもない。このフィルムは、そのような命題を掲げているように思われる。キャメラは、わたしたちの視ることへの欲望にたいしてつねに無頓着であり続ける。その欲望を意図的に無視しているかのようでもある。サウルはいったいなにを視たのか? わたしたちにできるのは、与えられた断片をもとに、ただ想像力を働かせることだけだ。そして、そのような想像に徹していたわたしを嘲笑うかのように、このフィルムは最後に突き放して幕引きとなる ―― 最期の瞬間に捉えられたサウルの微笑に、わたしの背筋はたちまち凍ってしまった。彼はもう黒々とした深淵の向こう側にいた。わたしは『日陽はしづかに発酵し…』のラスト・シーンを想起した。すでに彼らは、わたしのことなど一瞥もせずに、彼岸に渡っていたのだった。

 

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3. 山河ノスタルジア山河故人 ジャ・ジャンクー監督, 中国, 2015)

 国破山河在。杜甫漢詩は、ジャ・ジャンクーの手によって、二十一世紀における一大叙事詩として見事に更新された。国が破れるということを、グローバリズムの波に呑まれる現代の中国という仕方で描き出すという近視眼的な解釈も取ることも可能だろう。だが、わたしたちが注視すべきは、原題が明らかにしているように、時代の変遷とともに山河もまた離散してゆく ―― その諸行無常の疑えなさである。その事実は、このフィルムにおいて三つの異なる時代を生きる者たちにとっても当たり前のように突きつけられる。わたしが改めて教えられたのは、時間の流れは、世界の一切に等しくもたらされるということだ。連綿と続く時間のなかで、なにひとつとして変容を免れるものはない。そのことの儚さと尊さを、ただのノスタルジアに陥ることなく描き切った物語に、わたしは涙を堪えることができなかった。

 

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2. ハドソン川の奇跡Sullyクリント・イーストウッド監督, アメリカ, 2016)

 いったいどうしてかほどまでに完璧な映画が撮れるのか。わたしは狼狽した。このフィルムには、文句の付けいる余地がないどころか、そもそも批評すらも必要としないほどに厳然と屹立しているように思えたからだ。批評を必要としないという物言いには語弊があるかもしれない。だが、このフィルムが喚起する情動は、二次的な言葉の立ち上がってくる地点のはるか手前に、すでに豊潤に与えられているという感想を持ったのである。その完全さは、ある意味では退屈さとも表裏一体かもしれない。事実、わたしが意見を交換したいくらかの友人は、このフィルムを退屈と罵っていた。彼らの意見も十分に理解できる。極端にいえば、このフィルムは〈すべての映画〉にとってのひとつの教科書なのだ。教科書の汎用性の広さは、他方では退屈となりうる。しかし、現代において、いったいどれだけの作家が、みずから教科書たりえるだろうか? わたしたちは、イーストウッドがいまだに映画を撮っていることにもっと感謝するべきなのではないか。

 

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1. ダゲレオタイプの女 | Le Secret de la chambre noire黒沢清監督, 日本=フランス, 2016)

 わたしがフィルムを視ている。このような主体と客体の関係は、不可疑の明瞭性を伴って先験的に与えられているはずだ。だが、どうしてだろう。わたしは、このフィルムによって視られているような感覚に苛まれたのである。このような経験ははじめてではない(たとえば『美しき諍い女』という傑作がそうであったように)。ある種に属する傑作を目撃したとき、わたしたちの現実は融解し、もはや同一の世界を開示することをはたと止めてしまう。より正確にいえば、わたしの諒解していた世界性が、ひっそりとひとりでに編み変えられてしまう。そのとき心臓は激しく脈打ち、情動は横溢していく。このフィルムは、まったくもって正統なフランス映画でありながら、だれも観たことのないフランス映画である。そこにはすべてがあった。教会という愛と死と信仰の交差点で、ひとつの衝撃が主人公を襲ったことを想起してほしい。疑いようのない今年の最高傑作だ。

 

 

 

 さて、書きはじめると思いのほか熱がこもってしまった。好きな作品について書き連ねるのは愉しい。ただ、だらだらと書き連ねるわけにもいかないので、抽象的な物言いに終始してしまったことは許してほしい(本当はすべての映画についての個別エントリを書くべきなのだろう)。次点でいえば、『ふたりの友人』『ブラック・スキャンダル』あたりだろうか。

 もちろん、今年大ヒットとなった邦画の『シン・ゴジラ』も『君の名は。』も『この世界の片隅に』も観たが、今年の10本の作品のうちからは除外せざるをえなかった。それぞれ、美点と同じくらい不満を挙げることができる(『シン・ゴジラ』についての不満は、いくらか歯切れが悪くなってしまうかもしれない)。ひとつ言うとしたら、『君の名は。』を観たとき、わたしは〈セカイ系〉の終焉を感じ取らざるをえなかった、ということである。その終焉には個人的に大きな満足を抱いているのだが、そのことはべつの機会に譲ろう。

 

 今年のトップ・テンの全体から鑑みれば、ジャンルや国籍の多様性はある程度確保できた気がしている(数年前のトップ・テンは、ほとんどアメリカ映画であったこともあった)。だが、わたしはけして現況に満足しているわけではない。『Safari』や『ラサへの歩き方』や『裸足の季節』のような土地に根ざした固有の文化を存分に見させてくれる作品ともっと巡り会いたいし、『サウルの息子』のような新たな語り口に驚かされたい。『Midnight Special』や『淵に立つ』のように戦慄とさせてほしいし、『キャロル』や『山河ノスタルジア』のように愛すことのできる作品を手元に置いておきたいし、『ハドソン川の奇跡』を観たときのように、完全無欠さに閉口してただただ拍手を送りたい。そしてなにより、『ダゲレオタイプの女』のような、わたしの狭小な〈世界〉を編み変えてくれるようなフィルムを心から待望している。そうでなければ、わたしにとって映画を観る意味はほとんど失われてしまうのではないか。その危惧は杞憂であったと、来年の今ごろに思えているだろうか。

