12 月 2 日 金曜日
わたしの記憶のなかのパリは曇天だった。およそ四年振りに訪れたパリで、飛行機を降りて空を見上げると、まさにそうした記憶の映像と変わらないのっぺりした灰色の雲が一面を覆っている。それにしても寒い。職場が手配してくれたハイヤーの Y さんが到着ゲートの外でわたしを待ってくれていた。車のとなりで一服だけ失礼、と煙草を吸っていると、Y さんはきみたち日本人はさぞかし昨晩は歓喜しただろうと言った。なんだ、きみはフットボールに興味がないのか。どうやらW杯での日本のスペイン戦勝利のことを言っていたらしい。わたしも羽田空港で飛行機に乗る前に、早朝のホテルの一室で部屋を真っ暗にして試合を観戦していた。それはついさっきのことのようにも、はるか昔の出来事のようにも思えた。
シャルル・ド・ゴール空港からパリ市内への道中、窓の外に流れていく景色を見やりながら、運転席でハンドルを握る Y さんと話す。彼は趣味でギターを弾くそうで、ジャンゴ・ラインハルトの話を振ってみると、ラインハルトがいかに偉大なギタリストかとうれしそうに語り出した。あの男は指が四本しか無い、だからこそあの独自のスタイルを生み出せたんだ。ほんの数日前に東京の友人が、まったく同じようなことを話していたのを思いだす。それから、鉄道のストライキの煽りを受けて明日の家族の集会にドイツに住む姉が来れなくなってしまったんだと Y さんは淡々と語った。わたしもせっかくフランスに住むのでストライキのやりかたを学んで日本に持ち帰らないといけないねというと、彼は声を上げて笑う。この人はこんな笑い方をするのか、と思う。Y さんは車が好きで、パリ市内で執り行われるクラシック・カーの博覧会のことなど、いろいろなことを教えてもらう。
ホテルにチェックインして荷物を置く。日本から持ってきたのはリュックサック1つに、スーツケース2つ、段ボール2つ。なかなか身軽に移動はできないが、数年間の暮らしをはじめるにはあまりに頼りない量。仕事終わりの同僚の M さんと待ち合わせて、バスク料理屋へ向かった。かなり濃厚な味わいのパテや、バスク風のタラの背(Dos de Cabillaud)をいただく。バスク風というのはトマトとオリーブのソースで煮つけたということかな。かなり美味しかった。
外に出るころにはさらに気温が下がって、雨が降りつけていた。今夜は初雪かもしれないと Y さんはいっていたが、静かに冷たい雨が降るばかりだった。同じ職場で働くことになる M さんに、これからよろしくお願いします、と挨拶して別れ、時差ぼけなのか酔いなのか、ホテルのベッドに潜り込むとたちまち眠りのうちに引き入れられていった。
12 月 3 日 土曜日
明方に目が醒めて、喫煙のためホテルの外に出る。気温は3℃で、真っ白の霧が下りていた。夜間のフロントに立っていたのはでっぷりとした黒人の男性で、フランス語の訛りから、もしかしてブルキナファソの出身ですかと尋ねると、彼はカメルーンだと答えた。わたしがブルキナファソに住んだことがあると伝えると、途端に顔を綻ばせ、アフリカはこことちがって、あらゆるものが安らかでいい、人間関係の暖かみがあるんだと力づよく語りはじめた。彼は故郷から遠く離れ、カメルーンとはまるきり異なるパリ15区の小さなホテルの夜勤シフトとして、ひとりで静かな夜を送っている。彼にとってその時間はどんなものだろうと考えながら煙草を吸った。ほんの数分で芯まで身体が冷えてしまった。
