ピーター・チャン『最愛の子』―― 群像劇といううっとうしさの克服

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 気が向いたので書く。

 ピーター・チャン監督の『最愛の子』(2014)を観た。2016年の年始にこの映画も劇場公開されていたようなのだが、わたしのアンテナでは中国映画が引っかかることはあまりなく、表題には見覚えがあるようなないような、というおぼろげな記憶しか残っていない。このあいだ中国映画に造詣の深い知り合いのおじさんにおすすめしてもらって、さっそくNetflix で観た(おじさんの存在価値とは、博識であるということにしかないのではないか? とはべつに思っていません)。

 

 ――― いやはや、傑作だ。こんな傑作が引っかからなかったわたしのアンテナの偏狭さを積極的に呪いたい。いつぶりにこれほど濃密な群像劇を観ただろうか? わたしはこの映画を観ながら、ときには息子の行方を血眼になってさがす父であったし、再会した息子との距離感をつかめない母であったし、あるいは仲間の奇蹟を素直に喜ぶことのできない酔っ払いでもあれば、何もかもを失いかけてしまっているもうひとりの母でもあった。めいめいの視点と同じ高さで世界を捉え、めいめいの心の機微が手に取るようにわかる。そのような濃密な群像劇。

 群像劇というものには、ある種のうっとうしさがある。代わる代わる去来する人物たちのなかには、わたしたちが感情移入することのできる者もあれば、そうでない者もいる。後者の視点で紡がれる物語にはかならずしも共感することができない。視点の複数性には、思惑の複数性ーーひいては対立を招く――という情況がつきものだからだ。ときにかれらの存在は、わたしたちのお気に入りの登場人物の幸福を阻むように働いたりもする。そういう存在にただただ他人というレッテルを張って自らの外部に置くという作業が一筋縄でいかない群像劇は、どこかうっとうしいのだ。

 

 この映画にも、まさしく思惑や価値観の対立がある。子どもの誘拐というシリアスな主題のもと、(誘拐者本人は他界しているという設定とはいえ)子どもを誘拐する側、誘拐される側の両者の視点を行き来しながら、物語が進行する。しかし、司法においては被害者と加害者という単純な二項対立図式は取り出せても、かれらの関係性はかぎりなく微妙になっていく。その中心には、ひとつの共通項として、同一の子どもへと注がれる愛がある。自らの愛は、絶対的なもので、自分こそが子どもをもっとも愛しているにちがいない。その確信が揺らいでいく。いや、愛の優劣はひとえに判断できない、とわたしたちが徐々に学んでいく物語なのである。

 捜しつづけていた息子ポンポンとの再会は、すでに新たな母との日々によって塗り替えられてしまっていた。そのことに絶望して階段の踊り場で父が泣き崩れる瞬間。ふたたび「母さん」と呼ばれる日を夢想する産みの母が、幾年ぶりに息子ポンポンの手の感触を味わい歓喜と感涙の押し寄せる瞬間。奇跡的に息子を取り返した仲間の姿を目の当たりにして、どこかで妬みを感じてしまっている男がひとりで泣き崩れる瞬間。実父に抱かれて眠るジーガンの姿を前に、なんとか絞り出した「桃は食べさせないで」という育ての母の科白に、かつての自分の姿を重ねながら去っていく実父の後ろ姿。

 

 ああ、思い出すだけで泣きそうになってしまう。中国では社会問題となっている子どもの誘拐の話をフィクションに昇華させた本作は、 その見事な脚本にいくらか狼狽えたほどであった。それぞれのむずかしい心境を演じきった俳優たちも素晴らしい。ホアン・ボーという主人公に扮した演技派俳優も、非常に素晴らしい顔をしていたし、なによりヴィッキー・チャオの迫真の演技である。むずかしい役どころを見事にこなしていたように思う。彼女でなければ、あの役どころに説得力を持たせることはできなかったのではないか。

 行方不明児を探す会の代表を務めているハンさんの顔はどこかで見覚えがあるな、と必死に思い出そうとしていたのだが、IMDbで答え合せをしてようやくわかった。ジャ・ジャンクー『山河ノスタルジア』に出ていた、あの父親である。あの映画で、若りし頃の軟派な青年を演じていたときの記憶が引きずっていたのか、どこかに違和感があったのだが、それでも非常にいい役者であるのは間違いない、と思った。

 

 中国映画、もっと観たいかぎりであります。