水林章, "Une langue venue d'ailleurs" ―― 異邦のことばを話すということ

 嫉妬した ――と表現するのがいちばん近いかもしれない。フランス語を学び、フランスでいくらかのかけがえのない時間を過ごし、そしてフランスという存在そのものへの執着を多少なりとももっているわたしにとって、そのような道の遥か先をゆく水林先生の存在は、この本との出会いを通じて、すぐさま尊敬と憧憬と嫉妬の対象となったのである。

 水林章による "Une langue venue d'ailleurs" (Gallimard, 2011) を読んだ。彼の存在を知ったのはごく最近のことで、とある仏語関係のイベントで知り合ったフランス語の達者な学生たちと卓を囲んで話しているときに、彼のことが話題に昇ったのがきっかけだった。なんでも、そのうちのひとりが上智大学にて仏語の指導を受けていて、「これまで7年くらいフランス語を勉強してきたなかで、はじめて発音を矯正してもらった」というのである。卓を囲むだれもが、水林先生のフランス語は素晴らしいと口を揃えて賞賛するので、水林先生のフランス語を話している様子が収められた動画をYouTubeで見せてもらった。

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 正直にいって、狼狽えるほど驚いた。これほどフランス語の発声がうまい日本人は他に知らない。もちろん、幼少期にフランスに住んでいたためにネイティブレベルでフランス語を操ることのできる日本人は数え切れないほどいるだろう。しかし、彼にいたっては、19歳ではじめてフランス語を学びはじめた(parler des premiers mots en français)というのだ。この動画を見たわたしは、全編フランス語で執筆され、日本人として唯一アカデミー・フランセーズにより文学賞を授与されたという"Une langue venue d'ailleurs"をインターネットで注文してすぐに読みはじめ、そしてものの数日で読み終えてしまった。

 

 彼は本作のなかで、みずからの人生を赤裸々に語っている。両親について、幼少期について、フランス語とのはじめの出会い、留学先であるモンペリエに発ちはじめてフランスの土地を踏んだこと、生涯の伴侶となるミシェル夫人との出会い、修論や博論の執筆について、フランスの大学で出会った数々の教授たち、娘の多言語教育について…。もちろん、わたしのようにフランスやフランス語について興味を抱いているひとが読むべき本のひとつであるように思うのだが、一方で、たとえば外国語を習得するということに関心がある者にとっても、非常に示唆に富んだ本であるように思う。邦訳が出ていないのが惜しい。わたしは、以下でいくつかの感想を記しておこうと思う。

 

 

 "le français est ma langue paternelle.(フランス語はわたしの〈父語〉である)"と氏はいう。これは "langue maternelle"、すなわち母語を意味することばに対置された造語である。日本で生まれ育ってきた水林章にとっての母語は、まぎれもなく日本語である。これに対して、フランス語は「父語(父性語)」であるという。本作のなかでたびたび語られる父の影響によって、水林氏は知らず知らずのうちにフランス語へと導かれてきた。そこには幼少期の音楽体験が大きな役割を占めているのだが、ここでは詳述は避けておこう。ともあれ、そのような父の存在を多少なりとも意識しつつ、水林氏はかかる造語を置いたのである。

 だが、わたしはそのような彼の父とのあいだの属人的な体験を抜きにしても、後天的に獲得した言語のことを〈父語〉と表現することに、いくらかのシンパシーを感じたことを告白しなければならない。世界に多々ある言語のなかから、なんらかの理由によって、みずからの意志でひとつを選択し、その言語を能動的に習得せんとする ―― そのような言語は、幼少期に受動的に習得する言語とは、明らかにその出自を違えている。そこには、圧倒的な能動性/主体性が求められるといえよう。そのような能動性は、父と子との関係性にしばしば認められるのではないだろうか? わたしはそのような私感をもったのである。

 氏も次のように述べている。

"Ce n'est pas parce que je suis né dans ce pays, de parents japonais, que je dois demeurer japonais pour toujours. Il est vrai que j'ai le sentiment d'être soutenu au plus profond de mon être par ma langue d'origine ; mais il n'en reste pas moins que je me détache avec un plaisir certain de mon territoire primitif. Je m'arrache volontiers à ce formatage initial et prédéterminé qu'est ma nature japonaise." (p.260)

 「わたしが日本に、日本人の両親のもとに生まれたということは、わたしが生涯にわたって日本語を基軸とすべきこととはなんら関係がない」。もちろん、母国語によってわたしたちのもっとも深い部分が――いわばアイデンティティが――形成されていることは否定のしようがないだろう。だがそのことは、ある能動性のもと、あえて母国語からの離脱を試み、べつの言語を自らのものとしようとすることを妨げるわけではない。水林章のように、フランス語という世界に主体的に近づき、それまでの自らの〈世界〉を積極的に編み変えてゆくことは可能なのだ。

 

 水林章は、日本という場所から出たい、〈他者〉になりたい、という欲望を抱えたまま(たとえば幼少期には、「演じる」ということに熱を上げていたそうだ)、フランス語と出会った。氏がかほどまでにフランス語に情熱を注ぐようになったきっかけとして、いくつかのことが挙げられている。それは、語の音楽性であり、森有正の『遙かなノートルダム』であり、他のさまざまなフランス文学である。

 しかし、水林青年をフランス語の世界に決定的に導いたのは、モーツァルトであり(とりわけ『フィガロの結婚』におけるスザンヌという名の女性であり)、またジャン=ジャック・ルソーである。モーツァルトとルソーという二人の18世紀を代表する表現者たちについての思索は、本作において至るところに披露されており、非常に興味深い論が展開されている。べつのところでも記されていたが、近代の端緒となった18世紀のフランスの根幹にあるものを明らかにしたいという欲望によって、四十年近くに及んだフランス語という言語とともにあり続けてきた彼の生は突き動かされてきたのである。

