雑記( November, 2018 )

・このまま冬をすっ飛ばして、春が来るのではないかという陽光がつづく。いつもはすでに散っていてもおかしくない銀杏の葉にまだ緑色を認めることができる。

・というように思っていたら、一気に冬がやってきた。あわてて冬物のコートを着た。外にいると指がかじかんでくる感覚を久し振りに味わって、ああ冬ってこういうものだったな、と思い出す。

・バイトを辞めたということもあって、よくわからない生活リズムになっている。いったい何度朝日が昇ってくるさまを見届けただろう。夕方、すでに日が暮れたあたりでもぞもぞと寝床から抜け、ぼんやりとした夕方を過ごし、日付が変わったあたりから執筆活動に勤しんで、適宜長すぎる休憩を挟みつつ、いつの間にか朝がやってくる。一日がはじまるのだという世界のざわつきを尻目に、だいたい午前10時ぐらいに眠りにつく。文字どおりの昼夜逆転生活である。夜中の静けさを愛している。

・とはいえ、それをつづけていると、かなり奇妙な感覚に陥ってくる。家にひきこもってばかりいることも手伝って、いつのまにか日付の境界が融解して、ずっと同じ一日のなかに閉じ込められているようである。それはそれで苦しさもある。

国立新美術館ピエール・ボナール展にいった。わたしはナビ派を贔屓にしていることもあって、見逃すわけにはいかない展示だった。とはいえ、あらためてまとまった数の作品に対峙して、ボナールをナビ派という括りで見なしていいのかという疑義がもちあがった。ボナール自身が撮った、ルノワール父子の写真がなぜか記憶に残っている。ぜんぜんこれは良くないじゃないかという絵と、どうしてこれは良いんだろうという絵が入り混じっていて、距離感を計るのに苦慮した展示だった。

・新美であれば、東山魁夷展のほうがよほど素晴らしかった。わたしは彼の作品と対峙したとき、記憶の奥底に沈殿していた音が押し寄せるのを聴いた。そのような音とは、わたしがあたかも絵画のなかで立つときに聴こえるような生々しい音ではない。むしろそれは音の記憶とでもいうべきものであり、輪郭のはっきりしない混濁とした記憶の響きである。とりわけ『秋翳』という赤々と燃えるように聳え立つ山のさまにひどく心を打たれてしまった。唐招提寺では一連の屏風の画業を見ることができるのだろうか。

・『あいのり : Asian Journey』の新シーズンを毎週心待ちにしている。でっぱりんが復帰したという情報を友人に聞いて、すぐさま飛びついたのだった。いまのところ、でっぱりんと勇ちゃん以外はぜんぜん愛することができない。オードリーの若林の穴が埋まらない。

東京国際映画祭。あれだけ期待していたはずのカルロス・レイガダス監督の新作『われらの時代』は、やや退屈で寝落ちしてしまった。子どもたちが濁った湖でじゃれあうさまを淡々と撮っている冒頭のシーンの美しさが、あのまま最後まで持続すればよかったのに。しかし、原題は"Nuestro tiempo"とあるが、これは「わたしたちの時間」とでも訳したほうがよかったのではないか? 『われらの時代』と銘打った理由もわからなくはないのだが、それでもやはり、今作はどうもスケール感に欠けている。

GYAOM-1の予選のネタを見つづけている。一部で話題になっていた Dr. ハインリッヒのネタは、確かに美しいとは思うが、さほど刺さらなかった。おもに決勝に残ったひとたちを中心に見ただけだが、とりわけ気に入ったのは、たくろうの準々決勝、スーパーマラドーナの三回戦、ジャルジャルの準々決勝のネタ。

・連日紙面を賑わせている外国人受け入れの問題に心を痛ませる。

・KID FRESINO『ài qíng』が素晴らしい。わたしはこの拼音でつづられた表題を見た瞬間、傑作であるにちがいないと確信していたのだが、その期待を裏切らないすばらしい作品だった。

・PUBGというスマートフォンのゲームに熱を上げている。ひとつのマップに100人が丸裸の状態で投げ込まれ、刻々と縮減していくマップで最後のひとりになるまで争うというバトルロワイヤルのゲームである(韓国発のゲームだが、じっさい着想は深作欣二の映画だという)。わたしはゲームというものが全体的に苦手で、こういうFPSのゲームもさっぱりだったのだが、やればやるだけ着実に強くなっていっているのがわかる。勝つとうれしいし、負けるとくやしい。その単純な情念の動きに、すがすがしさを感じる。