部屋に戻ってテレビをつけると、聞き馴染みのあるしゃがれた声が聞こえてくる。ジャン=リュック・ゴダールだった。イタリア国営放送のチャンネルで、ゴダールの『Le Pont des soupirs』(’14)というサラエヴォをめぐる短編が放映されている。そのままぼうと眺めていると、1983年に『カルメンという名の女』がヴェネツィアに出品されたときの記者会見と、若きベルトルッチがゴダールについて熱心に語っているインタビューの映像が続いた。その記者会見でゴダールは、この映画はたんに「Carmen」ではなく「Prénom Carmen」と題されていることが決定的に重要なのだとはじめに宣言する。では「名前」とは何かという話に差し掛かったところで、イタリア語のボイス・オーバーが被さって、何を言っているのかわからなくなってしまった。
チャンネルを変えて朝のニュース番組を見ていると、ダカールでファッション・ウィークがはじまったとキャスターが話していた。今年で二十回を迎えるそうだが、年を追うごとに現地のファッション業界の熱は高まるばかりで、来月にはシャネルが史上はじめてアフリカ大陸で開催するファッション・ショーの会場に、このセネガルの首都が選ばれたという。こういう類のことが地上波のニュース番組で軽やかに紹介されることが、内向きの日本のモーニング・ショーとはもっともちがうところだと思う。スマホでYahooニュースに接続しようとしたら、欧州でのサービス提供は中止されましたという一文が現れ、何も見ることができなくなっている。まさかと思って確かめると、やはりプロ野球速報のアプリも起動できなくなっていた。ある意味でプロ野球の呪縛から解放されていいのかもしれない。Yahoo経営陣のなかで、年々ルールが厳しくなる欧州のGDPRを遵守するためのアップデートは採算が合わないという判断があったようだ。日本の地盤沈下を痛切に感じた。
日中に街を歩いていると、あちこちでクリスマスツリーを引いて歩いている家族を見かけた。花屋は軒先にずらりと大小さまざまなもみの木を並べている。すでにパリの街はクリスマスを迎えるための準備に余念がないようだった。両替所で日本円からユーロに換金する。1ユーロを手に入れるのに159円も払わなければいけない。物価高も深刻だが、この円高はとてもではないがやっていられない。書店にはいって、フェルナンド・ペソア(カンポス名義)の『煙草屋』を購入。ポルトガル語とフランス語の対訳がある書物で、これをきっかけにポルトガル語の勉強を再開しようと思った。またパリでもポルトガル語の教室も探さなければならない。
さらに歩いていると、路地にペルシャ料理屋がぽつりとあるのを見つけた。何となく佇まいに惹かれて入ってみると、10席ぐらいしかない小さな店で、ほかにだれも客はいなかったが、店主がにこやかに迎え入れてくれた。彼の勧めにしたがって、フェセンジャンという鶏肉の煮込みを注文。これがべらぼうに美味しくて、あっという間に平らげてしまう。店主に料理の感想を伝えると、柘榴、胡桃、イチジク、アーモンド、玉葱といった食材とともに、サフランをはじめとするスパイスとバターで長い時間をかけて鶏肉を煮込んでつくったんだと、くわしくレシピを教えてくれた。サービスでサフランティーが供される。このサフランは彼が長年の研究を経てたどり着いた最高級のもので、イランから1キロ8,000ユーロで仕入れてきたという。一瞬桁を聞き間違えたのではないかと思ったが、サフランの1キロがどれぐらいの量なのか想像がつかない。Wikipediaを読むと、あらゆるスパイスの中で、サフランの1グラムあたりの単価はもっとも高いと書かれていた。いつかサフランの収穫の様子を見てみたい。
そのまま店で二時間近くも店主と話し込んでしまった。彼は、戦時下にあった八十年代後半のイランから国外逃亡を決めた両親に連れられて、十七歳でパリに来たという。日本でもイラン人の出稼ぎ労働者が多かった時代と重なる。それから大学で政治学を学び、職を転々としたあと、幼少から母の料理を手伝っていた経験を頼りに四半世紀前にこの店を開いて、ずっとひとりで切り盛りしてきた。店内の装飾もすべて自分で拵えたそうだ。政治の世界に羽ばたいていった同級生たちも何人もいるが、彼は、この小さな店で自分の料理をお客さんに食べてもらうことこそがわたしの政治なのだと語った。そして宗教の話になって、あらゆる宗教は人を盲目にするが、なかでもイスラム教は最悪な宗教だと臆面もなく言ってのける。イランにはムスリムが攻め入ってくる前の幸福な時代があったというので、わたしがオマル・ハイヤームの名前を出すと、きみはハイヤームを知っているのかといって、『ルバーイヤート』の一節をペルシャ語で誦じてくれた。わたしは必ずまた来ますといって店を後にした。