 

 さて、二者に導かれるようにして、水林青年はモンペリエに二年にわたって留学することになる。大学の一年目を終え、数ヶ月の夏休みが与えられる。留学生の多くは、母国へ帰国したり、あるいはフランスやヨーロッパの地の観光へと旅立ってゆく。だが、彼はモンペリエに残り続けることを選ぶ。その決断について、以下のように述懐する。

"Je vivais, oserais-je le dire, dans la fraîcheur virginale des noces célébrées entre moi et Montpellier. Je tenais à cultiver cette familiarité naissante avec mon environnmenet urbain immédiat, la développer, la façonner à mon gré, pour que l'espace alentour devienne enfin mon espace à moi. Je voulais m'enraciner, creuser mon existance le plus profondément possible, là où je me trouvais. "(p.137)

  モンペリエという地に、自らの存在を、なるたけ深く根づかせたい。彼を取り巻く土地との親密さをさらに育み、その地が〈みずからの場所〉となるまで仕立て上げたい、と彼はいうのである。わたし自身、フランスに留学するにあたって、似たようなことを考えていた。というより、東京という土地と不可分で育ってきたわたしは、その土地とどれくらい断絶できるか、ということを考えていたのだ。

 もちろん、いくらフランス語を流暢に運用できるようになろうと、どれほど長くフランスに滞在し、フランスの文化を知悉しようと ―― さらにはフランスの国籍を取得したとしても ―― 日本人であるわれわれは、フランス人になれるわけではない。どこまでいっても、異邦人であることは変わりがないし、日本人であること――少なくとも「日本人であったこと」――は捨て去ることができない。また、氏が本作において記しているように、「フランス語によって育てられていないこと」の影響は、後天的な学習者がいくら努力を重ねようと、どこかにかならず蹄を残してしまう。

 

 だが、わたしの目には、水林章は、そのような試みをもっとも高次において達成してしまっている人物であるように思えてならない。どうしようもなく結び付けられてしまっている「日本」から、なるべく遠くへと主体的に発つこと。そのためには、まずは日本語という言語から離れ、他の言語において、母国語と同等の思索を重ねられるようにしなければならない。本作をフランス語で著し、フランスで成功を収め、冒頭で紹介したように驚くほど美しく流暢なフランス語を話す水林章という人物は、〈他者〉になりたい、〈ここではないどこか〉に根を下ろすという欲望を、みずからの力で達成してしまった。わたしの羨望と憧憬と嫉妬の起源は、このことに求められるように思う。

"Le jour où je me suis emparé de la langue française, j'ai perdu le japonais pour toujours dans sa pureté originelle. Ma langue d'origine a perdu son statut de langue d'origine. J'ai appris à parler comme un étranger dans ma propre langue. Mon errance entre les deux langues a commencé... Je ne suis donc ni japonais ni français."

 わたしの目には、当初の目論見を彼は達成したように映っているのだが、彼としてはどうやら異なるようである。彼はみずからを「フランス人にはけしてなれない」としつつも、「日本人ですらない」という。母語である日本語は、フランス語に心を奪われたときから、その母語としての純粋な地位を失い、彼は異邦人のように日本語を話すことを学んだ。他者になりたい、日本ではない場所に根を下ろしたいと願っていた彼は、最後にはどの土地においても異邦人であるということ 〈異邦性 étrangéité〉 ―― を自覚し、獲得したというのである。彼はつねに〈外側 hors de place〉にいるように感じるようになった、と。

 しかしながら、その〈外側 hors de place〉あるいは〈非-場所 non-lieu〉こそが、彼が日本語とフランス語という二つのことばにアクセスしうる地点である。その〈異邦性 étrangéité〉こそが彼にとっての新たなアイデンティティである。外側 ailleurs からもたらされたフランス語は、原初的に備わっている日本語とともに共存するようになり、いまでも彼は自在にそのあいだを行き来している。第二言語との付き合いかたの理想形がここにあるのである。

 

 

 さて、この調子でいくらでも書けそうなのだが、書き終わる気配がないので、いくつかわたしの気に入った箇所を引用して、すでに長くなりすぎてしまったこの文章を閉じようと思う。

"Ne suis-je pas un étranger dans ce pays ? me demendai-je. Ne suis-je pas extérieur aux limites territoriales de ce pays ? Pourquoi alors me choisit-il parmi mille autres individus ?"(p.95)

  モンペリエに着いて間もないころ、明らかにアジア人の外見をしている水林章に、フランスの青年は時間を尋ねる。日本では、起こりそうもないことだ。なぜ幾千もの道ゆく人々のなかから、異邦人である〈わたし〉を選んで時刻を尋ねたのか。このような経験から発せられる問いは、フランス滞在中においてわたし自身も立てた問いのひとつである。いくつかほかの国々を旅行したときにも似たような経験をしたので、フランスを主語にして語るのは危険だろうが、日本との対比のなかで思索を開始すると非常に興味深い問いであろう。

 

 モンペリエにおいて「明け方のまだ星空の出ている空のもとを大学に向かって歩いていると、奇妙な気分に陥った」という記述があった。これもわたしは大きな共感をもって読んだ。一方で、フランス人にはなぜこれが奇妙になるのかわからないことだろう。フランスでは日照時間が異なる――というよりも、日の入/日の出時間が日本よりもそれぞれ遅いために、朝の授業に出席するべく通学するときもまだ辺りが暗いということがたびたびあった。日本では、この感覚を得るためには相当早くにでなければいけず、「通学」という日常的な生活のなかでは、滅多にこのような状況に出くわすことはないだろう。わたしも、暗がりのなかを校舎へと向かって歩いていたことを思い出す。時間があれば、朝から開いているカフェに立ち寄って、エスプレッソを飲んで目を醒ましながら、一服するという至福のときを過ごしていた。