・こまばアゴラで青年団『ソウル市民』を観劇。何人かの友人が激賞していたのだが、わたしはぜんぜんわからなかった。2010年代以降の平田オリザ、ひいては現代口語演劇が演劇の原体験にあるので、この作品に新しさを感じるということは、わたしにとってはある種の倒錯に当たるのではないかというふうに思ってしまう。時代を遡って驚いたふりをすることに――それは演劇にかぎらずあらゆる分野で散見される態度表明することだが――どれくらい意味があるのだろう。残念ながらわたしは、この徹頭徹尾リアリズムによって裏打ちされている演劇の凄みみたいなものを、身体で受け止めて驚くことができないのだった。わたしの身体の注意は、むしろアゴラ劇場の固いクッションのせいで異常なほどに痛くなっていた尻に向けられていた。

吉祥寺シアターで範宙遊泳『#禁じられたた遊び』も観劇した。意欲作ということはわかるのだが、あまりに過剰で、雑然としている感じが、わたしの消化速度に追いつかなかった。もっとめらめらとしている気分のときに出会いたかった。まったく観客というのはわがままなものですね。

・ハンナ・アレント『人間の条件』を読む。これまで折に触れて何度か読んできて、べつにわたしの研究に直接かかわっているわけではないのだが、あらためて通読した。これは非常にすぐれた書物だ。政治哲学を専攻しているわたしの友人が、五、六年前に、この書物が人生の書物で、毎日枕元に置いて寝ていると明かしてくれたことを思いだす。人工衛星の打ち上げの話からはじまるプロローグが、本当に感動的だ。

東京国際フォーラム小坂忠『ほうろう』再現ライブ。自身の死をしっかりと視界に捉えているひとの、生前葬。わたしたちは弔いにいったのだ。

・映画をほとんど観ていない。早稲田松竹ワン・ビンの『鉄西区』のオールナイトがあって、開演前に松竹の前をうろうろしていたのだが、たぶん眠気に勝てるはずがないと最終的に断念した。ユーロスペースブレッソンの『白夜』の 35 mm 上映を観にいったのだが、あまりの睡魔に耐えきれず眠ってしまった。

プロ野球のシーズンが終わると、逆にプロ野球への熱が高まってくるということは例年どおりだが(ひまな時間ができるたびになんJまとめを覗きにいく)、今年のFA模様は追いかけていて愉しい。いったい丸はどこにいくのかな。巨人にいってしまったらとても厄介だ。

・「ヨーロッパ世界は二十の書物に閉じこめられている」というような文章をどこかで読んだ記憶があるのだが、さっぱり出典がどこだったか思いだせない。ニーチェあたりが言いそうなことだが。二十という数字も不確かだし、そこに該当する書物がなんなのかもわからない(それに聖書はどう数えるのか)。

・ここ最近、本当に日本で暮らすということの悪弊が目に余るようになってきた。向こう数年は東京で暮らすことになるとは思うのだが、東京オリンピックを終え、東京が瓦礫の山と化すところを見届けたあたりで海外移住をすることが、わたしの計画のなかでますます現実味を帯びてきたような気がする。

・たとえば十一月末日、朝の時間に地上波でチャンネルを変えて各局の情報番組を見ていたのだが、主要局はすべて前日の秋篠宮の会見を受けた小室圭さんについての報道ばかりで、本当に気が滅入った。もちろん日本のワイドショーの悪習はいまに始まった話ではないが、もっと報じるべきことがあることは明白だし、どうしてマスメディアが一体となって個人攻撃に走るのか意味がわからない。わたしがテレビを観なければよい、という話ではない。可処分時間をもっぱらこういう番組ばかりを観ることに充てている国民に溢れた社会で暮らすこと、その社会で暮らさなければならないことに、どうしようもなくぞっとすることがある。

・わたしは将来、この秋のことを、どういうふうに思いだすんだろう。記憶のなかで、どんな色合いをしているのだろう。ずっとまどろみのなかに、同じ夢のなかにいる気がする。おそらくわたしには強烈な、すべてを灼きつくさんとするような、異界の太陽が必要なのだろう。