パリに暮らす友人である C と数年振りに再会する。彼女は半年前までロンドンに住んでいて、その頃の友人であるドイツ人 M も合流した。C はシェイクスピアの『テンペスト』の舞台に出演するためのオーディションを受けてきたばかりだという。島に漂着したナポリの王子が恋に落ちる娘ミランダの役どころで、ミランダ役で来ていたのはわたし以外は二十歳前後の若い子たちばかりだったよと豪快に笑った。
そのまま一緒にパリ装飾美術館のエルザ・スキャパレッリ展に向かう。わたしはまったく知らなかったのだが、スキャパレッリはローマ出身のファッション・デザイナーで、1920年代から30年代のパリの前衛芸術家の界隈の中心的な存在のアーティストだと説明されていた。コクトーやマン・レイ、ダリとも親しく付き合って、一緒に作品をつくったりしている。わたしはその旺盛な仕事振りに驚きながらも、彼女のアール・デコ調の冗長さがどうにも馴染めない。どちらかといえば現代に若いデザイナーがスキャパレッリの名を引き継いで発表している衣服のほうが好みだった。しかしスキャパレッリもだが、ここ五年くらいだろうか、いまの時代にまたアール・デコの再評価が来ている感じがある。同時代に生きる者の感覚値としてはわかるのだが、いったいなぜだろう。
二人とあれこれと展示について話しながら、ルーブル美術館の正方形に区切られた中庭を突っ切っていく。わたしは美術館の建物の窓からこの Cours Carré と呼ばれる場所を見たことはあったが、この中を歩くのははじめてだった。パリ旅行中のドイツ人の M は、しきりにパリは至るところに権力を感じるといっていて、ルーブル美術館のこの場所こそが Beauty of Power だよねとわたしがいうと、そこで C がすかさず Power of Beauty なんじゃないの、と返してきた。彼女はスキャパレッリの展示にかなり興奮していた。
マレ地区のワインバーに流れ込んで、それぞれの近況を報告する。わたしは日本を旅立つ直前に運命的な出会いがあったと語ると、M はなんだかちょっと嫉妬しちゃうなとはにかんだ。一方の C は、いま安部公房の短編を原作にした映画を撮る企画を温めているらしい。自分の家がわからなくなって辺りの人に尋ねて回るものの、だれからもお前の家はないんだと突き返されて途方に暮れてしまう掌編だそうだ。その安部公房の話は、故郷と呼べる場所がなく、つねに世界中を飛び回っている彼女そのものだと思う。その主役は自分で演じるつもりかと尋ねると、まさにいまどうしようかと悩んでいると言っていた。彼女はひどい鬱病に悩まされていた時期があって、わたしはそのころ彼女と一緒に京都を旅行したこともあったのだが、半年ほど前にパリに戻り、また創作に身を入れることで最近の調子も徐々に上向きになってきたという。わたしがここ最近仏教思想に興味が向くようになってきたと言うと、彼女は身を乗り出してあれこれ尋ねてきた。仏教といっても、あるいみではとてもシンプルな精神論にすぎない。あらゆるものは縁であって、目前にある縁を大切にして、その自然な流れに逆らわないというだけだよ。大事なことは周囲のささいな兆候を見逃さないことだ。彼女は感じ入るものがあったようで、また一緒にフランスの仏教寺院を訪れようと約束して別れた。ひとりでメトロに乗って、ホテルのカメルーン人と言葉を交わして、自分の小さな部屋に戻った。