"Nous passâmes ainsi quelques moments d'une délicieuse complicité autour d'une tasse de thé vert. En moi, des mots d'amour étaient sur point de naître, non pas dans ma langue mais dans sa langue à elle que je m'efforçais de faire mienne, et que j'avais le plaisir de vous s'accroître et se développer de jour en jour."(p.147) 

  モンペリエで出合い、そして後には生涯の伴侶となることになるミシェルとの緑茶を飲む瞬間。まったくもって美しい描写で綴られている。うっとりするような瞬間だ。

 "Dans un cas comme dans l'autre, la parole de l'étrangère apparaît comme une parole neuve, virginale et authentique. Il s'agit certes d'une parole maladroite, fautive même, mais lourde de sens et infiniment persuasive dans une situation d'énonciation liée à la mort ou à la naissance : une parole vraie, articulée à mille lieues du souci de la correction."(p.239) 

 ミシェル夫人とともに日本に帰郷し、しばらく経ったころ、彼の父の死に際して、夫人が文法的に正しいとは言えない日本語でことばをかけた。なんとか外国語で意を相手に伝えようとすること。そのときに生まれることばは、確かに不器用で、訂正の余地はいくらでもあるかもしれない。だが、それは何よりも強いことばであり、本当のことばであるにちがいないと感じた、と。まさしくそうであるな、と強く同調したい。

"Autant de situations, autant de visages, autant de mots entendus. Feuilles verbales volantes que j'ai attrapées et qui se sont gravées dans ma conscience d'une manière indélébile."(p.241) 

 フランス語の単語や表現をひとつとっても、そのうちにこれまで遭遇してきた数多くの状況や、ひとびとの顔やことばたちが思い起こされる。ことばを学ぶということは、すなわちそのことばを話す他者から盗みを働くということでもある。言語の習得はすべてそうであることは間違いないのだが、幼少期は過ぎ去り、後天的に習得を試みている以上、わたしたちは盗みを意識的に働いてみせる。他者が話しているのを聞くことで、自らの過ちを知り、新しいことを学び、それらをおそるおそる自らの口で発してみる。その過程のなかには、さまざまな〈顔〉との出会いがあったはずなのだ。

"Il y a, et on le conçoit, des peuples sans écriture, mais pas d'êtres humains sans parole. Cependant, en ce qui me concerne, moi en tant que locuteur en français, j'ai toujours eu le sentiment que l'écriture précédait la parole..."(p.243)

  一般的には、パロールは、エクリチュールに先行するといわれる。なぜなら、文字をもたない民族は存在するが、ことば(パロール)をもたない民族はひとつとして存在しないからである。だが、後天的に言語を学んだフランス語話者としての水林章にとっては、エクリチュールパロールに先行するような感覚がある、という。記された文字をとおして彼はもっともフランス語を受容したからであろう。この主張も大いに頷ける。彼の経験ともまた異なることではあるだろうが、わたしは、Facebookメッセンジャーにおけるメッセージを通して、もっともフランス語が上達したかもしれないなと感じている。

 

 言語への興味は尽きない。ここに記したさまざまなテーマについて、それぞれをもっと展開できるような気がする。また機を改めて書きたい。とりあえずは、水林青年を決定的にフランス語へと導いたもののひとつであると紹介されていた、森有正『遙かなノートルダム』を読み進めようと思う。この書籍についても、気が向いたら筆を執ることとしよう。

 

VIDEOTAPEMUSIC "Her Favorite Moments"

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 VIDEOTAPEMUSIC『世界各国の夜』。このアルバムを手にしてからおよそ一年のあいだ、いったいどれほどの夜がこの愛おしき音楽によって救われただろうか。終電を逃し、ひとりで夜の東京の街をさまよいながら、イヤフォンを耳に突っ込んで歩きつづける夜。疲弊しきった身体に鞭を打ちながらハンドルを握り、首都高を走りながら帰路をいそぐ夜。つかの間の異国での滞在を終えて、東京へと向かう飛行機の窓から都市を見下ろす夜。夜と表題に記されているからという短絡的な理由だけではなく、まちがいなくこれは夜の音楽であり、夜のための音楽である。わたしたちは VIDEOTAPEMUSIC がVHSを拾い集めてつなぎ合わせた音楽たちを通して、もうすでに失われてしまっている、かつての世界各国の夜に思いを馳せる。

 

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 渋谷 WWW で開催されていたVIDEOTAPEMUSICのワンマンライブ "Her Favorite Moments" に行ってきた。このところ足を運んでいる公演はほとんど WWW でブッキングされているような気がする。わたしが高校生だったとき、WWW のこけら落とし公演で神聖かまってちゃん(の喧嘩)を観にいった日が懐かしい。昨年末まで残っていたシネマライズのもうひとつのスクリーンもついに潰れてしまい、跡地に WWW X という2号館がオープンした。Anderson .Paakの来日公演に行けなかったことが本当に悔やまれる。

 

 さておき、"Her Favorite Moments"の公演。まったくもって素晴らしい夜だった。VIDEOTAPEMUSIC のライブを観るのははじめてだったので、YouTubeにアップロードされているPVという形でなければ、VHSからサンプリングされた映像たちとともに音楽を体験する機会をようやく得たことになる。わたしにとっては、非常に真新しい音楽体験だった。VJが音楽に合わせてスクリーンに映像を投影しているライブとはちがって、そもそもひとつひとつの音の出自が、わたしが目の当たりにしている映像のうちに求められるのだから。

 スクリーンの上で音とともに繰り返されるイメージは、すべて過去に属するものである。わたしたちは、その映像が示している過去のひとつひとつの瞬間に思いを馳せる。その瞬間とは、ジャズ・ドラマーの刻むビートであり、香港のカンフー少年たちであり、どこかの民族の艶やかな踊りであり、20世紀のアメリカの女子高生たちの叫びであり、ダンス・ホールでおめかしをして踊る人々であり、映画史に残る往年の大女優たちの姿である。そうした世界各国の過去の瞬間が矢継ぎ早に繋がれてゆき、新たな音楽を躯体を手にして、わたしたちの目前に提示される。そうしてわたしたちはただ音楽に身を委ね、身体を揺らすのだ。いったいなんと甘美な音楽体験であろうか。

 

 かといって、過去へのノスタルジーに耽溺するのではない。「世界各国の夜」というアルバムの表題曲のうちに、"I wonder if future generations will even hear about us... It's likely not." という科白が引用されているのだが、帰宅してからいったいなんの科白だろうかと検索エンジンを走らせると、ウディ・アレンラジオ・デイズ』('87)のものだということがわかった。この映画についてはわたしは未見なのだが、どうやら1943年のニューヨークを舞台にしている作品だという。あの科白が VIDEOTAPEMUSIC の音楽においてサンプリングされているということに、わたしは並々ならぬ感動を憶えてしまう。

 1943年のニューヨーク、男は、彼らのことを未来の人間が聞きおよぶことはおそらくないだろう、と吐露する。その科白が、ウディ・アレンの手により映画のなかに再現されて、作品が収められたVHSは、ひとの手から手へと渡り歩いてゆき、偶然にも VIDEOTAPEMUSIC のもとへと届く。彼はその科白を抜き取り、音楽に仕立てあげて、2016年の東京に再び息を吹き込んだのだ。会場であの科白を聞いたとき、わたしはおもわず叫びたくなってしまった、"I am now hearing about you!"、と。こうして、1943年のニューヨークと2016年の東京が、まったく予想されえなかった形で交差してしまった。これを感動的と呼ばずになんと呼べるだろうか(一応附言しておくと、1943年に実際に何者かがあの科白を吐いたかどうかはさしあたって重要ではない)。

 

 VIDEOTAPEMUSIC の音楽は、わたしたちを〈ここではないどこか〉へと連れ出し、過去への擬似的な旅をしているような気分を味わせてくれる。だが、あくまでそれは現在からの消極的な逃避行ではない。つねに〈いま〉からの郷愁として、わたしたちは過去をそっと想像してみるにすぎないのだ。わたしたちはいま2016年の東京に立っているのだということは、楽曲のなかでも強調されている。だからこそ、過去を眼前に蘇らせるという彼の試みは、感傷的に過去に求めるという消極的ものではなく、つねに現在地に立ちながら、過去の夜にいくらか思いを馳せるためのポジティヴな試みである。過去は、簡単には忘却されえない。まったく思わぬかたちで、こうして未来の時点に甦り、未来のひとびとによって想われることだってあるのだから。過去と現在と未来は、すべて地続きでつながっているのだ。

 

 アンコールで学生のころにつくった「煙突」という楽曲を披露していた。この曲は、彼が20歳のころ、着メロ作成アプリでビートを打ち込んで、それを枕に押し付けながら再生し、その音をマイクで拾ったものからつくったという。この静かな曲が披露されているあいだ、ふと会場の観客たちに目をやると、それぞれが思い思いのかたちで楽曲に聴きいっている様子が見えた。わたしは、それぞれが、それぞれの過去を想い起こしているように思えた。そして、彼らはきっと、2016年の東京で過ごしたこの一夜のことも、ふとした拍子に未来で想い起すにちがいない。わたしもこの一夜のことをいつかまた想い起すことになるだろう。

 

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「日本におけるキュビスム ― ピカソ・インパクト」展

f:id:immoue:20161208155135j:plain 埼玉県立近代美術館で開催中の「日本におけるキュビスムピカソインパクト」に訪れた。わたしはわりに近くに住んでいるのだが、この美術館を訪れたのは、草間彌生展以来二度目である。あのときは大盛況だった模様で、たしかに展示も充実していて面白かった。エントランスにも草間彌生印の水玉模様が施されていて、吹き抜けになっている場所に巨大な人形があったのがよく記憶に残っている。かなり昔だったように思っていたのだが、いま調べると2012年の春ことだったようだ。

 平日の昼間だったので、案の定、ひとの入りは疎らだった。おそらく、同時にいたのは全体で10人程度にすぎないのではないかと思う。あまりにも混雑しすぎている状況に比べればよほど好ましいのだが、かといってこれだけ少ないといくらか淋しい気もしてしまう。首都圏とはいえ埼玉県という僻地にある立地の問題なのか、あるいは企画展の訴求力の問題なのか(とはいえ「ピカソインパクト」は、それなりにポップであるはずなのだ)わからないのだが、中小の美術館の運営は、ここにかぎらずどこも深刻な問題があることはおそらく間違いないだろう。

 

 さておき、「日本におけるキュビスムピカソインパクト」。わたしは、実際に展示を観るまでこのタイトルに半ば騙されていたのだが、前者と後者は、ある種のふたつの独立したテーマであって、その接合が試みられている展示だった、ということがわかった。

 つまり、日本においてキュビスムがはじめに受容された1910年代後半から20年代にかけた大正期が前者に対応しており(もちろん、キュビスムの創始者でもあるピカソの影響下において受容がなされている)、第一部「日本におけるキュビスム」では、当時の日本人画家によるキュビスムの模倣作品が展示されている。

 一方で、第二部「ピカソインパクト」では、1951年に東京と大阪で大規模なピカソの展覧会が開催されたされたことをきっかけとして、さまざまなジャンルにおいて横断的にピカソの影響が見られる作品群をおもに扱っている。すなわち、それらはかならずしも「キュビスム」とは分類されない。たとえキュビスト的手法をもちいていたとしても、それらはあくまで方法論における受容であるということだ。

 「この展覧会はキュビスムが二度にわたって、別々の文脈で日本の作家たちに受容されたという仮説に基づいて組み立てられています」と紹介文にもはっきりと言明されているように、その隔たった二つの時代における受容のされかたの違いというコントラストが展示にもはっきりと示されており、その点では非常に優れたキュレーションの展覧会だったように思われる。

 

 一部において印象的だったのは、日本における初期のキュビスムの受容で特筆すべきが、日本の作家たち(多くは1910年代のパリを知る者たちである)によるキュビスムへの理解/定義が非常に曖昧であったということである。日本におけるキュビスムは、西欧とは異なり、さほど他のイズムと区別されることのないままに作品がつくられていった。もちろん、このことは非常に興味深い点である。

 たとえば、さまざまな批判は寄せられてきたものの、西欧における通俗的理解では、キュビスムシュールレアリスムの対極としてあった。というのも、前者は画面をファセットによって分断し再構築するという論理的な思考に裏付けされた合理主義であり、後者は夢や無意識の表現に主軸をおいた非合理主義だからである。このような合理主義/非合理主義の二項対立は、キュビスムの影響下にある大正期の作品にはさほど認めることができない。キュビスムは、フォービズムと混濁され、シュールレアリスムダダイスムとも区別されないまま、日本で模倣されていったのである(とはいえ、萬鐵五郎の作品からは、かれがキュビスムの論理的構造を深く理解していたことが伺える、とキャプションには記されていた)。

 

 しかし、この風潮は長く続くことはなかった。作家たちはキュビスムの作品をつくることをすぐに辞めてしまう。多くの者たちがまたべつの作風に手を出し、それぞれの道は分岐していくというのだ。このことは、たとえばピカソやブラックが同じような作品を制作し続けなかったことにも関係しているのだろう。したがって、日本ではシュールレアリスムの作品は厚みがあっても、キュビスムの作例はあまり多く残されていないそうである。

 それでも、キュビスムが途絶えたとするのは早計である、と主張するのが第二部の「ピカソインパクト」であった。わたしは第二部が非常に充実していたように思う。というのも、さきほど書いたように、第二部はキュビスムの枠組みから大きくはみ出て、同時期に制作されたさまざまな作品が並べられているのだが、一見するとそれらのうちに共通点を見出すほどが難しいほどかけ離れた作風の作品もある。しかし、「ピカソインパクト」「キュビスム」という概念によって、不思議と文脈が浮き上がってくるようなのだ。このことは、キュレーターの力量が存分に発揮されているところだろう。前ぶりもなく河原温《肉屋の内儀》が展示されていたのには驚いたが、「そう言われてみればそうかもしれない…」と作品と睨めっこをし、周囲の作品を見渡すという経験はなかなか愉快であった。

 

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 インターネットで調べていると、以上のような近代美術チャートが見つかった。「キュビスムと抽象芸術」展カタログに掲載された、アルフレッド・バー・Jrによる系統図だそうだが、この展示に際して講演を行った尾崎信一郎氏が紹介したそうである。わたしはこのあたりについての全体の見取り図は持ち合わせていなかったので、とても参考になる。そして、さまざまな20世紀のイズムの源流に位置する作家として、ヴァン・ゴッホセザンヌはもちろんのことながら、ルドンとルソーの名が挙がっていることに成る程な、と思った。このへんはもう少し勉強したい限りである。

 

 さて、「日本におけるキュビスムピカソインパクト」で好きだった作品を列記して筆を措く。もう見れる機会はそうそうなさそうな作品ばかりであった。東郷青児コントラバスを弾く》、普門暁《鹿・青春・光・交叉》、黒田重太郎《マドレエヌ・ルパンチ》、鶴岡政男《人(14)》《夜の群像》、下村良之介《祭》、池田龍雄《十字街》、尾藤豊《変電所》など。

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 とくに下村良之介《祭》は、すごく大きな作品で、カンバスの隅々までにエネルギーが充填しているうえに、表題からもわかるように、きわめて日本的なモチーフを配置しているお気に入りの作品だった。このモダンな造形、モチーフの配置の方法に、確かにピカソの影響が伺えるような気もする。

 

 東郷青児も非常に良かったのだけど、初期には彼がキュビスムの作品を制作していたとはまったく知らなかった。そして、どうやら2017年の秋には損保ジャパン日本興亜美術館で生誕120年 東郷青児展が開かれるそうだ。こちらにも忘れないように足を運ばなければ。

 

togetter.com

 さきほどの尾崎信一郎氏によるレクチャーの実況まとめ。こういう実況は本当にありがたい。このような知は積極的に共有されていくべきであろう。

ルシール・アザリロヴィック『エヴォリューション』―― 時代遅れの旧き想像力

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 ひどかったとしか言いようがない。確かに美しいシーンはあった。とりわけはじめの海中のシーンは息を呑むような美しさを湛えていた。神秘的な碧の海に、鮮やかな赤いパンツを履いた白い肌の少年が潜ってくる。そのような色彩の感覚はいい。美点をあげようと思えばいくつか挙げられる気もするのだが、総じてひとつの作品としては救いようのないくらいの酷さだった。

 UPLINKで見たのだが、わたしはほかの観客の顔すら見たくなかったので、エンドロールの途中で退出した ―― 同じ場を共有しているほかの観客たちの顔が見たくなるかどうか? というのは、わたしは映画にかぎらず、ひとつの作品を評価するときに大事にしている指標である。つまり、その指標軸ではゼロ点。

 しかし、UPLINKはどうしてこの作品をかくも推しているのだろうか。ある意味、劇場としての個性を獲得しているといっていいのだが、この作品を5回も1日に上映するくらいなら、もっとほかに上映するべき優れた作品はあるように思うのだけれども。べつにフランスでヒットを記録したわけでもないので、おそらく作品を引っ張ってくるひとたちのお眼鏡にかなったのだろうけれど、なんだかなという気持ちが晴れない。

 カイエ・ドゥ・シネマの評にはあまり共感しないことも多いけれど、この作品についての短評はよく言えているな、と思ったので以下に引用。

Un cinéma incroyablement daté, tout droit tiré de cet imaginaire d’Europe de l’Est des années 80 qui n’a cessé depuis lors d’empoisonner le petit monde du court-métrage fantastique français.

 簡単に訳せば、1980年代の東ヨーロッパ的な想像力は、フランスの幻想的な短編映画の小さな世界をずっと毒し続けている、その象徴的な作品であるというところか。まさしくその通りだと思う。そういう想像力は、もはや時代遅れであるという感覚はわたしもどこかで共有している。日本では、やたらとヤン・シュヴァンクマイエルやイジー・バルタといったチェコ・アニメのあたりの奇怪な想像力が、あまりにも称揚されすぎているきらいがある(なぜあれほどまでに頻繁に特集上映がかかるのか)。もちろん、そのことにはおそらくれっきとした理由があり、わたし自身も惹きつけられる気持ちもわかる(というか、そもそもチェコアニメもぜんぜん嫌いではない)のだが、いまの時代において新たな作品をつくるとき、そのような想像力がもうすでに古くなってしまっているということは、世界的には共有されている感覚にちがいない。

 その感覚については、依然としてうまく言語化できないのだが、この『エヴォリューション』という映画を観て、わたしはその確信をさらに深めることとなった。やれやれ、という気分だ。ランタイムが90分以内だったからまだ耐えられた。ルシール・アザリロヴィックというフランスの女性監督は、ほかに『エコール』('04)という、それなりに日本でも知名度のある作品を撮っているようである。いまのままだとおそらく観ることはない。

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 たぶん監督としてはいろいろと作品のうちにメタファーを込めたのだろう。そういうメタファーをひとつひとつ解き明かしていく遊びも愉しいことには同調するし、わたしとしても、メタファーにすべて気づいたうえで批判しているわけではぜんぜんない。強いていえば、この映画は女性による男性への復讐、そして復讐の対象としてさらなる弱者としての少年が選出されていることへの皮肉を描いていたのだろう、とは思ったけれど、そのこともまったく的を外しているかもしれない。後者の視点は、いまの時代において求められていることなのかもしれないが、なにぶんそのナラティブにはうんざりだったのだ。

 

   なぜうんざりだったのにこれほどくどくどと書いているのかというと、 このことが言いたかったからに過ぎない。ロクサーヌ・デュランさん、ラ・トゥールの絵に出てくる怖い女性にあまりにも似ていて、上映中も集中ができなかった。わたしはラ・トゥールの怖い女のひとがからっきしダメなのだ。《いかさま師》の女性にも似ているよね。森村泰昌のように、ロクサーヌ・デュランさんをキャスティングして《いかさま師》を再現してほしい。

 

 それくらいです。

アメリカという眩い夢のつづき ―― リチャード・リンクレイター『エブリバディ・ウォンツ・サム!!』

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 『Boyhood(6才のボクが、大人になるまで。)』という傑作のあと、リチャード・リンクレイターが新たに世界に送り出したのは、本人の語るように前作の続編のようでもあり、またある意味では、まったく真逆の指向性のもとにつくられた(というように思われる)もうひとつの傑作であった。『エブリバディ・ウォンツ・サム!! 世界はボクらの手の中に』を観た。

 

 1980年代、アメリカ。テキサスの大学に新入生として入学したばかりのジェイクたちは、野球をするという固い意志をもって強豪として知られる野球部に入部するも、どこかで新たな環境に浮かれている。無理もない、それは新学期がはじまる直前なのだから。個性の際立った野球部の先輩たちにもみくちゃにされながら、夜な夜なパーティを梯子し、酒とセックスと恋に耽る三日間。いままさに始まらんとしている新たな生活にたいして心をときめかせる彼らの青春のひとコマが見事に捉えられている。

 それは、『アメリカン・グラフィティ』の主人公であるカート・ヘンダーソンの後日譚のようでもある。同じ高校の友人たちと最後の一夜を過ごしたあと、翌日にカートは東部の大学に入学するべく飛行機に乗って地元を発っていく。『アメリカン・グラフィティ』は、以上のようなシーンで幕切れとなるが、新天地でのカートの生活をカメラが捉えてしまっていたとしたら、『エブリバディ・ウォンツ・サム』のジェイクのような三日間を過ごしていたかもしれない。

いまの家を出て新しい家に住み込んだり、いまの車を捨てて新しい車を手に入れたり、いまの友達と別れて新しい友達に出合ったり……そんなの何の意味があるっていうんだ? 

  カートは、『アメリカン・グラフィティ』において、新たな生活をはじめることについての心情を不安げにこう吐露していた。きっと彼だけではない。すべての新天地に向かわんとするひとびともまた、このように問うたことがあるだろう。出会いと別れを繰り返していくだけの人生、そんなの何の意味があるっていうんだ? ――ジェイクの頭にも同じような葛藤が翳んだことがあったかもしれない。しかし、ジェイク青年は、先輩の洗礼を受け、新たな恋に落ち、激動の三日間のうちにそのような葛藤などどこかへ吹き飛ばしてしまったにちがいない。

 まだまだパーティは終わってなかった。『アメリカン・グラフィティ』は夢のなかの儚い一瞬ではなかったのだ。60年代のカートの人生は、80年代のジェイクの人生と交錯する。そのあいだにはベトナム戦争があった。アメリカ社会もまた闇を抱えていたのだ。しかし、まだアメリカン・ドリームは死んだわけではなかった。わたしはこのフィルムでそのことを痛感させられてしまったのだ。彼らの夢は、いったいなんて素晴らしいのだろう。『エブリバディ・ウォンツ・サム』に描かれたかれ(ら)の青春に、わたしは羨望を抱かずにはいられないのだった。

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 この映画を観た者の多くは、わたしのように、アメリカに行きたい、アメリカの大学で青春を送りたかったと強く願うのではないだろうか、と邪推する。それくらいに美しい燦めきのうちに青春が捉えられていたのであれば、そのように願うのは当たり前かもしれない。だが、これは特異なことであるともまた同様に感じている――わたしたちは、この物語の舞台がアメリカでなかったとしたら、その地に行きたいとかくも願っていただろうか? アメリカではないどこかを舞台にウェルメイドの「青春ムービー」を観たときに、その地で青春を過ごしたかったとこれほど強く願っていただろうか?

 『エブリバディ・ウォンツ・サム』だけではない。アメリカという土地で繰り広げられるすぐれた物語を目撃した者は、なぜかアメリカを欲望してしまうのである。それが、イランであったら? インドであったら? ブラジルであったら? スペインであったら? わたしたちは、アメリカほどその異国の地そのものを欲望していなかったのではないだろうか。もちろん、そのような事態はありうる。しかし、アメリカほどにすべての人種を包摂してしまう土地は、ほかに存在するだろうか。

 

 わたしは、これは〈アメリカ〉という夢の神話の力に依るものだと思っている。なかでもリンクレイターは、〈祝祭〉を描写することに――かかる神話の創生に非常に長けているということは、まざまざとこの作品が証左している。アメリカ的な青春に遭遇したとき、わたしたちはただ観察者としてそうした幻を羨望するだけには留まらない。いわばいち生活者として、虚構としてのアメリカではなく、現実としてのアメリカに結びつけ、それすらを欲望してしまうのである。そのことこそが、いわゆる「アメリカン・ドリーム」という神話の効力なのではないだろうか(このことについてはさらに展開してゆきたいのだが、まだわたしのなかに十分に論じれるだけの知見が備わっていないので、あくまで仮説として放り投げておく)。

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 興味深いシーンがあった。まさに夜が明けようとしている新学期がはじまる前の最後の日、ジェイクは、新たに出会った女の子(ゾーイ・ドゥイッチは紛れもなく次世代を代表するヒロインになるだろう!)をまさに仕留めようとしている。明け方、浮き輪にゆられながら、川のなかで彼女とふたりで囁き合っている。

 ジェイクは語る。高校を卒業するときに、シーシュポスの神話と野球を結びつけた文章を書いた。いわく、シーシュポスと野球、ひいては人生はすべて似通っている。観点と解釈次第では、いままさにやっている何らかの行為に、わたしたちはいくらでも意味を見出すことができる。無意味なことなどひとつもない。すべては主体の捉えようであるのだ、と。

 それは、一般的にいえば、シーシュポスの神話の曲解でしかないだろう。そもそもの神話の主題は、神から与えられた罰によって、無意味なことを永久に繰り返すことになるという〈不条理〉そのものであったのだから。わたしたちは、変わり映えのしない平坦な毎日をただ繰り返すだけだという不条理の感に苛まされることがある。だからこそ、シーシュポスの神話は、わたしたちに特別な意味を訴えかけてきていたはずなのだ。

 一方で、ジェイクにおいて、シーシュポスの不条理は、途端に有意味なものに――さらには女の子を口説く文句にすらも――変解させられてしまう。果たしてそれは、欺瞞ではないのだろうか? 120分の映画のなかでしか存在し得ないユートピアではないのだろうか?

 

 さきほども言ったように、毎日は繰り返しだ。祝祭ばかりではない。ジェイクの過ごした夢のような三日間は、いつかは醒めることになってしまうかもしれない。平坦で退屈な日常に苦しめられることもあるかもしれない。しかし、『エブリバディ・ウォンツ・サム』を撮ったリンクレイターが、そのことについて無自覚であったとは到底思えない――なぜなら、『Boyhood』という作品は、まさしく本作の対極に位置するような、〈ハレ〉でなく〈ケ〉の日だけを十二年にわたって描写したものだったのだから。なんの変哲もないあなたの日常も、じつは喜びに満ち満ちた愛すべき日常であるということを、あのフィルムは雄弁に語ってくれたではないか。

 『エブリバディ・ウォンツ・サム』では、「やり残した事にこそ後悔が生まれる」という言葉が合言葉のように頻出する。映画に登場しているすべてのキャラクターが、この合言葉を肝に命じて生きているような印象を憶える。不幸な人間は、だれひとりとして出てこない。年齢偽証で退学となった30歳のウィロウ(ワイアット・ラッセル!)ですらも、諦観を帯びた顔つきで仲間のもとを去ったが、不思議と不幸だとは思えなかった。彼はただ純粋に、ほかの奴らとまだまだ夢を見ていたかっただけなのだ。

 

 シーシュポスの神話の不条理は、リンクレイターの創出するアメリカという神話に打ち勝つこともあるだろう。『エブリバディ・ウォンツ・サム』では、わたしたちはあくまで神話を、アメリカという眩い夢を見させられているにすぎない。『アメリカン・グラフィティ』の若者たちの夢の続きを。だが、刹那的な祝祭が終わってしまっても、『Boyhood』のような日常は、わたしたちのことをずっと待っているのだ。それならば、夢が醒めてしまってもいい。そして、いつか醒める夢ならば、とびきりの美しい夢を見せて欲しい。それは欺瞞かもしれない。だが、欺瞞だっていいじゃないか。報われないと了解しながら山の頂きまで岩を運んでいく道程で、八十年代に見た眩い夢はいつでも記憶として慰めてくれるのかもしれないのだから。わたしたちは、たぶん、みんなそうやって生きている。